無料ブログはココログ

amazon

  • PCソフト
  • DVDベストセラー
  • ベストセラー
  • ウィジェット

« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »

2012年6月

2012年6月25日 (月)

「天皇の料理番」 その2

「天皇の料理番」こと秋山篤蔵(堺正章)の物語。

今回はその2回目です。

明治時代も終わりの頃、ようやく日露戦争もひと段落した時代、
秋山篤蔵は単身、帝都東京へやってきます。

その篤蔵がドラマの中で最初に修業を始めたのが、「華族会館」です。

華族会館というのは耳慣れない名前ですが、その建物の以前の名前は
日本人なら誰でも知っています。

明治政府が外国との不平等条約撤回のために作り出した社交場、
「鹿鳴館」です。

Rokumeikan

この鹿鳴館が明治16年から7年ほどでその役割を終え、
宮内省に払い下げられて、華族のための社交の場としてリニューアルしたのが
華族会館です。

場所は日比谷公園の前、現在の帝国ホテルの隣のあたりだそうです。

ここには鹿鳴館の時代から専属の料理人がしっかりおりまして、
出されていた料理は当時の日本人が作ったとは思えないほど高いレベルだったとか。

なにしろ華族階級もありましたし、財閥のパトロンもおりました。
そういう人たちが江戸時代からの伝統そのままに料理人に出資し、育てたのですから、
日本における西洋料理の発達はかなり早かったと思われます。

日本の西洋料理の始まりをどこから語り出すかは、なかなか難しい問題なのですが、
まず、東京の「築地精養軒」、神戸の「オリエンタルホテル」が
本格西洋料理のルーツと言っていいでしょう。
二店とも明治の改元早々に外人シェフを迎えてオープンしており、
この二つの店で学んだ日本の料理人がその後の西洋料理の主流となっていくようです。

築地精養軒の初代シェフはスイス人のカール・ヘス(チャルヘス)です。
このカール・ヘスの弟子に西尾益吉という人がおり、のちにフランスへ留学して
フランス料理の最高峰「ホテルリッツ」でかのエスコフィエから料理を学んでいます。
これは明治中期の日本人シェフとしては破格のキャリアです。

帰国後、西尾益吉は築地精養軒の四代目シェフとなりますが、
その精養軒時代の弟子が「天皇の料理番」秋山篤蔵です。

ここでドラマをご存知の方は「あ!」と思われるでしょうが、
ドラマの中で華族会館の料理長を務め、のち築地精養軒のグランシェフになった
財津一郎演ずる宇佐美シェフは、この西尾益吉をモデルにしていると思われます。

前回、日本橋の魚市場でギャングの親分みたいな風体として紹介したあの人物です。

0

華族会館で出される料理のメニューはすべて宇佐美シェフが考え、
フランス語で献立を書き、厨房の料理人たちの前でフランス語で読み上げます。
テレビのコメディアンとして有名な財津一郎さんですが、
その頑固な料理人の演技はなかなかの絶品。
洋行帰りの高貴なにおいを漂わせつつ、明治男の頑固さも感じさせます。

史実の秋山篤蔵は、西尾益吉シェフが横文字でメニューを書く姿に憧れて、
洋行を決意したそうですが、ドラマの中の堺正章演じる秋山篤蔵も、
宇佐美シェフが横文字で書き綴ったレシピノートに強烈に憧れます。

でも宇佐美シェフは怖い人です。ドラマの中の篤蔵はまだ20歳前といったところなので、
父親くらい年齢の違う宇佐美シェフが怖くて仕方がない。
大切なノートを見せてくださいとはとても言い出せません。
実際、明石家さんま演じる辰吉は、トイレに行くたび手を洗わないというので
宇佐美シェフから繰り返し、殴る蹴るの暴行を受けています。
「お前はこの華族会館から食中毒を出したいのか!」

