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2019年7月19日 (金)

雑感


大相撲名古屋場所も大関の休場が相次いで、若手が頑張る場所になってる。
まあ、先場所から休場してる貴景勝も十分若手なんだけど、
栃ノ心、豪栄道ときて、高安まで休場となってしまうと、
「俺は何を楽しみにすればいいんだ」
となってしまう。

高安が左腕を負傷した取り組みは見ていたので、思わず、

 高安の 左の腕が 心配だ

と一句詠んでしまった。それでも二回の取り組みを耐え抜いての休場なので、
さすがに何も言えない。腰も肩もやってるそうなので、この機会にご自愛願いたい。

僕はそれほど相撲には詳しくないのだけど、取り組みで土俵にきちんと手をつくのは、
見ていて気持ちいいというか、格調があるなと思う。
先場所優勝した朝之山(まだ一発変換できず)とか、自分は挑戦者だと自覚してるせいか、
横綱白鳳との取り組みでもきちんと土俵に手をついていた。
逆に白鳳とかは出だしの大切さを知っているせいか、ギリギリまで腕を下ろさないので、
まあ、その方が王者っぽいっちゃぽいのだけど、ちょっとモニョる。

行司の人でその流れが気に入らないのか、しきりと力士に取り直しをさせる人がいた。
「手をついて!手をついて!手をついてぇ!」
と大声を張り上げるから、力士が駄々っ子の少年のように見えてしまう。
まあ、それでも自分が主導権を握るためには、両者なかなか腕をおろさないわけだが。

ピグマでも買おうかと外に出たところで、パラパラ雨が降ってきたので、
傘を取りに戻り、その傘を畳んだままお守りのように握りしめて近くのコンビニに行った。
遠出する気分が失せた。
自分が外に出かけようと思ったのは、京都アニメーションの放火事件があったためで、
頭の中がごちゃごちゃになってしまったからだ。

外は曇り空だけど、雨もまだそれほど激しくなくて、傘をさしてる人はいたけど、
自分は傘をささないで、ブラブラと歩いた。帽子かぶってるからそれで充分だろう。

歩くと自然とくだらないことを考え始めるので、まあ少し落ち着いてきた。
家に戻るとポストに夕刊が来ていて、一面は京アニの事件だった。思わず目をそらす。

買ってきた煙草をふかしながら、相撲中継を見つつ、どうでもいいことを努めて考える。
昨日出版社に完成原稿を送ったのだけど、絵が一部入っていないとクレームがきた。
パソコンの技術的な問題で、すぐ修正して送ったのだけど、
そのことについての返事はまだ来ない。
原稿をPSDに変換する過程で最下層のレイヤーがはじかれていたのだ。

 絵描きとは 貧乏暇なし かわいそう

でも絵描きには絵描きの幸せがあって、目の前に新しい命が生まれてくるのを、
ワクワクした気持ちで見守るというのは、他の何者にも替え難い。
そこにお金が雨あられと降ってくれば何も言うことはないけど、
そうでなくても、絵描きはたぶん幸せなはずだ。

突然この幸福が断ち切られたとしても、それでも絵描きは絵を描き続けるだろうし、
その因果な宿命に苦笑しながら「それでも自分は幸せなんですよ」と言ってしまうのが、
絵描きってもんだ。

その執念深さは社会がどれだけ歪んでいても、定規で引いたみたいにまっすぐなのだ。

 

2019年7月14日 (日)

ブラー


今年は冷夏だという話で、七月なのになかなか夏の気分にならない。
アイスを箱買いして「暑い暑い」言いながら食べた日が一日あったけど、
蝉は鳴かないし、太陽も見ないし、なんか雨ばかり降っているので、
このまま気がついたら秋でした、という流れになってしまいそうだ。

朝起きると、まず煙草を一服しながらテレビをつけるのだけど、
日曜だと「なつぞら」は放送されていないので、少しとまどう。
ああ、そうか今日は天下御免の休日かと、人ごとのように考える。
広瀬すずが戦後日本で最初の女性アニメーターを演じるというドラマだが、
草刈正雄が出てくる北海道編が妙に面白かったために、アニメ編は少し不評。
でも宮崎駿らしき新人が出てきたり、その筋のマニアにはこちらが面白かったりもする。

とりあえず、何か音楽でもながそうかとブラーの二枚目を流してみる。
「モダンライフ・イズ・ラビッシュ」
「ラビッシュ!」である。英国人がこの言葉をぶつけてきたら、
「クズはてめーだ、このクソ野郎」
と笑顔で返しましょう。

二十年以上前にイギリスではブラー対オアシスの音楽対決が盛り上がっていたけど、
門外漢の僕が普通に聴いてみると、面白いのはブラーの方で、
こっちは今でもときどき聴いている……おもにベスト盤で。
ベスト盤に飽きるとアルバムもたまには聴いてみようかと思い、古いのを引っ張り出して、
BGMにしたりする。

BGMとなると、よく聴くのは「13」とか「シンク・タンク」あたりで、
今は「シンク・タンク」を聴きながらこの文章を打ち込んでいる。
何かと話題のバンクシーがジャケットを描いたことで有名な奴で、
発売は2003年……そんな昔だったかなぁ、あの頃はバンクシーなんて知らんかったし、
「暗くて嫌な絵だな」
と素直に思ったのだった。ギターのグレアムが脱退したアルバムだし。

雨の日曜日にピッタリなアルバムだなぁ。
当時のイギリスの空気が雨の日曜日だったんだろうな。仕事がないし天気は悪いし、
とりあえず酒でも飲んで寝るか、みたいな。
今は移民問題やらEU脱退問題やらでもっと混乱してるみたいだけど。

日本もなんだかんだ、当時のイギリスの空気に近づいてきたのか、
あの頃よりも素直に聴けてしまうのがおそろしい。
発売時はシングル曲(アメリカはそうだった)の「クレイジービート」ばかり聴いて、
他のは「暗い、暗い、暗すぎる」と聞き流してたもんな。

シングル曲ばかり聴いてると、ブラーはオアシスより能天気な感じがするけど、
アルバムで聴くとどうにも救いようのない感じがするのだな。

で、今の時代に引っ張り出して聴くとなると、ブラーになってしまうわけだ。

ネットで画像検索してみたら、デーモン・アルバーンさんとノエルギャラガーの画像が、
トップで出てきた。さすがに二人ともすげーオッサンになってる。
デーモンさんとか、昔は「こんな絵にかいたような美青年がブラーやっとるんかい」と、
ものすごく嫉妬したもんだけど、今だと普通にそのへんにいるオッサンなのだな。
むしろオアシスのノエルさんの方が昔のままな感じがする。

でも二人ともいい年のとり方をしたオッサン顔なのだな。
われとわが身を考えれば、上手に齢をとるのがいかに難しいか、考えざるをえない。

なかなか雨の降りやまない日曜日の午後なのです。

2019年7月 8日 (月)

