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2019年4月17日 (水)

悪とは何か

 1

悪とは何か、みたいなことを考え始めると暇な時間がほどほどに潰せます。

子供の頃に見た戦隊ものなんかでは「悪の秘密結社」みたいなのがあって、
「俺たちは悪者であるがゆえに、悪をなす」と力の限り悪いことを行うのでした。
僕が子供の頃だと、仮面ライダーはV3から、戦隊ものはゴレンジャーからです。
って、ゴレンジャーは戦隊ものの元祖ですね。

このへんはだいたい石ノ森章太郎の原作ってことになってます。
漫画家さんです。昔は石森章太郎ってペンネームでした。

七十年代は戦争が終わってまだ二十年ちょっとって時代ですから、
割と最近まで「鬼畜米英」なんてことをやっていたわけです。
このへんの生々しい記憶は、特撮やアニメなんかにかなり反映されています。
というか、今になって考えると「なるほどなぁ」と納得させられるところが多い。

悪の秘密結社が悪いことをやらかすから、これを成敗しなくてはならないってのは、
戦時中の国民がアメリカとか連合国に対してぼんやり抱いていた感情でしょうし、
秘密の兵器で一発逆転!というのも、たぶん深層心理にあったのかもしれない。

手塚治虫くらいだと思いっきり戦中派なので、善と悪の対立みたいな発想は希薄です。
ある程度大人だと単純にアメリカが悪いみたいな発想にならなくて、
問題がもっと複雑だってのがわかっていたりするんでしょうね。ところが、
戦時中に子供だったり、戦後の混乱を経験していたりすると、
「なんで世の中はこんなにひどいことになっとんねん」
という意識が強くなるので、そういう理不尽さを「悪」の一言に象徴させる傾向があった。
で、その辺の善悪二元論が一気に噴き出したのが、七十年代だったと思います。

特撮の世界では「悪の秘密結社」が平和な社会を脅かし、
宇宙からは謎の侵略者がわんさかわんさと押し寄せる。
ガミラス星人が放射能爆弾を地球にぶつけるなんてのは思いっきりアメリカの核攻撃で、
「宇宙戦艦ヤマト」が根底に持っているのは三十年前の戦争のリベンジです。
僕は子供の頃見ていてそう思ってました。
さすがに「アメリカ」とは言えないからナチスドイツを敵に当てはめてましたけど。

アニメや特撮というのはだいたい七十年代に基本フォーマットが出来ていたりするので、
この時期の「善悪二元論」というのはその後も延々と引き継がれることになります。
物語を物語ろうとすれば、悪を設定してそれと戦わなくてはならない。
悪がないならでっちあげてでも悪と戦うのじゃ!みたいな流れ。
これがだいたい八十年代。

アニメだと富野由悠季さんがやってたのがだいたいこの流れで、
手塚治虫原作の「海のトリトン」は最終回で思いっきりちゃぶ台返しが行われます。
「悪いのは僕たちの方じゃないか!」
……これを自分の作品でやられた手塚先生は腹立たしかっただろうなと思うんですが、
漫画全集の「海のトリトン」のあとがきで、アニメは僕の作品じゃないと言い切ってます。

手塚先生はこの一連の流れの中で前の前の世代の作家さんです。
善悪二元論なんて単純なところでは仕事をなされていない。
戦争は双方に問題があって起こってしまうものだってのは自明のことなんです。
それなのに「僕が悪い」って自虐をするのは何の問題解決にもならない。
むしろ最悪の結論に思えたんじゃないでしょうか。

富野監督的には「善悪二元論」を茶化しているだけなんですが、
そういう面白さというのは本当の戦争を知っている方からすれば理解できないもの、
だったのかもしれません。
僕は面白いと思った方なんですけどね。「ザンボット3」のラストとか。

 2

70年代に絶頂を迎えた「善と悪の二元論」は
80年代に入るとパロディとしていじられまくることになります。
このへんになるともう戦中派には完全に理解できない世界ですね。

悪というのがどんどん身近な存在に置き換わっていって、
むしろ悪の方が面白い、みたいな作品が多くなっていきます。
ゴーショーグンの悪役の名前が「カットナル」「ケルナグール」「ブンドル」ってのは、
もうほとんど悪乗りとしか思えない。大好きだけど。
同じようなのでマクロスの敵側に「ワレラ」「ロリー」「コンダー」ってのがいたっけ。

悪はもう単純な悪ではなくて、ファッションとして悪を名乗ってる感じになります。
ちっとも怖くない。むしろ愛嬌さえ振りまいてしまう。
八十年代はバブルが膨らんで日本が歴史上もっとも裕福だった時代なので、
単純な悪というのが作れなかったのかもしれません。むしろ
「俺たちこんな平和で大丈夫かよ」
みたいな空気すらあった。
それでもお金があったから前時代のフォーマットである「善悪二元論」でお話は作られた。
その結果が悪のパロディ化という流れだったように思われます。

ここで一度アニメは停滞するわけなんですけど、次の動きは90年代、
「エヴァンゲリオン」じゃないかなと、おそるおそる名前を挙げてみるわけです。
……最初は「ヴァ」じゃなくて「バ」だった気がするけど。

流れ的には八十年代からの「二元論パロディ化」なんだけど、
ここでの悪は洒落にならないくらい怖い悪になってます。正体不明で不気味。
理由も何も明確でないまま、ただ一方的に攻撃をしてくる。
これと戦うために主人公はロボットに乗って戦う、までが七十年代のフォーマットで、
そこから展開される主人公サイドのシリアスな物語は、完全に深層心理のお話です。
……ある意味、悪を明確にしなかったために物語が崩壊した感じもするけど、
リアルな恐怖を感じさせるという点で、成功した作品なんじゃないかなと、
割と勝手なことを言ってみたりします。

ここがターニングポイントになって、お話は「何がリアルか」みたいな方向に向かいます。

お話というのは結局のところが作りものです。嘘八百です。
どんなに立派にこさえても、ただのお芝居以上の何者でもない。
でもそれが前提条件として正しいとしても、作り物には作り物のリアルさというのがある。
ジェットコースターは人工的に危機的状況を作り出すものだけど、
お話だってジェットコースター並みに人々を驚かすことは出来る。
ならば、そこんところをちょっと極めてみようかい、みたいな流れです。

それが正しいかどうかは別にして、
僕は「エヴァ」の成功理由のひとつは悪を意味不明にしたことだと考えています。
それも大きな意味では「善悪二元論」というフォーマットのパロディ化なんだけど、
悪は意味不明でおそろしいものだという、深刻な感じがものすごくリアルに感じられた。
だから「善悪二元論」という使い古されたフォーマットを有効に活用することができた。
というか、たぶんこの方法でしか復活のしようがなかった。

悪に理由を求めないという形の作品がたくさん作られます。
目的はフォーマットの再生。かつてはアメリカや連合国軍などのマジな敵がいたけど、
それを敵と認識できなくなった時代にあっては、単純な悪では物語が動かせない。
悪はブラックホールのように理不尽で存在そのものがすべてを破壊するレベルの
「災害」
になります。
でも、そうすると物語としての締めくくりが出来なくなる。
悪をこらしめて、ハッピーエンドとはならない。だって災害なのだから。

「まどかマギカ」あたりになるとこの災害を食い止めるために主人公が神になってしまい、
それが本当にハッピーエンドなのか難しくなってくるのですが、
解決法としてはそれが一番あり得るものなのかなと、放送当時は考えたりしました。
放送時点で本当に洒落にならない大災害が東北で起こってしまったってのも、
何かしら象徴的な気もしますし。

