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2018年6月20日 (水)

パタリロの第40巻が大好きだ、という話


本棚の大移動もようやく落ち着いてきたのだな。

自分はかなり本を持っている方だとは思っていたのだけど、
実際に箱に詰めたり担いで移動したりしていると、
「きゃははは」
と頭の回線が切れて笑ってしまうくらい、無尽蔵に本が存在している。
いったいいつ読んだんだろうと疑問に思うのだが、
どの本にも見覚えがあり、モノによってはそれを本屋で買った時の情景まで、
はっきり記憶していたりする。

岩波文庫で「セザールフランクの生涯」昭和20年代の発行で、すでにしてボロボロ。
名古屋にいた頃からずっと探していた本だったので、東京古本屋で目にした時、
「!」
となった。頭で理解するより先に目が釘付けになったというか、
視線が背表紙に吸い込まれたというか、
ああ、本好きの人が本に呼ばれるってこういう感じを言うんだろうなと、
その時しみじみと思った。値段を見たら600円だったので、
「安い、この店の店主は見る目がない、僕の勝ちだ」
とよくわからない勝利に酔いしれ、レジでふんぞり返ったことも、はっきり覚えている。
内容はフランスの作曲家セザールフランクの生涯を、
弟子のヴァンサン・ダンディが書いたもので、ダンディが恩師を必要以上に持ち上げ、
神様のように持ち上げてしまったために、評伝としての評価は低い。
むしろ「フランク教」の教典としてイロモノ的に楽しむもの。
だからまあ、これを喜んで買う人はものすごく少数だとは思うんだけどね。

小川国男さんの随筆集があり、パラパラと読んでいたら、
学生時代に色画用紙で作ったしおりが挟んであった。
どこへやったのかと思っていたら、こんなところで眠っていたのかい!と、
感慨深くながめる。
確か、修学旅行か何かで関東方面に行ったとき、箱根の寄木細工を実際に目にして、
「何か無駄に手先を使うようなものを作りたい」
と衝動にかられ、作ってしまったのものだと思う。
赤と黄色の色画用紙を組み合わせて、織り込んである。
二十代の前半くらいまではしおりとして活用していたのだけど、その後行方不明になった。
三十年以上前のものなので、黄色い画用紙に赤い画用紙の色が移っている。

パタリロの第40巻。
現在100巻近くまで続いている有名な漫画だけど、僕はこの40巻が大好きで、
これだけ別にしてあった。
別にしてあったためにしばらく行方不明になってしまうというのは、、
まあ割とよくあることだよね。本棚の裏に落ちていた。
この40巻はパタリロの中でも異色作で、基本的にパタリロは出てこない。
「出てこない」という設定になっている。
実際は国王パタリロが単調な生活に飽きて、変装して日本で発明三昧のバカンスを過ごす、
という内容である。だからシバイタロカ博士は出てくるけど、パタリロは出てこない。
僕がなんでこの巻が好きかというと、パタリロなのにこれ、ラブコメなのである。
気の弱い高校生と、世話焼きの幼馴染、クラスのマドンナ、かわいい妹と、
ラブコメの要素がこれでもかとぶち込まれている。
「魔夜峰央がラブコメを描くとこうなります」
という実験を、先生本人がオチャラケてやってしまった!という作品なのである。
しかも、ラブコメとしての完成度もかなり高い。一巻でのなかで綺麗にまとまっている。
なんなら前後関係なく、この巻だけ買っていただいても問題はない。
パタリロがマリネラの国王で、英国情報部にバンコランというスパイの知り合いがいて、
そのバンコランが視線だけで美少年を落とす「美少年キラー」だとわかっていれば、
十分に楽しめる。
最近「飛んで埼玉」が話題になってその才能がますます注目されている魔夜先生だけど、
これも同じくらい……いや、正直に言ってしまえばそれ以上に楽しい作品だと思う。

そういえば最近、今やってる旅打ち漫画でタイラさんのお母様を描くとき、
担当さんに「顔に母と文字を書くと魔夜峰央っぽい」と話題にしたのだけど、
その出典はこの40巻である。何がそんなに魔夜峰央っぽいのかというのは、
読んでいただければわかる。あのネタは至高である。

魔夜先生というと、中学の頃クラスメートの水野君に「面白いよ」と紹介されているから、
もう40年くらい読み続けていることになる。初期パタリロとラシャーヌは、
読んでいて床の上を転がりまわるくらい笑った。こんなに面白いものがあるのかと、
目から鱗が落ちて背中で割ってしまうくらい、転がりまくった。
中学生になって一時期漫画から離れて小説ばかり読んでいたのだけど、
再び漫画の世界に嵌るようになったのは魔夜先生の責任である。
それと「ガラスの仮面」……どちらもいまだに完結していないというのは、
さすがに中学生の自分には思いもよらないことだったのだな。

他にもいろいろな本が再発見され、再び読書欲が目覚めている自分なのだけど、
そうなるとまた部屋に籠りきりになってしまいそうで、健康には良くないなと、
考えてみたりもするのだな。

2018年6月10日 (日)

ぺぺんぺんぺん

 1

またもや絵について語るわけだけど、
いいかげんうざいと思うので、興味のある方だけ読んでくださいませ。

ルネッサンス期に「絵と彫刻はどちらが上か」という論争があったらしい。

そんなのどうだっていいような話なんだけど、
美術に造詣の深い方々が頭を突き合わせてさんざん議論した結果、
「絵の方が上である」
という結論に達した。

彫刻家が聞いたら怒り出しそうな話なんだけど、
「彫刻は3Dを3Dに移し替えるだけだが、絵は3Dを2Dにしている」
というのがその理由らしい。
作業工程が一つ多いのだから、絵の方がより高度な芸術だと判断されたのだ。

本当にまあ、絵に興味のない人にはまったくどうでもいい話なんだけど、
この話が正しいのかどうかはともかく、絵がどうやって生まれたのか、
そのヒントみたいなものは、このルネッサンス期の挿話から読み取れる。
少なくともルネッサンス期のイタリア人にとって、絵画は彫刻の進化系だったのだ。
ミケランジェロのような彫刻家が、彫刻の技法を二次元に持ち込むことで、
絵画はより写実的になった。
持ち運び可能なペッタンコの彫刻として、絵画は誕生したのだと思う。

ペッタンコの彫刻というと「レリーフ」が頭に思い浮かぶ。
有名なのだと金貨や銅貨の盤面に皇帝の横顔を彫像したもの。
キリストが「カエサルのものはカエサルに!」と言ったあれである。
二千年前のローマのコインには皇帝の顔が浮かび上がっていた。