光る宇宙


蹴り上げたサッカーボールがゴールポストに向けて光のように飛んで行ったり、
繰り出したパンチが電光石火のごとく雷光を放つ、みたいな表現は、
漫画やアニメではおなじみのものだ。
実際、そんなことがあるはずがないし、誰かの考えたファンタジーだろうと、
僕は長い間そう考えていた。

ずいぶん前に剣道の漫画を描いたことがあって、
それの取材のために女子剣道の全国大会を見に行ったことがある。
男子だと日本武道館で行われるのだけど、女子は地方の施設で行われていた。

東京から新幹線を使って、一度乗り換えをして現地に到着した。
なんだか閑静な住宅街だなと思いながらブラブラ歩き回っていたら、
突然目の前に巨大なスポーツ施設が現れた。

施設の入り口前には白いテントが設営されていて、
ボランティアなのかな、地元の中学生くらいの女の子たちが受付をしていた。
「A席とB席があります」
……まあ、せっかくの取材なので一番いいA席を選ぶ。金二千円なり。

で、大会会場に入ったのだが、A席は体育館の床にパイプ椅子を並べたところだった。
……一般席は二階席にずらっと常設されたものだったので、
僕が座ったのは選手が試合をする、すぐ目の前だったことになる。

「やばっ、漫画家がこんなところに座っていいのか?」

と焦ったのだけど、座ってしまったものはしょうがない。
なんだか偉そうな方々と一緒に試合を観戦する羽目になる。
それに、僕の隣に座ったのは「エヘエヘエヘ」と奇妙な笑い声を発するオジサンだった。
ラフな服装だったのでこの人も一般観戦者なのだろう。
……それにしても何が面白いのか「エヘエヘエヘ」の不気味な笑いが止まらない。

剣道の試合というのは開始直前に面をつけ、審判の合図で中央に進み、
相手の選手と向かい合う。
そんで蹲踞(そんきょ)。腰を落として竹刀を相手に向けて構える。
審判の「はじめ」の合図で立ち上がって試合を開始するわけだが、
女子であってもさすがに全国大会となると迫力がすごい。
気合の入った声が広い会場いっぱいに響きわたるし、床を叩く足の音も豪快だ。
目は竹刀の動きに釘付けとなり、大柄な選手の撃ちだす一撃には、
見ているこっちまでビビってしまう。

そして「エヘエヘエヘ」の謎の声。
隣りのオジサンは短髪眼鏡の小太りの人で、目付きがちょっとアブナイ感じなのだ。
「この人はいったい何者なのだろう」
とチラチラ様子をうかがってしまう。

試合は準々決勝まですすみ、背の高い女の子と小柄な女の子が対戦していた。
いや、女の子といってもこのへんまでくると段位は三段とか四段だろうし、
職業は婦警さん、というパターンが多い。
試合はお互い激しく打ち合っていたが、決め手に欠けてなかなか一本が入らない。
ご存知の通り、剣道の一本というのは気合が入った打ち込みで、声と打ち込み後の姿勢が、
重要だったりする。ただ竹刀が当たったくらいでは一本にならないのだ。

対戦は長丁場となり、制限時間いっぱいまでもつれ込む。
と、小柄な女の子が激しい足さばきで相手選手に飛び込んでいった。
彼女の姿が視界の中から飛び出して見える。そして、

竹刀が光った。

あ、一本が入った、と思ったら、三人の審判が一斉に旗を上げた。
会場が観客の歓声でワーーーッとうなる。
僕は拍手をしながら、今のは何だと茫然としていたのだ。
たしかに光った。光ったように見えた。
彼女の渾身の一撃は、彼女の体を風景から浮かび上がらせ、竹刀を光らせ、
相手選手の面のど真ん中を打ち据えたのだ。
竹刀が光るなんて、そんな漫画みたいなことが本当に起こるんだなと、
僕はその場面を繰り返し頭のなかで反芻していたのだった。

決勝前にインターバルがあった。
二面あった試合場を一面にするため、
ボランティアの中学生たちが床のテープをモップで器用に剥がしていった。
へえ、あんな風に簡単に剥がせるものなのかと見ていたら、
隣りの「エヘエヘエヘオジサン」のところに中学生の女の子たちが集まってきた。

「せんせ、せんせ」
「エヘエヘなんだお前ら仕事は終わったのかエヘエヘ」
「もう終わったよ。せんせはちゃんと監督しなきゃダメじゃないの」
「エヘエヘいいジャンそんなのエヘエヘ」

……なんてことだ、このアブナイと思った人は中学校の先生だったのだ。
どう見ても変質者っぽい感じなのに、生徒にはなんか慕われている感じがする。
人を見た目で判断してはダメだな、と僕は反省した……いや、
実際どうなのかはわからないんだけど。

まあ、可能性として不審な男が特等席にいたから、隣に座って監視していた、
生徒をカメラの魔の手、魔の眼から守っていた、
なんてことも十分にあり得る。
とても立派な先生なのだ。……この場合の不審人物はどう考えても僕なんだけど。
だって特等席でやたら写真を撮りまくっていたし、
そこにいたのほぼ剣道の関係者だけだし。
(試合後の選手が僕の隣に座ったりもした)

このことがショックだったからか、僕は決勝のことはよく覚えていない。
あの光る竹刀の女の子は勝ち残れなかった、というのは記憶しているけど、
たとえ決勝であってもあんな会心の一撃はそうそう繰り出せるものじゃないだろう。

試合後は会場内をあちこち写真撮影をし、早々に電車に飛び乗った。

……途中の駅で等身大のガンダムが設置されていたので、
それを是非カメラに収めなくてはと思ったのだった。

 

2019年7月 5日 (金)

原初の日本語


僕は思いつきで生きている人間なので、
ペラペラあることないことを喋りまくって、その中に一つくらい、
誰かの頭のなかでひらめきの種になればいいかな、と考えて生きています。

つまり、辛抱強く研究したりとか、そちらの方面にはまるで向いていない。

だから真面目に研究されていたり、その方面に興味を持たれている方が、
「それは違う」
とご指摘してくださると、
「いい加減なことを書いちゃいかんな」
と反省しまくるわけです。

今回もこのブログで書いた内容について反論のメールをいただきましたので、
以下で紹介させていただきます。
返信の仕方がわからなかったので許可はとれませんでしたけど。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ゐ、ゑはワ行のwi,weを示すだけで上代特殊仮名遣とは全く無関係です。
エ段で終わる語の一部はa+iに由来します(一部o+iと推定されるものもありますが、o+iは通常はイ段になります)。
「屁」とか「目」とか「背」とか「手」 のうち、
目はma+i( "*ま* ぶた" の "ま")、
背はso+i( "*そ* むく" の "そ")、
手はta+i( "*た* づな"の "た")、
に因ります(露出形・被覆形で調べるとよいです)。iは名詞化接尾辞と推定されています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
内容は、