で、ここいらで漫画やアニメというのも市民権を得るようになってきて、
フォーマットとしては「完成」してしまったような気がします。
リアルさを疑似体験するツールとしてのアニメ作品は、規模がどんどん小さくなって、
日常系とかなろう作品とか、それなりの新しい地平を開拓しているようです。

悪に対してのっぴきならない恐怖や怒りの感情というのが発生しないので、
予定調和的ではあるんだけど、それはそれで、楽しいものだと僕は考えます。

七十年代に完成した「悪い奴らと戦う僕ら」というフォーマットは、
なんだかんだ五十年くらいは生き続けたわけで、これはこれですごいことです。

このフォーマットのおかげでアニメは五十年かけてものすごい技術的な蓄積ができた。
洗練されたキャラクターとか、効果的な動かし方とか、
そりゃもうすごいもんです。今の若い人は生まれながらにしてそういうものを吸収してる。
生まれながらにして完成された技術を使えるってのは、ものすごいアドバンテージです。

戦後二十年で生まれてきた昭和のオジサンからすれば、
それがものすごくうらやましかったりもします。
今の子からすれば戦争は一世紀近く昔のことに感じられるんじゃないかな。
僕らの感覚からすると、「艦これ」とか「ガルパン」とか、
洒落にならない題材だったりするんですよ。
「人が死んでんのに何茶化しとんねん」て。
うちの伯父さん戦争で特攻して亡くなってるし。

「洒落にならない」って引け目があったから、マジな戦いを描こうとすれば、
ガミラス星人やら悪の秘密結社やらを創作する必要があったわけです。
あれはリアルな敵がある前提で、そこを隠して象徴させていただけで、
実際はアメリカ軍だったり連合国軍だったり、原子爆弾だったりしたのです。

そういう「洒落にならないもの」が「洒落になる時代」になったのが21世紀なわけで、
そこで「何がリアルか」と考えると、もう日常が日々毎日「戦場」だったりもします。
一見「平和」なような気もしますけど、
実は何気に不気味な悪がうごめいていたりもします。年金問題とか少子化問題とか。

かくてこの世に物語のタネは尽きないってことで、強引にお話をまとめるのでした。

 

2019年4月10日 (水)

ガガガガガ


人生において「財布を落として駆けずり回る」という経験はなかなかできない。
なぜか。
正常な一般市民は「財布を落とす」なんて愚かなミスは絶対にしないからだ。
僕だってこれまでの人生で財布を落とした経験はないし、
そもそもなんで財布なんて貴重なものを落としたりするんだと鼻で笑っていたくらいだ。

交番で事情をカミングアウトするのはなかなかにこっ恥ずかしいものだ。
落とした方にしても「私は馬鹿です」と説明するのはなかなかに勇気がいる。
何処で、何時ごろ、何を失くしたか、中身は何か、お札は何枚入っていたか、
それらを書類に書き出しながら、いや、お札の枚数なんていちいち覚えているものかと、
ちょっと泣きそうな気分になってくる。「だいたいでいいですか」
「だいたいでいいです」親切な駐在さんは笑顔でのたまうのであった。

そしてこちらが書類にまとめたものをパソコンに打ち込み始める。
無意識にのぞき込もうとしたら思いっきり画面をずらされた。
「あ、すいません」
「いえいえ」
見られると職務上いろいろ問題があるのだろう。

それにしても明日原稿の締め切りなのに、俺は何をやってんのかなと外を見る。
自転車乗りやらコートのサラリーマンなんかが前を行きすぎる。
こちらとは決して目を合わせない。交番で駐在さんと向かい合ってる一般人は、
すでに一般人とは呼べない何かなのだ。犯罪者かもしれないし参考人かもしれない。
財布失くしただけなんだけど、片足をアウトローな世界に突っ込んでる気分だ。

「ではこの書類を持って明日以降警察署の方に行ってください」
「警察署?」
「区役所の隣です」
「ああ、だいたいわかります」
要件は終わったのでさっさとその場を立ち去ろうとする。
「あ、行く前にその書類の電話番号に連絡を入れてください」
「はい、行く前にここに電話をかけます」
「断定はできませんが、たぶんあります」
……おそらく、名前と住所で財布が保護されていることは確定しているけど、
職務上断定はできない、みたいなことなんだろう。このへんの呼吸はなんとなくわかる。
大人になるってのは自分が責任を背負い込まないような話し方を覚えることだ。
警官しかり。編集者しかり。

漫画家ばかりがいろんな責任をどんどん背負い込んで最終的に自滅することになる。

てか、明日締め切りだけどライフライン確保のためには行かざるをえまい。
で、明け方までポチポチ原稿に手を入れて、三時間ほど横になってから警察署に行った。
……直線距離だとそんなに離れていないのだけど、交通のアクセスが壊滅的に悪いので、
地下鉄を乗り継いでものすごい大回りをする。

家を出る前に電話を入れたのだけど、そこはどうやら下請け契約会社みたいだった。
「身分を証明するものを持って、306受付に行ってください」
で、雨降りの中駅からとぼとぼ歩いて警察署に出向き、一階受付のお兄さんに尋ねる。
「306受付ってどこでしょうか」
「そんなものはない」
……どうなってるんだ契約会社。

事情を話すと会計の窓口に誘導された。
で、会計のお姉さんにあれこれ説明をすると、
白いひもでぐるぐる巻きになった財布が出てきた。
自分が普段愛用しているグッズが「お縄になってる」状態というのは、
なんとも物悲しいものだ。テレビで拘置所に送られる容疑者を見ていたら、
それが顔なじみの友人だった、というくらい、物悲しいものだ。
カルロスゴーンの関係者はみんなこういう気分でテレビを見てるんだろうなぁ。

お札は抜き取られ、別になっていた。
中身はしっかりチェック済みでカードの位置がまったく違っている。
あと、乱雑に突っ込まれたレシート類がきちんと揃えられていた。

本人を証明するものを提示して生年月日を口頭で述べる。
パスポートを取るときなんかも同じことをするけど、
あれはたぶん、生年月日を息継ぎなしで一息に言えるかどうかをチェックしてるような、
そんな気がする。途中で一呼吸はいるのは、その言葉を言い慣れていない証拠なのだ。
まあ、あくまで想像なんだけど。

かくて哀れな相棒は自分のポケットに無事生還したのであった。

家に戻ってから、財布をチェックしていてふと思い出した。
この財布には一つ隠しアイテムがあるのだ。
中身を抜いて上から触ると一か所奇妙なふくらみがある。
あちらでも当然気が付いたはずだ。

引っ張り出すと、千代紙に綺麗に梱包された謎の物体が出てくる。
……これは何かヤバいものではないか?警戒しながら紙を開くと、
小指の先ほどの小さなカエルの焼き物が出てくる。

「財布を無くしてもすぐカエル。お金を使ってもすぐカエル」
というオマジナイである。

これを見つけた警察職員はどんな顔をしたのだろう?

