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2012年9月10日 (月)

帝国ホテルとハイフェッツ

愛知県犬山の「明治村」はご存じでしょうか。
名古屋で生まれ育った自分は、子供の頃から折に触れてこの施設に遊びに行きました。

時代の流れとともに消え去っていく明治の建物を、のちの世にも伝えるために、
広大な土地に移築し、保存公開されています。

その中でも目を引く建物に帝国ホテルの中央玄関があります。

設計はフランク・ロイド・ライト、近代建築の三大巨匠に挙げられる人物です。

Imperialhotelfacade_3


自分は明治村にあるのだから、あの帝国ホテルは明治時代の建物だと思っていたのですが、
実際は大正時代に建築されたものでした。お隣の鹿鳴館に料理を仕出ししていたのは
初代の帝国ホテルです。

二代目帝国ホテル、通称ライト館の竣工は大正12年。
まあ、ぎりぎり明治の範囲内でしょうか。
ライトは建築にマヤ文明のスタイルを取り入れたりもしたそうですが、
ライト館のデザインはそう言われればマヤっぽいような気がしてきます。
実に不思議な、空前絶後な建物です。

落成記念披露宴は9月の1日に行われる予定でしたが、
この日の昼に関東大震災が発生し、それどころではなくなってしまいます。

建物はライトが防災上の工夫を徹底的に凝らしたために、ほぼ無傷で、
周囲の建物が大被害を受けて炎上したりしている中、その勇姿を人々の目に焼き付けたのでした。

さて、首都東京の震災被害は世界中の人たちに衝撃を与えます。

この当時の東京には世界各国の有名アーティストが続々と来日していた時期で、
有名どころではバイオリニストのエルマン、クライスラー、
ピアニストではゴドフスキーなどが来日しています。
上手いたとえではないかもしれませんが、
マドンナとかローリングストーンズが来日したようなものだと考えてください。

エルマンはアウアー門下の名バイオリニストで、当時まだ30前後ですが、
「エルマン・トーン」という独特の音色で一世を風靡した人でした。
エルマンはアメリカで日本の震災の報に接し、
真っ先に義捐金集めの演奏会をしてくださったそうです。

この人の弟弟子にあの有名なヤッシャ・ハイフェッツがいます。

超絶技巧と言えばハイフェッツと言われるくらい、すさまじいテクニックの持ち主で、
その演奏はいまだに衝撃的です。
兄弟子のエルマンが、今聴くと鈍重でもっさりしているのに対し、
ハイフェッツの演奏はシャープで怜悧。
どんな難曲も眉ひとつ動かさずに弾いている感じがします。
あんまり上手すぎるので「演奏が冷たすぎる」という悪評もありますが、
それは表面的な感想だと自分は思います。

自分はこの文章をあらえびすの「名曲決定盤」昭和14年刊を座右に書いているのですが、
このあらえびすさんによりますと、何人かの海外演奏家がコンサートをキャンセルする中、
弱冠24歳のハイフェッツは震災間もない東京に来ているのだそうです。

場所は落成間もない帝国ホテル、ライト館です。
入場料はS席?10円で、クライスラー(超有名人)15円に比べればお手頃な値段でした。
あらえびすさんは前もってレコードでハイフェッツの演奏に触れていたため、
つめたい技巧的な演奏を想像しておられたようですが、
実際は宗教的な情熱を感じさせるものだったそうで、「紅顔の美少年」が演奏する様子を好ましく描写しています。

美少年……

齢食ってからのハイフェッツの写真しか知らない自分には想像も出来ません。

5日間のコンサートを終えた後、
ハイフェッツは被災した人たちのためにと野外コンサートを開いています。
場所は日比谷の新音楽堂(震災で倒壊したのを建て直したものか)だそうです。
入場料は一人1円で、当日は大勢の人が集まり、収益は4千何百円かで、
全額が寄付されたとか。
11月の薄曇りの日で、当時の東京は結構寒かったと思うのだけど、
ハイフェッツは全部で14曲を頬を紅潮させて弾き切ったとのこと。
その演奏曲目の中にはハイフェッツの代名詞である
サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」もあったそうな。

日比谷公園は帝国ホテルの目の前ですから、
ライト館のすぐ目と鼻の先であの名曲が鳴り響いたわけで、
想像するといろいろと胸が熱くなります。

Hmv_3770288_2
上のジャケットのCDは十枚入って千五百円くらいで
古い録音とは思えないほど音がクリアーです。ツィゴイネルワイゼンは入ってませんけど。

当時、帝国ホテルの隣にはあの鹿鳴館も残っていたのですが、
この有名な建物は昭和15年に解体されます。
保存の動きもあったと思われるのですが、
後世に残すには鹿鳴館は「国辱」のイメージが強すぎたのかもしれません。

のちに現在の帝国劇場を設計することになる建築家の谷口吉郎は、
山手線の車内から解体される鹿鳴館を見て、
「惜しい」
と思ったそうです。
鹿鳴館は明治を象徴する建物でした。設計者のコンドル自身は気に入ってなかったようですが、
建築史的にも、コンドルの一連の建築から多くの日本人建築家が生まれているわけで、
その意味からも、谷口さんは「残すべきだった」と考えたのかもしれません。

こののち谷口さんのご尽力で、犬山に明治村が作られ、
谷口さんは初代の館長になっています。

鹿鳴館はいくつかの部品を残して跡形もなく消えてしまいましたが、
ライト館は正面玄関のみですが、現在も明治村に保存されています。

鹿鳴館の死がライト館を救ったと、言えなくもありません。

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