●「ゐ」「ゑ」は上代特殊仮名遣いとは関係ない。

次に
●「目」「背」「手」は

「目」→「ま」
「背」→「そ」
「手」→「た」

であるから「え音」の理屈は成り立たない。
とのことです。

反論をいただいた以上、本文を修正するとか、削除するのが筋なのですが、
とりあえずこの反省の文章を冒頭に貼り付けて、

「さらし者」

として本文を以下に残します。
僕はこの反論がものすごく正しい指摘だと思いますし、
特に「ゐ」と「ゑ」は上代特殊仮名遣いではない、というのは、
圧倒的な正論です。

ですから、「ゐ」とか「ゑ」に関する部分は、
「消えた母音を強引に蘇らせたゾンビ母音」
となります。実際は違うというのはその通りなのですが、他に表記のしようがない。

……上を踏まえたうえで、
僕のトンデモ理論を読んで笑ってやろうという方は、読んでやってください。
そして、それが違うという意見があれば、
どしどしメールをくださいませ。(時間があるときに修正の努力はします)

(以下本文)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 1

日本語についてはつらつらと考えることが多い。

なにしろ普段使っている「言葉」ではあるし、どう使えば相手に失礼がないかとか、
どんな言い回しだと相手に好感を持ってもらえるか、なんてことは、
四六時中無意識に考えていたりする。

「おはよう、さようなら」の挨拶に始まって、
「それは一つの考え方ですけど、僕は別の考え方もありだと思います」
みたいな婉曲的な否定の言い回しまで、実に多種多様である。

ときに相手を威嚇する強烈な言葉、みたいなものまで考えたりする。

そんなことをあれやこれや考えていくと、
「ああ、日本語ってのは表情と密接な関係があるんじゃないか」
と気がついたりもする。
海外の人からすると日本人というのは感情表現が淡白というか、
俗にいう「能面のような顔」と言われたりするけど、
それは日本語が基本的に表情を激しく変化させないところに、
あるのではないかしらん。

日本語は子音と母音の組み合わせから出来ている。
母音は五つあって、「あいうえお」がそれに相当する。
……これも万葉仮名なんかを詳細に分析すると、
元々は七つかそれ以上の母音が存在して、
「上代特殊仮名遣い」
なんて言われたりするのだけど、
「い」と「え」の母音のあたりに、それぞれ別の母音が存在したらしい。
それも長い時間のうちには混同されていって、
今だと五十音表に「ゐ」とか「ゑ」とかの謎表記を残すだけである。

これは僕の個人的な推測なのだけど、
「ゐ」とか「ゑ」が母音として機能していた時代には、
日本人の話言葉はもっと過激で、話すたびに表情が激しく動いていたのではないかと、
そんな気がしているのだな。野蛮で過激で、相手を威嚇したり、
感情を激しく爆発させるような、そんな言語が原初の日本語だった。

なぜそう考えるかというと、
「ゐ」とか「ゑ」という母音は、「い」とか「え」の母音より表情が崩れるものであって、
「いーーーーーーーっ」とか「えーーーーーーーっ」とか、
現代人の感覚からすると、少々はしたない感じのする言葉だと推測されるからだ。

あんまりはしたない表情になるので、平安時代以降は使わないことになった。
宮中で使おうものなら、
「あづまゑびすのひなめいたる言葉」
などと顔をしかめられたに違いない。
(敵対勢力である出雲とか東北の民を「ゑびす」と称したのは、つまりそういうこと)

だから万葉集から始まって古今和歌集とか平安王朝物語なんかの伝統の上では、
このような「はしたない」表情の言葉は排除される傾向があった。
雅ではない。下品である。水面に波紋の広がる如く、平静な表情を保つ言葉が、
美しい日本語として定着していくこととなる。

以上はあくまで僕の推測である。

 2

写真撮影の時、

「はい、チーズ」

と被写体に発酵乳製品の名前を唱えさせて、強引に笑顔を作ることがある。
誰が考えたか知らないけど、なんで「チーズ」なのか、不思議と言えば不思議な話だ。

昔、タモリが司会の「ボキャブラ天国」というバラエティ番組があって、
言葉遊びを縦横無尽に繰り広げていたのだけど、その中のネタに、
「はい、チーズ」
と言わせるところを、中国人団体旅行者に、
「チャイニーズ」
と呼ばせる、という一発ネタがあった。
いや、今なんとなく思い出したので書いてみただけだけど。

日本人なんだし、何か他に日本語で代用のきく言葉がありそうなものなんだけど、
これがなかなか思いつかない。
「チーズ」は母音の「い音」を強引に引き伸ばし、無理やり表情を笑顔にして、
最後に「ズ」と「う音」で唇を閉じさせる絶妙な言葉なのだ。

この、はしたないほど表情を笑顔にする「チー」の音が、
日本語で「下品ではしたない」と排除された「ゐ音」ではないかと思う。

江戸末期にペリーの黒船がやってきて以降、日本語は庶民レベルで大きく変化した。
昭和世代の自分ですら、
「今の若い子の言葉ははしたないな」
と感じることがあるから、その変化は大変なものだ。

で、何がはしたないかと考えてみると、
「いーーーーーっ」とか「えーーーーーーーっ」とか、
表情が豊かに変化する言葉や言い回しが増えたな、と気がつくわけだ。
「いーーーーーっ」だと口が横に広がって歯が見えてしまうし、
「えーーーーーっ」だと口がだらしなく開いて舌が飛び出したりする。

お年寄りなどは「そんな下品な言葉を使ってはいけません」と怒り出しそうなんだけど、
実は万葉以前の日本語はその手の「下品な言葉」だった可能性があり、
伝統という意味では、今の女子高生あたりが使っている言葉は、

原初の日本語

に割と近いのではないかと思う。
彼女たちは忠実に日本語の原点回帰を進行させているのである。

 3

実はこの文章は「え音」の面白さを追求するつもりで書き始めた。
以前にもこのブログで触れているけど、
「毛」とか「根」とか「芽」とか、
「え音」の言葉にはぬるぬる成長する生命の不思議さに関するものが多い。
あんまり不思議な現象なので、これらのものには「え音」があてられた。

人間が不思議さを表情で表そうとすれば、舌を出して目を見開くことになるからだ。
この表情のまま発せられた言葉は「え音」、もしくは「ゑ音」になる。

「屁」とか「目」とか「背」とか「手」とか、
この音の言葉は「よくわからないけど奇妙なもの」につけられており、
呪術的だったり、ミステリアスな感じがする。
屁とは何か、目はなんで世界を見ることが出来るのか、
背はなんでのびるのか、手はなんで細かい動きをする?
……その不思議さがこれらの言葉を作り出したんじゃないかな、と
僕は割と大真面目に考えたりするのだな。