原稿を仕上げにかかっているとアシさんがやってきた。
とりあえず仕事の目途は立ったので、
「Sさんが送ってくれたビデオを見よう」
という話になった。おい、締め切りどこへいった。

鉄道オタクが地元の鉄道イベントを楽しむ的なビデオである。
今回は知多半島の方に出向いたらしい。……愛知県人にしかわからんと思うけど、
愛知が亀の形で名古屋が頭だとすると、前足が知多半島、後ろ足が渥美半島である。

歴史ある駅舎やら跨線橋を紹介しつつも、メインはやっぱり食レポやら利き酒大会で、
毎度BGMが凝ってるのだけど、利き酒のところはNHKの「できるかな」だった。
どこからもってきた、その謎音源。

別にYouTubeにアップしたり営利目的に使ったりはしないので、毎度やりたい放題である。
BGMにいろんなパターンの「銀河鉄道999」の主題歌を使ってたこともあったっけ。
いや、それはいいのだけど。
ビデオの後半は先頃NHKで放送された「特撮ガガガ」の特集だった。
ああ、これ名古屋が制作した番組だったんだ。

名古屋人なのに知らなかった。

撮影スポットを聖地巡礼しまくっている。おい、鉄道どこ行ったと思ったら、
撮影で使われた鉄道車両についての調査結果が出てきた。
……あおなみ線で乗った車両が次のシーンでは地下鉄東山線になってるとか。

ドラマの中で印象的だった、特オタが電車の中で相手が同類であるのを認識する場面、
カバンにつけたヒーローのキーホルダーを見せ合う場面は、桜通り線だったらしい。
……終点の徳重駅で再現ドラマをやっていらっしゃる。

笑いすぎておなかが痛い。

ひいひい笑いながら、原稿を発送したのであった。
「女の子かわいいですね」と担当さんからコメントが入った。


(追記)
警察署から「落とし物預かってますよ」の封書が届いた。
交番ルートで回収したので行き違いになったけど、
こういう親切は本当にありがたい。
僕が昔拾って届けた財布も、こんな風に持ち主の元に戻ったのかと確認もできた。
……あの財布は空っぽだったけど、キャッシュカードとかは入ってたんだよな。

封書の書類に「306の番号で預かっています」とあった。
契約会社さんの言ってたのはこの数字のことかと合点がいった。
交番でも預かり番号を発行しているので、僕が混乱した可能性が高い。
ゴメンね、契約会社さん。でも面白いからそのままにしておこう。

ふと思い出したけど、子供の頃に十円とか百円を拾って交番に届けると、
書類なんかは一切書かされなかったのは当然として、
「ありがとうね」
と拾った額だけ別の硬貨をくれたりした。
あれはそういう決まりだったのか、お巡りさん個人の裁量だったのか、
なんにしてもああいう体験があったから、落し物は交番に届けにゃならんのだと、
この齢になっても考えてしまうんだろうねぇ。

 

2019年4月 9日 (火)

渋沢栄一

 1
なんか朝起きてニュース記事をネットで閲覧していたら、
日本紙幣三種の肖像画変更の話題が出てきた。
正直、まだ夢をみてやがる、今朝の夢はえらくリアルだな、と思っていたりします。

長年親しんだ福沢諭吉さんが渋沢栄一さんになるそうで、
これも政府主導の「平成→令和」の時代刷新政策なのだそうな。

渋沢栄一さんは、ああその手があったかと割と納得いく選定だったりします。
いや、絵的には福沢諭吉さんほどのインパクトはないんだけど、
人間としては確かに面白いなぁ、となる。
あと中国ではなぜかこの方を研究する機関があると読んだことがあるので、
世界的には実は渋沢栄一さんの方が知名度はあるのかもしれない。

この方は伝記的にも結構面白い人なので、大河ドラマとかにもなるかもしれませんね。
「天皇の世紀」だったかな、時代劇で打倒幕府を叫ぶ過激派に渋沢栄一がいて、
「なんでここにいるのん?」
となったりした。

調べてみると、この方はバリバリの反徳川で、どんな運命の流れか、憎い徳川に追い回されるうち、
「どうせなら一橋家(徳川御三卿のひとつ)に入れば守ってもらえる」
と一橋の下っ端役人か何かになり、そこで経済的才能を開花させていく。
一橋家は水戸の慶喜さんが当主になっていたから、
徳川家の中でも尊王派と考えたからかもしれませんね。

まさかこのあと慶喜が将軍になって、自分がその家臣になるとは思っていなかった。

反徳川だったのが慶喜大好きな徳川びいきになっていくのが、とにかく面白い。

一度「この方の伝記を漫画にしたら面白いですよ」と編集会議にかけてもらったら、
「今やる意味がよくわからない」
と言われたりしたんだよなぁ。
そのあと富岡製糸場が世界遺産になったりして、
「あのときやっとけば」
とくやしかったりして……

いかんいかん、すっかりお手柄自慢のおっさんになっとる。

とにかくどこかの段階でテレビがドラマにしてくれるはずなので、
経済の天才、論語大好き、慶喜大好きな渋沢栄一さんの一代記が見られそうなのが、
楽しみだったりするのです。

 

 2

朝の連続テレビ小説を見ていたら、ホルンの曲が聴きたくなった。
なんでやねん、って感じなのだけど、
ほれ、今やってる「なつぞら」って女性アニメーターの話なんだけど、
その題材に合わせてオープニングが「ハイジ風」というか、
北海道の自然の中で動物たちと戯れる女の子のアニメーションなのだ。
前の「まんぷく」ではオープニングをスキップしてたんだけど、これは毎回見てる。
っても、まだ2週目なんだけど。

で、主題歌がスピッツで、「ハイジ風」を意識したのかホルンが使われている。
のどかで牛が集まってきそうな音だ。
「春はホルンだよね」
ってんでホルンの曲は何かあったかなとなると、
これはもうモーツァルトのホルン協奏曲が一番に思いつく。
うちにはデニスブレインの演奏したのがあったはずだ。

で、今聴いている。
春だよね、って昨日東京では雷雨があって春の空気はいささか減退してるんだけど、
ホルンの曲と言えば春しか思いつかないってくらい、
今の気候には合っていたりする。

モーツァルトのこの曲はロイドケープだっけ、ホルン奏者のじいさんと仲良くなって、
その「友情」のために作曲したんだけど、ホルンの間延びした音がいかにもじいさんだし、
弦楽の若々しい音がじいさんの手を引っ張って「ほれ、はよ歩きなよ」と笑ってる感じがして、
ものすごーくいい感じなのだな。全部で四曲あるけど第三番が一番有名。

ホルンがメインの曲というと、あとはリヒャルト・シュトラウスのがあるけど、
他はあんまり思い出せない。シューマンの室内楽でいい感じのがあったっけ。
あ、シューマンはホルン協奏曲みたいなの書いてた。あんまり聴いたことないけど。

どちらかというと脇役として主役を支えるというイメージなのだな。
なんせ古典派の時代はまだナチュラルホルン全盛で、
チューリップのところに手を突っ込んで、手のひらの形で音程を変化させてた。
バルブで音を変化させだしたのは19世紀に入ってからだったと思う。

だからまあ、音を出すのが結構むずかしい楽器なんでしょうね。

モーツァルトのホルン協奏曲も、ときどきわざと演奏しにくい部分を作って、
「じいさん、この音が出せるかい?」
とからかっているらしいんだけど、自分の耳じゃそこまではよくわからない。
わかる人が聴くと「ふふふ」と笑ってしまうところなんだろうけど、
自分にわかるのはせいぜい「モーツァルトはこのじいさんが大好きだったんだな」までで、
でも、そこさえわかれば充分のような気もするので、
ま、いいかとなる。

