無料ブログはココログ

amazon

  • PCソフト
  • DVDベストセラー
  • ベストセラー
  • ウィジェット

2017年6月21日 (水)

鉛筆の話の続き


 1

地下鉄の工事現場に子供の絵が長い間飾られていた。
そこは有楽町線でも多くの軌道が重なるところで、工事は何年も続いている。
百メートルくらい、殺風景なフェンスが続く道路があったりする。
道なりに地下鉄の軌道があるのだから仕方がない。

あんまり殺風景だから、近所の小学校の子供の描いた絵がフェンスに飾られていた。

どなたのアイデアかは知らないけれど、これが案外悪くない。
何十メートルも子供の絵がひたすら並んでいる。散歩中の自分もつい見入ってしまう。
上手い下手でいえばヘタクソな絵なのだけど、
そのヘタクソさ加減が、なんとも心地よい。
クレヨンや水彩で描かれた家族や友達、未来予想図、心地よい部屋の風景、
そんなものを何十メートルも歩きながら眺めていると、
「これが絵なんだよな」
としみじみ考えたりもする。

絵は上手下手ではない、いくら綺麗に描いてある絵でも不快なものはある。
よく言われることだけど、小学生の天真爛漫な絵が中学にあがる頃から技巧に走りはじめ、
安っぽい漫画みたいな絵になったり、「俺、絵が上手でしょう?」的な空気を漂わせて、
大人をがっかりさせることがある。違う、そうじゃない、そういう絵を描いちゃいけない、
そういう自尊心を満足させるだけの絵は、ものすごく不愉快なんだよと、
叫び出しそうになる。

自分がそういう不愉快な絵をいっぱい描いていたから、なおさら目を背けたくなる。

子供はなにしろ無垢な生き物だから、上手に描こうとか認められたいとか、
あんまり複雑なことは考えない。だから、思春期以降の大人よりはよっぽどいい絵を描いている。、
絵を描く根源的な理由に近い感じはあるから、眺めていると癒される。

 2

鉛筆の話、その続き。

鉛筆で線を引いて、それが気持ちのいいラインか、そうでないか。
一本の線ならいい。
人間には誰にでも、自分の引きやすい線というのがある。
勢いよく、サーーーッと引けば、それはたいてい気持ちのいいラインだ。

では二本目の線はどうするか。
同じような線では絵として成立しないから、ちょっと無理をしていびつな線を引く。
この瞬間に、絵は成立しなくなる。だって、無理やり引いた線なのだから、
それが気持ちがいいはずがない。

子供はそんなことを考えない。
ひたすら気持ちのいい線だけを引く。だから、絵として成立する。

上手な絵を描こうとする人は、無理やり線を引きまくって気持ちの悪い絵を描く。
見た目はなるほど上手そうに見えるが、それはたいてい上手な人の絵の模倣であり、
線の集合体としてはむしろ死んでいることが多い。

だから、無理やり上手そうに描いた絵よりは、下手糞でも勢いのある線の絵の方が、
よっぽど気持ちが良かったりする。
複雑なデッサンを駆使した絵が、なんだか気持ち悪く感じてしまったりするのは、
たいていこんな理由である。もちろん、複雑な絵でも気持ちのいいものは気持ちいいんだけど。

だから、一本目の線を引いて、二本目をどう引くかというのが、
わりと重要な問題だったりする。

うん、まったく鉛筆の話になっていない。

書きやすい鉛筆というのは、芯が本体の中央を正確に貫いている
「そうでない鉛筆なんてあるの」
と聞かれそうだけど、ある。昔の鉛筆は芯が中央に来ていないものがときどきあった。
極端な話だけれど、昔中国の色鉛筆をお隣にいただいたら、
芯が思いっきりずれていて、鉛筆削りで削ったら「ときんときんの木の棒」になった。
芯はその先端のわきに、木星の大斑点のようにずれまくっていた。

書き心地のいい鉛筆というのは、いろんな要素があるけれど、
まず芯が中央になくてはいけない。
そうでなくては、握りを変えるたびに線がぶれてしまう。この、線がぶれるというのが、
なかなかに重要だったりする。

いい絵は線がぶれていない。
常に一定の法則の上に線が存在している。
それは、線が常に円を描いて始点と終点をつないでいるからで、
ようは綺麗な円を描いている。

これがきれいな絵の第一要素。

一本目も二本目も、同じ円の円周上にそんざいしていること。
そして三本目四本目と円を重ねていって、
それらが常に同じ中心点を持つ円の上に構成されていれば、絵は綺麗に成立する。

二本目の線がいびつで不快になりがちなのは、この法則を完全に無視しているからなので、
絵として出来上がったとき、その線が示す円の中心点が、てんでばらばらだったりする。
人の目は対象をとらえたとき、その中心点を無意識に見ている。
いい絵はその中心点が明確であり、見るものはその中心点の明確さをもって
いい絵と悪い絵を区別している。
たぶん、そうなんじゃないかと思う。(いきなり弱気になった)

鉛筆という筆記具の優れたところは、この円を導き出しやすいところにある。
筆だとある程度修行を積まないときれいな円は描けない。
気合を入れて、
「ふんぬ!」
と筆をぶんまわして、
それで中心点の明確な絵になる。
でも鉛筆だと、そこまで気合を入れなくても、消しゴムで線を修正しながら、
大体の形を探ることができる。いわゆる、「下書き」というやつである。

僕は何十年も絵を描いているけれど、それで気が付いたことは、
「自分の絵は芯のずれた鉛筆で描いた絵みたいだ」
ということだったりする。
絵の中心に対して、向かって左側に少しずれている。

いい絵を描く人はたぶん中心がしっかり真ん中にきている
だから二本目三本目と線を重ねても、すべて中心が明確な線になっている。
僕は中心がずれているから、なかなかうまい絵に絵にならない。
人体を描いて、その中心が人体の外側にあったら、それは幽体離脱した絵であり、
見ていて気持ちが悪いのは当然のことだ。

すなわち、絵が死んでいる。

だから、絵を描くときはこの「中心」がしっかり対象の真ん中になくてはならない。
自分の目の右側にすっ飛んでしまった中心を、しっかり目の前に移動させる。
おかげさまで、絵の中心というものは、なんとなくわかるようにはなっているのだ。
それをぐっと中心に移動させて、意識をそこに集中させる。
気合を注入する。
で、頭に浮かんだイメージにそって、鉛筆をできるだけ気持ちよく動かして、
大体の輪郭を一気に描き写す。