もっと言ってしまうと、
「めぇーーーーー」とか「へぇーーーーー」とか
「ゑ音」をバリバリに強調して、ものすごく変な顔で使ってた可能性すらある。
あんまり変な表情になるので、「ゑ音」の言葉はもっとおとなしい「え音」に変化し、
可能な場合は中国伝来の言葉に置き換えられたのではないかと思う。

もちろん「ゑ音」は完全に死滅したわけではない。
表情が大きく崩れる言葉というのは相手を威嚇したり子供をあやしたりするのには、
ものすごく有効な場合もあるのだ。

「あっかんべー」と子供をからかうのもそうだし、
「えーーい控えおろう」と水戸黄門で助さん格さんが「えーーい」を頭に持ってくるのも、
赤い舌を相手に見せることで相手の注意を引きつけるのが目的だと思う。

女の子が「ねぇねぇ」と相手の注意をこちらにむけようとするのも、
赤い舌を相手に見せるのが目的のような気がする。たぶん、はしたない意味で。

以上は僕が思いつきで語っている「トンデモ理論」なので、
あまり真剣にとられると困るのだけど、
縄文時代とか弥生時代の日本人が、今のヤンキーとか女子高生のような口調で喋ってたら、
それはそれで面白かろうし、表情も豊かだったんだろうなと、
消え去った過去の情景に思いをはせるわけなのだな。

 

2019年6月25日 (火)

雑文


「風の谷のナウシカ」
というと、宮崎駿が今ほど名前を知られていない時代の監督作品で、
公開は1984年ということになっている。

自分が高校生の頃だ。

これくらい昔の作品になると、自分が映画館で観たのかテレビで観たのか、
どんどんこんがらがってくるのだけど、
幸いにして映画のパンフがとってあるので、まあ映画館で観たのだなとわかる。
パンフの中の宮崎駿はヒゲも生えていないし髪も黒々として、
「昭和のおじさん」
という感じがプンプンとしている。

僕は原作の方を先に読んで映画を観たクチなので、
「なんか想像していたのと違う」
と不満たらたらだった。それでも当時としては最先端の日本アニメだったので、
映像作品としては今でも「すごいな」と思ったりする。
CGが今ほど発達してなかった時代に、努力と根性で未知の映像を作り上げたのは、
素直に感動する。
王蟲とか、後ろにゴムを貼ってあの奇妙な動きを作り出してんだよね。

冒頭の王蟲の抜け殻を見つけるシーンとか、結構好きだったりします。
「これだけでも持って帰れるかな」
と目の部分の周囲に火薬を振りまいて爆発させ、セラミック刀でカンカン叩いて、
その振動で小虫がいっぱい這い出してくるところとか、芸が細かい。
セラミックね、当時「旭化成」だかがその分野の最先端で、
NASAのスペースシャトルの外壁なんかもセラミックだったから、
なんかよくわかんないけど「固そうな物質」として認識され始めていた。

で、ナウシカさんはその透明な目の抜け殻を頭にかぶって、
森の胞子が降り注ぐのを見上げているってのも、詩的で印象的な場面だ。
……OUTか何かで「実はあれはウルトラマンのカラータイマーだった」
って素人ネタを見て、死んでるウルトラマンの顔が頭にこびりついて離れないけど。

そう、割とくだらないことを今でもはっきり記憶していて、
大切な部分とか作家の一番伝えたかったことは、頭からポロポロ零れ落ちてしまう。
だってもう三十年以上昔の作品だからね。

たとえば、風の谷のナウシカが初めて地上波で放送されたときのことだけど、
中日新聞のテレビ欄で作品紹介がされていたのだけど、
その紹介文が「ナウシカ村の少女が悪と戦う」というとんでもない文面で、
ほれ、宮崎作品と言っても今のような知名度はまったくなかったから、
中日新聞の担当者も適当にお茶を濁したんだろうね。
「風の谷のナウシカ」というのを、人名とは考えずに地名ととってしまった。
いやさ、それでも内容くらいちゃんと確認しろよと思うのだけど、
まあ、マスコミなんてそんなもんさと、十代にして悟りを開いた瞬間でもあった。
ナウシカ村……
悪と戦うヒロインの少女……
当時の一般の常識から見れば、アニメなんてその程度のもんだったんだよな。

いやさ、今NHKの朝の連続ドラマで「なつぞら」というのをやってるんだけど、
それがアニメ黎明期のスタジオを舞台にしているんで、
宮崎駿もああいう環境でアニメを作り始めてるんだよなと、いろいろ考えてしまった。
ふつうドラマと言えば色恋問題でどっかーんなノリなんだけど、
「アニメとは何か」
みたいなところに割と踏み込んでいたりするので、
朝っぱらからいろいろ考えさせられてしまうのだ。
あと、絵が下手くそだけど表現への情熱は強い主人公とか、
芸大出身で絵は上手いけど、そこで止まってしまう作画スタッフとか、
ドラマで出てくるアニメ作家の問題点がいちいち心に突き刺さってくる。

「アニメなんだから動かしてなんぼ」
というのは、宮崎アニメにある強烈な表現ポイントである。
紙芝居じゃないんだから、上手な絵とかお話の巧妙さというのは、
必要ではあっても絶対条件ではない。とにかく動かしてそこに生命感がうまれなくちゃ、
アニメじゃない。
空気が流れて大地が激動しなきゃ面白くない。
宮崎アニメが海外でも知名度が高いのは、動きが言語の壁を突き破ってるからだと思う。

まあ、そのためにお話の締め方が不自然というか、「お見事」ってのは、
「カリオストロの城」くらいしか思い浮かばないけど。

宮崎作品をまた見たいと思うのも、その動きの快感を求めてのことで、
これは麻薬とかに近いものじゃないかと思う。
そこがアニメ作家としての手塚治虫を凌駕している部分だとも思うけど、
もし、そういうものをすべてなしにして、単純に物語作家として考えると、
手塚作品のインパクトというのは、やっぱり大きいなと考える。
映画を観た後に頭に残るものが、あきらかに違っているのだ。

宮崎駿と手塚治虫は西遊記のアニメで仕事をしたことがあって、
物語を感動的にするために
「ヒロインを殺しましょう」
と発言した手塚に対し、宮崎駿は怒りを覚えたという発言があったと思うけど、
医者であり戦中派であった手塚治虫にとって、死の持つ意味が違っていた、
ということを、この頃の僕は考えたりもする。(手塚は死をメタファーにするより正面から扱った)

「作品を面白くするために人を殺すのは邪道だ」と言われればその通りなんだけど、
でも人間が死ぬというのは割と当たり前の自然現象なのであって、
「作家からすれば演出手段の一つ」と言われれば、それもまた正しい。