インド文明やエジプト、ギリシャローマ文明では、壁面にレリーフを施すことが多い。
僕は子供のころ、レリーフの中途半端な立体感がものすごく気持ち悪くて、
なんであんなことをするのだろうとものすごく不思議だった。
横から見たら顔潰れてるじゃん。

日本にも欄間の彫刻とか、漆喰画で同じように潰れた立体物がある。
日光東照宮の左甚五郎の彫刻は、西洋で言うところのレリーフである。
見ざる聞かざる言わざるのお猿さんは、横から見ると潰れている。

ああいう中途半端な立体物というのは、絵画が写実的になるための前段階で、
あれをさらにペッタンコにしたのが、ルネッサンスの絵画なんじゃないかなと、
僕はこの頃考えているのだ。

……何が言いたいんだお前は!と怒られそうだけど、
彫刻の進化系が絵なんだという考え方は、僕には今までなかったものなのだな。
不勉強なだけなんだけど。

彫刻家がペッタンコの彫刻を作ろうとして、それがとことんまでペッタンコになれば、
紙とかキャンバスに線を引いたり、絵の具で色を塗るようになる。
彫刻刀では絵は描けない。
そこで彫刻刀を筆やペンに持ちかえるわけだが、やることは基本的に同じである。
立体物を紙の上に思い浮かべ、形を抉り出す。
彫刻と違って見る者の視点は限られてくるので、「パース」という概念が生まれてくる。
透視画法の理論が確立される。

ルネッサンス以後、絵画というのは星の数ほど描かれてきたので、
それがどれだけ画期的なことだったのか、21世紀の僕たちにはわかりづらいのだけど、
「紙の上に立体物がある」という絵画の技法は、
それは人類史上における、ものすごい発明だったんじゃないかと思うのだな。

 2

日本人にはそこのところがちょっとわかりづらいのかもしれない。

西洋の漫画やアニメ作品を見ていると、日本とのあまりの違いに驚かされる。
一番大きな違いは、西洋人がキャラクターを立体的に描写するのに対して、
日本人は、キャラクターを線で認識するという点である。
最近は慣れたけど、トイストーリーなんかの立体的なCGアニメーションが苦手だった。
アニメは線で動かして欲しいと切実に願った。

このへん、線で絵を認識する日本人と、立体としてとらえようとする西洋人の、
絵に対する嗜好の差がはっきり出ている。
あんまり突っ込んで考えると、漢字を使う東洋人とアルファベットの西洋人とか、
いろんな要素が入り組んでいて、よくわからなくなってくるのだけど、
日本人は漢字の延長線上で記号としての絵を認識するのに対して、
西洋人はあくまで彫刻の延長線上に絵を考えているというのは、あるのかもしれない。

実際、僕は漫画の絵を記号として考えていたので、
下書きにペン入れするときにえらい難儀をした。
いっそ筆で描いた方が楽なんじゃないかとも考え、実践しようとしたこともある。
僕は筆で文字を書くやり方でもって、下書きにペン入れしようとしていたのだな。

でも、そこが割と落とし穴だったのだ。
漫画の絵が今日のように完成されるまでの歴史を考えてみると、
明治期に美術大学で西洋絵画を学んだ人たちが基礎的なやり方を作っていたりする。
一番有名なのは岡本太郎のお父さん……でいいんだよな……の岡本一平氏で、
美大で絵を学んだ人が漫画家として大成し、インクとペンの技法を持ち込んでいる。

そのやり方は当然「彫刻の技法」の進化系であって、
下書きにペン入れするというのは、彫刻刀で立体を抉り出すのと、ほとんど同義なのだ。
線を引くのではない。線で立体を抉り出すのである。

下書きをして、その線を「清書」するのではなく、
下書きでおおよその形を把握して、刃物であるペンで立体を彫塑するのである。

僕にとって下書きは消しゴムで修正可能なペンのラインに他ならなかった。
特に三十代前半までは立体に対する認識なんてほとんどなかった。
だから、目を描いても目の形を線でなぞっているだけで、
上瞼のラインと下瞼のラインがまったく同じ線になってしまうため、
下瞼のラインは省略せざるを得なくなったりした。
(漫画絵で下瞼のラインを省略する作家が多いのはそのせい。鼻の穴も同じ理屈)
出版社で編集さんに
「下の瞼のラインもちゃんと入れてください」
とアドバイスされ、入れたら絵が大混乱!なんてことも起こったりした。

上瞼のラインは下から抉り出すラインだし、下瞼のラインは、上から抉り出すラインだ。
  →→
 / ◎ \  ←目
  ←←
彫刻家ならば当然彫刻刀の角度を変えるところだけど、発想が書道だと、
口の文字の書き順で横棒を引いてしまう。

ことほど左様に、ペン入れというのは彫刻家の技法が多く用いられている、
と僕は思う。

「手癖でペン入れするとおかしな絵になる」
「立体を頭の中でイメージしながら、下書きをペンで彫塑しなくては」
と、このことにようやく思い至ったのが、漫画家生活十五年目くらいだったりする。
なんつーか、もうね、独学で絵を勉強すると、いちいち遠回りをする羽目になるのだな。

えらく読みにくい文章だと思うけど、実は自分の絵について愚痴ってるだけなので、
あんまり得るところはないかもしれない。
でも、発想の転換はどこかで必要になるんだ、みたいなことは、
わかっていただけるんじゃないか、わかってもらえるとうれしいな、
とまあ、そういうお話なのでした。

2018年6月 5日 (火)

あじさい

五月が終わり六月になって、紫陽花のガクも大きく膨らみ始めている。
もうすぐ紫がかった赤っぽい色がついて、雨に鮮やかに映え渡るようになる。

アジサイを「紫陽花」と書くのは日本だけらしい。中国ではそうは書かない。
「斗球花」とか「八仙花」の文字を使う。
……慣れもあるんだろうけど、「紫陽花」の表記は秀逸だなと個人的には思う。

日本人はすごいな、偉いなと右曲がりに喜んでみるけど、
実はこれは平安時代の日本の学者の早とちりが原因らしい。
白居易の漢詩にあったのを、アジサイのことだと勘違いしたのだ。
実際はライラックのことではないかと言われている。

今さらそんなことを言われても「紫陽花」で刷り込まれたイメージは取り消せないので、
日本人は千年この方、この漢字を使い続けている。
いいじゃん、紫陽花。もうこの漢字を見るだけで雨の中に咲きほこる花が見えてしまう。