日向で爺さんと若い作曲家(早世するけど)がのんびりお話をしている感じってのが、
齢をとるほどに大好きになっていくのだな。

 

2019年3月31日 (日)


 1

春なので桜が咲いていてちょっとうれしい。
あれだね、
地上デジタルハイビジョンで桜の映像なんかテレビでいくらだって観られるけど、
一年に一度、桜の木の下で見上げる桜のあの風情みたいなものは、
VRであっても再現は不可能だろうし、再現できてもきっと違和感はあるんでしょうね。

僕が子供の頃は「未来少年コナン」なんか楽しみにしてまして、
おかげで十代の頃はかなりの宮崎駿ファンだったのですが、それはともかく、
あの中でインダストリアって地球に唯一残された工業都市に主人公たちが出向いて、
そこで博士がVRの部屋に連れて行ってくれるんだけど、
大自然の中で遊んでる子供たちの映像が流れて、まるで本物みたいなんだけど、
ヒロインの子が飛んできたボールを拾おうとしたら体をすり抜けていってしまい、
それを取りに来た子供の体もすり抜けていって、悲鳴を上げる、
なんてシーンがありました。

21世紀の現在はまだ、そのレベルまではいっていないにしても、
映像技術の目指しているのはそちらの方向なわけで、
小さいころに「未来少年コナン」を観てしまった身としては、それはちょっと、
違うんじゃないかって、どうしても考えてしまう。
これも全部宮崎駿の責任。

すでにテレビで今年の桜はさんざん観てしまっているけど、
明日あたり、新しい元号が発表されてから近所の桜地帯まで出かけて、
思いっきり桜を堪能してこようかと考えています。平日で人いないだろうし。

「不気味の谷」なんて言葉があります。
いまさら説明してもみんな知ってそうな日本語なんだけど、割と最近の言葉なので、
とりあえず解説だけしてみると、絵とかCG、人形なんかをどれだけリアルにこさえても、
絶対に人間の代替物にはならない、必ず不気味になるという宿命をあらわしています。
不気味ではあるんだけど、いつか人間はその限界を突破できるんじゃないかという期待、
そこに挑戦し続けるチャレンジ精神を賞賛しつつ、
「いや、そこのラインは絶対に越えられないから」
と他人の努力を嘲笑うための言葉です。
「オリエント工業の人形でも不気味の谷は越えられない」みたいな使い方をします。

オリエント工業さんのたゆまぬ努力には賞賛を禁じ得ないのだけど。

先日このブログでも書いたバルザックの「知られざる傑作」という短編小説は、
たぶんこの「不気味の谷問題」と戦い続ける芸術家の話だと僕は思います。
二次元芸術に三次元の存在感を求め、日々格闘する天才画家の話です。
なんせ、この物語を人から聞いた印象派のセザンヌが、感動のあまり言葉をなくし、
「それはワシのことだ!」と胸を叩いて取り乱したというお話です。

現代のオタク風に表現すれば、超絶リアルな二次元美少女の絵を完成させて、
「俺って最高!」とヘブン状態になっていたら、ネット上でさんざん叩かれ、
「ただの不気味なピカソじゃん」と馬鹿にされた、
みたいなお話です。天才過ぎていろんなものを突き抜け、時代を超越してしまったのだな。

セザンヌの絵も、僕は若いころ実物を観て「おお」となったことがあるけど、
水浴シリーズなんか、人体の存在感を二次元上に巧みに表現していたりします。
でもそれを感じ取るためにはある程度の知識なり経験なりが必要なわけで、
何も知らない人が観たら「ただの水浴してるおっさん」としか思わないかもしれない。
その絵から旨味を感じ取るための「何か」が必要なわけです。

若い子が「漫画をどう読んだらいいかわからない」ということがあって、
こちらとしては愕然とするのですが、二次元に表現されたものを見たり読んだりして、
そこから三次元的な奥行きのある世界を感じ取るためには、
そのための手順をいろいろ覚える必要がある。コマの順番とか、吹き出しの読み方、
キャラクターを見分けるための記号を覚える、みたいなことまで必要になるかもしれない。

僕らの世代はそういう「お約束」を物心つく頃には自然に体得していたけど、
「漫画よりスマホ」の時代になってくると、その「お約束」が足かせになりかねない。
なんせ、次生まれてくる世代はその「お約束」がわからないわけですから。

漫画が浮世絵と同じ運命をたどるという事実を、こんなに早く実感するとは思わんかった。

 2

まとめというか、事実の確認です。

手塚治虫が戦後に始めた「ストーリー漫画」というのは、
それまで「絵」でしかなかった漫画の世界に「時間と空間の変化」を与えることで、
三次元的広がりの世界を感じさせるものだったんじゃないかと思います。
実際、僕は漫画を読むとその世界にどっぷりと入っていって、
現実のように感じたりします。美少女が登場すればその子に恋愛感情だって抱けます。
そういうシステムが、第二次世界大戦後の日本で確立され、発展したわけです。

手塚治虫本人には漫画はディズニーアニメの下位互換でしかなかったかもしれないし、
どうもそういう認識だったとしか思えない部分もあるんだけど、
それは漫画がアニメ以上に「それを読むためのお約束」が多いからで、
コマの運びとかセリフを読むための吹き出しを無意識に目で追うコツとか、
そういうものを一度体得してしまえば、VRばりの世界に入っていくことが出来ます。

そんで、そういう状況を手塚治虫先生は想像もしていなかっただろうけど、
現代の日本ではその「お約束」を完全にマスターしている人間が何千万といて、
日本どころか世界中でその「お約束」にそって漫画が読まれているわけです。

ただ、問題があるとすればそれが「お約束」を習得しなくては理解できない世界、
わからない世界なんだって事実です。

コマの運びとかセリフの読ませ方という技術的な部分は、現在頂点に達していて、
それを読み取れる人が読めば、もう脳汁があふれ出すような体験ができます。
言っちゃ悪いけど漫画はある意味合法的な麻薬です。
二次元でありながら三次元で体験するレベルの「感動」をもたらすことが出来る。

でもそれらはあくまで「お約束」を共有するからこそ体験できることなわけで、
それを知らない人が漫画を手にとっても、何も理解できない、
なんか目の大きな変な生き物がいっぱい描いてあるだけの紙の束です。
……ちょうど僕らが浮世絵の美人画に抱くような「なんじゃこれ」的な感想になります。

二次元から三次元的な世界を感じ取るためには、そのための手順が必要で、
その「お約束」を理解できるのは、子供の頃からそれに接していた世代だけです。
今後生まれてくる子供たちには、それを習得する必要はないかもしれない。
アニメや映画があれば十分と思うかもしれず、それ以上の世界が漫画にあったとしても、
わざわざ読み方を習得してまでそれを理解しようとは思わないかもしれない。

いやいや、アニメや映画ですら、元は二次元で、それを三次元的にするためには、
それを読み取るための技術は必要なわけです。
つまりどういうことか。
「不気味の谷」の境界線を越えるためには、そのための技術を習得する必要があり、
漫画は実はけっこう難易度の高い表現媒体で、
その次にアニメ、映画と続いていくという、事実。

