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2017年12月17日 (日)

チャンス


まあ、あれだ。
「チャンスってやつは万人に平等に訪れるけど、潰すのは間違いなく自分なんだ」
ってのは、ここ数年折に触れて考えていることだったりする。
なんせ半世紀近く生きているから。チャンスに遭遇したり取り逃がしたり、
いろいろ思い当たることはあるわけです。

中学のころ、担任の先生が言ってたな。
「チャンスの神様には後ろ髪がないから、近づいてきたらすぐにつかめ」
だったかな。とにかく考えるな、とりあえずつかんどけ、つかんでから悩め。
おお、わが担任ながらいいことを言うなと思ったけど、
同じネタを魔夜峰央の「パタリロ」の中に発見して、
なんか有難みが少し減った感じがした。魔夜先生大好きだけど。

若いころはとにかく見栄を張り勝ちだから、チャンスは両手からどんどん零れ落ちていく。
なにせ若いから、この先チャンスなんていくらだってあるだろうと考える。
今のがしてもまたつかめばいいさと思う。
でも、そんなことはない、チャンスはそうそう巡ってこないってのは、
半世紀生きたオッサンの素直な実感である。しまった、つかんどきゃ良かったと後悔して、
夜中に布団の中でもんどりうったりする。
「うわぁぁぁぁぁぁぁなんであの時の自分は馬鹿やっちゃったのかな!」
と心の中で絶叫する。もう遅いんだけどさ。人生の分岐点はものすごい速さで通りすぎ、
同じチャンスは二度とは戻ってこない。だから、みっともなかろうが、浅ましかろうが、
チャンスにはどん欲に食らいついていくべきだ。だいたい、カッコいいいチャンスはない。
チャンスはたいていみっともなくて、カッコ悪くて、赤面するくらい恥ずかしいもんだ。

イギリスに「マニック・ストリート・プリチャーズ」とかいうバンドがいて、
この人たちはある意味ものすごくカッコ悪いバンドだったりする。
特に初期のころは中二病を発症していたとしか思えない。興味があったらウイキを参照。
「ここまでやらかしたらもう生きていけない」
ってネタの宝庫である。
たとえば、初期の曲に「モータージャンク」うんたらかんたらってのがあるけど、
歌詞は、「ジョンレノンが死んだときは大笑いしたぜ、俺には何の意味もない奴だから」
だったりする。デビュー時にラジオでこの曲の解説をラジオで聞いて、
「なんて失礼な奴らだ!」
と僕は憤慨したね。あの無礼千万なオアシスのギャラガー兄弟ですら、
「ビートルズなんてくだない」と発言したドラマーを袋叩きにしていたりする。
「先人に対してのリスペクトがない」だったかな。
まあ、ギャラガー兄弟はビートルズのジョージ・ハリソンが「人間として」大嫌いで、
移動中の飛行機でジョージの息子を発見するや、酒を飲ませてぐてんぐてんにして、
空港に迎えに来たジョージに大恥をかかせる、みたいなことをやらかしてるけど。

で、その「マニックうんたらかんたら」さんたち、略して「マニックス」だけど、
ファーストアルバムを発売するとき、
「俺たちは二枚組のアルバムを出して速攻解散する!」
なんて超絶中二病発言までやらかしていたりする。
普通、思いついてもそんなこと言わない。これがカッコいいと思って発言しているのが、
どうしょうもなく恥ずかしかったりする。
アホかと思う。
で、発売されたファーストアルバムは結局二枚組にはならず、チャートもそこそこで、
これで解散したらホントのアホやなと思っていたら、ちゃっかり二枚目を出してきた。

当然、ファンからは袋叩きにされる。嘘つきの裏切り者呼ばわりされる。
僕らのマニックスは商業主義に堕ちた、となる。
でも二枚目のアルバムは僕は大好きなんだよね。曲も好きだけど、
「カッコ悪くてもちゃんと二枚目を出してきた」ってのは、立派だと思う。
ここでホントに解散していたら、ただの馬鹿野郎だもの。
罵られようが、馬鹿にされようが、汚辱にまみれて仕事を果たしたってのは、
僕にとっては感動こそすれ、くさす要素にはならない。
チャンスは糞まみれの泥だらけになってむしり取るものだ。
安っぽいプライドなんてまったくお呼びではない。

このバンドは、その後もイギリスのゴシップ誌に数々の話題を提供し、
その話題だけで本が一冊書けてしまうくらい、とんでもない話ばかりなのだけど、
四枚目のアルバムで見事イギリスロック界の頂点に立ち(笑)国民的人気を博している。
この四枚目のアルバムはすごいよ。CDの解説が「ついに商業主義に堕したか」
みたいな否定的なレビューで、思いっきりくさしている。
でも僕は大好きなアルバムだったりする。いいじゃん商業主義。
「A Design For Life」はいっときヘビーローテーションだった。
ストリングスばんばん、恥ずかしげもなく繰り出されるオペラのような盛り上がり、
最高じゃん。

恥も外聞もなく、ひたすら売れることに徹する仕事人の姿は、僕はカッコいいと思う。
自分の中二病発言にがんじがらめになって人生を棒に振るのは愚かだ。
まあ、その後もマニックスは中二病を連発して、
「世界で千枚だけのシングルだ」みたいなことをやって、慌てて買いに行ったけど、
ちゃっかりベスト盤に入っていて、ものすごくガッカリさせられたりたりとか。
言いたいことはいろいろあるが、んが!
「The Masses Against The Classes」はいい曲だし、「冬が僕らを一つにする」とか、
歌詞が中二病っぽいけど、あと、ビートルズみたいなコーラスとか、
「ジョンをくさした連中がどの面下げて」と思わんでもないが、
そのみっともない生き方は、僕は嫌いではない。断じて嫌いではない。
半分笑ってしまうけど。

だから若い人は、チャンスが来たら恥も外聞もなく、泥水すする気持ちでつかんで欲しい。
エレガントにつかめるチャンスはない。チャンスはみっともなくてカッコ悪いもんだ。
半世紀を経過して腐敗臭を発し始めているよれよれのオッサンのたわごとなのでした。

そういや、昔、ギターやってるアシさんがいて、
マニックスの黒歴史の数々を話してあげたら、めちゃくちゃウケてたな。
「バンド仲間に話したら腹抱えて大笑いしてた」とのこと。
いちおう、「悲劇のバンド」ではあるのだけど、
その「悲劇」がもうどうしょうもなく、笑えてしまう。メンバー一人失踪してるのに、
それがネタに昇華されてしまうというのは、もうなんというか、すごいね。

まあ、腕にカッターナイフで「4REAL」(本気と書いてマジと読む)って彫っちゃう人
なんだけどさ。

2017年12月13日 (水)

何気ない言葉のホントの意味 第四回

何気ない言葉のホントの意味 パート4

「弘法も筆の誤り」
前の実家のすぐ近くに覚王山日泰寺があって、
毎月21日になると「弘法さん」と称して門前に出店がいっぱい出ていた。
僕も子供のころ、GIジョーのパチモンのサイボーグジョーだったっけ?
買ってきて、GIジョー専用のウルトラマンの着ぐるみをさせてた記憶がある。
で、その弘法さんと言うのが空海のことだと知ったのは、ずいぶんあとになってからだ。
そんで、「弘法さん」が実は日本全国あちこちに存在している縁日で、
おじいちゃんおばあちゃんがわんさか寄ってくるというのも、
知ったのは高校生くらいになってからじゃないかな。
意外と日本人の身近に存在している人なのだな。
千年以上昔のお坊さんだけど、いちおう現在も生きている設定らしい。
弘法様は伝説をいっぱい残していて、いろは歌の作者にされていたり、
書が滅茶苦茶上手だってのも、知る人ぞ知る有名エピソード。
その弘法様がお寺の額に寺院の名前を書くように依頼され、点を一つ書くのを忘れた、
というのがこの格言の元ネタらしい。小学生のころ学研の漫画を図書館で読んで覚えた。
「猿も木から落ちる」という格言と同じ意味なのだけど、
自分より役職が上の人、部長とか社長の失敗を表現する場合は、
さすがに「サル」呼ばわりはできないので、「弘法様みたいですね」と言うことになる。
格言というのもその場その場の空気を読むように、いろいろ気を使ってるんだなと、
ちょっと感心してしまう。
もちろん、影でこっそり「サル」呼ばわりする場合はその限りではない。