あとはその中心を意識しながら、細部をちょこちょこ入れていく。

弘法は筆を選ばすという言葉があるけれど、
いい筆は、持つと自然と中心の明確な線が引けたりする。
ペン先でも、おろしたてのものは中心のはっきりした絵になりやすい。
体がペン先にひきずられて、正しい姿勢になっているからだ。
逆に使い込んでへたったペン先だと、無駄な力が入らないから、体はその分だらける。
そのだらけた体の導き出した中心に向かって、てんでバラバラに線を引くから、
絵はぼやけるし、見ていて不快な絵になったりもする。

でも弘法大師ほどの達人になれば、筆記具の力は借りなくても、中心は見えているので、
どんな筆であろうが、きれいな線が引けてしまう。

初心者ほどいい筆記具を使わなければならないというのは、このためなのだろう。

言葉にならない絵の世界を、自分なりに無理やり言葉にしてみました。
実際はこれほど単純でもないし、まだまだ納得のいく絵は描けなかったりもするけど、
たぶん方向性は間違っていないんじゃないかと思う。
自分は基本的に絵が下手糞な人だから、
これくらいいろんなことを考えながら描かないとまともな絵にならないって、
そういう文章でもあるんですけどね。

本当に、年をとるといろんなものが見えてきて、
若いころにこれが理解できていればなと、歯噛みすることがいっぱいある。
早いとこ医学が進歩して、老人でも十代の若者の気力が持てるようにならないものか。

ま、無理か。

鉛筆の話

社会人になると使わなくなる文房具ってのは結構あります。
分度器とか、三角定規とか、人によっては鉛筆だって触らなくなるかもしれない。
シャープペンシルがあれば日常的には事足りますからね。

鉛筆は鉛の筆と表記するけれど、芯の成分に鉛は一切使われていない。
「芯をなめると鉛中毒になるぞ」
というのは鉛筆の表記に惑わされた誤解だったりします。
……いや、今の子は鉛筆をなめたりしないか。
昔の人は筆に墨を含ませて文字を書いていましたから、
筆先をなめて湿らせていたんです。
その癖で、明治大正生まれのおじいさんおばあさんはよく鉛筆をなめていました。

じゃあなんで鉛なんて名前がついているのかというと、これは単なる「誤解」です。
芯の材料になる「黒鉛」は、昔は鉛が入っていると思われていたそうで、
のちに炭素の塊だと判明したのですが、
「いまさら呼び方を変えるなんてできねぇよ」
ってんで、そのまま「黒鉛」の呼び方が残ってしまったそうです。

で、黒鉛を使っているから「鉛筆」って名称になるのですが、
まあ、「えんぴつ」という音はときんときん(名古屋弁)の芯のイメージに合ってますし、
市民団体も左翼系の歴史学者も特に文句をつける筋合いのことではないので、
そのまま使われ続けております。

僕も細かいことで揚げ足をとって勝利宣言をする趣味はないので、
鉛筆は鉛筆のままでよいのではないかと思います。

……今気が付いたけど、筆の文字を「ぴつ」と読ませるのってなんでなんだろう。
「えんひつ」が自然と「えんぴつ」の発音になったんだろうか。
他には「末筆」くらいしか思いつかないけど、どちらも一度唇を結んでいるから、
そこから「Hi」の音に行くときに破裂音になるのかもしれない。
この「ぴ」の字の破裂音が、なんかいい感じに鉛筆の形態を表している。
英語の「pencil」も破裂音から始まってるし、
破裂音には細くてするどいニュアンスがあるから、偶然にしてもよく出来てる。

ちなみに、ペンシルの語源はラテン語の「ペニス(尻尾)」からきているようです。
これを「ペニスちゃん」みたいな呼び方にしたのが「ペニキッルス」で、
これがラテン語の「画筆」になります。「小さくてかわいいしっぽ」ですね。

……いろいろ突っ込みたいところだけど、ここはあえてスルーします。

いやダメだ、スルー出来ない。

だいたい「ぱぴぷぺぽ」はなんかいやらしい。
「おっぱい」とか「おちんぽ」とか、「ヒップ」とか、「ぷりぷりのお尻」とか、
なんで卑猥な表現には「ぱぴぷぺぽ」が多用されるのか!
おかげで、「えんぴつ」まで卑猥な言葉のように思えてくるじゃないか!

「艶筆」

じゃかーしいわい!

などと一人で盛り上がりつつ閑話休題。
黒鉛を棒状にして、それを手に握って皮や紙にこすりつける、
これが鉛筆の原理です。
さすがにそのままじゃ手が汚れるので、布や紙を巻いたり、木の間に挟んだりします。
この、木の間に挟む形態の発展形が現在の鉛筆になります。

作るのはいたって単純。平たい板の上に溝を何本も彫って、そこに芯を並べる。
上から同様の板をのせて接着材で貼り付ける。
これを芯にそってバラバラに切断すれば鉛筆になります。

だから、17世紀に鉛筆が考案された当初は、芯は四角形で木の部分は八角形でした。
カドを落とすってのが、一番簡単な成型法ですからね。

当初は芯の部分は先端から真ん中あたりまでで、後ろのほうに芯はなかったそうです。
そりゃそうだ、削って使ううちにどんどん短くなるんだから、
後ろまで芯を入れても意味がない。僕は子供の頃からずっと不思議だったんです、
なんで使わないところにまで芯を入れちゃうかなって。

本当になんでなんだろう。

記録上最初に鉛筆を生産したのはドイツの業者だったのですが、
面白いことに、この時期の鉛筆が伊達政宗公の墓所から見つかっています。
どうも輸入品の鉛筆を参考にして国内で作らせたものらしく、
おしゃれな木製のキャップまでついています。
あと、久能算東照宮には家康のものとされる鉛筆が残されています。
これがもし普及していたら、江戸時代は鉛筆の文化になっていたかもしれず、
そうなると浮世絵なんかの芸術方面がずいぶん違ったものになっていたんでしょうけど、
まあ、そうはならなかった。
筆と墨で十分じゃん、となった。