一方でVRなどのシステムの発展は「お約束」を習得することを「余計な手間」とみなして、
それなしで二次元を三次元的に感覚する方向を目指しているのだ、という事実。

コマ割りとか吹き出しとか、そういう漫画のシステムが「余計なもの」扱いされると、
ちょっとヘソが曲がるんですが、少なくともコマ割りは、
目に見えて簡素化の兆候があるように思います。複雑なコマ割りが喜ばれなくなってる。
四コマ漫画で表現した方が若い人にはわかりやすいんじゃないかと、最近は感じます。
もっと言ってしまうと、ラノベは完全にコマと吹き出しの排除された漫画だ。
僕の世代だと漫画以前の表現形態に思えてしまうのだけど、漫画のお約束を覚えるより、
あっちの方が理解しやすいと言われれば、そうなんだろうなと変に納得してしまう。

文字を覚えてそれを使ってみたい子供たちが、漫画より先にラノベに走るのは、
むしろ当然と言えば当然で、今の漫画は「初心者」が敷居をまたぐには、
あまりにも情報量が多く、習得する「お約束」が多すぎるのです。
見せ場で渾身の一枚絵を出せば、それだけで十分に補完可能です。

手塚治虫も生誕百年くらいになるそうですけど、漫画というシステムは、
完全にワンサイクル回りきったような気もします。
ここでまだストーリー漫画としてのコマ割りや見せ方を考えている自分というのは、
ブラームスばりの古典主義者なのかもしれない。

わかりきった話ばかりなんだけど、こういうことは一度文章にしてみたかったので、
僕の現状認識はこんな感じですと、文章を無理やりまとめてみました。

まだ時間があるしVRじゃない桜でもながめに出かけましょうか。

(追記)なんかやっとココログさんのシステムが改善されて文章がまともに反映されてるぞ。

(追記2)桜見てきた。日曜なので家族連れがわんさか桜見てた。警ら中のお巡りさんも見てた。

(追記3)四月一日。「知られざる健作」→「知られざる傑作」修正。あとニ十分で新元号発表。

(追記4)午前十一時半に菅官房長官が発表の予定。あと十分。人形の久月が「安久」押しらしい。

(追記5)NHK。なんか中川翔子出てきた。セミの抜け殻まみれのインスタを思い出す。

(追記6)十一時半。菅ちゃん出てこない。陛下への報告のあとかな。煙草をふかす。三十五分。

(追記7)今朝送ったネームの受け取りメール読む。先週送った原稿もこれで進めていただける、と。

(追記8)四十分。菅ちゃん来た。「令和」……おお、なぜか一発で変換できた。

(追記9)NHK,菅ちゃんが元号掲げた瞬間、手話の人の映像とタブって見えなくなる(笑)

 

 

 

2019年3月25日 (月)

味噌汁

なんか味噌汁がおいしいですね。

まあうちでは市販の出汁入り味噌しか使ってませんが、

体が味噌の「みそパワー」を求めてるって感じです。

いっとき暖かかったのがここ数日ドヤっと寒くなって、

腰のあたりがしんどくなってるのと、何か関係あるのかもしれません。

……関係ないかもしれません。

味噌汁と言えば小説家の太宰治が味噌汁ジャンキーで、

旅館に籠って執筆するときなど、コーヒーをガブガブ飲むような感じで、

ひたすら味噌汁をすすっていたそうです。

脳みそを酷使すると糖分が不足して甘いものが食べたくなりますが、

酷使した脳みそを味噌汁で補給するというのは、なかなか猟奇的ですね。

出身が青森というのも、味噌汁偏愛に何か関係あるのかもしれません。

……関係ないのかもしれません。

味噌汁と言えば、僕は名古屋出身なので地元にいたときは赤みそばかりだったけど、

東京に出てきてからは基本的に合わせ味噌ばかりです。

実は赤味噌があんまり好きじゃないのかもしれない。時々買ってきても、

麻婆豆腐の甜麺醤の代わりに使ってしまいます。いや、全然違う味なんだけど、

ほれ、見た目はよく似てるから。

弟が料理の専門学校に通っていたことがあって、一応資格を持ってる人なんだけど、

その人が朝作った赤みその味噌汁は、なんかおいしかった。

一緒に食べてた島根の兄さんも、

「なごやーの味噌汁かね、これはおいしいですわ」

と喜んでいたっけ。

ちょうどいいからここに書いておこう。

この島根の兄さんに大昔ドライブに連れて行ってもらったことがあって、

そのとき運転しながら話してくれたネタに松本清張の「点と線」があった。

僕は読んだことがないから詳しくは知らないし、聞いたのも三十年以上昔なんだけど、

物語のトリックで東北弁と島根弁の類似性が使われていて、

物理的距離が離れているこの二地域の言葉が、けっこう似ているそうなのです。

ぶっちゃけ「ズーズー弁」なんですね。

島根は中国地方と言っても山陰の日本海側だし、冬は大雪が積もることもあるので、

その関係で東北と同じような言語になったんだろうと当時の僕は考えたんだけど、

最近の研究によると、DNAのレベルで東北人と島根県人、特に出雲人は近いそうです。

これはあれだな、大陸からの帰化人が日本を支配していく過程で出雲は無視された、

もしくは、古代日本人の血を守り抜いた結果なのかもしれませんね。

まあ、最後まで大和朝廷に逆らい続けたお国柄ですし、

そういうこともあるのかな、と。

最近の自分が味噌汁をやたら飲みたくなってるのも、太宰治と同じで、

原日本人の血のなせる技なのではないか、自分も半分は出雲人なわけだしと、

わけのわからないことを考えてみるのでした。

2019年3月21日 (木)