画面の中で動き続けようとする宮崎作品は、命を賛美し続けて尻切れトンボになるけど、
人の死を繰り返し問い続ける手塚作品は、死の向こうに光を見出そうとして、
ラストシーンに重い余韻を残すのだと、僕は考えるのだな。

「鉄腕アトム」しかり、「ジャングル大帝」しかり……
いや、どっちも死んでるのは人間じゃないという突っ込みはともかく。

2019年6月23日 (日)

ネコミミ


 1

ちょっと前に志賀直哉の作品をいろいろ読み返したりして、
今も机の脇に小品集が無造作に置かれている。
いや、単純に本棚に戻し忘れている。

先日新聞の訃報欄を読んでいたら、
「志賀直吉氏死去、元岩波書店常務、93歳」
という記事が目について、ああ、志賀直哉の小品によく出てくるあの子か……と、
倍近く齢上の人間を「あの子」呼ばわりする自分だった。

いやだってさ、小説家の志賀直哉がベットでアンドレ・ジード読んでたら、
そこにゴソゴソ入ってきて、
「水戸黄門」
を読み始めたあの子が大往生したのかと思ったら、感じるものがあるじゃないか。
そこまで長生きできて良かったなとか、お亡くなりになったのは寂しいな、とか。

御本人を知らない人間なので無責任ではあるけど、
父志賀直哉の目を通した愛らしい姿には何度も接しているので、
そのような感慨も抱いてしまうのは、まあ仕方がない。ご冥福をお祈りします。

訃報というのは不思議なもので、自分の頭の隅にある御尊名はなぜか目に入る。
お世話になった某編集長の名前も、新聞を広げた瞬間に飛び込んできた。
繰り返し愛読した作家の名前も、吸い込まれるように目に止まったりする。

訃報を読もうとして読んでいるのではなく、勝手に目が吸い付けられるので、
まるでその四文字か五文字の活字に命があるかのような、不思議な感覚に陥る。
こういうことはタブレットなんかでは経験がないので、
あるいは、活字独特の現象なのかもしれない。

バックライトで浮かび上がった文字と違って、
紙の上に印刷された活字には何かしら命のようなものが刻まれている感じがする。
群集の中であっても、自分を呼ぶ声はそれと聞き取れるみたいに、
そこには何か、霊的なものが宿っているに違いない。
……もちろん単なる錯覚の可能性もあるけど。

そういえば、ずいぶん昔だけど池袋周辺をぷらぶら彷徨っていて、
ふいと表札の文字が目に飛び込んできたことがある。
「横山光輝」
……鉄人28号や三国志などの名作で知られる超有名漫画家さんである。
御本人はその数か月ほど前にお亡くなりになっていたのだけど、
風景の中に突然出現したその御尊名は、強烈なインパクトを持って目を引き付けた。
文字の方で強引に僕の目を引っ張ったような感覚があった。

まさかそんなところにお住まいがあろうとは、まったく予期していなかったので、
ずいぶんビックリした。
門前で手を合わせて、立ち去ったのだった。

人の命は儚くとも、文字には不思議な生命力が宿るというお話なのでした。

 2

五月が「絶好調!」って感じだったのが、
六月になって少しばかり停滞していた。なんでかね、雨の日が多かったせいかもしれない。

あとあれだな、ずっと目の前で工事をしていて、ドリルの音とか掘削機の音とか、
ガガガガガと賑やかすぎた。花壇を粉砕してアスファルトをひっぺがして、
マンションの正面を美しくリニューアルする計画らしい。
自分が仕事とかしていて一番精神が集中するのが午前中だから、
その時間がまるまる工事現場の喧騒の中にいるみたいになった。

これが五月の末からずっと続いている。
いや、目の前の風景が見慣れない景観に変わっていくのは、ワクワクすることなんだけど、
精神の集中はやや阻害され、生活のリズムが微妙に狂い始めている。

昔は「バイオリズムがうんたらかんたら」と、人の気分を統計的に表現して、
その手の本がえらく売れたりもしたのだけど、その「バイオリズム」とやらが、
ここへきてどうも落ち込んでいるらしい。なんだろうね、バイオリズム。
マイナスイオンとか天中殺とか、ときどきわけのわからない用語がブームになって、
微妙にその時代の空気を表現していたりするのだけど、
バイオリズムははてさどの時代の用語だったか。

自分の気分が面白くないのはともかくとしても、人からその手の話を聞くこともある。
「先日アキレス腱を断絶しまして」
「なんと」
「山に登ってたらバチコン!とものすごい音がしたのです」
「それはまた、災難でしたね」
「二か月ばかり入院して、松葉づえ生活だったのが、ようやくギブスだけになりました」
……それでもこの税理士様は自転車に乗って仕事場まできてくださるのだな。
ありがたい話だ。

担当さんも風邪で二日ばかり寝込んでいたらしい。
「かわすみさんのネームが遅れてちょうど良かったですよ」
と明るい声でおっしゃる。
僕も調子を落としているところなので、マイナスとマイナスで上手く噛み合いました、
結果的にはみんなハッピーと、とても前向きな考え方なのだな。

「バイオリズム」とやらが落ち込むというのも、悪い話ばかりではない。
一度落ちれば、次は上昇の時期がやってくる。
半世紀近く生きていれば、そのへんの呼吸はずいぶんわかっていたりもするので、
「次はどうなるのかな」
と、状況を割と第三者的に眺めたりもする。先日財布を落としたときだって、
これは何か慶事の前触れだと、のん気に構えていたりした。

こういうのを昔の人はいろんな言い回しで表現しているものだけど、
キリストだったか、「一粒の種も死なずば」とかなんとか……
でもあれは当事者が死んでから後のことなので、あんまり有難みがないか。

「人間万事塞翁が馬」

やっぱりこの表現が一番しっくりくる。東洋の叡智だね。

 3

平成時代に一大ムーブメントとなったオタク文化だけど、
この頃はすっかり鎮静化したというか、
今「メイド喫茶」だの「秋葉原」だのと聞いても、一昔前の流行のような気がしてしまう。

……だからといって、今の流行の最先端が何なのか、さっぱりわからないのだけど、
今さらネコミミ少女とかゴズロリ美少女なんてものを出してみても、何か冴えない感じはする。

文化はその時代時代で一番お金を自由に使える世代を中心に展開する。
その論でいけば、今一番お金を握っているのは間違いなく老人世代で、
テレビをひねれば(この表現がすでに過去の遺物だが)健康器具やら青汁やら、
皇潤の宣伝が必ず目に入る。
オタク文化というのも今の四十代五十代が牽引していたものだと思うのだけど、
その世代がいよいよ枯れてきて、若い世代は趣味にお金を使う余裕はないときたもんだ。