一方、ヨーロッパでは鉛筆はどんどん発展していきます。この違いはなんだろう。
美的感覚の違いかな。横文字は鉛筆で書いてもそれなりに見られるけど、
漢字やひらがなは、均一な線で書くと味わいがずいぶん損なわれる。
それに西洋では船乗りが鉛筆を愛用したって話もあるし、
鎖国中の日本ではそれほど遠くまで航海はしなかったので、
「墨がなくなった!文字が書けねえ!」
みたいなアクシデントが少なかったのかもしれない。

船乗りにとって鉛筆が便利だったのは、インクの補充がいらないとか、
インク壺をひっくり返す心配がないとか、いろいろ考えられますけど、
一番大きいのは水に濡れても文字がにじまない、ってことだったそうです。
だったら、日本でも事情は同じはずなんだけど、
なんでか日本人は鉛筆を使わなかったんだよなあ。
日本で耐水性の開明墨汁が発明されたのって明治になってからだし……

で、まあ明治になって西洋文化が大量に入ってくるようになって、
ようやく日本人も鉛筆を使うようになりました。
明治20年にはあの「三菱鉛筆」さんが国産鉛筆の製造を開始しております。

みなさんご存知のことでしょうが、この三菱と銀行とか車の三菱さんは
まったく関係ありません。別企業です。
三菱財閥が商標登録しようとしたら、十年も前に三菱鉛筆さんが登録していたそうです。

ウイキペディアを見ていて面白い話を見つけてしまった。
戦後になってGHQが入ってきて、日本国内の財閥をすべて解体したのですが、
このとき三菱財閥も解体されています。
アメリカにしてみれば軍需産業の頭目ですから、真っ先に解体します。
戦艦武蔵とか、ゼロ戦とか、さんざん苦しめられた兵器を作ったのはこの企業ですから、
そりゃあぶっ潰します。徹底的に。

で、GHQは三菱鉛筆も一緒に解体しようとしたそうです。

「うちは三菱さんとは別会社じゃ!」
とさんざん抗議しまくって、どうにか理解してもらえたそうですが、
日本人の僕ですら二十歳くらいまで三菱グループの企業だと思っていたので、
外人さんにしてみれば「なんで同じ名前やねん」てなもんでしょう。

「うちのが元祖なのになんで名前を変えなあかんねん!」
ってことですか。

似たような話でオウム真理教事件のときのオーム電機ってのがありますが、
事件の真っ最中に家電品の大値引きセールがあって、僕はアイロンを購入しています。
滅茶苦茶安かった記憶があるので、オームさんにしてみれば不幸なことだったでしょう。
(三菱とオウムを一緒にするなって話ですが)

これが鉛筆の簡単な歴史なのですが、
本当はここから画材としての鉛筆と絵の関係を考察するはずだったんだけど、
断線しまくってるうちに文章が長くなりすぎた。
このへんで終わります。

2017年6月20日 (火)

キャベツと社長さん

 1

亡くなった父が自分の叔父をものすごく尊敬していて、その話をさんざん聞かされた。

僕から見れば大叔父にあたる良雄さんは川隅の本家の次男坊か三男坊で、
養子に出されて才覚一本で大きな会社の社長さんにまでのし上がった。
だから、同じように本家を出て独立した父には、人生の目標だったんだと思う。
俺も叔父さんみたいに故郷に錦を飾ってやるぞ、てな感じで。

姫路に本社があって、幼稚園の頃に父と叔父さんとお城をバックに写真を撮っている。
だからその時のことだと思うけど、父に連れられて社長に会いに行った。
駅前の商店街のおもちゃ屋に寄って、ガッチャマンのゴッドフェニックスの玩具を見つけて、
買ってほしかったけど買ってもらえなかったのは覚えてる。
なんと、ガチャマンのほかのマシンも収納できてしまうすぐれもの。
子供のころの自分は、ボンフリー号とかタイムボカンのメカブトンとか、
小さいマシンを収納できる大きなマシンがなんか大好きだったのだ。
電人ザボーガーの頭の中からヘリコプターが出てきても許せてしまうお年頃だ。

で、会社の社員寮みたいなところに一泊した。
社長さんなら豪邸の一つや二つは持ってそうなものだけど、
「そんなものはいらない」
という、実にあっさりした叔父さんだったのだ。
お金持ちの豪邸に泊まってみたかった僕は、ちょっとがっかりした。
トラ皮の絨毯の上でフカフカのソファーに寝転がってみたかった。
僕の持ってる昭和のお金持ちのイメージは完全に成金親父である。

で、その晩は僕は社員寮に残され、父は叔父さんと飲みに繰り出したのだと思う。
幼稚園児が一人でわけのわからないところに置き去りにされ、ちょっと不安だった。
父にしてみれば、尊敬する叔父さんに自分の長男を見せたかったのだろうけど、
いざ連れてきてみたら持て余した、ってところなんだろう。
計算してみたらあの当時の父は30代中ごろである。
今の僕からすれば考えなしのただの若造である。

で、朝になって目が覚めたら、父が申し訳なさそうに苺を用意していた。
「練乳も買ってきたぞ」
と、苺にまわしかけてくれて、食べたらそれがものすごくおいしかった。
あんまり昭和の話なんでわかりづらいかもしれないけど、昭和40年代、
苺に練乳をかけて食べるなんてのは、なかなかにステータスの高い食事なのである。
普段は牛乳に砂糖をまぶして食べていた。

あと、姫路城内でレインボーマンのお面をかぶった僕の写真なんかが残っているけれど、
そこらへんのことは全く記憶に残っていない。
社長さんと写真を撮っているのに会ったことすら記憶に残っていない。
ただ、この旅行で「父は叔父さんのことをものすごく尊敬しているのだな」というのが、
なんとなく頭に刻み付けられた。

だから、中学生くらいの時に父が話して聞かせる叔父さんの伝説も、話半分で聞いていた。
「本社のセレモニーホールにピアノを置いたんだけどな」
「うん」
「叔父さんはそれまで触ったこともないのにピアノを演奏したんだぞ」
「ふうん」
「やっぱり社長になるくらいの人は天才なんだな」
「さよけ」
みたいな感じである。
たぶん適当に叩いたピアノの音が、父には天上の音楽のように聞こえたのだろう。

この大叔父がテレビに出たときは、僕もさすがにワクワクした。
宮尾すすむの「日本の社長」は僕の大好きな番組コーナーだったし、
自分の縁者が宮尾すすむとどんなやり取りをするのか、期待もした。
でも、少年のワクワクは番組開始早々に裏切られた。
宮尾すすむが長期休業か何かでレポーターが代理の人だったのだ。
この段階で僕の興味は半分吹き飛んだ。