とある漫画士の作画理論

「目は口ほどにものを言う」なんて言葉があります。
美辞麗句をいくら積み重ねても、目付きが下品だったりすれば、
「こいつ詐欺師ちゃうか」
と疑われます。逆に、
「あんたのことなんか全然好きじゃないんだからね!」
と視線を逸らす二次元美少女がいれば、
「ああ、ツンデレか」
と古めかしい古語で納得したりもします。
目には本心が出てしまうので、読まれまいと無意識に隠すわけです。
漫画家でも心理描写を多用するような作風の作家だと、
目の表現をどんどこ追求したりします。
自分にも多少その傾向がありますが、視線の動きやそこに読み取れる感情、
何よりカッコいい目つきとか艶っぽい視線なんかにこだわったりします。
まあ、こだわりが強すぎて作画地獄に嵌ったりするわけですが。
今回はその辺のお話をちと。
昔NHKの科学番組で「人類の進化」みたいなのがありまして、
山崎勉さんだったかな、役者さんがナビゲーターになって進化の解説をしてました。
原始的な哺乳類から始まって、小型の猿みたいなのになって、
樹上で生活するようになったために木の枝との距離を正確につかむため、
側頭部にあった目がどんどん前面に移動していく。
いわゆる「立体視」ができるようになって、世界は3Dで認識される。
猿というのは集団で生活するものだから、同種間のコミュニケーションが必要になって、
相手の心の動きを正確に読み取るために、頭部で複雑な進化が起こります。
唇が自在に動くようになって鳴き声を変化させたり、眼球に白目が生まれたりしました。
白目ってのは視線の動きを相手にわかりやすく伝えるために発生したというのが、
その番組での主張でした。これはなんとなくわかります。
相手が何を見ているのか、白目がある方が理解しやすいですから、
もし敵が現れた場合でも、その位置を種族間で正確に伝達できます。
これが人類の進化の過程で複雑な感情を表現するようになったわけです。
ですからまあ、言葉と同じで目の表情にもいろんな意味があるわけで、
この目の語る意味合いは赤ん坊にも通じますし、言葉の通じない外国の人にも伝わります。
で、漫画やアニメってのはその目の語る意味を二次元に表現する方向でも発展してきたと、
僕は考えています
個人的な経験の話なんですけど、人間の体を描くのはそんなに難しくない。
顔のないのっぺらぼうの木偶人形ならどんなポーズでも描けるような気がします。
でもそこに感情を表す部位が入ってくると、とたんに絵は難しくなります。
目はもちろん、指先にまで神経を通わせて細かいニュアンスを表現しようとすると、
なかなかうまくいかない。
ポーズにしても、肉体の動きで怒りとか悲哀なんかを表現しようとすれば、
一年二年の修行くらいではどうにもならない。
それはもうパントマイムとか演劇論の分野にも入ってくるものですし、
追求すればするほど、「線とは何か」「表現とは何か」みたいな、
変なな精神論になったりします。
かなりめんどくさいです。
だからまあ、その辺のことはバッサリ切り捨てて、目の表情だけを追求していく。
それがいわゆる「大人漫画」だったりします。
眼球の動きを正確に描写してそこに感情を表現する。一番いいのは瞼を先に描写して、
そこに黒目を入れていく方法です。
そうしないととてもじゃないけど微妙なニュアンスまでは表現できません。
だから大人漫画で描かれる目では黒目が小さくなりますし、
瞳がキラキラのでっかい黒目は、感情表現がワンパターンになるため敬遠されます。
最近の作家さんだとつぶらな瞳のキャラクターでも微妙な感情表現が出来たりしますが、
それでも相当な技術がないと無理なんじゃないかと思います。
「視線」を表現するためにはその土台となる頭部の正確なデッサンが必要で、
これを無視して感覚だけで「流し目」なんかを描いても、
描き進めるうちに顎の位置やら頭の位置がどんどん歪んでいきます。
だからといって頭部から描写して、そこに後から目玉を入れてみても、
なんだか感情がこもらない、死んだような絵になることも多いです。
「流し目」はたぶんその人の作画力を端的に表す試金石なんじゃないかと思います。
昨日フランスの文豪バルザックの「知られざる傑作」って短編を読んでたら、
こんな文章がありました。要約すると、
「いくら美人の綺麗な手だからって、石膏で型をとって複製を作っても、
 出来上がるのはただの死体で、綺麗でもなんでもない、むしろ不気味。
 石膏像に生命を感じるのは彫刻家の腕によるもので、それが芸術ってもんです」
土台となる人体や頭部の形には正確なデッサン力が求められるけど、
最後の最後、感情に関わる部分になってくると、正確さだけじゃない、
何か別のものが必要になってくるんだと思います。
これはあくまで個人的見解なんだけど、
デッサンが完璧な絵というのは漫画ではあんまり喜ばれない。
なんだか冷たい感じがして、ちっとも共感できなかったりします。
むしろ、多少ひん曲がってるくらいの方が面白く感じたりします。
よく雑誌連載の原稿を、単行本化するにあたり加筆修正することがありますが、
作者が「下手くそな絵だからもっと上手な絵に差し替えよう」と考え、
自信満々で描き直したものが、なぜか読者には不評だったりします。
「なんで俺の技術のすごさがわからんのじゃ!」と怒りたくなるところですが、
読者は作家が考えている以上にものすごい審美眼を持っていたりします。
意識的にしろ無意識にしろ、紙の上に描かれた感情を正確に読み取っています。
「下手くそな絵だけど、何を表現したいかはわかる」というのもあるでしょうし、
「上手な絵だけど前に比べて何も伝わってこない」というのもあります。
上手な絵を描こうと焦ったりあがいたりするのは作家個人の問題で、
それは自分の中の不安とか劣等感から始まっているものです。
読者とは関係ないところでひとり相撲をとっているようなもんです。
デッサン力と感情表現は必ずしもイコールではない。
むしろデッサン力があるために感情表現ができない場合だってあるのです。
編集者百人に聞けばみんなそう答えるでしょうが、
上手な絵より、下手くそでも伝わるもののある絵の方が「いい絵」なのです。
ただ、そういう下手くそさは作家のクセとして早々に飽きられるものでもあります。
読者の中で「クセのある絵」が作家固有の記号として認識されてしまえば、
表現の鮮度はなくなってしまうわけで、そこにずっと胡坐をかいているわけにもいかない。
だから、正確なデッサンを習得する必要があると僕は考えます。
感情は日々に生まれてくるものですし、決して飽きるものではない。
それを紙の上に表現するためには、しっかりした土台となる技術と、
その正確さの中に違和感を感じさせる「何か」が必要になってくるわけです。
それは作家が日々の生活の中で感じた心の動きであり、
その振動がレコード盤の上に溝を削り込むように、ぶれとなって絵に刻まれるもの、
読み手に「違和感」として認識されるもの。
それが目や唇に表現される「感情」なのかなとこの頃の自分は考えます。
……なんだかものすごく当たり前のことを書いているみたいだけど、
「違和感」を表現するためには全体の正確な描写が必要というのは、
今まで自分があまり考えたことのなかったところなので、
ちょいと文章にしてみました。わかりにくい文章ですが、
そういうスタンスでいたほうが、絵にしても演出にしても、
突破口が見つかりやすいように思います。
ぶっちゃけて言ってしまえば、
「画竜点睛」ってこういうことなのかもしれないなと
思うわけです。

新聞小説

新聞小説をずっと読んでる。
今は読売新聞の朝刊と夕刊小説、
読売オンラインの方の小説を一本、目を通している。
朝刊の方は浅田次郎さんの時代物で、最初の方が小難しかったので切り抜きしてた。
なんせ、江戸時代の身分格差をテーマにしているので、
旗本やら外様やら、どっちが上でどっちが下やら、ものすごく混乱する。
いや、その混乱を笑う小説なんだけど、連続で読むならまだしも、
毎日小出しで読むとなると、かなりのめんどくさい。
で、一か月くらい切り抜きして何度もプレイバックしながら読んでた。
四月からは読売オンラインの方でも会員限定で読めるようになるみたいなので、
そうなったらまた最初から読み返そうかなと楽しみにしている。
できればあの綺麗な挿絵も掲載してほしいんだけどな、と独り言。
新聞小説の挿絵はけっこう美麗で優れたものも多いんだけど、
これを後からまとめて見ようとしても、小説の単行本には掲載されないし、
もったいないっちゃもったいない。
そういえば友人と某地方都市の公民館みたいなところに行ったら、
時代物の新聞小説の挿絵が額装で壁にずらっと並べられていて壮観だった。
まさに時代絵巻といった感じで、壁沿いに歩くにつれ、画題は血なまぐさくなって、
弓矢がビュンビュン放たれ城砦が炎に包まれる。
吉川英治の新平家物語の挿絵を杉本健吉さんが担当しておられて、
これは週刊誌連載だったけど、僕の読んだのは愛蔵本だったので、掲載されていた。
本文も良かったけど絵の描線が素晴らしかったので、これも繰り返し堪能した。
地元名古屋が誇る芸術家である。
物語の中に流れる時間に沿って画題は変化していくのだから、これはある意味漫画である。
あとになってまとめて見返せば、作者が絵に込めたものがまた違った角度から見えるし、
ネットはそれをやるのに絶好の媒体だと思うんだけど、やってくれないかなぁ。
(挿絵も掲載されました。しかも画像を拡大できるので超便利。四月三日記)
それはともかく、新聞小説をネットで見られるというはありがたい。
切り抜かなくても最初から読み返せるので、人物の確認とか、
気に入った場面をもう一度読み返すにはすこぶる便利だ。
今も読売オンラインに出入りして、徳川家康を題材にした歴史ものを一本読んでる。
桶狭間の合戦前の今川配下だった時代の話なので、この時点の家康の話となると、
二年前の大河ドラマが思い出される。今川義元が笑点の落語家さんだったやつ。
戦国時代の物語となると家康本人を題材にしない限りこのへんの家康は描かれないので、
桶狭間で信長が今川軍を撃退したとき家康がなにをしていたのかは割と空白で、
そこに興味を持って読んでいるんだけど、連載小説だと続きが気になって仕方がない。
そこで思い出した、うちにはその辺の家康を描いた小説があったはずだと。
で、引っ張り出してきたのが池宮彰一郎さんの「遁げろ家康」。
この作品はとある事情があって絶賛絶版中で、たぶん今後も再販される可能性が皆無。
まさに幻の作品である……司馬遼太郎作品をパクったことを指摘され、
新聞沙汰にもなったため、出版社が回収したのだ。
騒動の時点ではすでに読んでいて、逃げてるだけなのにまわりに勝手に評価される家康、
というコメディ的な部分が面白くて、けっこう気に入っていたのだ。
もう十八年くらい前に出版された本なんだ……
池宮さんはその事件までは斬新な時代劇小説を書く人として有名だったし、
実際すごい作家さんだと僕は思うんだけど、騒動の後はほとんど名前を聞かなくなった。
さっきAmazonで確認したら、中古でかろうじて入手可能だった。
さすがにプレミアはつかんか。
で、昨日からちょくちょく読み返しているんだけど、パクリはともかく、
個人的にはこの「小心者家康」の人物像は好きだなぁーと思うわけだ。
パクリパクリいうけど、時代小説で同じ題材を使っている以上、
他の作品から孫引きしたり、うっかりオリジナル部分を利用することもあるだろう。
素人の僕が時代小説を書いたら、九割方引用剽窃のだらけの作品になる。
いや、それはもう作品とは呼べないけどさ。
だからって許されるもんでもないんだろうけど、
時代小説を書くのはそういう面でも大変な仕事なんだなと、思うわけだ。