「トウモロコシ」
普段あんまり考えないけど、けっこう不思議なネーミングである。
名前の由来の「唐」と「唐土(もろこし)」って同じ意味じゃん、
ネーミングかぶってるじゃん、私の私服ってくらい変じゃん、とは常々考えていた。
調べてみると、この場合の「唐」は「海外産の」くらいの意味で、
「もろこし」の方は中国伝来のイネ科の植物をいうらしい。
海外産のもろこし、と称するつもりが、海外産を全部「唐」と称したために、
唐ものの唐土、と表現するしかなく、トウモロコシという表現が定着してしまったのだ。
……今なんとなく、「お姫様の姫はじめ」という言葉を思いついてしまったけど、
さすがにちょっとお下劣だ。

「黒歴史」
スーパーで買い物してたら、目の前の若夫婦の旦那の方が、
「それって俺の黒歴史じゃん」
と当たり前のように使っていた。いつの間にか日本語として定着しているらしい。
そのうち広辞苑なんかにも採用されるのかもしれない。
意味は、人に知られたくない恥ずかしい過去、思い出したくない若き日の自分、
青春の情動にまかせて好きでもないクラスの女の子とやっちゃったこととか、
思い出すと床をのたうちまわりたくなるような闇の歴史のことである。
出典は∀ガンダムだってのは、オタクの世界では割と有名。
冨野監督は宇宙世紀のガンダムに関するすべてを「黒歴史」の名のもと、
一切合切みんな闇に葬り去ってしまった。物語の中でそういう使われ方をしている。
たぶん、冨野監督が世に送り出した最後の名言なんじゃないかと思う。今のところ。
他にも、「坊やだからさ」とか、
「認めたくないものだな、若さゆえの過ちというものを」とか、
冨野さんがガンダムで送りだした名言は枚挙にいとまがない。
でも、それらがガンダムの名言としてガンダムを土台に語られているのに対し、
「黒歴史」の方は出典不明のまま、日常の言葉として定着しつつある気がする。
似たような言葉に伊集院さんがラジオで発した「中二病」ってのがあるけど、
それよりも使い勝手ははるかにいいように思われる。
スターウオーズの「フォースの暗黒面に堕ちる」ってのが近いかな。
かわいいアナキン少年が中二病を発症し、フォースの暗黒面に堕ち、
ダースベーダーとなって帝国軍の大悪党となるが、精神体となってからだと、
「あれは私の黒歴史だ」ってことになる。エピソード3の終わりからエピソード6まで、
全部アナキン・スカイウオーカーの黒歴史である。
黒甲冑のダースベーダーだけに。
ごめんなさい。ネームを書きあげた勢いで書いているので、
文章がなんか妙なノリになってる。
今回はここまで。一回寝よう。

BGM


仕事部屋の机の脇に、でっかいCDラックを据え付けて、大量のCDを眺めながら、
「今日は何を聴きましょうかしらん」
なんてやるのが、自分の一時期のステータスだった。
ビートルズを流したり、ベートーヴェンを流したり、
好きな音楽を耳にしながら仕事が出来るなんて、こんないい商売はない。

「大使閣下」でご一緒した原作者の西村さんも、
ベトナムで仕事場にラジカセを持ち込んでいた。
あの時流れていたのはテレンス・トレント・ダービーの三枚目のアルバムで、
そのことに触れると、
「お、わかってるね」
とものすごくうれしそうに笑ってた。
お部屋にも入れてもらったけど、エレキギターがずらっと並んでいて、
ああ、この人はギター小僧だったかと、妙に納得がいった。
文章のノリとか、それっぽい感じがする。

どうでもいいけど、テレンス・トレント・ダービーの声を聴いてると、
なぜか柳沢慎吾の顔が浮かんできて、
「あばよ、いい夢みなよ」
と言いだしそうな感じがする。

そうそう、このあいだチープトリックさんの音楽をYouTubeで聴いた。
七十年代に勇名をはせた歴史的バンドが現役で活動しているというのは、
なんか励まされる。
僕が聴いたのは最近アップされた
「ビートルズのサージェントペッパーをフルで演奏してみました」
ってやつで、なんつーか、
非常にビートルズ愛にあふれたものだった。
ものすごく忠実に演奏を再現している。
中盤でシタール(インドの楽器)が出てきたときは、笑ってしまった。
そうだよね、そこでそれやらなきゃサージェントペッパーにならないよね。
(ア・デイの目覚まし時計とか、期待したけどなかった)

チープトリックというと、マジカルミステリーツアーとデイトリッパーのカバーも、
割と好きでよく聴いているけど、
ジョンとやってお蔵入りした「アイム・ルージング・ユー」も、
アルバム版より好きな演奏だったりする。
オノ・ヨーコはなんでこっちを没にしたんだか。

と、まあ親父趣味丸出しの昔の洋楽ロックはよく聴いている。

あとはクラシック。巨匠が次々とお亡くなりになって、
日本でクラシックの巨匠と言うと、もうベルリンフィルのサイモン・ラトルという、
「え、あの人まだ若手じゃなかったっけ?」
という非常事態になっている。
僕と十幾つしか違わないのに。

僕が子供のころは、クラシック音楽が一つのステイタスとして存在していた。
教養として、名曲くらいは押さえておけ、みたいな空気があった。
テレビでもラジオでも、バンバン演奏が流れていた。
それが、カラヤンがお亡くなりになり、バーンスタインも亡くなって、
いわゆる「みんなが知ってるクラシックのアイコン」がいなくなってしまい、
なんか妙にとっつきにくい音楽分野になってしまった。そんなこと全然ないのに。

来日予定の海外指揮者が新聞でインタビューに答えていたけど、
「ハハハ、ドボルザークの交響曲なら何でもよかったんだけど、
今回は新世界交響曲なんだ」と微妙なセールストークをかましていた。
他の交響曲じゃお客が呼べないから、ドボルザークなら「新世界」をやるしかない。
それがスポンサーサイドの要請であることは明白で、来日指揮者もそう答えるしかない。
ホントは第七をやりたいと思っても、お客はたぶん来ない。
六番交響曲なんて、アニメの銀河英雄伝説ファンくらいしか知名度がないだろうけど、
あれはあれで面白い曲なんだけどなぁ。

前にもここで書いてるけど、音楽の需要の歴史は再生装置の発展とリンクしてる。
ドイツの名指揮者カラヤンの生涯はオーディオの発展の歴史抜きには語れない。
ステレオを買って、その性能をフルに発揮させる音楽となれば、
カラヤンのベートーヴェンとか、Rシュトラウス、みたいな感じになる。
でも今、自宅に大掛かりなステレオシステムをそろえるのはよっぽどの愛好家か、
お金持ちくらいのもんだろう。大半はダウンロードしてヘッドホンで音楽を楽しんでる。
そうなってくると、フルオーケストラの微妙な面白さってのは、わからない。
「モーツァルトってみんなおんなじ曲だよね」
みたいな意見まで出てきたりする。そんなわけないのに。