テレビに出てきた大叔父は、ものすごく成金ぽかった。
たぶん、そう思わせないために豪邸を持っていなかったのだろうけど、
そのことで逆説的に成金度はアップしていた。

「私はキャベツが大好物なんですよ」
と、高級マンションの一室で丸のままのキャベツをむしって食べていたけど、
なんかカッコ悪かった。そんなもん全国放送で流すなやと思った。

「私は金持ちだけど、こんな質素な生活をしています」的なアピールは良くない。
いっそ金満豪邸親父であってくれたほうがよっぽどすがすがしかった。
番組の最後にスタジオに現れ、一千万円の眼鏡を自慢したのも、かっこ悪かった。
なんか、徹底していない。結局お金持ちだって自慢したいだけじゃん。

この大叔父の息子さん、父の従兄にあたる人はこれとはまるで逆の性格で、
ラスベガスまで遊びに行って一億円ふっ飛ばしたという話がある。
「道楽息子だ」と、父は批判的に話していたけれど、
僕はそっちの方がよっぽどカッコいいと思った。
金持ちは金持ちらしく、豪楽に振舞ったほうがよっぽど見栄えがいいのである。

で、ここまでが前振りなのだけど、キャベツを生のままでむしって食べてみました。
今回はそのお話なのです。

 2

原稿を描き終え、ホッとした反動なのか、それまでの不健康な食生活の反省なのか、
「生野菜が食べたい」
と、ものすごい欲求が沸き上がってきた。
冷蔵庫の中には買ってきたばかりのキャベツやらピーマンやらがある。
よし、食べよう。
僕は皿の上に生のキャベツと種を取り除いたピーマンをのせた。
さすがにそれだけだと寂しいので、お酢と塩をふりかけた。

で、バリバリ食べてみた。手づかみで。

驚いたことに、めちゃくちゃおいしかった。
ピーマンはさすがに不味いんじゃないかと思ったけど、そんなことはなくて、
程よい甘みさえ感じるくらい、おいしかった。
「料理っていったいなんなんだろう」
と考えたけれど、その答えはすぐにわかった。
アゴがものすごく疲れるのだ。
普段自分がいかにアゴの筋肉を使わないのかを実感した。
少量の野菜を生で食べただけなのに、いまだにアゴが疲労している。
料理とはつまり、食事で使う筋肉の労働を軽減させるものだと悟った。

食べるってことは、それだけで重労働なのである。
肉を食いちぎり、骨を砕き、野菜を粉みじんに粉砕する。
これだけでかなりのカロリーを消費するし、肉体は疲労する。

このことは僕にはものすごく大きな発見だった。

あと、酢と塩をかけたのは余計だったなと思った。
今市場に流通している野菜は、おそろしく完成されている。
それだけでチョコレートや菓子パンのようにおいしく食べられる。
昔の野菜ならもう少し青臭かったのだろうけど、それはまったく感じなかった。
農家の方はものすごく頑張っているんだなと、しみじみ考えた。

そんで、これを日常的にやっていた大叔父のことを思い出した。
「あの人、これを毎日やってたんだよな……」
案外、逆説的な金持ち自慢ばかりではなくて、大叔父の編み出した健康法だったのかもしれない。
これを毎日やればアゴの筋肉は鍛えられ、脳にはものすごい刺激になる。

僕自身ははアゴの疲労がすごくてさすがに続けられないと思ったけれど、
大きなことをやらかす人ってのは、それなりすごい人なんだなと、
妙なところで感心したのだった。

若いころの自分ではあるけど、人を一方的な価値観で切り捨ててはダメだなと、
反省したのでした。

P1110314

大井川鐵道で「懐かしかろう」と名古屋の鉄ヲタさんがくださった「クッピーラムネ」。
子供のころは安価に手に入る駄菓子の定番だった。
「名古屋の会社なんですよ」
と言われ、全国区だと思っていたお菓子が地元のものだと初めて知った。
おいしさハッピーである。
下りのアプト式列車の中で雄大なダムの風景を見ながら食べたら、
すごくおいしかったです。

2017年6月 8日 (木)

鉄道サーガ3

 3

大井川鐵道でSLに乗った話、そのラスト。

旅行に行く寸前になって愛用のデジカメが故障していることに気が付きました。
液晶画面のバックライトがお亡くなりになっている。
だから、今回は液晶を見ないで直感でシャッターを押していたりします。
なんつーか、めちゃくちゃ不便でした。
友人にそのことを話すと、
「おまえ、よくそんなので撮れるな」
と呆れられたりしたのですが、まあ、仕方がない。

新しいのを買わなくちゃ。

で、奥大井湖上駅で野郎四人で絶景を眺めたあと、再びアプト列車で下山したのです。
帰りは帰りで風景も面白かったですけど、写真は撮っておりません。
転んだ時のケガが痛かったのと、しんどかったのとでカメラを構える余裕がなかった。
それで、ずっと車窓を眺めていたんです。
窓から流れ込む山の空気……ディーゼル車の後ろの客車だから排ガス臭かったですけど、
大自然の中にいるって気分は悪くないです。
ダムの下に古い町が沈んでいて、その日は昔の鉄道レールが水面から顔を出していました。

鉄ヲタさんは帰りのアプト切り離しも嬉々として撮影していました。
思わず僕もカメラを構えてしまう。
ヘッドマークが萌えキャラなのがお茶目。
P1110303
P1110304

夜、名古屋さんの驕りでみんなで晩飯を食べながら雑談。
名古屋さんがスマホ片手に「中日荒木の2000本安打だ!」とはしゃいでたっけ。
長野の熊ちゃんは学生時代から巨人ファン。連敗中なので静かだった。

「また次もこのメンツで集まりましょう!」との名古屋さんの言葉にうなづきつつ、
千葉さんと私は帰りの電車に乗りました。

帰りの新幹線に乗るとき、千葉さんが「私が切符を買ってこよう」と、
足が動かない漫画家さんのために走ってくれたのがありがたかったです。
おかげでギリギリ新幹線に乗れました。
座席についたらビールまで用意してあって、この機敏さは会社員だからなのか?と、
妙なところで感心してみたり。
自分の日頃の運動不足を痛感しました。

自分ちに帰ってから、その日に撮った写真をすぐに確認してみたのだけど、
思いのほか、ちゃんと撮れていました。
このカメラで撮るのは今回が最後になるだろうけど、最後までいい仕事をしてくれました。
なんか、いろいろありがとさんです。

2017年6月 5日 (月)

鉄道サーガ2

 2

前回の続き。

大井川鐵道の千頭駅で列車を降りた私ら四人は、アプト式の列車を体験することになりました。
僕は予備知識なしで出向いているので、
「やっぱ秘境の駅は体験しておくべきだよ」
とのたまう名古屋の鉄ヲタさんの言葉に
「そんなものかな」
と素直に従ったのでした。
まさか、あんなしんどい場所だとは思わんかったよ。

私ら全員、来年五十歳なんやけどね!