人生はたいてい思い込みと勘違いで作り上げられてしまう。

またしても本棚の話だけど、一つの本棚を丸まる開放して、
そこに「ガンダムA」をぶち込んだのだ。

なんのこっちゃ。

2001年ごろに機動戦士ガンダムをコミカライズしようという動きがあり、
最初は講談社に話を持ち込んで、のちに角川がこれをメインにした雑誌を発行した。
題して「機動戦士ガンダム ジ・オリジン」である。
漫画執筆をアニメーターでもある安彦良和先生が担当されると聞いて、
僕は狂喜乱舞した。ガンダムのキャラデザで作画監督の安彦先生が漫画を描くのだから、
これはもう、ほんまもんのガンダムである。
雑誌は六年間、毎月発行されるとのこと。これはもう、買うしかない。
買って安彦先生の神がかった描線をじっくり堪能しようと心に誓った。

安彦先生の名前は物心ついた頃から認識していた。
勇者ライディーンとか、ろぼっ子ビートンとか、洗練されたキャラデザに魅せられた。
千代田橋のユニーに映画の宣伝でやってくると聞けば、小躍りして出向いたりした。
クラッシャージョウはミネルバのプラモデルを作っちまうくらい、のめり込んだ。
あんな風にスラスラ絵が描けるようになりたいな、神様だなと思ってた。

その熱狂が去り、懐かしく思い出すようになるのが三十代になってからで、
その時期にこの企画を立ち上げるというのは絶妙だし、ずるいと思う。
僕は毎月買ってきた「ガンダムA」を堪能し、安彦絵に酔いしれ、
その分厚い雑誌の処分に窮した。
捨てられないのだ、「ガンダムA」。

安彦先生の絵を資源ごみとして廃棄することがなぜできるだろうか。

幸い、うちにはかなり広大な収納スペースがあったので、
雑誌はそこに押し込まれることになる。なに、たったの六年だ。
余裕で収納できるはずだ。番外編でも始めない限り、余裕のよっちゃん♪

シャア・セイラ編始動!(笑)

幼いシャアとセイラ、キャズバルとアルテイシアのお話は、そりゃ見たいさ。
ランバラルとハモンさんの馴れ初めも、おお、こうであったかと楽しませていただいた。
でも一年戦争開戦まで続くこの番外編が、雑誌の量をどんどん増大させていく。
仕事場のあちこち、ソファーの上から机の下まで、雑誌がどんどんたまっていく。

連載は結局、十年間続いた。

押し入れやらあちこちに乱雑に積み上げられたジ・オリジンは、もちろん順不同であり、
たまに手に取ると、ジャブローでズゴックが暴れていたり、
別の雑誌では「マチルダさぁあああん!」とアムロが絶叫していたりする。
最初からちゃんと読みたいと思っても、創刊号がどこにあるのかわからない。
いっそ単行本を買って雑誌を捨てるか?とも考えたけど、
アムロのパンツの柄が変更される前の雑誌版は、貴重と言えば貴重なのだ。
(ミライさんの服の柄と被ったとか、そんな理由で変更されたはず)

で、ゴールデンウイークから進行していた本棚大整理作戦の終盤メインとして、
本棚一個丸まるガンダムAを並べることにした。

そのために不要な雑誌やら旅行ガイドブックを大量に破棄。
狭い我が家の本の占有率を無理やり引き下げる。
ゼクシイとか、なんでいまだに取ってあるんじゃい!と苦笑しながら、
まとめてポイする。たぶん本棚一つ分くらいはスペースが空いたはず。

かくして、すべての雑誌を順番通り並べ切ったのであった。

ずらっと並んだガンダムAを見ながら、僕は思うのだ。
おまえ、本当にそこまでガンダムが好きなのか?と。
単なる思い込みなんじゃないか、と。

ふと記憶がよみがえる。中学生の頃ガンダムの再放送を見ていて、
それはシャリアブルの回だったのだけど、
亡き父が後ろから覗き込んで、
「それ、何が面白いんだ」
と真顔で聞いてきたのだ。

いや、シャリアブルの回はニュータイプの話の説明回みたいなものだし、
安彦先生は過労で倒れて入院中だから、作画もけっこういいかげんで……と、
中学生の自分は必死に言い訳しようとしたけど、まあ、
面白いかと言われれば、けっこう微妙な回なんだよな。ひたすら宇宙空間だったし。

しかし父よ!今やお台場にUCがそびえ立ち、日本人でこれを知らない人はいない。
「これはとてもいいもの」なのだ!(塩沢兼人の声で)

そこでようやく最初の話に戻るのだけど、
人生はたいてい思い込みや勘違いで成り立っている。
アジサイは紫陽花であると千年以上誤表記され続ける。

でもそれが人生なのだと開き直りつつ、
僕は「ガンオタの女」を掲載順に読み進めるわけなのだな。


2018年5月31日 (木)

本棚


三十年くらい買い続けていた雑誌があって、大半がストックしてあるんだけど、
それを二十一世紀に入ってからの分だけでも本棚に収納しようと思い、
本棚の本を移動させたり、不要なものを処分したりと、
今週はそんな感じでのんびり過ごしている。もちろん仕事はしてますけど。

仕事場に二つの本棚があるんだけど、その下から二段目の段を空にして、
横160センチくらいずらーーーっと雑誌を並べてみた。
壮観。
しばし達成感に酔いしれる。

入らなかった雑誌も同じぐらいの量放置されているんだけど、
これはどうしたものか。パラパラめくってみる。
お、鉄道写真家の広田尚敬先生が奥様と連載をしているではないか。
広田先生の奥様はハーブの研究家なのだった。
植物について書かれた文章に先生が写真をつけておられる。
夫婦でこんなお仕事もなされていたのか。
もう一度ちゃんと読み返さなくては。

僕が読んだ回はニラについて書かれたものだった。
ニラというと餃子とか最近になって使われるようになった野菜のイメージがあるけど、
実は違う、大昔から日本にはニラがあった。滋養のある薬草だった、
みたいなお話。なるほどなぁ、確かに古い日本のニラ料理って、なんかイメージできない。
どうしても、餃子とかニラレバ炒めが頭に浮かんでくる。

なんだかニラが食べたくなってきた。

本棚の整理というのは五月に入ってから断続的にやっている。
ゴールデンウイークはひたすら本に雑巾をかけていた。
僕は煙草を吸う人なので、本の背表紙のあたりが茶色くなっているのだな。

高価な本はカバーに特殊なコーティングがされているので、たいてい一拭きでとれる。
文庫だと取れないものも出てくる。
でも中公新書と中公文庫は一発で取れた。
なんて読者思いの出版社なのだろうと、改めて感心したのだった。

まあ、茶色く変色してしまうのも味っちゃ味なんだけどね。
川端康成の雪国なんか、新潮文庫のを十代の頃に買っているんだけど、
さすがに八十年代だとまだフォントが小さめで、紙質も酸性紙で茶色くなっている。
煙草に燻されて妙な風格が出ている。
でも昨年読み直した時は案外気にならなかった。むしろこういう昔の小説だと、
新しくて現代的なフォントや紙質の方が違和感がある。

煙草の煙に燻された本も、自分と一緒に数十年を過ごしてきた証であるし、
そう考えると、ただの汚れとは思えず、愛着は増していく。
それに新しい本よりも、古い本を本棚に並べてみた方が、
部屋の景観は落ち着くし、居心地は良くなるのだな。

ふと、目の前の景観が昭和の本屋の中みたいだなと考える。
小売りの本屋は近所から完全に消えてしまったので、
もう身近だと自分の部屋でぐらくしか、こういう感覚は味わえない。
なんだか本屋の親父になったような気分だ。
万引きもないし、立ち読みする人もいない。というかお客がいない。
そういう本屋で漫画を描きながらのんびり時間を過ごしていくというのは、
ある意味で僕の理想の人生なんだろうなぁ。

2018年5月25日 (金)

机は画材なのだ!