前世紀の末ごろには日本にも朝比奈隆さんと言う伝説のブルックナー指揮者がいた。
現天皇陛下だと思うけど、
「頑張ってくださいね」
みたいなことを言われて、
「勅命により(笑)現役を続けることにしました」とインタビューで答えてた爺さんだ。
個人的にこのエピソードが大好きだったりする。
涼宮ハルヒの朝比奈みくるちゃんはたぶんこの人の名前が元ネタなんだろうなと思う。

あの頃はチェリビダッケとか、ブルックナー指揮者が音楽業界を賑わせていて、
音楽好きならブルックナーを聴け、みたいな空気があった。
交響曲の極北、正当なベートヴェンの後継者の「ザ・シンフォニー」みたいな感じ。
その至高の音楽を録音嫌いで正規版のCDがまったく存在しない、
ミュンヘンのチェリビダッケの指揮で聴くというのが、なぜかものすごいブームだった。
僕もそのブームにのっかって、海賊版のチェリビダッケなんかを秋葉で買いあさっていた。
あの頃の秋葉は、まだオタクの聖地ではなかったんだよな。
石丸電気が懐かしいぜ。

シャルル・デュトワ。N響の指揮者として日本のクラシックに多大な影響を残している。
最近どうしてるのかなと思ったら、今年もしっかり来日していた。
現役の指揮者の中では一番知名度が高いと思う。
この人の名前も某ラノベで美少女キャラにされてたな。
ラノベ作家はクラシックが好きなのか?(インフィニット・ストラトス)
同じフランス人指揮者にシャルル・ミュンシュという伝説の指揮者がいて、
過激な爆演をかましていたのだけど、名前が似ているのでときどきこんがらがる。
デュトワさんの演奏はどちらかというと繊細で安全運転。まったくの別物。

そういう有名指揮者が次々と現役を退いていくと、クラシックのますます縁遠くなる。
最近のクラシック音楽で何かブームってあったっけ?

前世紀だと、ドラマで使われたラフマニノフの交響曲第2番がブームになった。
第三楽章が甘いムードミュージックみたいで、それがウケた。
ラフマニノフのファンには第1と第3の方が出来がいいという意見もあるけど、
一般受けという観点からすれば、第2の第三楽章は群を抜いてる。
なんせ、ハリウッドの甘い音楽の源流はこれなんじゃないかって言われてるくらいだし。
あと、村上春樹が小説の中にクラシックの名前を出すとなぜかブームになる。
日本でヤナーチェクのCDが売れるなんて、誰が予想しただろう。
まあ、ルドルフ・ブフビンダーの名前を出しても反響はなかったけど。(遠い太鼓)

あとは漫画。「のだめカンタービレ」のおかげでクラシックはずいぶん救われた。
それまでベートヴェンの交響曲と言えば運命か田園か合唱くらいだったのに、
そこに「七番」が加わるようになったのはこの漫画のおかげ。
作曲当時は「ベートヴェンの気が狂った」とか「酔っぱらって書いた」とか、
滅茶苦茶言われてた曲だけど、第二楽章の「不滅のアレグレット」が有名だし、
もっと聴かれてもいいのになと思ってたら、聴かれるようになった。
あと、モーツァルトのオーボエ協奏曲も、僕が仕事場で流してたら、
「のだめの曲」呼ばわりされてた。

クラシックの世界では有名曲だけど、一般的な知名度のない曲はいっぱいある。
ショーソンの「協奏曲」のシシリエンヌとか、日本人にウケるだろうにと思ってたら、
某音楽番組のメインテーマに使われて、いよいよくるか!と身構えていたけど、
なんか空振りに終わった。日本人好きそうなのに。
あと、グリーグのピアノ協奏曲は昔は有名曲だったけど、この頃はあんまり聴かない。
たぶん、吉田秀和先生がくさしたからだ。シューマンの亜流だとかなんとか。
でも、日本人が好きそうな曲調だし、リバイバルしてもいいじゃんと思う。
あと、グリーグだと「ホルベルク組曲」は大好き。
前奏曲がシューベルトの第二交響曲の終楽章と一瞬重なる。
グリーグは甘いボンボン菓子だとかアメリカの有名な批評家にくさされてたけど、
そこまで悪いもんでもない。
ダンディの「セヴェンヌ交響曲」。作曲家が貴族で排他主義者だったせいか、
あんまり聴かれないけど、この曲はけっこう面白い。ピアノが大活躍。
シューマンの第二交響曲は日本人指揮者にもファンがいるらしく、
ときどき演奏される。第二楽章が某オーケストラの入団試験に使われていた。
あと、第三楽章がロマン派の管弦楽の中では「至宝」と呼ばれている。
はじめて聴いた時は鳥肌が立った。でも曲全体の構成はかなり奇妙。
でも第三楽章がとにかくロマンチック。そこだけ抜き出しても意味ないけど、
そこを聴くためだけに全曲を聴いてもいいかな、とは思う。(失礼)
あとはブラームスの弦楽六重奏曲の二番の方とか、二つのラプソディとか、
もっと有名になってもいいのにな、とちょっと思う。
同じようにBGMとしてもっと流行ってほしい音楽となると、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3の2楽章とか、昔から大好き。
曲はモーツァルトの亜流だとか、モーツァルトに挑戦して負けた曲とか、
散々な言われようだけど、僕は5曲の協奏曲ではこれが一番好き。
だいたいモーツァルトのピアノ協奏曲と比べて勝てる曲なんてあるわけない。
ブラームスも言ってるけど、
「今の人がモーツァルトを理解できないから、私らが作曲家をやってるんだ」
となる。
いい音楽が万人に受け入れられるわけじゃない。
僕もバルトークが好きだからってそれを薦めようとはさすがに思わない。
昔、弦楽ディベルティメントを留守電のBGMに使ったら親に怒られたもの。
「それだけはやめなさい」って。

思いつくまま気の向くまま、音楽を語ったらこんな感じになりました。
YouTubeで検索していただけると、ああこんな曲を喜んで聞いてるのねと、
何かの参考にはなるんじゃないかなと思います。なんの参考だよ。

2017年12月 4日 (月)

何気ない言葉のホントの意味 第三回

「何気ない言葉のホントの意味」シリーズ、第三回。
なんとなくシリーズ化してみた。

「夕焼け小焼けの赤とんぼ」
地方に行くと思いがけずトンボが飛んでいたりして、テンションが上がる。
都会ではすっかり見かけなくなってしまったから。
名古屋でも昔は空き地なんかに大量に飛び交っていたもので、
従弟がオニヤンマに赤とんぼの頭を合体させて、
「これでも飛ぶんだぜ」
と、ひどく残酷な遊びをしていたりした。
あれはちょっとひどい。
ところで「夕焼け小焼け」というのは当たり前のように使う言葉だけど、
「小焼け」ってのはいったいなんだい?というのは昔から気になっていた。
で、結論からいうと、「特に意味はない」とのことだった。
日没後に空が赤くなることを「小焼け」というって説もあるけど、
そんな理屈より、
「夕焼け~小焼け~」みたいなリズムとノリでなんとなく言ってみた、
というのが一番有力な解釈らしい。
それにしても、都会でトンボが飛んでるところを、本当に見なくなってしまったなぁ。

