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2012年9月

2012年9月24日 (月)

中国の色鉛筆

今はもうなくなってしまったけれど、実家の隣が中国物産店だった。

小学生くらいの自分は好奇心が旺盛だったので、
ちょこちょこ店の中に入っていっては陳列されているものをながめていた。
経営していたのは熟年の夫婦で、おばさんが店番をしていることが多かった。
旦那さんの姿はほとんど見かけなかったけれど、
中国のほうで仕入れの仕事をしていたのかもしれない。

売られている商品で印象深いのはパンダの剥製。
牙を剥いてガラスの目をぎらぎらに光らせていた。
頭は立体だったが、体は敷物になっていて、ぺちゃんこだった。
子供心にもこれは偽物だろうと思っていたのだけれど、
ワシントン条約を日本が批准する前のことなので、どうだかわからない。
象牙とか鼈甲が当たり前のように生活に溶け込んでいた時代の話だ。

その店では他に、民族衣装を着た人形とか、虫のような形の凧とか、
ランプ、ハチミツ、家具、茶葉など、
素材から何から日本風でないものがゴロゴロと陳列されていた。
中国の凧は針金で店先に吊るされていて、ムカデのように赤いひもをひらひらさせていた。

自分の一番下の弟はこの店のおばさんにずいぶんかわいがられていて、
指ぱっちんを教えてもらったと、今でも懐かしそうに話している。
自分も中国製の色鉛筆をいただいて、それをずいぶん長いこと使っていた。
ものは粗悪で丁寧に削らないとすぐ芯が崩れるのだけど、
色が独特なので原色ばかりの日本の色鉛筆より面白みがあった。
今でも三本だけ残ってる。

おばさんは店で白い大きな犬を飼っていて、売り場の奥でその犬と遊んでいた。
その奥の部屋には大きな写真が額装で飾られていて、
おばさん夫婦と、なぜか俳優の岡田真澄さんが写っていた。
言うまでもなくファンファン大佐のことである。

写真は自分の家の前で撮られていて、自分ちの前に岡田真澄がいるというのは
なかなかシュールな感じがした。
お客でいらしたそうだが、写真の中の岡田真澄はご夫婦よりも一回り大きく、
夫婦がひどくこじんまりして見えた。

自分が高校に入るころにはその店は無くなってしまった。
今は建物も取りこわされてどこかの個人事務所になっている。

ご夫婦はその後、少し離れたところで悠々自適の生活を送られていたけれど、
いつだか、旦那さんが交通事故でお亡くなりになって、
おばさんもそれからすぐに亡くなったと聞いた。

この齢になると子供の頃のことがまるで夢か何かのようで、
中国物産店のパンダや人形のことも幻のように思えるのだけど、
画材道具の箱を開けると、あの中国製の色鉛筆がまだ残っているので、
やっぱり夢じゃなかったんだなとぼんやり考えるのである。

Image0561

兵馬俑の縮小レプリカ。
いつだか都内の博物館で展示会があってそこで購入。
兵馬俑は一つとして同じものがなく、
その一人一人にモデルがいると推測されているけど、
古代中国にこの顔の人がいたのかと思うと、なかなかロマンな感じがする。

2012年9月17日 (月)

傷だらけのハリー

「かわすみさん、走るんだ!」
と言われて、とりあえず走った。
自分が漫画家の先生のところでアシスタントをさせていただいたときの話。
同い年でチーフアシのKさんと一緒に、深夜の街を駅に向けて走った。
電車に乗り遅れると次の電車まで結構待たなきゃいけない、そういうことだったと思う。
それで、駅前の鎖を渡してあるポールを飛び越えようとして、
足をとられて力の限りこけた。
人生においてこれ以上ないってくらい、派手にこけた。
ゴールデンウイーク前だったので、長そでを着ていたはずなのだけど、
両腕が擦過傷でひどいことになっていた。
鞄の中ではテレコが粉砕し、インク瓶が割れて黒い洪水状態。
しかも、
「かわすみさん、ゴメン、今日土曜日だから電車の時間に余裕があった」
という落ちまでついた。

「いやあ、ごめんごめん」
と言いつつ、Kさんはこちらのどじっ子ぶりに大爆笑していた。
こけ方が面白かったと詳細に説明してくれた。
いい人だし、お世話にもなったけれど、
もっと心配してくれよと心から思った。