クイーンのロジャー・テイラーだったかな、
ドラムをセッティングするとときにものすごく微妙な位置調整をやっていて、
その姿を見たギターのブライアン・メイが、
「わ。なんか、ものすごいプロっぽいのが来た」
と感動したって話があった。
デビュー前のドラマーのオーディションの話だと思う。

ギターは座るにしても立って演奏するにしても、あんまり位置の微調整はなさそうだ。
でも職種によっては、椅子の位置とか机の角度とか、めちゃくちゃこだわるものはある。

僕はいちおう漫画家なんてやってるんだけど、
机の位置や椅子にはそれなりにこだわっている。
実は今月に入ってから机を取り換えて、一日がかりで微調整をやっているのだけど、
これが奇跡的に、ベストな調整が出来てしまって、
タイラさん旅打ちの五回目はそれで描いた。

問題は、ノートパソコンのタッチタイプが出来なくなってしまったことである。
何が違うんだか、肩が凝って集中力が続かない。
かといって絵を描く方は何の問題もないので、今さらパソコン用にいじることは出来ない。
それで今床に仰向けになって、立膝をして、そこにパソコンを置いて打ち込んでいる。
いろいろ試した結果、暫定的だけど、これが一番文章を書きやすい。
モニターが遠いので変換の文字がよく見えんけど。

話を絵の方に戻すけど、絵を描くときは割と全身を使って描いていたりする。
みなさんにしても、文字を書く場合、けっこう全身の筋肉を使って書いてると思う。
その力は滅茶苦茶すごい。昔、数年間お世話になったアシスタントさんがいたのだけど、
その人は椅子の上で胡坐をかくタイプの人で、絵を描くときに足を踏ん張るせいか、
見事に椅子に二つの穴が開いてしまっていた。

そういう全身の力を机の上の紙の一点に集中するわけだから、
当然机や椅子の微妙な調整が必要になってくる。
大砲をぶちかますために砲身の土台固めが重要なのと同じことだ。

漫画家さんでも、アーロンチェアだったかな、十万円くらいする椅子を使う人が多い。
昔、アシスタント先の先生も使ってたな。
この先生のところにはいろんな種類の椅子があって、さんざん試行錯誤したんだろうなと、
妙なところで感心させられてしまった。
まあ、僕は正座の一歩手前みたいな変な姿勢をさせられる椅子をあてがわれて、
ちょっと迷惑だったけど。
あれも先生が絵を描くために試したものであるのは間違いない。

つまるところ、椅子に座って、鉛筆も持って、
一番きれいな丸を描けるポジションに机の天板があること、
それがもっとも重要なのではないかと考える。
どのカーブにも均等に力が振り分けられて、コンパスのようにきれいな円が描ける姿勢、
それを長時間維持できること。

画家がイーゼルを使って画版を縦に固定させるのは、
それが一番円を描きやすいからだと思う。
漫画家さんでもそうやって描いている人がいる。
実はアシスタント先の先生のところにもそのための机があったのだけど、
あの先生は結局机の上で水平に絵を描いていたなぁ。
人それぞれで、いろんな描き方があり、みなさん苦労してベストな姿勢を探しているのだ。

ここでふと閃いた。
浮世絵師の葛飾北斎は、生涯に何十回も引っ越ししまくった引っ越し魔だったのだけど、
あれって、絵を描くための絶好のポジションを探していただけかもしれない。
なんせ、絵にこだわりまくった画狂老人卍先生なわけだから、
「柱の位置が気に入らねぇ」とか、
「天井が低すぎて絵がゆがむ」
くらいのことは言い出しかねない。
江戸時代の北斎にとって、家そのものが机や椅子に相当したってことは、
割とありそうだなと思う。

「なにを神経質な」と笑われるかもしれないけど、
それくらい、絵を描く人間にとって、机と椅子は重要な「画材」だったりするのだな。

2018年5月12日 (土)

チュッパチャプス


人間を長くやっていると、いろいろな「コツ」が身についていたりする。

うどんを茹でるときに「びっくり水」をいれるとか、
ポテトサラダのジャガイモは砂糖を加えて茹でるとか、
人間関係でも、否定的な言い回しはなるべく使わないとか、
知識として本で読んだり、長年の経験から習得した技術もある。

絵を描くときにもいろいろな「コツ」がある。
顔を描くとき「十字線」を入れる、みたいなのは割と有名なんじゃないかな。
僕は入れないけど、丸を描いて、十字線を入れると、なんとなく顔っぽくなる。
このとき横線より下に目を入れると、子供っぽい顔になり、
上に入れると大人の顔になる。

絵を描く人はたいてい頭を丸として認識している。
丸に首が生え、胴体とつながっているというのが、人体の基本認識である。
だからまあ、絵を描き始めた十代の頃なんかは、
一生懸命「頭」ばかりを描いているのだな。顔を描くのは上手だけど、
体を描かせるとおかしなことになるという人も結構多い。
僕の身近にも何人かそういう人がいた。

顔から体が生え、手足が生えているから、遠くの部位になるほどデッサンは崩れる。
そこでいろいろ絵の模索がはじまるのだけど、
逆転の発想で「胴体から頭が生えていると考えた方が絵が描きやすいんじゃないか」
とはなかなかならない。冷静に考えれば当たり前のことなんだけど、
「頭→首→胴体」というのは描きたい部位の優先順位みたいなものだから、
どうしてもそうなってしまう。

少なくとも、絵を描きだすときに首のだいたいの位置は決めておいた方がいい、
というのがこの頃の僕のやり方で、二本の縦線を引いてから、
頭のだいたいのラインを引いて、それから目鼻を描くようにしている。
イメージとしては、チュッパチャプスを描いて、その棒を握りながら、顔を描く、
みたいな感じである。