奥大井はいわゆる南アルプスでして、大きなダムが建設されていたりする。
大井川鐵道はこのダム建設で使われたトロッコの線路が元になっているらしい。
ようわからんけど、そうパンフに書いてある。

だから景観は素晴らしい。まさに絶景絶景の大パノラマだ。
P1110176

車両を牽引……ではなく、後ろから押してるのがDD20ディーゼル車。
山の中だから架線がないもんだと思っていたら、途中からしっかり電化区間になる。
なんでか。
ここから日本一の急高配を上るためにアプト式の電気機関車が接続されるのだ。
P1110205

なんか歯車がついていて、そいつでレールをガジガジくわえ込むんだとか。

P1110251

ダムだ。下のほうに虹が出ているのがおわかりいただけるだろうか。

まるで鳥になったようなものすごい景観なのです。

あと、左のほうに建設工事で使ったトロッコ用のトンネルが残ってる。
「懐中電灯で見学するコースもございまーす」と車掌さんが解説していました。

んで、「秘境駅」と名古屋さんののたまう駅である。
P1110295

我々を残して列車は去っていく。
P1110281
P1110282

これのどこが秘境なのか。
湖上駅というだけあって、湖にかかるレインボーブリッジの真ん中にあるのだ。
つまりこんなん。真ん中が駅になります。

P1110294

この一枚を撮影するだけのために鉄板一枚下は湖って鉄橋を渡って、
さらに急斜面の階段を登ったのだけど、僕にはちょっとキツすぎた。
P1110291

途中で足が回らなくなって盛大にズッコケた。
「大丈夫かかわすみ!」
とみなさんに心配していただきましたが、まあ、ケガは大丈夫です。
ただ、筋肉痛でいまだに歩くのがしんどいけど。

でも、連れてきてもらって良かったです。
写真で見ると本当に絶景なんですから。
ただ、これを撮影したときは景色を味わう余裕が全くなかったので、
そこはもったいなかったなと惜しまれます。

つづく。


2017年6月 4日 (日)

鉄道サーガ1

鉄道サーガ改


一度書いた文章があまりにも意味不明だったから、最初から書き直します。

 1

今年も名古屋の鉄ヲタさんの発案でプチ旅行に出かけることになりました。
参加者は千葉在住の鉄ヲタさんと、東京板橋区在住の自分。
出向いた先は静岡県の大井川鐵道。
蒸気機関車を走らせている鉄道会社さんで、たぶん一番有名なところ。
今年でSL復活41年になるそうです。
千葉の鉄ヲタさんはその当時、家族で大井川鐵道まで来ているそうで、
今回で二度目の乗車になるらしい。

旅人ハ・マーロ!(もうええちゅうねん)

その彼と東京駅で待ち合わせをして、新幹線で現地に向かいます。
P1110031

大井川鐵道の金谷駅で南鉄21000系に乗りまして、新金谷駅へ。
ここからすでに昭和の香りがものすごい。
P1110035

P1110041

P1110037

そこで今回のスペシャルゲスト、長野県の熊ちゃんと久しぶりの再会。

私、仕事のせいかずいぶん目が悪くなっているんですが、遠目でも一瞬で誰だかわかった。
髪は白いものだらけになっていますが、それ以外は学生時代とほとんど変わってない。

彼を今回のクエスト、いや、鉄道旅行に誘った名古屋の鉄ヲタさんは
「どう?びっくりしただろう?」
とものすごく得意そうでした。実際びっくりしましたよ、まったく。

今回牽引するのはC56。戦時中はタイに供出されていたのが、
戦後になって日本に戻ってきたものだそうで、ものすごい歴史を持っている機関車。
「前来た時はC11に乗ったんだけど、今日はお客さんが満員だからC56なのかもな」
とは名古屋の鉄ヲタさんのお言葉。

つまり、客車の数がいつもより多いから、そんだけ馬力が必要だぞと。
P1110071_2

列車は一路、千頭駅へ。
このときの客車がまた、なんとも素晴らしかった。気分は一気に昭和初頭だ。
「大井川鐵道はこれがいいんだよね」
と、二人の鉄ヲタさんもご満悦。
他の鉄道会社だと機関車はリバイバル出来ても、客車は割と新しかったりするらしい。
P1110072

名古屋の鉄ヲタさんの話だと、名古屋でも蒸気機関車を走らせる話があるそうなのだが、
「どこも貸してくれないから、科学館に静態保存されてたのを復活させるみたいだよ」
「え、私小学生の頃にクラスのみんなとあれの前で記念写真撮ってるんだけど」
「何億くらいかかるんかねえ」
「某鉄道会社では六億円くらいかかったはず」
とは千葉の鉄ヲタさん。

女車掌さんが写真を撮ってまわっていて、私らも敬礼ポーズで撮ってもらった。
「これが千葉の鉄ヲタさんのイエーイ!になるわけやね」
と名古屋の鉄ヲタさんが茶化した。
不謹慎だけどもうそういうのがギャグにならない年齢でもある。
「熊ちゃんとかわすみと、俺の三人が証言すれば千葉さんのこの敬礼ポーズになります」
「やめてくれ」
千葉さんは苦笑していた。

列車は千頭駅に到着。
「転車台を見るぞ!」
と名古屋さんに引っ張られてみんなで転車台前に陣取る。
イギリス式の古式ゆかしきもので、国の指定文化財らしい。
最近、新金谷の方にも新しく転車台を作ったので、
上りと下りで機関車の正面向きの運用が可能になったとか。
P1110124