京浜東北線で秋葉原に行く途中まで、Kさんと一緒だったのだけど、
しばらくして腰のあたりが妙にくすぐったいことに気付いた。
何だろうと思って、満員電車の中、こっそりとズボンをめくってみる。
「わははははは」
「どうしたの、かわすみさん」
「笑えるwwwww」
「落ち着けって、どうしたの」
「腰に穴が開いてるwwww」

(※グロ注意)

寛骨が地面と衝突したときに腰の皮下組織を四センチほどぱっくり割ってしまって、
思いっきり体の中が丸見えになっていた。出血はなかったが
赤黒い筋肉だか腹膜だかがはっきり見えて気持ち悪かった。
最近、テレビドラマの「仁」を見たのだけど、
あれの手術シーンはすごくリアルだと、自分の傷口を思い出して感心した。

痛みはなくて、かゆいくらいだったのだけど、
さすがにこれは放置できねーとおもったので、
そのまま秋葉原で乗り換えて、総武線で小岩に帰り、
駅の交番に行って救急病院を紹介してもらった。
お巡りさんには最初、「喧嘩でもしたの?」と詰問されたけど、
事情を話したらなんや知らん、うけた。
傷口を見せろというのでズボンを半下ろしにして見せたら
「気持ち悪っ」
とドン引きされた。

タクシーに乗って救急病院まで向かった。
深夜の病院で7人くらいの若いナースに囲まれてびびった。

結局、五針縫ってゴールデンウイーク中は自宅で絶対安静となった。
傷口は見えなくなるよ、とお医者さんは言ってくれたのだけど、
抜糸したらしっかり痕が残っていて、
「君はケロイドになりやすい体質みたいだね」
と、すべてこちらが悪いことにされてしまった。
まあ、別に構わんのだけど。

ゴールデンウイーク中だか明けてからだか、
仕事先の先生がKさんに事の顛末を聞いて電話をかけてきてくれた。
「大丈夫ですか、息してますか」
「わ、わざわざありがとうございます!」
仕事のあとのことなので自分にも責任があると思ったそうだ。
悪いのはKさんとどじっ子の自分なのに、立派な先生だなと思った。

休み明けに仕事場に行って先生に五針縫ったところを見せた。
結構ひどい傷なので先生は面白がって見ていた。
「かわすみさん、君につけるあだ名が決まりましたよ」
「はあ、なんでしょう」
「君は今日からハリーだ」
「……」

それから一週間くらい、仕事場でみんなからハリーと呼ばれ続けた。

Image0551

元祖ロボコン。何気にリアルタイムで見てたんだよな。

2012年9月11日 (火)

掲載予定告知です。

今月9月18日(火)発売の漫画サンデーに漫画が掲載されます。

漫画サンデーでは隔週化されてから毎回特集漫画を組んでいるのですが、
今回は「温泉マンガ」をやります。そのうちの一本。

テーマは「身も心もぽかぽか」と勝手に作ってみました。
小さな作品ですが、いろんなものが詰まってます。

ネーム段階では無心で書いてたりするので気づかないのですが、
原稿が完成してコピーにセリフを書きこんでいるときなど、
これは○○さん、この子は△△さんと、実在人物が浮かんできて驚きます。

今さらながら、いろんな人にお世話になっているんだなと
全方位に向けて感謝していたりします。

で、今回は掲載予定のカラーイラストをモノクロにしてみました。

Photo

絵を描く人間には男ばかり描きたがる野郎と
女性を描くことに喜びを覚える人間とにはっきりと分かれます。
この両者には決定的な溝がありまして、
男ばかり描く人種は女を描くことに興味がもてなかったりしますし、
逆に女ばかり描く人間は男を描いても女っぽくなったりします。

普段はいいのですが、この両者が絵について論争を始めますと、
「女々しい絵を描いてんじゃないぞ、このスケベ野郎!」
「はあ?筋肉描いてうれしいとか全然わかんないんですけど?」
「うるせえ、カッコいい男が好きで何が悪いんだよ!」
「キモイだけじゃん、このナルシスト!」
と、マリアナ海峡よりも深い溝が生まれます。
中には奇跡的に両者のバランスが取れている人もいるのですが、
たいていはどちらかに片寄ります。

自分としてはその奇跡的な中間地点を目指したいのですが、
なかなか難しいです。

2012年9月10日 (月)