このやり方にしてから、いろいろな発見があった。
顔の左右のバランスはこのやり方の方が圧倒的にとりやすい。
左右の目のバランスが狂うと、変な表情になってしまうのだけど、そこはなんとか解決。
あと、あごの描き方が劇的に変わる。
頭を丸として認識すると、あごは球体の下半分って考え方だから、
どうしても頭頂部の影響を受けて丸っこくなってしまう。
でも首の位置を先に決めてしまうと、あごは体から生えている一つの独立した部位になる。
頭の部品というよりは、首とか胴体の側の部品なのだと思う。

と、これがここ一か月くらいの僕の絵を描くときの「コツ」だったりする。
絵を描かない人には本当にどうでもいい話なんだろうけど、
「人間の顔は球体として認識するよりも、チュッパチャプスと考えた方が描きやすい」
というのは、僕には割と「大発見」だったりするのだな。

ところでチュッパチャプスとは何か。
僕が子供のころ、お隣が煙草屋さんで、菓子パンとかお菓子も売っていたのだけど、
ある日、スタンドに大量の飴玉が突き刺さった謎の物体が出現した。
棒に飴玉がくっついているのが大量に密集して、ハチの巣のようだった
「おばちゃん、これ頂戴」
と一つ買って食べてみたのだけど、それが僕とチュッパチャプスの出会いだった。
たぶん七十年代の後半ごろだと思う。

元々はスペインのお菓子で、あちらは第二次世界大戦前からフランコ政権が続いており、
長い間独裁国家だったのだけど、フランコ自身はかなり良識ある独裁者だったようで、
「自分が死んだら王政復古が望ましい」と、およそ独裁者らしからぬことを考え、
その通りに実行した。1975年にスペインは立憲君主制の国家となった。

以後、スペインの商品が世界中で展開されることになるのだけど、
僕が煙草屋さんで出会った「チュッパチャプス」もその一つで、
このキャンディはCMでの宣伝効果もあり、今に生き残る定番商品となっていく。

僕は「チュッパチャプス」というと、
あのハチの巣のようなスタンドディスプレイを思い出して、
「外国からきたオシャレなキャンディ」とイメージするのである。

そう言えばもう長いこと食べてないな。
大きな飴玉は口に入れると邪魔だけど、棒をつければ食べやすくなる。
飽きたら一度口から取り出すことも出来る。
昔はそういうお菓子がいっぱいあったような気がするけど、
一度口にしたものを取り出すのが汚いせいなのか、見かけなくなった。
棒付きの飴というと、鳴門巻きみたいなのがあったけど、
あれもまったく見かけなくなった。

チュッパチャップスは近所のスーパーで売ってるので、
今度買ってみようかしらん。


2018年4月30日 (月)

セピア色

普段、お酒はあまり飲まないのだけど、ゴールデンウイークたけなわの昨今、
ちびりちびりと梅酒を飲んでいる。
この頃の都内は晴天に恵まれ、歩道わきのツツジの花も鮮やかな色彩が目に痛いくらいだ。
すでにして、半袖の人も大勢歩いている。まさに汗ばむ陽気というやつ。
こんな気持ちのいい日にさわやかな梅酒というのは、まんざら悪くもない。

なんでまた梅酒なのかというと、仕事場を少し整理していて、
古い新聞の切り抜きを発見したのだ。たぶん十年くらい前のもの。
毎日の新聞に目を通していて、自分の興味のあるものが見つかれば、とりあえず切り抜く。
そのうち何かの役に立つだろうと思ってのことだけど、その時は内容も覚えているのに、
五年、十年とたつうちには、そんな切り抜きがあったことですら、忘れてしまう。
「いったい何のために切り抜いているんだか」
という話なのだけど、まあこうして何年か経って読み返す機会もあるわけで、
まったく無意味ということも、なかったのだな。

その切り抜きは、
「旦那がテレビで梅酒を使った親子丼の作り方を覚えて、私に作れとリクエストした」
という女性コラムニストさんによるもので、
「へえ、梅酒で親子丼ね」
と、多少の興味をひかれたのであった。いや、じゃあ面白いのはテレビのネタじゃん!
となりそうだけど、
自家製の梅酒づくりに精を出し、その活用法をいろいろ試行錯誤する旦那さんとか、
親子丼を作る過程で、梅酒より鶏肉を湯引きする面白さに目覚めてしまった奥さんとか、
夫婦のすれ違いと、その中で生まれる生活の豊かさと、
……読んでいてとても楽しいコラムだと思う。

で、その切り抜きを発見したので、では、梅酒を買ってきて作ってみますか、
となったわけである。親子丼は手軽なので自分でもよく作るのだけど、
梅酒を加えるのは、もちろん初めてである。

砂糖やみりんなどの甘みを梅酒に置き換えるということだと思うのだけど、
いちおうちゃんとした親子丼になった。少し味が薄いかなと感じたのは、
コラムにあった、濃い目にタレを作れと言う指示を無視したからだ。
……僕は高血圧なのである。

で、余った梅酒はと言えば、当然、飲んでしまえとなる。
お酒はあまりたしなまないけど、身近にあれば手をだすことにやぶさかではない。
幸い、今日もお天気は「梅酒日和」なのだ。

「梅酒くらいで酔うことはないだろう」と高をくくっていたけど、
久しぶりであれば、ちょっといい心地にもなってくる。

新聞の切り抜きは大量にある。大量にありすぎて、読み返すのが億劫になってくる。
昔、裁判員裁判が始まった頃は、連日新聞に載る記事やら特集をファイルしていたので、
その分だけでもものすごい量があった。
小説家の小川国男さんのコラムも発見。お亡くなりになる少し前のものだけど、
短い文章に印象的なフレーズが散りばめられている。
ギリシャ彫刻のような大理石の文体は、コラムになってもやっぱり心地がいい。

切り抜かれてそのまま積み上げられた新聞紙面は、歳月の経過とともに日に焼け、
煙草の煙にいぶされて、茶色く変色していたりする。
古い昭和の写真と同じ、セピア色である。
今ならスマホやパソコンでコピーペーストすれば済む話なので、
ずいぶん時代がかった作業だな、とも思う。

ふと、古い時代がセピア色になるという昭和時代の言い回しについて考えてみた。
たぶんこの表現も、何十年か経つうちには、死語の世界に入ってしまうかもしれない。
なんせ、この場合のセピア色というのは、紙の色が劣化して茶色くなったり、
昔のカラー写真の青い色彩が退色して、赤みがかった色合いになることを言うのだ。
写真の画像データがデジタル信号に置き換われば、
「セピア色」という表現が実感を伴わない時代に変わるかもしれない。
僕たちが映画やテレビなどで、古い時代を表現するのに、白黒の映像で過去を感じたり、
セピア色の映像に懐かしさを感じるのは、
半世紀前の映像は基本的にモノクロであるとか、
紙や写真が時間の経過とともに茶色く変色するという体験を、土台にしていたりする。

