無料ブログはココログ

amazon

  • PCソフト
  • DVDベストセラー
  • ベストセラー
  • ウィジェット

« 夏目×ホームズ その1 | トップページ | 取材写真 »

2012年8月19日 (日)

夏目×ホームズ その2

その1から続く。

P1020592

日本の文豪、夏目漱石は、このシャーロック・ホームズの活躍していた時代のロンドンに
留学していました。
体格の立派な英国人たちの中で自分の小さな体に劣等感を抱き、
精神的に追い詰められていたのは有名な話です。

イギリスに留学しておきながら、本音のところでは西洋文明を嫌っていた漱石ですが、
その倫理観は同時代人のコナン・ドイルと同じで、ビクトリア朝の厳格さが感じられます。
ですから、漱石の作品などもシャーロキアンのやるのと同じように
「漱石作品の裏に潜むエロスを暴く」
なんてことが可能なのかもしれません。

実際、漱石作品には意外なほど生々しい描写が多い。
もし、漱石に現代人くらいはっちゃけた表現が許されていたなら、
どんな作品を書いていたのか、というのは結構楽しい空想です。

たとえば、作家の島田雅彦さんは漱石の「こころ」を下敷きに
「彼岸先生」というパロディ作品を書いています。
これは舞台を現代に置き換えたものですが、そうでなくても、
「こころ」という作品にはなにかしら強烈なエロスの匂いが漂っています。

「異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」

自分が初めて「こころ」を読んだのは中学生だったと思いますが、
この一文の生々しさにひどく驚いた記憶があります。

これは主人公の青年が先生と尊敬する人物に投げかけられたセリフで、
青年の行動原理を自分の経験から推測し、分析したものです。
文章が端正で理知的なので騙されますが、
漱石作品の登場人物たちは意外と動物的で生々しい行動をとります。

実際、漱石のまわりにはいろいろな分野の若者が集まっており、
そんな若者を観察しながら、漱石は
「なんでこいつらはうちに来てゴロゴロしているのだろう。」
などとしみじみ考えたのかもしれません。
それで、掌の上でそういう若者の心情をつきまわしてみると、
やはり若者の持つ性的な衝動、というところに落ち着いていきます。

そういう人間の動物的な部分を言葉で表現していくと、
その言葉に何ともいえずさびしい感じが生まれてきます。
漱石の作品には、明治人が近代化の過程でぶち当たった「自我」の問題があるとは
よく言われますが、そういう難しい言い回しをしなくても、
「ある日、人間という動物が自分のやっていることを言葉にしていたら、
そこに描き出された自分の姿がとても孤独だったので途方に暮れた」
でもいいのかもしれません。

ですから、そういう原理のもとに書かれた漱石の作品は、
本質的にはかなり「エッチ」なのではないでしょうか。
森鴎外とはそこのところが微妙に違うような気がします。
森鴎外は物語ですが、夏目漱石は「近代小説」なのです。

だいたい、「行人」という作品でもそうですが、
主人公の兄が自分の嫁さんの愛情を疑うあまり、
弟である自分と嫁さんを二人きりにして試す、なんてのは
やってる当人は大真面目でも、状況としては背徳的以外のなにものでもありません。
漱石としては肥大化した自我に押しつぶされた悲劇的な人間を描いたのかもしれませんが、
自分はこれをどうしても、兄の許可のもと、兄嫁と一夜を過ごせてドキドキだった話、
としか読めなかったりします。そして、それはそれでいいのかもしれないと、
この頃は考えるのです。

シャーロキアン風に考えるなら、
「弟はこの時、絶対に兄嫁に手を出していたに違いない、
ビクトリア朝風の厳格な倫理観に染まっていた夏目漱石は
当然そうあるべき流れを無意識にしろ意識的にしろ、回避してしまったのだ。
だいたい、嫁さんだって頭のいかれた兄に辟易して弟を誘っていた節がある。
この据え膳に手を付ける背徳は、格別だったに違いない。
たとえ兄がこの後、精神に崩壊をきたしたとしても、そんなのはただの病気。
物語の主眼はNTRにある!」
となります。

実際、漱石には「薤露行」というアーサー王伝説を元にした短編があり、
アーサー王の妃を忠実な騎士ランスロットが寝取るという筋書きになっています。
これには19世紀末のヨーロッパ芸術が美術にしろ音楽にしろ「不倫」を
題材にしがちだった、という事情も考えなくてはいけないでしょうが、
漱石の創作の根っこに「不倫へのこだわり」があったことは否定できません。

そういう下世話なエロ目線で夏目漱石の創作をながめると、
「坊ちゃん」のマドンナや「三四郎」の美禰子、
「虞美人草」の藤尾といった進歩的なヒロインを次々と生み出しながらも、
それに抵抗し、古き良き日本の女性へと回帰しようとする漱石の矛盾も気になってきます。
ヒロインを魅力的に描けた漱石は、進歩的な女性に魅力を感じていたはずなのです。
ところが、そういう自分を漱石は嫌って、彼女たちを断罪し続けます。
「虞美人草」に至っては嬉々としてヒロインを死に追いやっている。
小学生が好きな女の子にいたずらを仕掛けるのに似ていなくもありません。

漱石は本当はこのような進歩的な女性を無理やり組み伏せて
その洋装を剥ぎ取り、高慢な言葉を吐く口から男におもねるような言葉を吐かせ、
頭を畳にこすり付けて謝罪させたかったのではないのでしょうか。
マドンナは赤シャツごときに靡いた自分の不明を詫び、
美禰子は「ストレイシープ」と呟いた同じ口で「やっぱり三四郎さんがいい」と懇願し、
藤尾は死に際に「ホホホホホ」とヒステリー性の笑いに襲われながらも、
自らの傲慢さを反省し涙を流すのです。

本来はそうあるべきであった。けれど、現実の日本の近代化は
女性がそのような形で男に堕ちることを許さない。倫理よりは西洋文化がそうさせない。
だから漱石は彼女たち先進的女性たちがまっすぐに歩いていくのを見送るか、
藤尾のように殺してしまう事しかできなかったのかもしれません。

もちろん、ゲスの勘繰りなのですが。

自分は十年周期くらいで夏目漱石を読み返すのですが、今度はそいうゲスの勘繰りで
漱石を読んでみようかと思っているのです。

(写真について)
前回の写真は東京タワーのエレベーター、その天井部分でした。
今回の写真は三重県のとある海辺の町を歩いているときに、
店先で見つけた招き猫です。
招き猫は左右どちらの手を挙げているかで意味合いが違うと言いますが、
この写真だと「右が福」で「左が金運」みたいです。

これを並べて置いておく店の人はとてもお茶目だと思います。

« 夏目×ホームズ その1 | トップページ | 取材写真 »

コラム」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1669327/46753033

この記事へのトラックバック一覧です: 夏目×ホームズ その2:

« 夏目×ホームズ その1 | トップページ | 取材写真 »