帝国ホテルとハイフェッツ

愛知県犬山の「明治村」はご存じでしょうか。
名古屋で生まれ育った自分は、子供の頃から折に触れてこの施設に遊びに行きました。

時代の流れとともに消え去っていく明治の建物を、のちの世にも伝えるために、
広大な土地に移築し、保存公開されています。

その中でも目を引く建物に帝国ホテルの中央玄関があります。

設計はフランク・ロイド・ライト、近代建築の三大巨匠に挙げられる人物です。

Imperialhotelfacade_3


自分は明治村にあるのだから、あの帝国ホテルは明治時代の建物だと思っていたのですが、
実際は大正時代に建築されたものでした。お隣の鹿鳴館に料理を仕出ししていたのは
初代の帝国ホテルです。

二代目帝国ホテル、通称ライト館の竣工は大正12年。
まあ、ぎりぎり明治の範囲内でしょうか。
ライトは建築にマヤ文明のスタイルを取り入れたりもしたそうですが、
ライト館のデザインはそう言われればマヤっぽいような気がしてきます。
実に不思議な、空前絶後な建物です。

落成記念披露宴は9月の1日に行われる予定でしたが、
この日の昼に関東大震災が発生し、それどころではなくなってしまいます。

建物はライトが防災上の工夫を徹底的に凝らしたために、ほぼ無傷で、
周囲の建物が大被害を受けて炎上したりしている中、その勇姿を人々の目に焼き付けたのでした。

さて、首都東京の震災被害は世界中の人たちに衝撃を与えます。

この当時の東京には世界各国の有名アーティストが続々と来日していた時期で、
有名どころではバイオリニストのエルマン、クライスラー、
ピアニストではゴドフスキーなどが来日しています。
上手いたとえではないかもしれませんが、
マドンナとかローリングストーンズが来日したようなものだと考えてください。

エルマンはアウアー門下の名バイオリニストで、当時まだ30前後ですが、
「エルマン・トーン」という独特の音色で一世を風靡した人でした。
エルマンはアメリカで日本の震災の報に接し、
真っ先に義捐金集めの演奏会をしてくださったそうです。

この人の弟弟子にあの有名なヤッシャ・ハイフェッツがいます。

超絶技巧と言えばハイフェッツと言われるくらい、すさまじいテクニックの持ち主で、
その演奏はいまだに衝撃的です。
兄弟子のエルマンが、今聴くと鈍重でもっさりしているのに対し、
ハイフェッツの演奏はシャープで怜悧。
どんな難曲も眉ひとつ動かさずに弾いている感じがします。
あんまり上手すぎるので「演奏が冷たすぎる」という悪評もありますが、
それは表面的な感想だと自分は思います。

自分はこの文章をあらえびすの「名曲決定盤」昭和14年刊を座右に書いているのですが、
このあらえびすさんによりますと、何人かの海外演奏家がコンサートをキャンセルする中、
弱冠24歳のハイフェッツは震災間もない東京に来ているのだそうです。

場所は落成間もない帝国ホテル、ライト館です。
入場料はS席?10円で、クライスラー(超有名人)15円に比べればお手頃な値段でした。
あらえびすさんは前もってレコードでハイフェッツの演奏に触れていたため、
つめたい技巧的な演奏を想像しておられたようですが、
実際は宗教的な情熱を感じさせるものだったそうで、「紅顔の美少年」が演奏する様子を好ましく描写しています。

美少年……

齢食ってからのハイフェッツの写真しか知らない自分には想像も出来ません。

5日間のコンサートを終えた後、
ハイフェッツは被災した人たちのためにと野外コンサートを開いています。
場所は日比谷の新音楽堂(震災で倒壊したのを建て直したものか)だそうです。
入場料は一人1円で、当日は大勢の人が集まり、収益は4千何百円かで、
全額が寄付されたとか。
11月の薄曇りの日で、当時の東京は結構寒かったと思うのだけど、
ハイフェッツは全部で14曲を頬を紅潮させて弾き切ったとのこと。
その演奏曲目の中にはハイフェッツの代名詞である
サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」もあったそうな。

日比谷公園は帝国ホテルの目の前ですから、
ライト館のすぐ目と鼻の先であの名曲が鳴り響いたわけで、
想像するといろいろと胸が熱くなります。

Hmv_3770288_2
上のジャケットのCDは十枚入って千五百円くらいで
古い録音とは思えないほど音がクリアーです。ツィゴイネルワイゼンは入ってませんけど。

当時、帝国ホテルの隣にはあの鹿鳴館も残っていたのですが、
この有名な建物は昭和15年に解体されます。
保存の動きもあったと思われるのですが、
後世に残すには鹿鳴館は「国辱」のイメージが強すぎたのかもしれません。