だから、例えば十年前の思い出をセピア色の映像で表現するのは、
理屈としてはおかしい。あの時代に撮影された映像は、画素数の違いこそあれ、
基本的に劣化のないデジタル画像のはずであるから。
実際、今描いている漫画でも、編集部から十年前の写真データをいただいているけど、
これがつい昨日のことだと言われてもまったく見分けがつかない。
写真に写っている方の現在の姿と引き比べて、ようやく十年の重みを感じるくらいだ。

では、十年の時代の流れをどう表現するかといえば、これがまるで見当もつかない。
もし映像作品であるなら、色彩をセピア色にして時代の古さを表現するという、
古典的な手法に安易に頼らざるを得ない。
十年前の出来事がセピア色になるという物理的根拠はまったくないにも関わらず。

まあ、だからって回想シーンだけ画素数が十分の一以下になるっても、
おかしな話ではあるのだけど。

もし天才というのがいるのだとしたら、ここで万人の納得する回想の表現を、
鮮やかに編み出せる人を言うのだと思うのだけど、僕ごときではまったく見当もつかない。
昭和時代の映像表現に慣れ親しんだ自分にとって、
回想とは、新聞の切り抜きのようにセピア色に変色し、
扱いを誤ればボロボロと崩れ落ちてしまいそうな、ひどくアナログな表現なのである。

という文章を、梅酒を飲みながらほろ酔い気分で書き上げたのだった。(酔)

2018年4月29日 (日)

ジブリ


名古屋圏郊外にジブリパーク?みたいなのが作られるそうで、
自分が二十歳くらいの頃なら狂喜乱舞していたと思うのだけど、
五十歳くらいになると、それは素晴らしい話だな、くらいの感慨である。

建設予定地は愛知万博の開催されたあたりのはずだけど、
あそこには万博開催時に「トトロのメイの家」が作られ、
たぶんその縁でジブリさんとの付き合いが深まったのだと思う。

……ろくに調べもしないで記憶で書いてしまうと、
どうにも文章がまだるっこしい。

僕が子供のころは、あの辺りは青少年公園と呼ばれていて、
町内の子供会でサイクリングに出かけたりした。
でっかいサイクリングコースがあったのだ。
今でもあるかもしれんけど、番号の割り振られた自転車を借りて、
ずいぶん長いコースをひたすら走った記憶がある。

当時は「グランプリの鷹」とか「マシンハヤブサ」とか、
レーシングアニメに夢中だったので、
「V1エンジン始動!」とか、
「V5エンジン……これは危険も伴うもろ刃の剣!」
みたいなことを一人でわめきながら走っていた。

トンネルをくぐる時は車体と壁面の隙間が一センチ!という設定で潜り抜けた。
アニメを見ていないとまるでわからんな、これは。

そうやって自分が走り回ったあたりにジブリのテーマパークが出来るのは、
何にしろ喜ばしい。名古屋圏にはあまり目ぼしい行楽地はないので、
観光の目玉が出来るのは経済的にも大きなプラスだ。

僕は「未来少年コナン」で宮崎駿監督に嵌ったクチで、
「カリオストロの城」は心のバイブル、「風の谷のナウシカ」は初日に映画館で鑑賞し、
「トトロ」は椅子のひじ掛けを握りしめて「傑作だ!」と心の中で吠えまくっていた。
(ジブリ作品はトトロだけだと突っ込まれそうだ)

ある時期から(手塚治虫への追悼文を読んでからだけど)熱は冷めてしまったけど、
十代の自分が熱狂していた記憶は、こっぱずかしくもあり、誇らしくもあり、
ええもん観させてもらったな、と感謝している。

ジブリと言えば「火垂るの墓」は劇場で動撮アリ(動画を撮影した線画状態のもの)
を一度見た切り、あまりに悲しすぎて二度目は見ていない。つまり完全版未視聴。
(高畑監督が徹底的にこだわり抜いたために、完成が封切りに間に合わなかったのだ)
動撮だと画面が真っ白になるのだけど、演出に合わせて青い色がほんのりのせてあって、
観客への細かい配慮を感じさせた。

高畑監督と偶然すれ違ったことがあるけど、こちらが頭を下げたら、
ご丁寧に挨拶を返してくださって、ああ、紳士だ、とアシさんたちと盛り上がった。
「そうじゃのう、そうだとも、アン」
という謎のセリフが僕の口から飛び出してくるようになったのは、この名匠のおかげ。
(赤毛のアンは名作劇場だ!と突っ込まれそう)

自分が子供のころ夢中になったアニメの世界が、現代まで脈々と続いていて、
それを自分が見ることができるってのは、本当にありがたいこどだなぁと思うのでした。

2018年4月22日 (日)

みそぎ

1980年代のことと言えば、もう四十年近く昔の話になる。
ある朝、小学生だった自分が新聞を読んでいると、
「ジョンレノン暗殺」という記事があった。
僕にもわかる、音楽をやってた人だ。
「ずーとるび」の元ネタになった「ザ・ビートルズ」というバンドのメンバーだった。ビートルズの曲なら「カモン、カモン」とか「イェイ、イェイ」叫ぶのを「ひらけ!ポンキッキ」で見たことがある。四人いたメンバーの、たぶん一番目立つ人がジョンレノンだ。

その人が1980年の12月8日にニューヨークのダコタハウスの前でマーク・チャップマンに射殺された。その翌日の朝刊を僕は読んでいた。小学生には経済とか政治の記事はまったく興味が持てないので、比較的組みやすそうな芸能関係の記事には毎度目を通すことになる。その記事に、
「ポール・マッカートニー氏は葬儀には参列しない模様」というのがあった。
四人いた「ザ・ビートルズ」のメンバーで、一番ジョンレノンに近い人だと聞いていたので、その人が葬式にもやってこないというのは、なんとも薄情だなと思った。小学生の自分には友情は何よりも尊いもののような気がしていたので、この時の「薄情」という印象が、その後もずっと根っこに残り続けることになる。

いちおうフォローを入れておくと、その後ポール・マッカートニーの曲を聴くようになって、彼がダコタハウスのジョンの元を時折訪ねては、バンドを再結成しようと持ちかけていたことなんかも何かで読んだ。暗殺の一報に接して、レコーディングを中断してプロデューサーのジョージ・マーティンと一晩中ジョンの思い出を語り合った話も知っている。その彼が葬儀に参列しなかったのは、自分が顔を出すことによるメディアの過剰な反応を恐れたからなのは理解できる。でもそれがわかるのは自分が大人になったからで、小学生のときに感じた「仲間に対して冷たい薄情な人」という印象は、どうにもぬぐい切れない。その後、スティーヴィー・ワンダーと「エポニー・アンド・アイボリー」をやっても、マイケル・ジャクソンと「セイ・セイ・セイ」をやっても、果てにはエルビス・コステロとアルバム曲を作っても、「薄情な人がまたなんかやってら」としか思えなかった。子供のころの刷り込みというのはどうにもタチが悪い。