2019年3月17日 (日)

タガが外れる

器というものは木をくりぬいたり土をこねたりして作るものだけど、
あんまり大きな入れ物になると、「樽」とか「たらい」とか、
木片を何枚も寄せ集めて一つの巨大な容器にする必要がある。

 

この木片を集めて固定する部位を「箍」という。
金属だったり竹だったりするけど、一律に「タガ」と呼ばれる。

 

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葛飾北斎の「富岳三十八景」にも、巨大な桶の向こうに富士が見えるという、
ちょっと面白い絵がある。この手前のオジサンがやっているのは、
おそらくタガを締め直したあとの微調整のはず。
削ってるのが木と木の合わせ目だから、たぶんデコボコを均してるんだろうなと、
これは想像。場所が田畑の前だから、職人の工房ではなくて出張サービス。
古い桶のタガがはずれるか緩んだので、それを締め直しているんじゃないかと思う。

 

僕個人の考えだけど、北斎は富士山のシリーズで構図的な面白さを追求している。
空間の中に地平線があって、そこに三角形の富士山がある。
これを中心に線をあれこれ引いていくことで、線に動きとか重量感が生まれる。
有名な波の絵、「神奈川沖浪裏」なんかは、富士が異常に下の方にあることで、
波の巨大なうねりがドドンと持ち上がる巧妙なカラクリだと思う。

 

この桶職人の絵だと、富士が桶の向こう側に見えることで、
桶の存在感はいやがおうにも際立っている。職人の体が富士の形と相似形であるから、
職人の体重は桶の下部にズシンと集中し、
その重みでもって、桶はピンと立ち上がっている。
ちなみに、背後の木の形も富士と相似形であるから、力は三重に働いている。
画面の右上から、左下へと力は働いているのだけど、
職人の持つカンナの棒が、それを少し上向きにそらせているために、
力は一気に地面の方向に流れている。
それで桶の丸い形がピンと立ち上がっているのだ。
(よく考えたらこの考察って先ごろ亡くなった永田生慈さんの受け売りかもしれない)

 

北斎がすごいのは、これを計算でやっていることで、
北斎が嫌いだという人は、この計算しまくりの感じが鼻を衝くからなんだと思う。
だって、あきらかに「してやったり」と北斎が高笑いしているのが見えるんだもん。

 

こういう画面構成のカラクリ的な面白さは、西洋ではセザンヌやマティスにつながってる。
そんで、そこからピカソとかブラックなんかにも流れてるんじゃないかと思うんだけど、
「写真ではなかなか出来ない、絵独自の面白さ」というのは、
このへんに存在しているのは、間違いない。北斎は色彩方面ではいまいちだけど、
画面構成では天才なのだな。

 

閑話休題。

 

職人が完璧に仕上げた桶やたらいであっても、時間がたてばタガが緩んで水が漏れる。
昔の人にとってはそれは日常的な風景だったから、言葉の世界にもそれが反映された。
「タガが緩む」といえば、水の漏れるたらいのような人間のことで、
役に立たねえからとっととタガを締め直しやがれ、このすっとこどっこい、となる。
仕事中にぼんやりしたり、イージーなミスを連発したりするとこの言葉で怒られる。

 

でもこの状態ならばまだ修正は容易である。緩んだタガを締め直せばいい。
これが「タガが外れる」までいくと、もうどうにもならない。
水が漏れるどころの騒ぎではなく、たらいを構成する板がバラバラに崩壊して、
中の水は地面にぶちまけられる。仕事に例えるなら、ぼんやりしてミスをするどころか、
取引先の偉い人の頭を殴り倒して、地面に這いつくばったところを蹴り飛ばすような、
もうどうにも修復不可能な状態である。

 

このようなことをしでかす社員は、解雇上等とんずら覚悟なので、
当人にとっては実にすがすがしい気持ちなのかもしれないが、まわりはそうはいかない。
顔面は蒼白になり、床に頭をなすり付けて謝罪することになる。

 

某芸能人がコカインで捕まった時に考えたのだ、最近はこういう不祥事が多いなと。
役者が何かをしでかして、ドラマが差し替えになったり、映画がお蔵入りになったり、
業界そのもののタガが緩んでいるように感じられる。

 

このことを文章で上手く表現できないかといろいろ書いてみたけど、
なんか小難しい話になってちっとも面白くない。
というか、僕は大河ドラマのピエールさんが割といい味を出しておられたので、
今ここで役者を交代させられるのは面白くないなぁと、そればかりの心持ちなのだ。

 

薬物はダメ、業界に迷惑をかけるのもダメ、そこは間違いがないのだけど、
誰かこの緩んだタガを締め直す職人はおられんものかと、
しみじみ考えるのだな。

 

なんかとってつけたような文章だな。北斎でやめとけば良かった。

 

北斎の上の絵を「緩んだタガを締め直す職人の絵」と考えると、
なんかはずれかけた頭のネジを締め直してくれるような、スキっとした爽快感がある。
この職人は桶屋なのかもしれないし、箍を締め直す専門の箍屋かもしれない。
すなわちプロの仕事である。

 

プロがプロの仕事に徹する姿は見ていて飽きない。
自分もこんな風に頑張ろうと考えるなら、それは絵描きとしても本望だろう。
北斎的には「そんなこと考えちゃいねぇよ」かもしれんけど。