いや、時代は新しい方向へ動いているのだと思う。
AIとか自動運転の車とか、無人のコンビニ、リニアモーターカーと、
なるほど新時代の予定表は「すごい時代になりまっせ」と大量の未来予測で埋まってる。
……ただその未来はすでに映画や漫画なんかで「先取り」された未来なので、
いまいち胸がときめかないというか、有難みを感じなかったりもする。

近未来SFというものが廃れて、物語の主題が日常的な方向に変わってきたのは、
この未来を先読みすることに対する「疲れ」みたいなものもあるんだろうなと、
なんとなく考えてみる。

僕はまあ、いつだってくだらないことを「考える」変な人間なのだけど、
先日は「ネコミミ」について、なんとなく考え始めてしまった。
動物の擬人化というのは、日本では「鳥獣戯画」なんてものがあるし、
エジプトの壁画を探れば「アヌビス神」なんてものもいるし、
地中海文明ではかの「ミノタウロス」が牛の頭の怪人として知られている。
でも、そういうものではなくて、人間の頭に動物の耳を生やすというのは、
実はけっこう画期的な発想なのではないか、これを始めたのはいったい誰だと、
……実にくだらないことを考え始めてしまったのだ。

自分の知る範囲だと、江戸時代の浮世絵にネコの耳を生やした女性の絵は存在する。
夜な夜な行燈の油を舐める猫の妖怪である。

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昔の油は魚から取っていたので、猫にはこれを舐める習性があったらしい。
で、人間の女が夜な夜な油をなめるという行動に出たら、
「あ、あれは猫の悪霊がとりついたのか」
となり、その絵画的表現として、猫と人間の中間の状態が描かれ、
「ネコミミ」が「爆誕」したのであった。
あくまで僕の勝手な妄想なんだけどね。

「でも西欧文化にだってバニーガールってうさ耳生やした女の人がいるじゃん」
と思いついて、調べてみたのだけど、
あれは実はつい半世紀ほど前に作られたものらしい。
アメリカのプレイボーイ誌が発案して、1960年にデビューさせている。
プレイボーイ誌のマスコットキャラがウサギなので、
それを象徴する記号という意味で、女性の頭にウサギの耳をのっけている。
雑誌のマスコットキャラはオスのうさぎという設定なので、
バニーガールの頭の上のうさ耳は、「オスのウサギのものです」と公式で宣言している。
つまり、あれは女性がウサギになってうさ耳を生やしているのとは、
微妙に違うのだ。

となると、女の子に動物の耳を生やして喜ぶなんて謎文化はいったい誰が始めたものか。
一番ありそうなのは手塚治虫大明神。なんせオッサンの頭にランプの灯をともして、
「アセチレンランプ」
なんてキャラクターを創造した人だから、どこかでネコミミ娘くらい作ってそうだ。

ああ、そういえば俳優の水谷豊のデビュー作としても知られる、
手塚治虫原作の「バンパイア」なんか、狼男の変身途中はネコミミみたいになってる。
狼男も「ネコミミ」のハシリかもしれない。完全に変化するとただの獣人だけど。

それが七十年代に吾妻ひでお先生あたりを経由して、

「ネコミミ娘」=「かわいい女の子」

という図式が作られたのだろう。
以上はあくまで推論である。本当のところはよくわからない。
何にしても、ネコミミというのはずいぶん不思議な文化だなと、しみじみ思うのだな。

 

2019年6月13日 (木)

縄文

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「遮光器式土偶を娘さんにしたらどうなるか」
というので書いてみた落書き。

縄文時代というと、自分にはあんまり知識がなかったりします。
「剣と鏡と勾玉」
みたいなイメージ。銅鐸があって、みんなでドングリ食べてる。

「芸術家」としてテレビで爆発しまくっていた岡本太郎さんは、
その著書で「縄文芸術は私が発見した」みたいなことを書いてたはず。
国立博物館に行ったら火炎式土器があって、
「なんだこれは!」
と目を剥いて絶叫したそうな。

……岡本太郎さんの「発見」は半分洒落みたいなもんだと思うんだけど、
半分くらいは「俺が縄文人のパッションを最初に受け止めた」という自負が
あったんだと思う。
なんにしても、土器とか土偶とか、デザインのセンスが独特なのは間違いない。

大阪の万博公園にある「太陽の塔」も、縄文人のパッションの延長線上に聳え立つ
「異形のデザイン」なのだな。
万博のシンボルを依頼された岡本太郎さんは、調和とか科学の進歩とか、
万博のコンセプトをぶっ飛ばして「これが日本人の精神だ」みたいなのをぶっ立てた。
よくわからんけど、なんか圧倒される。

まあ、僕のは作画作業が煮詰まって、土偶の写真見ながら描いた落書きだけど。

青森県の日本海側の駅で、遮光器式土偶のデザインを使った駅舎があったはず。
駅舎の外壁がまるまる遮光器土偶なのだ。一度その路線を使ったとき、
「あ、ここだな」と思ったんだけど、ちゃんとは見ていない。
機会があったら、再度訪れてみたいもんだ。

2019年6月 9日 (日)

マッハバロン

 

原稿でバイク屋のシーンがあって、看板に
「マッハバロン!」
と嬉々として描き込んだら、アシスタントさんが
「大丈夫ですか」
とものすごく冷ややかに突っ込んできた。
最初は「大丈夫、大丈夫(笑顔)」
と気にもとめなかったのだけど、
なんか権利関係とかどんどん不安になってきたので、
「……マッパバロンにしてください」
と変更してしまった。

「真っ裸の男爵」である。
まあそれはそれでスノップな感じがして悪くない、気もする。

バイク屋で有名な店というと、僕は「レッドバロン」が一番に出てくる。
「赤い男爵様」である。
「マッハバロン」はそれのパロディなのだけど、
僕の年代だと、「レッドバロン」→「マッハバロン」は特撮ネタになるので、
わかる人にはわかるカラクリになっていたのだ。

まあ、特撮には制作会社とか権利関係があるので、
ここの判断はアシスタントさんが圧倒的に正しい。
「ウルトラマン」ですら円谷プロにお伺いを立てなければ簡単には使えない。

と、ここまで考えて、
「ゴジラ」だとさすがにクレームは来ないかもしれないなと思いついた。
キャラクターとしてのゴジラは出せないにしても、固有名詞としてはフリーな気がする。
最初の映画が昭和29年だったから、権利関係が消滅してる可能性もあるけど、
まあ、それ以前にここまで知名度が世界レベルになってくると、
名前くらいは使っても大丈夫ってか、むしろなんで駄目なの?ってレベルになってくる。

でも「マッハバロン」は微妙というか、よくわからない。
担当編集さん的には「マッハバロンて何ですか?」みたいな感じだったけど、
いくら若い世代が知らないからって、半世紀近く前の超人気特撮ロボのタイトルを、
果たして出していいものかどうか。