……しかし料理への一方ならぬ情熱を持つ秋山篤蔵は
夜中に紙と鉛筆と蝋燭を持って、料理長室に忍び込みます。
そして、手習い程度のフランス語の知識でそれを書き写そうとする。
作業に没頭する篤蔵は、そのまま朝を迎えて、ついつい居眠りをしてしまう。

はっと目覚める篤蔵、いかんいかん、わし寝てしもうた。
……よだれをふきながらふと横を見ると、
そこには口をへの字にした宇佐美シェフが椅子に座ってふんぞり返っている。

殴られる!そう思ってひたすら頭を下げ、震える声で謝罪する篤蔵ですが、
宇佐美シェフは椅子の上で彫像のように腕を組んだまま、動きません。

「わし、親方のノート、どんな風に作っているのか知りたかったんです。
一度でいいから見てみたかったんです。
わしがこんなことゆうたら生意気かもしれんけど、
わしにはその方法しかなかったんです。」

宇佐美シェフが重い声で篤蔵に語りかけます。

「篤蔵、そこにあるノートはな、
俺がコックになってから今日まで
この目で、この体で
直接料理というものを扱ってきたことについて
丹念に書き記してあるのだ。
いうなればあのノートは俺の血と汗の結果だ。
だからあのノートはなあ、篤蔵、
この俺にとっては財産だ。
だが俺以外の他人にとっては決してそうじゃない。

他人のノートをいくら覗き見しても、自分の財産にはならんということだ。
それが今すぐ役に立つと思っていたら、
それは逆にかえって遠回りなんだよ。
他人の褌でいくら相撲を取っても、何の役に立つか。
そんなことよりも自分の腕を磨け、腕を。
少しでも上手に野菜が刻めるようになれ。
少しでも上手にいもの皮が剥けるようになれ。
ひとつひとつを地道に進むことの方がどれだけ大事か。
そうすれば俺が書いたノートみたいなものは、
おまえが自分で作れるようになる。
自分の財産は自分で作るしかないんだ。」

……宇佐美シェフはそう言って
今回だけは篤蔵を見逃します。
篤蔵はノートを宇佐美シェフの前に丁寧に返し、その場を立ち去ります。

篤蔵のやったことは決して許されないことです。
いってみれば産業スパイみたいなもので、その場で半殺しにされたっておかしくない。

ならば、どうして宇佐美シェフは篤蔵を見逃したのでしょう。

この何年かのち、ドラマの中で洋行から帰ってきた篤蔵が、
築地精養軒で宇佐美シェフの代理を務め、日英の晩餐会を仕切るのですが、
その時、篤蔵は宇佐美シェフのそれまでのやり方を改め、
自分の考える最高のメニューで献立を組みます。
それを後になって知った宇佐美シェフは、病身をおして精養軒を訪れ、
苦々しい表情でこう言います。

「お前ならそうすると思った。だからお前にまかせたのだ。」

自分のそれまでのやり方をただ繰り返すような料理人には仕切りを任せられない。
マニュアルを破り捨てる気概のある料理人にのみ、一流の名が与えられる。
宇佐美シェフは、篤蔵にはそれが出来ると、あのノートを盗み写しした事件のとき、
考えたのかもしれません。
……こいつはただずるい気持ちでレシピを盗み見たのではない、
早く俺のような料理人になりたい、大きくなりたいとあがいているのだ、と。

古き良き明治の職人魂ここにあり。
しかしそれにしても、こいつ、完全に俺のメニューを書き換えやがった……
悔しさに顔をしかめる財津一郎の演技が、自分は身に染みます。

2012年6月18日 (月)

「天皇の料理番」 その1

 Oh! レディ・リー、帰ってきたよ
 五年ふりさ、この街も
 俺も、やっとどうにか、落ち着いてきたよ
 暮らしはまだまだ、満ち足りちゃないけど
 きっとお前がよろこぶ、ニュースがあるんだ
 照れないで、吹かないで、聞いておくれよ
 Oh! レディ・リー、帰ってきたよ
 今お前がそばに、いれば