「井戸端会議」
いまだによく使う言葉で、会社の給湯室なんかで女子社員がだべっていても、
「おい、いつまで井戸端会議をやってるんだ」
なんて注意されたりする。井戸なんてどこにもないのに。
この言葉が生まれたのは、間違いなく明治以降のことである。
なんでか。「会議」という言葉が日常的に使われ出したのが明治以降だから。
江戸時代にはよっぽどの知識人じゃないとこんな言葉は使わなかった。
それが、ある出来事がきっかけで急速に広まることになる。皆さんご存知、
慶応四年三月の「五箇条の御誓文」の布告である。
年頭に鳥羽伏見で徳川軍を破った新政府は、三月の段階では江戸東征の途上である。
この時期、京都では天皇中心の新国家建設のための基本理念を作成していた。
その第一条は「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」となっている。
天皇の独裁ではない、みんなで集まって、話し合いで重要事項を決定します、の意。
ここで「会議」の文字を入れたのは土佐藩の福岡孝弟で、
「列強諸侯が集まって、みんなで話し合う」の意味で「会議」を使っている。
それが、十数年後に自由民権運動が盛んになってくると、
「広く会議を興し」とあるのだから、これは日本人みんなが話し合うという意味だと、
勝手な解釈がされるようになってくる。福岡孝弟さんとしては、
「そんなこと、考えもしなかった」と後年述懐しているのだが、
一度神に誓ってしまった言葉なので、もうどうにもならない。
日本全国津々浦々、あちこちで「会議」が行われるようになる。下町の寅さん熊さんも、
果ては長屋のかみさん連中も、井戸端で「会議」をはじめてしまう。
かくして、女子連の世間話を揶揄するような意味も込めて、
「井戸端会議」
という言葉が使われるようになったと、僕はそんな風に考える。
だとすれば、「会議」とは万機公論を話し合うものであり、会社の利益とか、
芸能人の不倫とか、大相撲のモンゴル問題とか、
すべては国家の未来のために論じなくてはならない。ふんどし引き締めて、
大いに論じ合うべきである。
それにしても水道がここまで普及して井戸なんて文化財としてしか残ってないのに、
いつまでも死語にならない「井戸端会議」という言葉は、
すごいもんだなと思う。
ファミレス会議とか、お茶の間会議だと、何か居心地が悪い。
「井戸端」に代わる庶民の話し合いの場を、現代人は持っていないのかもしれない。

「蓼食う虫も好き好き」
この言葉を見るたびに思う。
鮎の塩焼きは蓼酢で食べるじゃん、と。
しかも、結構おいしい。
俺は虫か?虫なのか?
刺身のツマにだって使われるし、ウイキペディアで調べたら、
ベトナムでは付け合わせとして普通に食べるって書いてある。
誰だい、こんなことを言い出したのは!と思うけれど、
どうも江戸時代には普通に使われていたらしい。狂言の本に残ってる。
意味合いとしては、「あんな不細工が好みなんて、お前さんは変わってるね」となる。
ほっといてくれ、あんたにゃわからないだろうが、あれはあれでいいもんなんだよ!
でもまあ、「あばたもえくぼ」で自分の感性がねじ曲がってる可能性はある。
ものすごいイケメンが実はデブ專であるとか、年増好みが高じて婆専とか、
立場を変えれば世の中にはずいぶん変わった趣味の方が大勢おられる。
かわいい女子高生がファザーコンプレックスをこじらせて、
中年男性にしか魅力を感じない、なんてことだってあるはずだ。まあ滅多にないけど。
世の中の需要と供給はそんな風にして満たされる。
だから自分が醜いとか、他の人より劣っているとか、
あんまり思い悩まない方だいい。胸を張って、堂々と生きるべきである。
赤い糸で結ばれた「蓼食う虫」が、この世には必ずいるものだから。
……うん、これはちょっと苦しかったかな。

2017年12月 1日 (金)

何気ない言葉のホントの意味

前回の続き。

「塞翁が馬」
ちゃんとした意味があるのはわかってるんだけど、
「さいおうがうま」という語感がなんとなくおめでたいので、
「事故で愛車がスクラップになったけど、まあ人間万事塞翁が馬だ」
みたいに、気分を切り替えたいときに使ったりする。
塞翁さんは馬に逃げられた古代中国のおっさんで、特に聖人でも偉人でもなんでもない。
「大損害ですね」と同情してきた村人に、
「いやいや、そうとも限りませんよ」
とうそぶいていたら、馬が仲間の馬を連れて戻ってきた。
不幸は実は幸福への一里塚でした、というお話。でもその幸福も不幸の前触れかもしれず、
そんなことを真剣に考えていたら人生において喜ぶ局面がまったくなくなってしまうので、
とりあえず「ドンマイ」ってな調子で「塞翁が馬」とつぶやいておけばいい。
ちなみに、「にんげん万事塞翁が馬」ではなく「じんかん万事塞翁が馬」だそうだけど、
そんな細かいことは本当にどうだっていい話だ。

「小原庄助」
朝から風呂に入っていると、「お前は小原庄助か」と嫌味をいわれたりする。
誰だよそれ、ってなるけど、一応会津の方に行くとお墓もあるらしい。
一説では幕末の会津藩士だったらしいけど、元禄時代の材木問屋という説もある。
共通しているのは、結構なお金持ちで、朝寝、朝酒、朝湯を何よりも愛し、
それで身上を潰したという民謡「会津磐梯山」の中のエピソード。、
たったそれだけのことで「駄目人間」の烙印を押されてしまうのもどうかと思うが、
この民謡の調子には、「そんな小原庄助が大好きだ!」みたいなノリがあるので、
僕も朝から湯船につかりながら、「はあ、もっともだもっともだ」と、
ダメ人間の没落人生に思いを馳せるのであった。

「時間よ止まれ」
矢沢永吉の歌でそういうのがあった。時間というのは止められるものなら止めてみたい。
青い猫型ロボットのひみつ道具にも時間を止める時計が確かあったし、
アダルトなビデオの世界では、それが一つのジャンルとして定着していたりもする。
時間を止めて、まず何をするかとアンケートをとったら、たぶん90パーセントくらいは、
「異性に悪戯をする」
「お金を盗む」
「嫌いな人間をボコボコに殴って安全圏に逃げる」
ではないかと思う。まあ、ロクなもんじゃない。
矢沢永吉の歌の出典は、たぶんゲーテのファウストじゃないかと思う。
人生に絶望したファウスト博士が、メフィストフェレスと悪魔の契約をする。
「時間よ止まれ、お前は美しい!」
そう叫ぶ瞬間を体験させてくれたら、私の魂を持って行ってもかまわない、だったかな。
最高に幸福な瞬間というのは、人生においてそう何度も起こるものではない。
ファウスト博士は老人になるまで、ついにそんな体験をすることもなくきてしまった。、
だからメフィストフェレスはファウスト博士を若返らせ、女やら地位や名誉やら、
いろんなものを体験させるのだけど、人生の絶頂の声はなかなか出てこない。
純真な少女グレートヒェンに胸がときめいて、真実の愛に目覚めるかと思いきや、
なぜか彼女が発狂するという超絶バットエンドを迎え、博士は落ち込む。
作者のゲーテもここで一度筆を止めてしまう。
第二部の再開まではずいぶんと時間がかかったそうな。。
「ネオ・ファウスト」としてコミカライズしていた手塚治虫にいたっては、
この第一部完のくだりで絶筆、お亡くなりになってしまった。
漫画の神様は「その瞬間」をどう表現するつもりだったのだろう……
万人が納得できる最高の瞬間というのは、なかなかやってこない。
実人生においても、時間を止めたくなるほど幸福な瞬間というのは、ほとんどない。
たまにそれらしい瞬間が訪れたとしても、
頭の中でエーちゃんの歌う声がリフレインし、「あーモルツ飲みてぇ」となるのがオチだ。
まあ、ビールのおいしい瞬間というのは、間違いなく最高の瞬間なのだけど。