 

緩んだタガは締め直せばいい。きちんと修理をすればまだ大丈夫。
心の中の職人さんにタガを締め直してもらって、
「また頑張るんば!」と、
いかにも昭和のオジサンのような決意表明をするのであった。
昭和のオジサンなんだけど。

 

 

 

2019年3月 9日 (土)

不発弾

総武線について千葉の友達が教えてくれた話をまるまるブログ記事にしたところ、
「ちょうどその話を会社でしとったがね」
とメールがきた。ネタにしてすんません、そのうちまた飲みに誘ってください。

そういえばずいぶん前に池袋の「なごや飯」の居酒屋で飲んで、
手羽先やら味噌カツやら、懐かしいものをつつきまわしたことがあって、
その時自分の分の会計を二千円札三枚で済ませたら、
「どっから出てきたんじゃ、それ」
と面白がってらしたっけ。レジのお姉ちゃんがびっくりしとったぞ、と。

資料用に何枚かとってあったんだけど、ネットで画像が簡単に手に入る時代だし、
使っちまえと考えたんだな。というか、二千円札を資料で使う状況が思いつかない。

故小渕首相の一代記でも描けば、
この方の発案ってことで二千円札は登場するんだろうけど、
その他となると、沖縄に行ったらまだ流通していたとか、それくらいしかないだろうし、
まああれだ、サミットの記念コインみたいなものなんだろうなぁ。

自分が子供の頃は切手とか古銭の収集なんかが子供の趣味として普通にあったので、
珍しいものを見つけると、やっぱりどうしても取っておこうという心理が働く。
今ちょうど確定申告の時期だけど、税理士の方が毎回送ってくる封書の切手も、
いつもちょっと変わったものを使われることが多いので、一定数たまるまではとってある。
鉄腕アトムの切手とか、そんな感じ。
ときどき取り出して、ふふふとほほ笑んだりする。なんてお茶目な方なのだろうかと。

そうそう、五百円硬貨なんかもしばらくとってあったのだ。

これは以前にも書いたかもしれないけど、自販機でジュースを買おうとしたら、
機械が五百円硬貨をどうしても受け付けてくれない。
それでよくよく硬貨を調べてみたら、一番最初の、初期型の硬貨だった。

これは有名な話なので今更なんだけど、日本が八十年代に五百円硬貨を発行したところ、
某国がそっくりの硬貨を発行させてしまい、
これをドリルで加工すると、日本の自販機が五百円硬貨として認識してしまうという、
ちょっと困った事態があった。
それで、五百円硬貨は途中から材質やらデザインが微妙に変化していて、
今ある自販機はたいていこの五百円しか受け付けないようになってる。
五百の数字の刻印の中に、五百という数字の刻印が透かし彫りの様に入っている奴。

で、プロトタイプの硬貨はそれはそれで珍しいので、僕はとっておいた。
去年の六月まではしっかり存在していたのだ。

本棚の上に飾ってあったのだけど、本の整理の過程でポケットに入れて置いたら、
いつの間にか無くなってしまった。
たぶんどこかに落としたのだと思う。
まあ、プロトタイプうんぬんはおいておいて、五百円の価値のあるものを無くしたのは、
痛かったなぁとちょっと思う。

あとあれだ。
高校生の頃バス通学をしていて、同じ中学だった女の子とバスが一緒のことがあった。
ロングヘアーの小柄な子で、友達の友達くらいの間柄なので、普通に挨拶はしていた。
で、一度バスに乗るときに五十円玉を財布から落としたことがあって、
その子が拾ってくれたんだけど、それがなんとなくポケットに入ったままになっていて、
制服を洗濯に出すとき、「ああ、あの時の奴か」と気が付いたのだった。

で、別に変な意味は全くないし、その子が好きだったとか、
そういう意図もまったくないけど、これを中学のクラスバッチと一緒の箱に入れておいた。
せっかくだしとっておくかとか、そういう感じで。

僕の高校時代というのはもう三十年以上昔の話で、それこそ平成以前のことなんだけど、
この五十円玉はいまだにバッチやら高校のボタンなんかと一緒に残っている。
学生時代に志賀高原で買ったガラスの容器の中に入っていて、
本棚の端に置いてあるために、見つけるたびに「うわぁ……」とドン引きする。
物持ちがいいにも程があるだろうと。

でもまあ、その子のことを思い出すと、彼女と仲の良かったK君のことを思い出し、
このK君を毎朝迎えに行って、一緒に登校していたんだよなと、
芋づる式にいろんなことを回想したりもするので、まあいいかとも思う。

ちなみに彼女とよく顔を合わせたバス停の前を、道路工事で掘り返してみたら、
大戦中の不発弾が発見され、一時住民を避難させて爆弾処理をしたんだけど、
大学時代にその記事を新聞で読みながら、
「爆弾の上で俺は何をやっとったのかなぁ」
としみじみ考えたのであった。

2019年3月 7日 (木)

金太郎

馬鹿馬鹿しい話なのだけど、桃の節句を過ぎたのだから東京はもう春みたいなもんだ。
冬の寒さは底を打って、気候は間違いなく上昇傾向にある。
今も雨がボチボチ降ってるのだけど、これが実にぬくい雨なのだ。

スーパーであれこれ買い物をしていても、気温が高めのせいか、非常に気分がいい。
春は変態さんの季節ともいうけど、体の血行が良くなるので、
頭に余計な血が回って、多少おめでたい具合になっている。

寒さで凍っていた脳が突然回転を始めるのだから、そりゃおかしな具合にもなるさ。
魚売り場をちらほら見て回っているうちに、突然「金太郎」の歌が歌いたくなった。
「なぜ金太郎?」と思うけど、理由などは何もない。

ただお目出度い歌が歌いたくなったのだ。
これは寸でのところでこらえた。
おっさんが突然「金太郎」を歌い始めたら、間違いなく危ない人扱いをされてしまう。

ああ、春だな、春だからおかしなことをしでかしたくなるんだな、
年をとってあちこち緩くなっているから、春の気配が頭に極端に作用しているのだ。
くわばらくわばら……と思いつつ、金太郎の歌ってどんなだっけと心で歌ってみる。

「ママチャリかついで金太郎」
いきなり冒頭から間違えた。なんだそれ、マサカリだろと考えたところで、
突然ママチャリを軽々と持ち上げる金太郎の絵が浮かんできた。

「ぷ」と吹き出す。これはダメだ。ママチャリが頭から離れない。
僕は必死で笑いをかみ殺しながら、人気のない缶詰コーナーに逃げ込む。
「ママチャリかついで金太郎」……まだ続いている。

「熊にまたがりお馬の稽古」……ママチャリかついで何の稽古だよ。熊がかわいそうだ。
「どんどんひゃらら、どんひゃらら」……なぜにお囃子?「はいしどうどう」だろ?
「どんどんひゃらら、どんひゃらら」……だめだ、もうたまらん。

それからもう笑いをこらえるので必死で、僕の顔面は大惨事になっていたと思う。
今こうして考えてみると、何が面白いんだかよくわからんのだけど、
とにかく春の到来を感じさせる話なので、とりあえず書いてみた。

ママチャリってどこの方言だろうと思ったけど、たぶん普通に全国区の言葉のはず。
名古屋では自転車を「ケッタ」とか「ケッタマシーン」と呼んでいたので、
「チャリンコ」まで方言のような気がしていたのだ。もちろん婦人用自転車のことである。

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