……70年代テイスト満載のメロディーに乗って、
堺正章さんが歌うわけです。
ちょっと以前にTBSチャンネル(CS)でドラマの再放送をしていまして、
エンディングが流れ始めた途端、一緒に歌い始めてしまいました。
三十年以上の時を超えても、案外覚えているものですね。

そのドラマのタイトルは
「天皇の料理番」
今の若い方は知らないかもしれません。1980年の秋から半年間、
TBSで放送され、結構話題になったドラマです。
三十歳後半くらいの方だと、記憶の片隅に残っているかもしれない。

主役は堺正章さん。今は髪もグレーになり、軽快なトークと芸達者なおじさんですが、
当時はやんちゃな青年のイメージで、ドラマ「西遊記」の孫悟空の役が
おそろしくはまっていた。あれは、堺正章ありきの企画じゃなかったのかな。

その堺正章がドラマの主役だから、自分は見始めたのだと思います。
なんせ、お馬鹿な小学生ですから、「天皇」とか「フレンチ」とかよくわからない。
当時クラスの発育のいい女の子が、体育の時間に「さぼってないで道具を運びなさいよ」
と走ってきた、その胸が体操着の中でブランブラン揺れていて、しかも
ポッチリがはっきり突き出ていたことに驚き、
しばらくは友達とその子の話をするとき、
「ダイナマイっ!」
と盛り上がるくらい、お馬鹿だったわけです。
どうでもいいけど小学生なのにしっかり複数形だな。

そんな馬鹿な小学生にとって、「天皇の料理番」はちょっと敷居が高い。
大仏次郎のノンフィクションドラマに「天皇の世紀」というのがあるけど、
タイトルだけだとそんな硬派な感じがします。しかし、主役はあの堺正章、
ちょっと前まで西遊記でゴダイゴの曲をバックに如意棒振り回していた人です。
小学生だってついついチャンネルを合わせてしまう。

オープニングはいきなりフランス語の曲です。
格調高く、タイトルに相応しい優雅な雰囲気が醸し出される。
その曲に乗って、ジャガイモがシャトー剥きにされ、
くりぬき器で真珠のような形にくり抜かれ、
(子供心にも残ったジャガイモがもったいないと思ってた。)
油で揚げられて小さなカップみたいなものに盛られます。
ここでちょび髭を生やしたコック帽の堺正章登場。
偉そうにジャガイモ料理をつまみ、味見をしてからうなずきます。
なんか、イメージと違う……そう思ったせつな、
もう一口食べようとして下げられた料理を追いかけ、ずっこけます。
よかった、これは高尚な番組ではない。いつもの堺正章だ。

第一話は明治の末頃、福井県の山寺から始まります。
やんちゃな少年がやんちゃの限りをつくして、
それを持て余した親によって仏門に入れられる。
まんま西遊記です。
ちなみに、このお寺の小坊主1の名前に千葉繁がクレジットされていました。
たぶん、あの声優の千葉繁さんじゃないかと思います。
古いドラマを見ていると時々いろんな声優さんが出てきます。
池田秀一さん(シャア)は花神の中で長州側で戦ってて、
蛤御門の変で討ち死にしてましたし、
ルパン山田康夫さんも「風と雲と虹と」に出ていらっしゃいました。

閑話休題。

仏門に入ってからも堺正章、いえ、秋山篤蔵のやんちゃは収まるところがありません。
めしが不味いと言っちゃ暴れ、先輩が横柄だとそれに反発するといったありさま、
ところが、ある日の出来事がきっかけで、篤蔵の人生は大きく変わります。