「月がきれいですね」
昔、「ストロベリーパニック」というアニメがありまして、
その中でスピカ学園の剣城要というイケメン女子高生が、後輩を誘惑するとき、
ものすごくトンチンカンなセリフを吐きやがりまして、
「地球温暖化」
のくだりはあんまり面白くて、これは伝説になるんじゃないかと思ったら、
十年以上経った今でもレジェンド級のエピソードとして語り継がれていたりします。
で、この要さんが次に繰り出した必殺の決め台詞が、
「夏目漱石は詩人だ」
だったりします。
「アイラブユーを月がきれいですね、と翻訳した夏目漱石はすごい」
という話なのだけど、この夏目漱石のエピソードは出典不明の民間伝承でして、
このアニメのおかげか、オタクの間でずいぶん有名なネタに昇格し、
最近は物語の中で主人公がヒロインに対して、
「月がきれだね」
と言えば、それは告白してるんだという共通認識まで生まれています。
「本当にきれいね」
と流されるところまでが様式美。
民間伝承の中の夏目先生は、英文学の講義中、
「アイラブユーを愛してますなんて翻訳する奴があるか、月がきれいだとでもしておけ」
と生徒に言ったらしいのだけど、確かに、戦前のノリをかろうじて理解してる身としては、
男が女に愛していますと言うなんて、じい様世代じゃ無理だろうなと思います。
リアルじゃない、そんなことを言うやつは日本人じゃない。
だから、若い男女が歩いていて、男が女に気持ちを伝えようとすれば、
「月がきれいですね」
とでも言うしかない。それだけでも女性は相手の気持ちがわかるはずだし、
だいたい、好きでもない異性に月の話なんてするものか、と、
そういう話だったりします。アイラブユーが言えないから、愛情表現が詩的になる。
ひるがえって平成21世紀の日本人となれば、もうみんな「愛してる」を使いまくってる。
歌の歌詞がそればかりだし、正直、そんなことを真顔で言っても、
「こいつ、何が目的だ」
と、警戒されるのがオチ。だから、オタク界隈だけの話であっても、
「月がきれいですね」
という愛情表現の言葉は、ものすごく新鮮だったんだろうなと思うのです。
現代人は真実のアイラブユーに飢えている!
ところで「ストロベリーパニック」はまったく男性キャラの出てこない、
いわゆる「百合アニメ」でして、女の子が女の子とイチャイチャするという、
とても「健康的」な作品です。第一話では正常だった主人公も、
最終回ではガチ百合の暗黒面に堕ちます。
この文章冒頭の「後輩」を詰襟姿のあどけない男の子で想像した方に
いちおう説明しておかねばならないのだけど、
そこにいるのは白い制服の似合う超絶美少女です。

2017年11月26日 (日)

言語解


僕らはふだん、言葉を何の気なしに使いまくっているけど、
そんな「何気ない言葉」の中に深い意味があることに気が付いて、
「あれ?」
となることはよくある。

中国の故事による四文字熟語なんかはその代表なのだな。

「馬耳東風」
人のいうことを聞かない相手をこう呼ぶけれど、元は李白の詩である。
友人が「詩を書いても誰も認めてくれない」と不遇をかこつ詩を送ってきたので、
それにこたえて、「まあ酒でも飲んで憂さをはらせばいい。世間の連中はみんな無理解だ。
馬の耳に春風が吹いても、馬は春を喜ばない、良い詩をうたっても理解が出来ない」
と、返事の長詩を送ったのが出典。
美的感性は俗人にはないものだ、というのが元の意味であり、
身勝手な人間を嘆く言葉とはちょっと違う。
「世間の連中には俺たちの芸術が理解できないんだ!」
と自称芸術家様がいかにも言いそうな言葉なのだ。僕も若いころに言ってたかもしれない。
ちょっと恥ずかしい。

「四面楚歌」
絶体絶命、追い詰められてにっちもさっちもいかない状況のことを言う。
でも、浮気がばれて親族にどやされるのと、楚の項羽が奮戦むなしく追い詰められて、
「ああ、味方であるはずの楚の国の兵までも、俺を取り囲んで歌を歌っているぞ」
というときの絶望感とは、似ているようでだいぶん違う。
カエサルもそうだけど、死に際に信じていた者に裏切られるというのは、
たぶん最悪の死に方である。権力者が権力に溺れると、たいていそんな死に方をする。
織田信長は本能寺で明智謀反をどう思ったか。「是非もなし」は怒りなのか諦めなのか。
人間、死ぬ時くらいは笑って死にたいものである。

「よーいドン!」
オンユアマークの日本版。かけっこでスタートするときに用いる。
当然、「ドン」はピストルの音だと思うのだけど、この擬音はどこから来ているのか。
昔、昭和初期くらいまでは都会で正午に大砲をぷっぱなして時報にしていた。
これを「昼ドン」という。で、この「ドン」は大砲の擬音みたいだけど、
「土曜半休」を意味する「半ドン」をもじったもの、という意味合いもあると思う。
こちらの「ドン」はオランダ語のzondagから来ていて、日曜日を意味する。
土曜日の半分が日曜のようにお休みだから、「半ドン」となる。
博多どんたくの「ドン」もこれと同じである。てか「どんたく」がまるまる日曜日の意味。
つまり、「zondag→半ドン→昼ドン→よーいドン!」じゃないのかなと個人的に考える。
だからどうしたと言われても困るけど、
「しーん」という静寂の擬音が手塚治虫の発明であるように、
「ドン!」という爆発の擬音も、そんな風にできたんじゃないかなと考えると、
言葉の誕生に立ち会ってるみたいで、ちょっとワクワクしませんか?

「こんちくしょう」
漫画のネームで「こんちくちょう!」と書くと、編集さんに「ちきしょう」に直される。
「人様を畜生呼ばわりしてはいけません」とのこと。
戦時中に鬼畜米英と叫んだのと同じで、日本語で最大の侮蔑語が「畜生」である。
「社畜」なんて言葉もある。
でも、羊や豚さんを飼育するように、人間を飼育するという発想は当然あるわけで、
現代の資本家が大衆を見る目は、間違いなく「畜生」である。
その論でいけば、少子高齢化というのは家畜小屋の経営縮小というので説明がつくけど、
そこまで露骨に説明されてしまうと、身も蓋もないので、
メディアは素知らぬ顔で「困ったですね、これは政治が悪いんですね」とすっとぼけてる。
あんまり本質をついてしまっても言葉は刈り取られてしまうという実例。

「指切りげんまん」
約束を交わすときのおまじない。
子供や恋人同士が交わすと考えると微笑ましいが、意味は、
「約束を破ったら指を切断し、げんこつで一万回殴る。さらに針を千本飲ませる」
と、かなり過激。江戸時代に遊女が旦那と後朝の別れをするときに交わしたというが、
遊女の中には本当に小指を切り落として男に送り付ける者もあったという。
そんな江戸遊郭の遊びを子供に教えるというのは、考えてみるとかなりアブナイ。

「何をされてもいい」
僕が子供のころは山口百恵の全盛期で、彼女の歌を意味もわからず歌っていた。
で、大学生のころ、友達が「お前の描く漫画よりこっちの方が面白いぞ!」と、
その当時人気が出始めていた「ちびまる子ちゃん」の一巻だか二巻だかを持ってきた。
アニメ化前の話である。「おどるポンポコリン」はまだこの世に存在していない。
で、僕はその漫画に衝撃を受けたのだけど、それは漫画が面白いからではなく、
山口百恵の歌の歌詞が、実はかなりアブナイ歌詞だと気づかされたことだったりする。
子供のころ普通に「あんたがそれを望むなら、何をされても構わないわー(一部改変)」
と歌っていたのに、それってそういう意味なのかい!と初めて気が付いた。
漫画の中でもまる子が無邪気に歌うその歌を、お母さんがあわてて止めている。
子供にゃ意味なんてまるでわからない、呪文を唱えているみたいなもんだ。
さすがにおニャン子の「セーラー服を脱がさないで」は露骨に意味がわかったけど、
小学生の頃に聴いた歌だと、それがエッチな意味だとまでは考えない。
山口百恵よ、お前もか!となった。
(「青い果実」の作詞は千家和也だけど)