小学五年生というのは、年齢的になかなか微妙なお年頃である。あと三か月もすれば上級生は卒業し、小学校のヒエラルキーの中では頂点に君臨することが約束されている。そこそこ知恵もついてきているので、大人が禁止していることをやってみたいという欲求も芽生え始める。八十年代の初頭は「ツッパることが男の勲章」みたいな時代だったので、あえて怒られそうなことをやってみるのが、一つの冒険でもあった。

担任の先生は髪の長いダンディだった。当時テレビでやってた「金八先生」のようなロングヘアーではなく、七三に分けた「鬼太郎」のような髪形だった。よく学年主任の先生に「のだしゅー髪を切れ」と怒られていた。「のだしゅー」というのは先生の愛称だ。本名を縮めただけなんだけど。
冬はタートルネックのセーターをよく着ていた。そのセーターの上にジャケットを着ていたのだけど、そのファッションが70年代っぽい感じで、微妙に時代遅れだった。まあ、このあとブリティッシュムーブメントがあってパンクなファッションが八十年代を席捲していくことになるのだけど、その無駄にド派手な乱痴気騒ぎを思い出せば、先生の時代遅れの服装は逆に好ましく思えてきたりする。
そういえばジャケットの肘にアップリケのような濃い色の布があててあったな。あれも七十年代っぽかった。

この先生に一度叱られたことがある。クラスの悪ガキが集まって、「公園で焚火しょうぜ」という話になり、授業が終わってから公園に集まって焚火をした。僕も「焚火と言えば焼き芋だ」ってんで、大衆食堂の調理場からイモを失敬して、焚火の底に突っ込んだ。「ツッパることが男の勲章」の第一章みたいなもんだ。悪いことをあえてする、そこに男のロマンがあった。もちろん、バケツに水を入れてしっかり消火する準備は万全だった。
男子が七人ほど輪になって「あったけ~」と両手を火にかざしていたら、
「あんたら何やってんの」
とクラスの女子二人組がのぞきに来た。
「焚火。イモも焼いてる」
「へえ、私たちも食べたいな」
「ダメ」
「ケチ、先生に言いつけけてやる」

かくして「公園焚火事件」は先生の知るところとなった。
名古屋では授業の合間合間の休憩時間のことを「放課」というのだけど、その「放課」の時間に首謀者7人は教壇わきの先生の机の前に呼び出された。
「焚火をしたんだって?」
「やりました」
「うーん」
先生はしばらく腕を組んで考え込んだ。子供だけで焚火をしたのが大問題なのだけど、火の後始末はちゃんとしているし、近隣住民からの抗議の声も出ていない。悪さと言えば悪さなのだけど、これくらいの節度のある悪さならば目をつぶってやってもいいんじゃないか、先生もたぶん、そんなことを考えているはず、普段の先生の言動を考えると、ここは叱責だけで済ませるんだろうなと僕らは思っていた。

「今から順番にお前らを殴るから」

僕らは一瞬ひるんだ。いつもはニヒルな「のだしゅー」が殴るという熱血教師みたいなことを口にしたからだった。

「なんで殴られるかは、わかるよな」
「……はい」
今考えれば先生としても子供を殴るなんてのは嫌だったと思うのだけど、なんらかの制裁を加えなくてはこの場が収まらないと考えたのだろう。

ぱちん、ぱちんと、教室中に乾いた音を立てて、右から順番に僕らは殴られた。痛かったけど、先生に悪いことをしたなという後悔の気持ちの方がよっぽど大きかった。僕らが席に戻った後も、先生はずっとムスッとして、一日中不機嫌だった。

僕はこの先生をけっこう尊敬していたのかもしれない。中学に上がる頃には髪を伸ばして「鬼太郎」のような髪形になっていたから。
その中学でも体罰に関するエピソードが一つあった。

М先生は「いつもニコニコ現金払い」がキャッチフレーズの眼鏡のオジサンだった。「ゴキブリげんちゃん」と自分で言ってたけど、その愛称の出どころはまったく覚えていない。
いつも三十センチほどの竹の棒を持ち歩いていて、怒るとそれで生徒の頭を叩いた。僕も何度か叩かれたけど、体罰というよりは教師としてのイメージ作りのジェスチャーだったので、あんまり痛くなかった。この竹の棒にはかわいいゴキブリのマスコットがついていて、クラスのAさんのお姉さんがプレゼントしたものだった。茶色だとグロテスクだからなのか、青いゴキブリマスコットだった。

ある時、クラスの「エーゾー君」が悪さをした。具体的に何をやったかまでは覚えていないのだけど、普段から悪さばかりするやんちゃな生徒で、僕も一度ケンカをして、体重差で負けたことがある。太った憎々しい顔つきの男の子を想像してもらえば、だいたい間違っていない。

その「エーゾー君」がやらかした悪さがクラスで問題になって、とうとう先生が場を収める仕儀となった。先生がなんらかの制裁を加えないと、教室のみんなが納得しないし、「エーゾー君」も立場がない。だから先生、やっちゃってください、という場面である。

いつもなら先生が竹の棒で頭を叩けばそれで収まりそうな展開だったのだけど、この時はそれでは足りないと思ったのか、
「クラスのみんなに迷惑をかけたのだから、みんなにこれで叩いてもらいなさい」
と竹の棒を教室の一番前の席の子に手渡した。

「エーゾー君」も自分のいたずらの決着は甘んじて受ける覚悟だったようで、殊勝に頭を差し出して「やってくれ」と目をつぶった。こういう時は暗黙の了解というか、強くは叩かないのものだと思うのだけど、みんなそっと撫でる程度で済ましていた。僕もゴキブリマスコットのついた竹の棒を手渡され、やさしく「コツン」と叩いた。

でも中学生といってもまだ子供だから、中には思い切り叩く馬鹿な子がいるんじゃないかなと思ったら、やっぱりいた。彼女は力任せに、思い切りデカい音を立てて「ボコ!」と殴ったのだった。ちなみに土建会社の社長令嬢である。こういう場合に一番空気を読まないのは、育ちのいいわがままなお嬢様だと相場は決まっている。「ああ、やっちゃった」と僕は天を見上げた。