のちに現在の帝国劇場を設計することになる建築家の谷口吉郎は、
山手線の車内から解体される鹿鳴館を見て、
「惜しい」
と思ったそうです。
鹿鳴館は明治を象徴する建物でした。設計者のコンドル自身は気に入ってなかったようですが、
建築史的にも、コンドルの一連の建築から多くの日本人建築家が生まれているわけで、
その意味からも、谷口さんは「残すべきだった」と考えたのかもしれません。

こののち谷口さんのご尽力で、犬山に明治村が作られ、
谷口さんは初代の館長になっています。

鹿鳴館はいくつかの部品を残して跡形もなく消えてしまいましたが、
ライト館は正面玄関のみですが、現在も明治村に保存されています。

鹿鳴館の死がライト館を救ったと、言えなくもありません。

2012年9月 3日 (月)

待ち合わせ

人と待ち合わせをするので、東京駅前の「八重洲ブックセンター」を利用した。

八重洲は「ヤン・ヨーステン」、徳川家康に仕えたオランダ商人の名前からきている。

もっとも、ヤンさんがもらった土地は現在の丸の内側、皇居のある方なので、
当の本人からすれば、縁もゆかりもない土地に
勝手に自分の名前が使われていることになる。

実際、昭和4年までは現在の「丸の内口」が「八重洲町口」と呼ばれており、
現在の「八重洲口」は「八重洲橋口」と呼ばれていた。

東京駅の開業は大正三年。
この当時、まだ東京駅の東側は江戸城の外堀が残っており、
このお堀越しに壮麗な東京駅が見えたことになる。
このお堀に八重洲橋がかかっていた。

その橋の名前が現在に残っている、というのが正解のようだ。

八重洲ブックセンターは自分のイメージでは日本最大の本屋さん、だった。
1978年の開業当時は間違いなく日本最大だったはずで、
そのイメージが自分の中に刷り込まれているのかもしれない。
東京に来て初めてこの「本のデパート」に入ったときは、少しテンションが上がった。

いわゆる、本屋の匂いのする本屋である。

普通の本屋と違い本を買い取っているために、思いがけず古い本が並んでいたりする。
自分が見た感じだと、二十年前の愛蔵本が新刊本の間に肩を並べて鎮座していた。
他の本屋ならとっくに返品されているはずである。
昔流行った「ザ・龍之介」とか「ザ・漱石」が普通に置いてあって懐かしかった。
(一冊に文豪の全作品を載せようとする無謀な本だった。)
二十年前に来たときにも置いてあったような気がするのだけど、気のせいだろうか。

本棚に本を並べるのに、機械的に本を陳列するのではなく、
まるで個人の蔵書のように本を置いてあるところが、この本屋の特色である。
「大きな書斎」と言ってみてもいい。
してみると、例の「ザ・龍之介」などもわざと置いてあるのかもしれない。
個人の書斎にところどころ場違いな本が挟まっているのはよくあることなのだ。

東京で一番大きい本屋は、現在池袋のジュンク堂のはずで、
こちらの本屋は大型書店の最先端をひた走っている。古さなどは微塵も感じさせない。
遊び心にあふれた現代的な本屋さんである。
しかし、自分の記憶の中にある「本屋さん」の空気を一番残しているのは、
やっぱり「八重洲ブックセンター」なのだ。

そうこうしているうちに携帯が鳴って、
本屋の前で友達と合流した。十年ぶりくらいかもしれない。
本当はもう一人来るはずだったのだけど、急な会議とやらで来られなくなった。
いろいろあってから最終的に有楽町で二人で飲んだ。

途中、東京タワーまで行って先方のブログ用の写真を撮ったり、
神宮球場で中日を応援しようと誘われたりとせわしない展開になりかけたが、
なんとか、落ち着いてお酒が飲めたのは良かった。

同い年なのに若い頃と同じで活動的な友人と話しながら、
俺ももうちょっと頑張らんとなと、考えた。

P1000731

写真は7年前の東京駅丸の内側。夜だったので写真に撮れなかったけど、
現在はこの安っぽい三角屋根が優雅なドーム状になり、
戦災前の本来の姿を取り戻していた。
以前の姿を知らなかったので、今見ると
この写真の東京駅はとんでもなく間抜けである。

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