「え音の不思議」
学生時代に「上代特殊仮名遣い」というものを知って、
日本語の成り立ちに興味を持つようになった。母音と子音の関係とか。
で、ランボーがフランス語の母音に色をあてはめたように、
「あ」は明るい言葉が多いな、とか、「お」は威厳のあるものが多いな、とか、
言葉をあれこれ分類して遊んでいた。
で、「え音」なのだけど、
「毛」とか「目」とか、生命の不思議に関わるものが多いなと思った。
「手」とか「屁」とかもそうだし、「霊」とか「音」なんかもそれっぽい。
これは、え音を発音するときに「べーーー」と舌を出す表情になるのが、
大きいのかなと考えた。その表情で発音された音はなんだかものすごく妖しい。
不思議な感じがする。毛が伸びるのは不思議だし、生命の神秘を感じる。
同じように、「芽」というのも同じような妖しさがある。
このへんのことを突き詰めて考えたら、面白い原理がみつかりそうなんだけど、
そんな根気は僕にはないので、「え音は不思議だな」と考えるだけで終わってる。
「風」もそうだね。言葉と表情の関係って、けっこう大きいと僕は思う。

とりあえず思いついたことをダラダラ書いてみました。

2017年11月22日 (水)

藤子不二雄先生の「バケルくん」について。

子供のころ好きだった藤子不二雄作品というと、
「キテレツ大百科」と「バケルくん」がある。
どちらも単行本が擦り切れるくらい読みまくった。

ところが不思議なもので、それほど読みまくった漫画でも、
大人になると内容を忘れてしまう。いや、読み返すと思い出すんだけど、
今、どんな話があったのか思い出そうとしても、なかなか出てこない。
でもものすごく大好きだったのは間違いない。
キテレツ大百科なんて、好きすぎて自分でサンバイザー作って工作してたくらい。

その「キテレツ大百科」の方はアニメ化されて、そちらの方が有名になっているけれど、
僕はそれを観てガッカリしたクチで、なんか、イメージと違った。
古文書から秘密道具を作るメカオタク、って部分が希薄になっていた気がする。
二三回しか観てないから大きなことはは言えないけど、自分が漫画で読んだのと違った。
初めてのチューなんて歌、あの漫画から想像もつかない。嫌いじゃないけど。

「バケルくん」は子供のころ大好きだったので、大人になってから買い直した。
元の本はボロボロになって親に捨てられたんじゃないかと思う。
ネットで九州の古本屋さんから取り寄せた。メールでのやり取りだったかな、
子供のころ大好きな本だったんですよとコメントしたら丁寧な返信がきた。
古本屋冥利につきる、みたいな内容だったと思う。

で、読み返すとやっぱり覚えているもので、「うわ、でら懐かしい」と名古屋弁がもれる。
でも大人だから、子供のころにはまったく気にならなかった異常さにも気が付く。
「いやいや、これはダメだろう」
と思わず藤子F先生に突っ込みを入れてしまう。

「バケルくん」は「パーマン」の身代わりロボットの部分を発展させた漫画だ。
デッサン人形みたいなやつの鼻を押すと、押した人間のそっくりさんが現れる。
パーマンになって正義のために働いている間、
身代わりロボットがパーマンの代わりをしてくれる。学校に行ったり、
家族とメシを喰ったり、友達と遊んだりする。実に便利なロボットである。

「バケルくん」だと、微妙に設定が変わる。
もとは宇宙人が人間に化けるために使っていた変身グッズだけど、
「地球での研究が終わったから」と、たまたま秘密を知ってしまった主人公に、
一式全部プレゼントしてしまう。調査地に研究資材を置き去りにするとは、
研究者の風上にも置けない不作法さだが、まあ、漫画だから仕方がない。

でもこの手の甘さって、わりと後々まで尾を引いたりする。

で、その変身人形は子供タイプの「バケルくん」をメインに、
お姉さん、お父さん、お母さん、それからペットの犬なんてものまであって、
主人公はその鼻を押すだけで好きな人物になることが出来る。
小学生が大人にもなれるってのは、子供の漫画の定番だ。
秘密のアッコちゃん、メルモちゃん、ミンキーモモから魔法少女ものまで、
同じコンセプトの作品は星の数ほどある。
でも、基本的に女の子が大人の女性になるってパターンが多い。
「バケルくん」はそれの男の子バージョンともいえる。
でもまあ、和服のお父さんになってもあんまりうれしくはないかな。

でもこのお父さんは無限に札束が飛び出してくる財布を持っていて、
主人公はピンチになると札束で問題を解決する、というとんでもない暴挙に出る。
いや、それは子供漫画でやっちゃ駄目だろうと大人になった今は思うけど、
藤子F先生はなんでかこの手の話を何話も「バケルくん」の中でやらかす。
「バケルくん」が他の藤子作品と違って忘れ去られているのは、このためかもしれない。
子供の教育上とてもよろしくない。お金で物語を解決してはいけない。
でもまあ、お金があればたいていの問題が解決してしまうってのは、
この世の真理なんだよな。

一番使い勝手がいいのが「バケルくん」と「お姉さん」で、
「バケルくん」になればプロ野球選手並みのバッティングでヒーローになれるし、
「お姉さん」のユメ代になれば、その間だけ頭がよくなって宿題が出来る。
美人でスタイルもいいので、おっかないガキ大将もメロメロだ。

ある意味、ものすごく欲望に忠実な漫画なのだ。
あんなこといいな、できたらいいな、って子供の願望を、滅茶苦茶ストレートに、
文字通り現金なやり方で叶えてくれる。
そのストレートさが子供の僕にウケたんだろうなと思う。
お金ですべてが解決することに、あんまり違和感を感じなかった。
だいたい、ドラえもんのひみつ道具だって、オブラードに包んだ現ナマみたいなもんだ。

でもさすがに、大人になった今になると作品としての欠点は嫌ってほどよくわかる。
主人公の行動原理が弱い。お金で問題を解決しすぎ。
主人公が変身を利用して自分の欲望をかなえるだけの漫画だから、
物語としてはあんまり伸びしろがない。等々。
すべての原因は一話目で宇宙人が安易に人形をプレゼントした点にある。
いっそ主人公が宇宙人から騙し取って、悪の限りをつくす、みたいな話の方が、
まだ伸びしろがあったかもしれない。

でもそういう欠点だらけの作品だからこそ、ヤケクソみたいな面白さはある。
無限にお金が出てくる財布?いいじゃない、お金があればたいていのことは解決できる。
その力を宇宙人がくれたんだから、それを使わない手はない。
俺がもし、そんな財布を手に入れたのなら、世のため人のため、バンバン使ってやる。
困った人がいれば、その金で助ける。好きな子がいれば、いっぱいプレゼントをあげる。
みんなが幸せになれるのが、正しいお金の使い道だ、と、
藤子F先生は言っているのかもしれない。気のせいかもしれない。

「名作」ではないけど、僕は「バケルくん」は結構好きだったりするのだな。

あと、昔の単行本だと二巻目の穴埋めに「ジャングル黒べえ」が掲載されている。
地球の裏側からやってきた魔法使いの黒べえが「ぺっかんこ」と活躍する漫画で、
アニメ化されてそちらは結構な人気作になった。
「うーらうらうら、うらー!」と当時の小学生なら一度は叫びながら走り回っているはず。
でも主人公が黒人だったせいか、人種問題か何かで闇に葬り去られてしまった。
ある意味問題作なので、これが別の意味で問題作の「バケルくん」と一緒になってるのは、
まあ、面白いっちゃ面白いよね。

黒べえはもう一度くらいはアニメを見たいなぁ。肝付兼太さんが主人公やってる作品だし。

そんじゃ、シャラバーイ!