孫悟空ならば五行山に閉じ込められ、夏目雅子、じゃなくて三蔵法師に出会うわけですが、
篤蔵が出会ったのは「西洋料理」でした。

和尚様に連れられ、陸軍の歩兵第三十六連隊に出かけたとき、そこの厨房に迷い込み、
眉毛のたくましい連隊の料理番、目黒祐樹さんに「カツレツ」を食べさせてもらいます。

坊主に生臭ものを食べさせるのもどうかと思いますが、
「わし、まだ坊主の見習いですから」と篤蔵はそのいい匂いのする料理を
ナイフとフォークを使って食べます。(実際はフォークしか使ってないけど。)
その瞬間、篤蔵は雷に打たれたように表情を変え、涙を流して崩れ落ちます。

目黒祐樹「……うまいか?」
秋山篤蔵「うまい……、わし、こんなうまいもの食ったことがない……」

人生において、その人間の生き方を決定づける瞬間というものはいろいろありますが、
篤蔵とカツレツの出会いほど劇的なものはそうはありません。
なんせ、この後「天皇の料理番」が最終回を迎えるまで、
秋山篤蔵はこの時の感激だけで駆け抜けていくわけですから。
ドラマとは言え、そのエネルギーたるや、実に激烈。
ただ、その激烈なエネルギーが反面的に彼を家庭的でなくするところがあり、
心根のやさしい篤蔵はそのことでいつも傷ついていくのです。

親に無理やり結婚させられ、見上げるような大女、トシ子(壇ふみさん)を嫁にするも、
西洋料理への憧れは収まることがなく、ついに家と女房を捨てて上京します。

汽車は駆け抜け、篤蔵は旧新橋駅に降り立ちます。

そこで彼は東京の人間が食べているものが知りたくなり、
当時日本橋にあった魚市場に向かいます。

そこで出会ったのがかわいいベトナムの女の子、ではなく、
ヤクザなチンピラと、ギャングの親分みたいな男でした。

チンピラは志賀勝さん。親分は財津一郎さんです。
実はこのヤクザな二人は料理人でして、
華族会館という当時の日本最高峰のレストランを牛耳っています。

料理人は殴る蹴るは当たり前、体育会系の世界とはよく言われますが、
最初の数話の二人はとにかく口より先に手足が出ます。

華族会館に下っ端として入り込んだ秋山篤蔵は、なべを持ってこいと言われて
その通りにすると、志賀勝さん(剃り込みの入った極道者にしか見えない)に
「バカヤロウ!ナベってのはフランス語でカブのことを言うんだ!」
と制裁をくらいます。理不尽です。でも料理人の世界って未だにこんなのかもしれません。

厨房には同じ新米の料理人がいます。
それが今となっては信じられないくらい豪華な配役なのですが、
鹿賀丈史さんと明石家さんまさんです。

「料理の鉄人」(の司会者)と「恋のから騒ぎ」が
「チューボーですよ」とトリオを組んでる。

物語は「天皇の料理番」とは名ばかり、
この三人の男たちの熱い青春の物語として展開していくのです。

Photo

続く

2012年6月12日 (火)

curator

018

「こんなことってあるんだな……」

人気のない美術館で、自分は少しばかりの居心地の悪さを感じる。

地方の美術館なら、平日の昼に客足が途絶えるということもあるだろう。
けれどここは東京の池袋で、美術館としての規模も大きい。

実際、以前「北斎肉筆画展」が行われた時は、満員御礼の状態で、
エスカレーターが上までびっしりと人でいっぱいになっていた。
お目当ての美人画の前は黒山の人だかりで、とても絵を鑑賞するという雰囲気ではない。
後ろの人に気をつかい、ものの10秒ほどで次の画に移動したものだ。

それが、とても同じ美術館とは思えないくらい、閑散としている。

薄暗く照明を落とした館内で、イタリアの作家の彫刻が並んでいる。
ボナノッテ……現代の作家で小さな盤上に人間らしき小人が配置され、
独自の小宇宙を形成している。抽象化された人間の周囲に、
温かい、作家の人間性を感じる。