なんてことを言ってたら、マッハバロンのオープニングが聴きたくなってきたので、
Amazonの定額配信で楽曲を探してみる。
……ない。
いや、辛うじてローリーさんが歌ってるバージョンはあったので、それを聴いてるし、
これで十分満足ではあるけど、やっぱ特撮ものって権利関係が難しいみたいだ。
いろいろ別の作品も探してみたけど、なかなか見つからない。
「ウルトラマンレオ」の最初のオープニングも、
……これは放送版なんだろうか、子供たちの合唱が入ってるからそれっぽいけど、
まあ、似たようなのがあればそれでいいかと無理やり納得してみる。
ヒデ夕樹さんさんのベスト盤を持ってるから、後期のオープニングはよく聴くけど、
最初の方のは子供の頃に聴いて以来、めったに耳にしない。
それが、この間散歩してたら横を通り過ぎた車がカーステレオで流していて、
「ああ、やっぱいい曲だな」
と再認識したのだった。後期のヒデ夕樹さんのも好きだけど。

ヒデ夕樹さんというと、昔キャプテンフューチャーのオープニングがこの方で、
子供心にも大好きだったのだけど、なんかタケカワユキヒデっぽいなと思ってたら、
放送途中からそのタケカワユキヒデ・バージョンに変更になってしまった。
なんでやねんとずっと不思議だったのだけど、
大人になってから知った話によると、作曲者の超有名御大、ルパンもやってる人だけど、
その方はタケカワユキヒデをイメージして曲を作ったのに、
いざ放送になったらヒデはヒデでも「ヒデ」夕樹だったので、激怒した、
で、制作サイドは平謝りしてタケカワユキ「ヒデ」さんのバージョンを録り直したらしい。
僕はヒデ夕樹のバージョンで繰り返し聴いたせいか、そっちが好きですけどね。

キャプテンフューチャーは宇宙を舞台にしたNHKの空想未来アニメで、
主人公は宇宙船の船長だったと思う。だからキャプテン・フューチャー。
昔のNHKのアニメは未来少年コナンとか、エステバンとか、名作が多いなぁ。
主題歌も力が入ってる。コナンは確かハネケンが作ってる。崎陽軒のCMの羽田健太郎。

「ニルスのふしぎな旅」って、主人公が小さくなって鳥に乗って旅する奴だけど、
あれの主題歌も、実は何気に豪華だったりする。
作曲がタケカワユキヒデで、歌が加橋かつみ、ザ・タイガースのトッポである。
大人になってから往年のGS(グループサウンズ)のCDを聴くようになって、
「おお、ニルスだ」
と感激したりしている。
「花の首飾り」はこの人が歌ったものだ。

「花の首飾り」は高校時代にラジオで「小堀勝啓のワ・ワイド」だっけ?
名古屋ローカルの番組でよく流れていた。
「GSア・ゴーゴー」って懐かしいグループサウンズを振り返る的なコーナーで……
いや、あれ「首の鼻飾り」ってギャグのネタにしてた気がする。
「花の首飾り」はザ・タイガースのファンの女の子が作詞した抒情的な曲で、
ぶっちゃけてしまえば七十年代初頭のメルヘン臭がすごいものだけど、
少女漫画的なムードを今に伝えるものとしては、かなり優れた曲だと思う。
歌声が綺麗だし。

なんか思いつくままダラダラ書いてしまった。
今部屋のBGMでヒデ夕樹の「力石徹のテーマ」が流れている。
これも大好きな曲なんだけど、
「めくらの星」という歌詞のせいか、知名度はいまいちなんだよな。
若くしてお亡くなりになってるし、いろいろ不遇な方だなと思う。
「ライオン丸」のテーマになった。これもスゴイ曲だよな。
僕が幼稚園くらいの時だ。

……オッサンの懐メロ話はなかなかに鬱陶しい、という話でした。


追記)

今、スパイダーマンのテーマが流れてるんだけど、
ヒデ夕樹ではこれも超有名な部類に入る気がする。
なんせスパイダーマンは今でも有名なキャラクターだし、
日本が子供番組として制作した「スパイダーマン」は
レオパルドンという巨大ロボを出したという点で、世界中から「変な作品」扱いされ、
今でも何かと話題が尽きない。
だって、アメコミヒーローのスパイダーマンがロボットで戦うって、
子供の頃にテレビで観てて「なんじゃそりゃ」だったもの。
でも、これがその後の特撮ヒーローもののロボット登場の先駆けになるんだよなぁ。

で、このヒデ夕樹さんの歌う「スパイダーマン」の歌なんだけど、
ところどころ外人さんの声で「スパイダマーン!」とか、「チェンジレオパドーン!」
とか合いの手が入るのだけど、最近ネットで、
「あれ、英語が喋れる役者さんが見つからなくて、フランス人なんだよね」
というのを知って、
フランス人が無理して英語で喋ってる不思議な歌だったかと、愕然としてしまった。

スパイダーマンというと僕はヒデ夕樹の歌と共に日本のスパイダーマンを思い出す。
特撮版は日本人スタッフが時代劇なんかで培った技をどんどこ投入して、
ビルを這いまわる「クモ男」を見事に再現していた。逆にこれがアメリカの映画にも、
影響を与えているらしい。

……そういえば子供の頃古本屋で立ち読みしてたら「スパイダーマン」の漫画があって、
「わーい」と読み始めたら、マンションの壁を伝って女の人の部屋に忍び込み、
〇〇〇を×××する変態クモ男の話で、
少年の自分は「怪しからん!」と怒りながら、最後まで読んだんだよなぁ。
七十年代は権利関係があやふやで結構無茶苦茶やってる作品が多い。

ある意味いい時代だったなぁと思う今日この頃。

2019年6月 4日 (火)

ニキ・ラウダ


そういえば何日か前にニキ・ラウダの訃報があったんだよね。
ニキ・ラウダ。自分はF1とかまったく興味がないにも関わらず、
この方のことはさすがに知っていたりする。
ほら、僕が子供の頃ってスーパーカーとかレース物のブームがあって、
「グランプリの鷹」だったかな、事故で火だるまになりながらも復活した奇跡の人って、
御本人をそのまんま登場させたりしていた。
「タイガーマスク」で猪木が出たり、「巨人の星」でONが出たり、
昔のアニメって有名人がよく登場していたのだ。
今だと「ちびまる子ちゃん」とか「クレヨンしんちゃん」がそれに当たるのかな。
でもあれはご本人が声を当ててることが多いと思うけど、
昔のは王貞治にプロの声優さんが声を当てていたりして、子供心にも違和感があった。
「猪木はそんな喋り方はしねぇ」
とか。

ニキ・ラウダはレース中の事故で全身火だるまになって、その火傷の跡があったもんで、
アニメの中では目明きのマスクをかぶっていた。デストロイヤーというか、
すけきよ?「犬神家の一族」の人みたいな感じ。
でもこれはアニメ独自の判断によるもので、実際は広告入りのアポロキャップだった。
御本人は火傷の跡にはあまりこだわっていなかったようで、頭だけ隠してたというか、
広告のためにかぶってたようである。