(追記)

最近あったこと

読売新聞の夕刊小説が先週終わった。「落花」という将門の乱を題材にした作品。
叙事詩のようで毎回きれいな文章を楽しめた。

人手不足で企業が労働力確保に躍起になってる。

今年の冬は、なんか滅茶苦茶寒くなりそうだ。

ブログを更新しなかったら弟から生存確認の電話がきた。で、今回急いで書いてみた。

漫画家さんが児童ポルノDVD所持の容疑でお縄になった。今友人とその話をする。
「子供には何も感じませんね」とのこと。僕だって子供は子供にしか見えない。
女の子のエッチな漫画を描きまくってた作家さんを一人だけ知ってるけど、
その人は自分に娘が生まれてから、方向性が微妙に変わった。大人のお色気にシフトした。
で、そのために業界の第一線から消えてしまった。
今でも思い出すけど、晴海の同人誌即売会で、セーラ服の女の子と、ボンテージの女の子、
ふたつの画像を並べて、
「おまえら、どっちが好きか言ってみろ」
とやって、みんながセーラー服の女の子がいいと言ったら、滅茶苦茶不機嫌になった。
空気を読んだチーフアシさんだけが、
「俺はこっちのお姉さんがいいです」
と黒いボンテージのセクシーお姉さんに一票いれたのだけど、
僕はこの先生はこの先この路線でやっていくのかと、ちょっともったいない気がした。
なんだかんだで若い女の子の方が、
圧倒的多数の読者の歓心を呼び込むだろうなと思ったから。
ボンテージは、微妙なエロスに何も感じなくなった大人が興奮するためのものだし、
それを若者(当時の僕らは二十代)に突き付けても、「汚い」としか感じない。
圧倒的多数の読者のために、先生はセーラー服の女の子を描くべきだ、
その努力をするべきだと、心の中で思ったのだな。
でもまあ、自分の娘がいるのに、
その娘さんの成長を見ながらその年頃の子を性的に描くのは、難しいことではある。
それでもやってる人はいるけど。
それどころか、有名なエロ漫画家さんが娘ありで、
しかもその娘さんと自作の宣伝をしているネット記事を見たときは、
「やる人はやるもんだ」
と変な感心をしたもんだ。ものすごい葛藤と開き直りがあったんだと推察する。
なんの話やねんて思われるだろうけど、エロい漫画だろうと、明治の剣客の漫画だろうと、
若者に微妙なエロスを伝えるための努力は必要で、それが今回、
ちょっと間違った方向に行っちゃった可能性もあるなと、僕は考えたのだ。
犯罪行為は絶対やっちゃダメだけど、あんな漫画を描いている人がそれかよ!
みたいな論調は、ちょっと違うと思う。あんな正統派の漫画でも根っこにはエロスがある。
若い読者の共感を得るために、それを掻き立てようとして、
犬畜生のような所業に及んだ可能性もある。
単に趣味だった可能性の方が滅茶苦茶大きいけど、
そこに漫画を面白くしようとする努力がほんのわずかでもあった可能性は、否定できない。
ひょっとしたら、数パーセントくらいは必要経費で落とせる買い物だったかもしれない。
(いや、だから百パーセント違法だって)
だから、なんだ、しばらく反省をされてから、きれいな体になって、
今度は正しい方向で自分の中のエロスを掻き立てて、面白い漫画を描いてくださいねと、
ちょっとだけ情状酌量っぽい書き方をしてみるわけだ。
でもまあ、そういう違法的な需要が罪のない子供の未来を摘み取るわけだから、
絶対買っちゃいけない買い物なのは間違いない。罪は罪だ。
世の漫画家さんたちは、合法的な方法で自身のエロスを燃やしてください。
お願いします。

2017年11月 7日 (火)

とりとめもない話

秋晴好日。

自分の目は年相応にずいぶん衰えてきているのだけど、
それでも、細部が見えないかわりに全体はよく見えていたりする。
散歩中に病院の大きな木が実にいい感じにたたずんでいるのを眺めて、
明るい茶の色合いといい、しみじみ秋だなぁなんて楽しんでいたりする。
むしろ、
細部がよく見えないから画家のモネの絵のように楽しめる。
あの人もずいぶん目が悪かったそうだし、
それで名画をたくさん残せたのだから、肉体の衰えは悪いことばかりじゃない。

先日、島根の方で父方の法要があって、母と弟が分家代表で参列させてもらった。
で、大量のお土産をいただいたそうで、東京の僕の方にもいくらか分けてくれた。
出雲そばとか、菓子とか、中にはどう考えても名古屋産の味噌煮込みうどんとか、
いろいろあったのだけど、なぜかその中に柿がふたつばかり入っていた。

母は柿をぐじゅぐじゅに熟させて食べるのが大好きで、送ってもらったのも熟しきってた。
柿と言ったらふつう硬いイメージがあるのだけど、その二つはゴム毬状態だ。
両手でパクリと割ったら中身が完全にゼリーとなっていた。
見た目があんまりよくないので僕はあまり好きじゃないけど、味はこっちの方がいい。

子供のころ、母はよくテレビの上に柿を並べて熟させていた。
今の薄型のテレビじゃイメージできないけれど、昭和のテレビは箱型で、
上にいろんなものを並べたりした。猫を飼っていれば猫もそこを好むらしく、
YouTubeなんかで薄型テレビの上に無理やりまたがる猫の映像とか、
意味ねーじゃんと思いつつ、結構楽しんでいたりする。

なんせブラウン管だから熱がじんわりのぼってくる。柿は数日で熟すし、
猫もあったまる。
小学生のころ、飲みかけの牛乳入りカップを置いたままにしてたら、
なぜかヨーグルトと化していた。どんな菌の作用かわからんので食べんかったけど。

柿というと硬いのを食べるイメージがあるのだけど、
母のような食べ方はメジャーなものなのだろうか。
自分もスプーンでプルプルのを食べながら「昭和の作法」を堪能した。

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

正岡子規の俳句だな。子供の頃は何がいいのかさっぱりわからんかったけど、
大人になるとしみじみいい句だなと感じ入ったりする。
俳句なんて、作ろうとして作ったものはみんなつまらない。
頭が作るものはたいていくだらない。
ふと口をついて飛び出したため息が、言葉になってるってのがいい。

咳をしてもひとり

とか、思考回路が作り出すもんじゃない。四国の島のくたびれたおっさんのため息だ。
自分もそんな風に言葉が紡ぎだせたらなと思うけど、
なかなかその境地にはいかない。頭で考えてる。

漫画のネームを書くときも、理想としては頭で考えない言葉を使いたい。
体からすっと、飛び出してくる言葉がいい。
だいたい、僕が必死で考えた言葉というのは、たいてい言い訳とか屁理屈なのだ。
「これはこういうお話で、とてもよく考えられていて面白いんですよ」
とくどくどと解説をしている。、
そういうネームは使い物にならないのでくしゃくしゃに丸めて捨てる。
読者にしても、作者の言い訳とか屁理屈なんか読みたくはないだろう。
逆説的にそのみっともなさを楽しむという遊び方も、まああるんだろうけど、
当人には自分がさらし者になっている自覚はなかったりする。

「目には目を、ハニワ、ハオ!」

という名言を残した知り合いの女の子がいて、その境地が自分の目標だったりする。
当時、仲間内で「ハニワ!」「ハオ!」が挨拶になっていたような、いなかったような。

散歩中に「理容ハニワ」という看板が目に入って、
「は!?」
と驚いたのだけど、よく見たら「理容ハニウ」だった。店主が埴生さんなのかな。

とりとめもなく、言葉は駄々洩れになるのであった。
それにしてもいい天気だなぁ。

2017年10月30日 (月)

「恩讐の彼方に」

台風一過で今日は天気はだいぶいいのだけど、風がとにかくすさまじい。
木枯らし一号なのだという。北風小僧の寒太郎なわけだね。

こういう天候だと「風の又三郎」なんかを読み返してみるのもいいかもしれない。
どっどどどどうどどどうどどうどう
だったかな。うろ覚えだけどそんな風の音から始まったような気がする。