このあと一行はアプト式の鉄道を体験するのだが、僕には結構きつい体験になったのです。
つづく。

いちおう、最初の文章も残しておきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 1

帝都トウキョウでマン・ガーを作って生活しておる男がおった。
日々毒のケムリを吸いながら紙にペンを走らせておる。
何が楽しいんだか、奇特な男である。

第三都市ナゴーヤの竜の戦士さんが「今年も旅に出ましょう」と音頭をとって、
同じ学園で学んだ同窓のナカマで鉄輪探訪のクエストを行うことになった。
「今年は謎の参加者も呼んでありますよ」とのことだ。

ここ何年か、三人の勇士で鉄輪クエストを行うのが恒例になっていた。
厳寒のヒロサーキでストーブ列車に乗って炙ったスルメを食べてみたり、
ヨネザーワの冬山シェルターで坂道を登れないプリウスに難儀してみたり、
足湯新幹線でいい歳したおっさん三人で足湯につかってみたり、まあいろいろやった。
今年は「蒸気機関車に乗りましょう!」と竜の戦士さんが提案してくれたので、
シズオーカの大井川鉄道に出かけることになった。
東京のマン・ガーカさんは大いにテンションが上がった。

「トーマスは元気でやってるだろうか……」

それにしても謎の参加者とは、いったい誰なのであろう。

つづく。

 2

東京駅でマン・ガーカさんは今回の参加者の一人、旅人のハ・マーロさんと落ち合った。
このごろはサ・サーキとも名乗っている。この名前で呼ぶとなんかニヤケやがるので、
マン・ガーカさんはあくまで「ハ・マーロ」と昔の名前で呼んでいる。
背後から顔を近づけると、
「その丸い顔を俺の前にさらすな!」
と、なんか怒られた。
昨夜は大貴族の宴会で大酒を飲んでいるので、酔いが少し残っているのかもしれない。
あるいは、毒けむりを愛煙するマン・ガーカが気に入らないのか。

旅人さんは品行方正な鉄道スナフキンだ。
学生時代は伝説の幹事として宴会をセッティングしてくれたり、
酔っ払いどもの後始末をしてくれたり、とてもお世話になりました。

シズオーカへと向かう新幹線の中は、白人の外国人さんたちがいっぱいいた。
旅人とマン・ガーカさんは「謎の参加者」についてあれこれ話し合った。

浜「ナルト阿波踊りのシラカーワではないか」
川「この頃は音信不通で竜の戦士さんがとても心配しています」
浜「もう知らん!と怒っていたような気がするけど」
川「そんなん知らんがなー」
浜「モノマネはやめろ!」

浜「マッサーナさんではないか、娘が太鼓マスターやってる味な男」
川「dvdの演奏は素晴らしかったけど、どれが娘さんかわからなかった」
浜「竜の戦士さんとよく遊んでるらしいから一番ありそうだよね」
川「彼か、宅建マイスター・イシカーワが最有力候補だな」

川「ヨーヨーの達人、マッチャンさんかもしれない」
浜「いや、それはない」
川「川越シェフをテレビで見るたび、今頃どうしてるんだろうと思い出してました」
浜「だから絶対ありえない」

川「自転車キングで鈴鹿で優勝したマッキーノ・ニシカワ先輩かもしれない」
浜「昔は丸かったのに今は別人のように健康的なお父さんになっている」
川「タナーカ・アレダアレ・ワタルが僕は昔の西川さんのパチモンだと言っていた」
浜「たいへん名誉な話だ」

川「竹ちゃん」
浜「ああ、それはありそうだけど先輩を竹ちゃん呼ばわりしてはいけない」
川「後輩思いの偉大なる英雄なのだ」
浜「どがしゃーん!」
川「どがしゃーん!バイクでトラックと戦った勇敢な戦士」

浜「北陸のハンチャン先輩」
川「文化祭実行委員長」
浜「あの人には足を向けて眠れない」
川「ほんまやねぇ」
浜「私の目標だった」
川「同好会を部に昇格させた伝説の英雄である」
浜「偉大な業績は私らの胸に刻み付けられている」

川「改造人間」
浜「やめろ!」

他にも偉大な英雄の名前が多数あがっていたけど、
関係者以外まったく理解できない会話なので、このへんでやめる。

電車を乗り継いで、二人はシズオーカのカナーヤ駅に降り立った。
ここで大井川鉄道のチケットを手に入れる。
旅人ハ・マーロさんが駅員さんとあれこれやり取りをした。
蒸気機関車の予約チケットを誰の名前で抑えているかわからず、
全員の名字を呪文のように繰り返していた。
「ハ・マーロサッカーイカワスーミ!」
結局、サッカーイだけで良かったので旅人さんは無駄骨だった。
大井川鉄道の親切な駅員さんが全員分のチケットを渡してくれた。
P1110025

こっちはつづかない。

2017年6月 2日 (金)

名古屋めし


となり町に雑用で出かけて、ついでにその町に新しく出来たスーパーをのぞいてみたら、
スガキヤの味噌煮込みうどん(インスタント)が置いてあった。
喜々として買ってくる。

故郷名古屋を離れ、はや四半世紀。いや、26年だったかな。
名古屋では当たり前に手に入るものがここ東京ではなかなか入手困難なのだけど、
それでも、近年の「名古屋めしブーム」とやらのおかげで、
どうにか入手できるようになってきた。

昨日、何気なくテレビをつけてみたら、名古屋めしの特集をやっていた。
妙齢のお嬢さん方(当社比)がお店で鉄板ナポリタンを食べて、
「鉄板だと食べながら調理してくれるから、味が変わって面白いのよオホホホホ」
とほほ笑んでおられた。

名古屋出身で幼稚園の頃に鉄板ナポリタンを食べていた自分からすれば、
味が変わるなんて考えたこともなかったし、熱々の鉄板を前に
ヤケドしそうなスリルを味わいながら食べるもんだと思ってた。

実家が大衆食堂だったので、開店当初は流行りものをいろいろお店で出していた。
鉄板ナポリタンもそんな流行りものの一つだったのかもしれない。
ステーキ用の鉄板、木の器に黒い鉄板がのっかってるやつに溶き卵を敷き、
半熟加減で焼けたところにスパゲッティ・ナポリタンを乗せる。
ウインナーは赤いウインナーでなくてはならない。
で、食べるときは鉄板の卵をフォークでかき起こし、麺とからめながら食べる。