けれど、入場して以来、一人の人間も見かけないというのはどうしたことだろう。
まるで、開館前だか開館後だかに迷子が一人紛れ込んでしまいましたという感じで、
集団を愛する日本人としては不安を感じずにはいられない。

作品はどれも素晴らしいと思う。それまで作品集でしか知らなかった彫刻が、
目の前に存在し、何事か語りかけてくる。自分はしばしそれに耽溺し、
愉快な気分を味わいながらも、ふと、その場に自分しかいないという状況に気が付き、
困惑する。

厳密には、自分は一人でない。
薄暗い館内を注意してみれば、光の当たらない柱の影に学芸員の女性がいて、
マネキンのように沈黙して椅子に座っている。
決して目線は合わせない。
自分が作品を鑑賞する目で彼女たちを見たとしても、
その視線は床に落とされたまま、微動だにしない。
彼女たちは職業としてその存在を抹殺し、展示室の備品となり、
たぶん、自分が作品を鑑賞するときにはこっそりとこちらを観察している。
普段は感じない不気味さを彼女たちに感じる。

展示は下の階から二階三階と続き、どのフロアにも客はいない。
決して、その作家が無名だからではない。
たまたま、客足の途絶えたエアポケットのような時間に
自分がすっぽりと入りこんでしまったのだと思う。
イタリアの巨匠の名誉のためにそれははっきりと断言しておく。

最上階は作家の工芸作品のコーナーだった。
その独特の造形と線が日常品やアクセサリーに使われている。
展示室の中央にはガラスのケースが置かれていて、
どうやら宝飾品が並べられているらしい。
何の気もなしにそれを覗き込んで、瞬間、自分は雷に打たれたようにビクリとした。
あまりに突飛な行動に、柱の影の学芸員の女性が視線を向けてくる。
ああ、あなたもそこで驚かれますか、そう言っているような気がした。

そこには巨大なダイヤモンドの指輪があった。

本物かどうかはわからないが、
大粒のその宝石は照明に照らし出され、極上の輝きを放射していた。
作家には申し訳ないが、今でも覚えているのは宝石の圧倒的な輝きであり、
それを支える台座の印象が、思い出そうとしても思い出せない。

結局、その美術館を出るまで、一人の客とも遭遇しなかった。

美術館は駅ビルの中にあり、一歩外に出ると人でごったがえしていた。
平日とはいえ、ここは池袋なのである。

自分は不思議な気分で流れる人波をながめていた。

それからしばらくして東武美術館はなくなってしまったのだけど、
それは全く彫刻家とは関係のない話だ。
自分はただ、恐ろしく特別な時間を体験したのだと思う。
あれから幾つの美術展を見たのか数えきれないけれど、
あのような特殊な時間を味わったことは二度となかった。

098_2  

2012年6月 6日 (水)

Bibliophilia

046

本屋さんが好きた。
東京に来た当初は神田の古本屋だの、
紀伊國屋だの、八重洲ブックセンターだの、
名古屋にないような大きな本屋がうれしくて、
ひっきりなしに通っては本をしこたま買い込んだ。
そうやって買い込んだ本を壁一面の本棚に並べて、
背表紙が茶色に染まるまで煙草をふかし、
読書にふける。体には悪いけれど、
自分としてはまさに至福の時間である。

手に入れた本を売りとばしたりはしない。
今までに人生で2回、生活に困って本を売ったことがあるけれど、
その時のみじめな気持ちは忘れられない。
十万円近くかかった本が一万円にもならなかった。

それでも、ページが黒ずんでいる画集を見た老店主が、
「よく勉強なさりましたね。」
と言ってくれたのは、とてもうれしかった。

古書店の店主は、情報をつかむために割とよく声をかけてくる。
以前、小川国男の「アポロンの島」の文庫本を掘り当てたときは、
「ひょっとして初版をお持ちですか」
と声をかけられた。
これは高校の詩人の先生の受け売りなのだけど、
小川国男の「アポロンの島」は希少本の代名詞になっている。
私家本として少部数しか発行されなかったのを、
島尾敏雄に新聞紙上で取り上げられ、激賞されたからだ。
古書店の店主にとっては、「アポロンの島」を掘り出した自分が
宝の地図に見えたのかもしれない。