木枯し紋次郎もこういうからっ風の吹く日には脳裏をかすめる。どうでもいいけど
日本人は「風のキャラクター」が結構好きだよね。

風は吹きまくってるけどお日様はずいぶんご機嫌なので、散歩に出たいけど、
漫画だとこういう天候の日には看板とかたらいとか、いろんなものが降ってきそうだ。

まったく関係ない話だけど、昨日の大河ドラマのサブタイトルが
「恩賞の彼方に」
だった。

「直虎」は毎度有名作品のタイトルをパロディにしているのだけど、
この元ネタになった作品は僕の結構好きな小説だったりする。
青空文庫でもすぐに読めます。僕の持ってるのは小学館の新撰クラシクス文庫。

「恩讐の彼方に」は菊池寛の出世作で、いちおう史実を題材にしたフィクションらしい。
主君殺しの若侍が自らの罪のあがないにとある大事業を始める。
周囲の人間に小馬鹿にされながら、男は何十年その事業に打ち込む。
そういうお話。詳しいストーリーはネタバレになるので書けない。

でもストーリーよりは部分部分の文章を味わいながら繰り返し読んでいたりする。
「愛読書」ではないけど、それに近い本なのだと思う。

金曜日に病院に検査に出かける用事があって、
どうせまた待合室で時間を潰すのだから、なにか適当な本を持っていこうと、
机の上を物色してたまたま引っ張り出したのがこの本だった。

で、採血室でイケメンドラキュラに血を抜かれた後、小一時間以上待たされて、
その間この本を読み返していた。
「あんなことを真面目にするなんて、あいつは馬鹿だ、基地外だ」
などと言われつつも、自ら罪と向かい合うため一心に事業に打ち込む主人公、
その姿はなんというか、手塚治虫の絵で脳内再生されてしまったのであった。
別にそんな作品を手塚先生は描いてないと思うんだけど、いかにも描きそうではある。

自分の番になって先生とあれこれよもやま話。
お薬をまた一種類増やされてしまった。
業者と結託してるのかこの先生は!と思いつつ、もっと健康的な生活せにゃと、
大いに反省するのであった。

まあその足で野郎ラーメンに行って味噌ラーメン食べてきたんですけどね。
お店のお姉ちゃんに「ニンニクは使いますか」と目をのぞきこまれてびっくりした。
イヤホンしてたから気が付かなかった。

野郎ラーメンなのに女子率が高くて、一時店の中に僕と店主の二人しか男がいなかった。
野郎ラーメンだから女の子が寄ってくるのか?実はやおいラーメンなのか?
などと下らないことを考えつつも、ラーメンを堪能する。

なんでも、スマホで月七千何ぼか払うと、ラーメンが食べ放題になるらしい。
そういうサービスをやっているとココログの記事であった。
いやいや、そんなに食べまくったら体が壊れるでしょ!と思うけど、
僕も若いころはラーメン屋のバイトで一年間ラーメンを食べ続けたので、
若者ならそれくらいお茶の子さいさいなのかもしれない。
今の僕がやったら確実に寿命を縮める。

ラーメンよりもうどんがマイフェイバリットなお年頃なのだけど、
ときどき無性に食べたくなるよね、ラーメン。
お昼になって土建業のお兄さんたちが大挙して店に入ってきて、
カウンターの僕の隣にいた女の子がそそくさと店の隅に移動した。
僕の両隣が一気に汗臭い男祭り状態になった。
これぞまさに「野郎ラーメン」。
自分の家で作った方が安上がりで具材も健康的なんだけど、
この人ごみの中で食べてます感は、自分の家では味わえない。

個人事業主(笑)ならではの感想なのでした。
会社にお勤めの方なんかはうんざりするシチュエーションだと思うけど。


2017年10月24日 (火)

漫画の編集とは……


昔、某編集部に打ち合わせに行ったときの話。
たいていの編集部はデスクの島とは別に打ち合わせルームみたいなところがあって、
椅子とテーブルが並べられ、安い喫茶店のようになっている。
自分は学生時代の学食を連想する。
某社は個別に仕切られていたりするし、別の出版社は窓際の眺めのいいところにある。
僕がその日行ったのはランダムに机の置かれた打ち合わせスペースで、
雑誌の本棚の向こうにデスクの島が見える。
ときどき顔を知っている方が通って、お互いに頭を下げたりする。

そんなところだから、隣で打ち合わせしている様子が結構はっきり見えたりする。
なんか若い男性が原稿を描いているので、
「あの先生、お忙しそうですね」
と担当さんに聞いたら、
「あれは週刊の方で○○を連載中の○○さんだよ」
「○○を舞台のあれですか?僕はてっきり女性の方が描いてるのかと思いました」
「女性の魂を持った男性作家だよ」とニヤリほくそ笑む。

それ、カッコいいな、僕も女性の魂を持った漫画家とか呼ばれてみたいな、
でも心の底からオッサンだから無理だなと、あれこれいらん話をする。

ときどき知らない編集さんが顔を突っ込んできて、
「なんの打ち合わせをしてんの?」
と声をかける。
こういうとき、売れてる漫画家さんだとあっちも自己紹介を始めたりするのだろうけど、
僕程度だと鼻で笑って立ち去っていく。

虚飾を排し、合理主義のはびこるのが編集部という戦場なのだ。
慇懃無礼に挨拶されるよりはよっぽどいい。

すぐ後ろの席で新人さんを相手に掲載原稿の作戦会議が始まる。
新人さんは寡黙な好青年で、僕なんか誰かもわからんだろうに、
とりあえず頭を下げて挨拶してくれた。
いや、まあ名前を言っても知らんと思うけど。

担当編集者は若い女の子だった。
育ちの良さそうな、かわいい女の子だ。
僕もどうせならあんなお嬢さんに担当してもらいたかった。
ちくしょう、とんだラッキーボーイだぜ!俺と変わってくれ!と、本気で考えた。

その彼女の口から飛び出したのは卑猥な言葉のマシンガントークだった。

「もっとこう女の子のパンツとかバンバン見せちゃってください」
「はあ」
「押し倒す勢いで、レイプ寸前みたいな感じで」
「ええ……」
「それくらいやらなきゃ、読者は読んでくれないの。わかります?」
「はあ」
「○○先生とか、さりげなくパンチラのシーンを出してきますよね、知ってますか?」
「読んだことはないですけど」
「古典的名作でもそれだけのことをやってるんです。これは覚悟の問題ですよ!」
「そんなもんですか」
「オッパイももっと大きくして、制服の上からでも形がわからなきゃダメです」
「はあ」
「乳首も描いちゃってください」
「いやいや、下着があるから見えないでしょ」
「だから何?誰も本物の乳首を描けなんて言ってないの。乳首のような何か、なの」
「……ボタンとか?」
「乳首なの!勃起してるの!」
「ええ……」

なんてうらやましい打ち合わせなんだと、僕は心の底から思ったさ。
そこへ自分の担当の二児の父親がやってくる。
長男の成長がうれしいらしく、お酒が入ると「昆虫が大好きでね」といろいろ話しだす。
娘さんもいるので、間違ってもその手の話になる気づかいはない。
PTAを背中に背負っているような理想の父親だ。
昔は蕎麦屋の上の編集部に行くと、エロ漫画を読んでるようなエロ兄貴だったのに。

えーと、何の話をしてるんだっけ?
漫画雑誌の編集部は戦場である、ときどき思いがけない砲弾が飛び交っていたりする。
かわいいお嬢さんが羞恥心を投げうってエロい漫画の企画会議をする。

決して仕事のストレスを若い新人相手にエロトークすることで発散してるわけじゃない。
真面目にエロい漫画を作ることに情熱を燃やしているのだ!
そんな漫画編集者の方々を、僕は心から尊敬しております!
そこんとこよろしく!

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