大好きだったけど、客層に合わなかったか、めんどくさくなったのか、
自分が小学校に上がる頃にはメニューからは消えていたな。

その後、よその喫茶店なんかに行っても見かけることがなくなってしまったので、
「鉄板ナポリタンは僕の見た幻だったのではないか」
とまで考え始めていたのだけど、近年になってまた注目されるようになってきた。

まあ、そろそろ食品業界もネタが出尽くしたってことなのかもしれない。

大人になって「そんなもん、ナポリタンにスクランブルエッグのっけりゃいいじゃん」
みたいな考えになって、すっかりどうでもよくなっていたのだけど、
アツアツの鉄板でヤケドするかもしれないスリルと戦いながら食べるナポリタンてのは、
案外いいものだ。
幼稚園児だった自分は、鉄板に口をつけて麺をすすれないもどかしさを感じながらも、
なんか唇が熱かった記憶もあるので、無理やり鉄板を持ち上げて食べてたんだろうな。

食べ物の話になるとガキの頃の自分がいかに浅ましかったかの話になって、
なんか困る。

2017年5月31日 (水)

ディスカウントショップ

のらのらと散歩していると、ご近所のディスカウントショップが閉店セールをやっていた。
入ると、全商品2割引きとかで、ご近所の妙齢のお嬢さん方がいっぱい集まっている。
明治のカールの騒動でもそうだけど、消えるとなれば人間はどうしても気になってくる。
欲しくなくても今生の別れにもう一度手に取ってみるかとなる。

1960年代生まれの自分にとって「カール」は物心ついた頃から既に存在した商品で、
別に好物ではなかったのだけど、食べたことはある。
「甘さを抑えたお菓子」とのことだが、なんか甘かったような気もする。
たぶん、三十年くらいは口にしていないから、記憶がどうもあいまいだ。

ディスカウントショップというのも、自分が東京に出てきた90年代初頭は、
あちこちに開店していたように思う。二十代の自分もあちこちの店をのぞいては、
電話機やら生活雑貨、チープで奇妙なグッズなんかを買っていた。
こういう店のカセットテープコーナーで七十年代の演歌歌手のベスト盤を見るのも、
なんとなく好きだったりした。今にして思えば買っときゃよかったと思わんでもない。

あの当時から四半世紀、下手をすれば三十年近い歳月が流れている。
三十代でお店の経営を始めた方々も、もう還暦を超えていてもおかしくない。
「安価でチープ」ってことなら、ドンキホーテとか百円ショップで十分だし、
この辺でそろそろ店を畳むか、となってもちっとも不思議ではない。
ご近所のディスカウントショップが閉店するのは今年に入って二件目だけど、
もうそういうサイクルに入っているってことなのだろう。

安い商品のまとめ買いってことなら、ドンキホーテは無敵の存在だ。
昨日苫小牧の風景を見るためにグーグルアースを使って駅前をぶらついていたのだけど、
殺風景な街並みの中にドンキホーテがやたらでかでかとそびえ立っていた。
いつの間にか時代の勝利者になってたんだな、この店。

池袋で出版社の人と会うとき、駅前のドンキでいつも落ち合っていたのだけど、
あそこは一階部分を女性向けのコスメやらなんやらで固めていて、
二十代くらいの女性客が多かった。
どんな業界でもそうだけど、今は女性がお金を使う時代なので、
ディスカウントショップだって思い切り女性仕様になりつつある。
編集さんが来るまで店内をぶらつくと、マスカラやら付けまつげやら、
入浴剤なんてものまで、狭い店内にヤケクソのように詰め込まれている。
そういえば、ドンキは商品を大量に詰め込む系のお店であった。
物量にものを言わせて、ここでなら何でもそろうぞ安いけど、って空気を漂わせている。
昔渋谷のドンキで放火騒動があって、隙のない商品陳列が問題になったりもしたっけ。

有名百貨店のこじゃれた商品配列もいいけれど、ディスカウントショップはそうじゃない。
商品倉庫をそのまま解放しました的な、お宝発掘探検隊なノリがいい。
だからたぶん、ドンキはわざと商品を所狭しと並べたてているのだろう。
人間の物欲を刺激するのは、何もよい商品を並べるばかりじゃない。
安くても、大量に詰め込まれているってお買い得感が物欲を刺激する場合もある。
だから、中にはとんでもなくひどい商品があったりもするけれど、
枯れ木も山のなんとやらで、一握りのお買い得品があれば、他のダメダメな商品も、
購買意欲を刺激するシステムの一部になる。

ダメな商品にも存在価値を与えるって点では、ある意味見事な経営戦略である。

それでご近所のディスカウントショップの閉店セールなのだけど、
目ぼしいものは既にお客に買われまくってしまって、半分以上がカラの棚になっていた。
カップラーメンとかトイレットペーパーとか、
主要な商品はすでになくなっていて、ピクルスとか、便せんとか、
「枯れ木」ばかりがポツポツと置いてあるだけだった。
いつもは薄暗くて倉庫の中のようだった店内も、思いのほか明るくて、
実は結構小奇麗なテナントだったことがいまさらのように判明した。

店員のおばちゃんが常連さんだろう、若い作業員風のお客さんと話をしている。
これからも頑張ってねと、お客に声をかける。
このおばちゃんも店を始めた当初は若くていろいろ苦労したんだろうなと想像する。

その間も、店内をおOLさんとか、近所の奥さんとか、
残り物をあさるハイエナのように物色し続けている。

僕もチョコレートを買ってお店を出ようとしたが、また商品を置いて出てきてしまい、
おばちゃんに呼び戻された。
どうも締め切り前になると同じ失敗をやらかすらしい。

2017年5月25日 (木)

モンブラン

誕生日にケーキをいただいて、モンブランかしら、モンブランがいいなと開けてみたら、
緑のたぬきだった。

Image0711

21世紀は本当にオモシロおかしい時代だ。
スポンジケーキにクリームでお蕎麦が再現されている。

Image0721

お蕎麦の部分はモンブランといえばモンブランに見えなくもない。
食べてみたら結構おいしかった。

幼稚園は仏教系のいいところに入園していた。昭和48年くらいのことだ。
なぜか当時流行中の「燃えよドラゴンズ」が流れていて、この歌をそこで覚えたことは、
以前このブログでも書いてると思う。

この幼稚園でおやつの時間にケーキを出していた。
大きな木のお盆の上にずらりといろんな種類のケーキが並んでいて、
園児がじゃんけんをして勝った者から好きなやつを取っていく。