普段は強面の「エーゾー君」も、あまりの痛さに激しく泣き始めた。お嬢様はマスコット付きの竹の棒を手にしたまま、なんかキョドってる。クラスの抗議の視線が一斉に彼女に向かったからだ。私、何も悪いことしてないじゃない、なんでみんなそんな目で見るのよ!とでも言いたげである。……今風に言えば、完全に空気が読めていない。

この事態はさすがに先生も予見していなかったようで、
「すまん、俺のやり方が間違っていた。悪いのは先生だ。ごめん」
と教壇に額を押し当てて謝罪した。集団体罰はお嬢様のところで終了した。

体罰には「ケリをつける」という様式的な側面もあった。みそぎというか、罰を受けることで場を収めるという意味合いもあったのだ。もちろん、感情に任せて生徒を殴る不埒な先生も大勢いるので、体罰なんてあってはならないと僕は思うのだけど、通過儀礼としてのみそぎはある程度は必要なんだろうなとは考える。僕らの時代は先生が殴って、それでチャンチャンと終わりにできたのに、今の子供たちにはその安全装置みたいなものがなくて、いろいろめんどくさいだろうなと同情する。思えば僕らの時代はなんとも牧歌的なものだったのだ。

そう、これは男同士が殴り合いで友情を深めていた、昭和のお話なのである。

2018年4月15日 (日)

ショートショート……かな?


軒先に床几を引っ張り出して、爺さんがのんきに夕涼みをしている。
夏の暑い日のことだ。私は夏の制服が汗でべとつくのを気にしながら、
「お爺ちゃん、ただいま」
と気のない挨拶をした。
「おう」
と気のない返事が返ってきた。

昭和が終わろうという時代の話だ。先の戦争では南方まで行き来する輸送船に乗っていた爺ちゃんも、このごろは少しボケ始めていて、久美子という私の名前をよく失念する。貴ちゃんになったり、胡蝶になったりする。面白いので一度その名前で
「なあに」
と返事をしたら、私のお尻を撫でまわしてきたので、慌ててその手を叩いて逃げ出した。
お爺ちゃんはカラカラと陽気に笑いながら、また床几の上に横になった。

窓の下で綺麗に咲いていた朝顔は、花がしなびて鉢のふちに垂れ下がっている。
十年前も、五十年前も、同じような風景が下町にはあっただろう。たぶん十年後も五十年後も、やっぱり同じ風景がこの町に残っているはず。新幹線が走り、街に歌謡曲が流れるご時世になっても、爺ちゃんの時間感覚の中では銀座は大正時代の銀座のまま、チンチン電車が走り回り、モボとかモガとかがオシャレなパーラーでアイスクリンを食べているのだ。

「スマホがのう」
ある時、お爺ちゃんの隣で西瓜を食べていたら、聞きなれない言葉が飛び出してきた。
「何?」
「スマホだよ、スマホ」
お爺ちゃんはさも当たり前のことのように話を振ってくる。
「スマホって何よ」
「小さい電話だよ。お前は知らんのか」
……知らない。うちにあるのは昔ながらの黒電話だし、スマホなんて言葉は生まれてこの方聞いたこともない。大正時代には小型の電話のことをスマホとでも言ったのだろうか。
「あれは便利だのう。和江さんにもそのうち買ってあげよう」
爺ちゃんは私の頭をクルクルと撫でまわしながら満面の笑顔を見せる。ちびっこだった頃からの爺ちゃんの癖だ。あと、私は和江ではない。久美子だ。

スマホという謎のような言葉が気になって、図書館でいろいろ調べてみたのだけど、そんなものは百科事典のどこにも存在していなかった。父に質問してみても、
「軍隊の符丁か何かじゃないのか」
とのことであった。爺ちゃんは海軍の輸送船で南方まで行き来していたから、その可能性がもっとも高い。

「スマホって海軍の符丁でしょ」
そう本人に聞いてみると、
「阿保か、スマホがあれば日本はアメリカに勝っとったわ」
と笑い出した。なんだその最終兵器。
「じゃあスマホって何なのよ」
「カメラにもなるし、テレビにもなる。調べ物もすぐに見つかるし、音楽だって聴ける」
「ほう」
私はジャバラのついた二眼レフのカメラにブラウン管が搭載され、ブリタニカの百科事典と蓄音機のラッパの生えている奇妙奇天烈な物体を想像した。そいつが米軍の航空基地に襲い掛かり、B29を千切っては投げ、千切っては投げと八面六臂の大活躍をする。まるで怪獣映画のワンシーンだ。恐るべし最終兵器スマホ。帝国海軍はそんな秘密兵器を極秘裏に開発していたのか……そんなわけがない。

爺ちゃんは縁側で蚊取り線香の入った陶器のブタさんを眺めながら、
「スマホは便利じゃが、あれで街がすっかり衰退したのう。若者がスマホに夢中になるものだから、商店街も本屋も、みんな潰れてしまった」
と寂しそうにつぶやいた。
私の空想の中で秘密兵器スマホが商店街を破壊して回る姿が円谷プロのゴジラのノリで再現された。ジャバラの先のレンズから怪光線が発射され、八百屋の店先のキャベツやら大根やらが粉砕されていく。蓄音機のラッパから放たれた音響兵器により、本屋の本という本がビリビリに切り裂かれる。サザエさんが裸足で逃げ出していく。もう何が何だか訳が分からない。

「スマホって……怖いね」
わからないなりに感想を伝えてみると、爺ちゃんはウンウンと大きくうなずき、
「便利なものが人間を幸せにするとは限らん。便利だからってみんな切り詰めてしまったら、儲けるのは一握りの人間ばかりで、世のなかの大多数は貧乏人になってしまう。便利ってのは人に頼らないってことでもあるからな。人間が人間を支えあって、毎日を平穏に暮らしていく、それが一番の幸せだよ。みずゑさんにもそのうちわかるだろう」
と、満面の笑顔で私の頭を撫でまわした。
「爺ちゃん……私は久美子だよ」
爺ちゃんはカラカラと陽気に笑い出した。

爺ちゃんは昭和が平成になる少し前にポックリと大往生した。その後私は結婚し、一男一女の子宝にも恵まれた。彼らは今年高校二年生と中学の三年生になる。
今朝も朝食の用意をしていると、わき目も振らずにスマホとにらめっこだ。
「スマホばっかりいじってると人類が滅亡するわよ」
味噌汁を運びながら私が注意をすると、
「なんだよそれ」
「お母さん、大げさだよ」
とまるで相手にもしない。
やれやれ、今どきの子はつまらない。お爺ちゃんの話をしても、私の作り話だと思ってまるで信用してくれない。
でも私は確信しているのだ。お爺ちゃんはボケ始めて予知能力を発揮するミラクル爺さんになっていたのだと。


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