F1については本当に何の知識もないので、いちおうニキ・ラウダのウィキに目を通した。
オーストリアの資産家の息子だったらしい。親の反対を押し切ってレーサーになってる。
子供の頃から車を運転してて、地元の警察官に手を振ったりしてたけど、
その警察に免許を取りに行ったらめちゃくちゃ怒られた、というのがなんというか、
リアル花形満っぽくもある。巨人の星の花形ね。子供の分際で車乗り回してたけど、
よく考えるとお前無免許やん、と。私有地かと。
そのへん全部お前んちの私有地かと。

有名人のアニメ出演というのは昔はたくさんあった。
ザ・ビートルズですら、メンバー四人の出演するアニメ作品が存在する。
もちろん声はプロの声優さんで、本人たちは
「勝手に作れば?」
みたいな消極的なノリだったけど、あとで出来上がった作品を見て喜んだりしている。

ピンクレディーもブームのさなかには「ピンクレディー物語」というアニメ作品があった。
どうでもいい話なんだけど、僕は「頭隠して尻隠さず」という格言を見ると、
ミーちゃんが子供の頃注射が怖くて医者から逃げ回って、ベットの下に潜り込んだ場面を、
いまだに思い出したりする。声はもちろんプロの声優さんだった。

イギリスのダイアナ妃がチャールズ皇太子……いまだに皇太子なんだよなこの人、
その皇太子さんと結婚したときも、日本国内では特番アニメが作られてオンエアされた。
その後、チャールズ皇太子の年増好きとかいろいろ暴露され、
ダイアナ妃も離婚後に事故死してるけど、ご成婚の段階ではものすごい大ブームだった。
なんせリアルでシンデレラみたいなおとぎ話だったから。

そのシンデレラストーリーが彼女を殺したともいえるわけだけど。

アニメ化された有名人というと、大山倍達が自分たちの世代では一番有名かもしれない。
誰それ?と思う方も多いかもしれないけど、極真空手の創始者で、
昔は「空手バカ一代」というアニメの影響で超有名人だったのだ。
僕はそのアニメを物語としてしか見ていなかったので、
リアルに山で修行して片眉をそり落とす人がいるなんて、さすがに考えなかった。
というか、その場面しか記憶に残っていない。

むかしアシスタントしてた先生がこの方を神のように崇拝していて、
大山倍達の訃報が流れたとき、
「ショックだわー手塚治虫が亡くなった時よりショックだわー」
とおっしゃっておられたのを、ものすごく冷たい目で見ていた記憶がある。
悲しむのは構わないけど手塚御大を引き合いに出すなと。

とまあ、昔はリアルな有名人のアニメ出演はよくあった、という話なのでした。
いや、今でもその手の話題はときどき見かけるし、
最近リメイクされたタイガーマスクのアニメだって、ノリはまんま猪木の時代だった。
現役の選手がキャラクターとして出まくる、みたいな。

原作者の西村ミツル先生も、自伝と同じタイトルで漫画を発表してしまったから、
「漫画の大沢公と僕は別人です」
と繰り返し口にしてたっけ。
僕も西村さんと大沢公は別人という認識なんだけど、
御本人を知らないと「同一人物」と錯覚してしまうものなのかもしれない。
実際、ネタはリアルな体験をもとにしてた部分も初期には多かったし。

二回目のベトナム取材のとき、西村さんと担当さんとホテルのロビーにいたら、
白人の初老の男性とベトナム人のご婦人が入っていらして、
西村さんが
「ああ、あのお二人、アンダーソン大使夫妻のモデルになってる方達ですよ」
とご指摘されたときは、ちょっとテンションが上がった。

あれがハンバーガーが大好きなアメリカの青年とその妻か、と。

 

2019年5月28日 (火)

オジサンと昼間の空


朝目覚める時に「音楽」が頭のなかに流れていて、これ何の曲だったかなって、
ひたすら曲の正体を思い出しているうちに意識がはっきりしてくることがある。
なんせ目覚めの混濁した状態でのことだから、起きてしまえばすぐに忘れてしまうけど、
まれに曲の正体を思い出せないことがあり、起きてからでも考え続けていたりする。

今朝は少し事情が違った。
曲は知っているのだ。でも歌っている人の名前が出てこない。
もうずいぶん前にお亡くなりになっている方で、元はコメディアン。役者でもあった。
その方が「いかにもそのへんのオジサン」って感じで歌ってるんだけど、
めちゃくちゃ美声で、オジサンなんだけど少年のようで、
昭和の真面目な学生が腹式呼吸で歌っているような感じがして、カラオケっぽくもある。
「お父さんも何か歌いなよ」と娘息子にマイクを強要されて、
歌わせてみたらめちゃくちゃ歌が上手かった、いや上手いどころかスケール感がすごくて、
まさにこれまでの人生が「醸し出されちゃった」的な歌い方なのである。

この曲をその方の歌で聴くと、昭和の風景が陽炎のように蘇ってくる。
生前は日本の方なら誰だって知ってる有名人で、その人柄が愛されていたのだけど、
今になって考えてみるとずいぶん不思議なキャラクターだった。
地味なのに、地味じゃない。存在感が確実に常人じゃない。
この方を相方に選んだ萩本欽一さんは見る目があるというか、むしろ欽ちゃんラッキー!
「ボクが成功したのは二郎さんのおかげだよ」とインタビューで答えていたような……

坂上二郎さんだ。

この方は晩年は脳梗塞か何かで常に水を飲んでいなくてはならなくなって、
バラエティでもペットボトルをスタジオに持ち込んで、
オンエアー中もよく飲んでいらした。
それが2011年の3月10日にお亡くなりになって、日付が日付だけに意識から消えた。
いつの間にかいなくなってしまった昭和のタレントさんになってる。

曲はユニコーンの「デーゲーム」坂上二郎バージョン。
発売当時は「なんで坂上二郎?」だったけど、聴くほどにそのスケール感に圧倒される。
最後のフェイズで歌が楽曲からはみだして広がっていく感じは、奇跡的ですらある。
なんせ、二郎さんはもともとは歌手を目指していらしたはずである。
それが萩本欽一さんに懇願されて「コント55号」でコメディアンとして出てこられた。
萩本欽一さんは僕らの世代にとってはドリフと双璧をなすお笑いの王様だけど、
その強烈な個性を完全に包み込んでしまうような人柄の大きさが、二郎さんにはあった。

曲はユニコーンの「ベスト盤」ではなくて、「ベリーラスト」の方に入っていたはずだ。
……諸般の事情で今手元にないんだけど、たぶん配信で聴けるんじゃないかな。

目覚めに坂上二朗さんの声が鳴り響くというのは、何気に心地よかったりするのだな。

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