僕はこの時からケーキはモンブラン狙いで、
他の園児に取られると無茶苦茶悔しかったのを、はっきりと覚えている。
なかなかに浅ましい。

今でもケーキセットの中から一品選べとなれば、僕は迷わずモンブランを選ぶ。
栗が大好物というわけでもないのだけど、あのお蕎麦のようなクリームが、
なんか心に激しくヒットしているのだ。
だから、この緑のたぬき型ケーキのプレゼントは、とてもうれしかったです。
あと大洗のガルパン印のリキュールも。(鬼のように甘かったけど)
不燃ごみとして瓶を出すときは、思い切りラベルを上にして出してやろうと、
考えてみたり、みなかったり。(ものすごいアニメ調のラベルなのだ)

2017年5月23日 (火)

ひねもす本を読んでいる。

携帯の保存フォルダーを漁ってみたらガチャピンが出てきた。
とりあえずさらしてみる。

Image0641_3

本を買って何年も放置、なんてのはよくあることです。
いわゆる「積読」ってやつ。
「老後の楽しみに」と保管してある某全集とかもありますし、
最初の数ページを読んでそのまま放置、なんてこともあります。

若いころはそのことで罪悪感を覚えて、無理やり読んだりもしたのですが、
この頃は「本にはそれを読むべき時が自然とやってくるのだな」と、
積みっぱなしの本が語り掛けてくるのを待つ、みたいな感じになってます。
ああ、今の自分がこんな状況だから、この時のためにこの本があったのだなと。

どんどん怪しい神秘主義を発症し始めているぅぅぅう。

今、精神的には割とどん底の状態なので、近くに積んであった本を読みだしたら、
なんかものすごくのめりこんでしまって自分でも驚いています。
吉村昭さんの「海も暮れきる」なんですけどね。
今回はこの本について思ったことを少し書いてみます。

吉村昭先生は小説家です。ただ、どんな小説家なのかをカテゴライズしようとすると、
ちょっと困惑したりする。
一般に知名度のある作品をピックアップしていくと、
「ふぉん・しーほるとの娘」とか「桜田門外ノ変」などの時代小説家になります。
世に出るきっかけになった作品が「戦艦武蔵」だから戦記作家のようでもあり、
カンヌで賞を取った映画「うなぎ」の原作者となると、もう何が何だかよくわからない。

今回読んだ「海も暮れきる」は俳人の尾崎放哉を主人公にしたものなので、
ますますもってカテゴライズが難しくなる。
いっそ、カテゴライズなんて無粋なことはやめて、
「自分の共感した人物の人生を丹念な調査のもとに掘り下げる文筆家」
としておいたほうがおさまりがいいようです。

僕はこの方の作品はたくさん読んだ方だと思いますが、
「海も暮れきる」は、その中でも一番作者の共感する度合いが高い作品だと思います。
作者自身が尾崎放哉と同化しているともいえるくらいで、
それは吉村昭先生の作品の中ではかなり異例なことです。
ほかの作品だともう少し主人公との間に距離がある。

尾崎放哉は「咳をしてもひとり」の句で知られる明治大正期の俳人で、
42歳で瀬戸内海の小豆島でお亡くなりになっている。
酒癖が悪くてそのために身を持ち崩し、流浪の果ての最期である。

吉村先生はその小豆島での最後の数か月を丹念に描き出している。
正直、「なんで吉村先生が尾崎放哉を書いたんだろう」と疑問を感じたのだけど、
それは読み進めるうちにだんだんとわかってくる。
結核で病み衰えていく放哉は、吉村先生の若いころの闘病生活に似ているのだ。

吉村先生は戦後間もないころ結核に侵され、死の瀬戸際までいっている。
そのことが初期の小説作品の重要な主題となっており、「骨フェチ」という、
一般には理解不能で不気味な一面まで持っていたりする。
肺にまで広がった結核の病巣を自然治癒させるために、背中の肋骨を切断しているのだ。
当時では最先端の手術だったのだけど、成功確率はかなり低かったそうで、
死のギリギリ寸前まで行ってかろうじて生還できたというのは、全く誇張ではない。

尾崎放哉は同じ病気に侵されながら、生還できなかった。
だから、吉村昭の描く結核に侵される放哉の最期は描写としてもかなり生々しいし、
その病人の心情も、まるで本人が乗り移ったかのようにリアルである。
作家が題材に共感して主人公と同化しているというのは、このためであるし、
ここまで同化してしまっているのは、他の吉村作品にはない特色である。

死ぬとはいったいどういう現象なのか、それは吉村昭の初期作品の一貫したテーマで、
「少女架刑」などは死後に解剖される女の子の描写を少女の視点から描くという、
かなりグロテスクな試みまでしている。

人が死ぬということは桜の花びらが散るような簡単なことではない。
「海も暮れきる」の中の尾崎放哉は「病気に殺される」という死に方であり、
体は生きようとしているのに結核が放哉の首を絞めて捩じり殺すのが苦しいくらいに伝わってくる。
それは不条理に突然襲い掛かる死なのである。
けれどその死が放哉の文学的感性を研ぎ澄ませ、晩年の俳句が生まれてくる。
とても残酷な事実なのだけど、放哉は死ぬことによって「本物の歌」を残すことができた。
ならば、死には残酷なだけでは説明できない、何か特別な意義があるのだろうか。
吉村先生の筆は、その何かを描写しようとしているように僕は感じた。

吉村先生ご自身の最期は、奥様で作家の津村節子さんが公表していらっしゃるけれど、
僕はそのことを当時の新聞で読んで、ご遺族には不謹慎で申し訳ないのだけど、
「吉村昭らしい死に方だな」
と思ってしまった。生命維持装置のケーブルを自分で抜くというのは、
死をあえて受け入れるという覚悟のようでもあるし、
地震があったとき、家族をおいて一人だけ外に逃げ出した先生の臆病さのためとも思え、
どちらであったとしても、死という現象を正面から考え続けた作家であるから、
誰よりもそれが見えていたのだろうなと、思わされたりもするのです。
本当のところはまったくわからないのだけど。

好きとか嫌いとかは別にして、「海も暮れきる」はとても吉村昭らしい作品であり、
僕は読後もずっと尾崎放哉の最期の数か月間を頭の中で繰り返しているのです。

«「裁判員の女神」について