古書店の店主は世のビブロフィリア(愛書家)たちとのコネクションを作って
世に埋もれている希書名著の類を手に入れたいと思っている。
そこには価値がわからず破棄される本を救済したいという気持ちと、
希少な本を発掘して売りたいという商魂とがないまぜになって
なにやらどす黒く渦巻いているような気がする。

希少本といえば、太宰治の「人間失格」の初版本を見たことがある。
まだ中学生だった頃、近所の老紳士の家で、
父と紳士の世間話の合間に、居間の大きな本棚を眺めていて
経理とか宗教関係の本の合間にあるのを発見して、びっくりした。
さすがに古びていたが、その装丁で読んだ冒頭の三枚の写真のくだりは
強く心に焼き付いている。
たとえばの話、ネット上で古写真を見ても、「ふーん」で済んでしまうけれど、
古いアルバムで終戦後間もないセピア色の写真を見ると、眠っていた膨大な時間が
埃の中から立ち上ってきて、その時代の空気に心が浸食される感じがする。
古書にはそれと同じ魔術めいた力がある。
おそらく、古書店めぐりをする方たちの記憶のどこかには
そういう古書と時間にまつわる原体験があるのではないかと思う。

あの太宰の初版本は今頃どうしていることか。
数年後、その老紳士がお亡くなりになり、後始末をうちの母が手伝ったのだけど、
なんでも古書屋が入って片っ端から持って行った、という話だった。






2012年6月 2日 (土)

恐怖のとび辛表

写真アップのコーナー。

名古屋の本屋でバイトをしていたころ、
休み時間にCOCO壱番屋でカレーを食べていた時に入手した「とぎ辛表」。

1989年頃のものと思われる。

Img035

名刺より一回り大きくて、定期入れにピタリのサイズ。
自分にコレクター魂があれば美品状態だったんだろうけど、
二十年以上の歳月が彼を大人に変えてしまった。(なんのこっちゃ)

カレーハウスCOCO壱番屋は中部圏を中心にチェーン展開をしていたお店で、
もとは70年代に喫茶店で出していたカレーから人気に火が付いたと言われている。
喫茶店文化が他の地域より変態的発展をしている中部圏ならでは……なのかな。

店の雰囲気とか、全国展開するようになってからもほとんど変わってないと
思うんだけど、このローカルなとび辛表と
「カレーならココ一番や!」
というベタなキャッチコピーは消えてしまったらしい。

1辛 口中ボーボー、三口でシャックリ。
2辛 汗はダラダラ、耳までマッカ。
3辛 目はパチパチ、十二指腸もビックリ。
4辛 頭はガンガン、二日酔もマイった。
5辛 全身ガクガク、三日はケッキン。
それ以上 内臓破裂、医者の紹介いたします。(過去に5辛を全部食べた方に限る)

……あまりにも素敵すぎる名調子。
80年代のイケイケな感じが出ていて、なかなかに味わい深い。
復活希望。

裏面。

Img037

カレーの具材にステーキというのもおかしいが、
 「お子様」は食べちゃいかんだろう。

山菜とかヤサイとか、謎なトッピングも気になりますが、
生タマゴ!
オヤジカレーの定番、カレーに生卵をおとしてソースドバドバですよ!

現在は半熟卵があるみたいですが、生は関西限定メニューで
生き残ってるみたいです。

実は東京に住んでて名古屋圏の店を見つけるとついつい入っていまう人間です。
山ちゃんとか、寿がきやとか、もっと東京を名古屋色に染めてやれ!とか思いますが、
たぶん、逆に洗練されて名古屋っぽいところがなくなってしまうんでしょうね。

今のココイチではトッピングはパリパリチキンとナスが好きです。





« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »