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2012年10月

2012年10月22日 (月)

古い記憶

昭和46年のことである。

祖父の葬式があって島根の父方の実家に連れて行かれた。
計算すると自分が三歳の頃の話なのだが、
かろうじて記憶が残っている。
それだけ印象深かったということなのだろう。
作家の三島由紀夫などは、生まれたときの産湯をつかった盥のふちを覚えているという話だから、
自分などはとうていかなわない。

何がそんなに印象的だったのかというと、祖父の埋葬が土葬だったのである。
あれから和洋さまざまな葬式を体験してきたけれど、土葬はさすがにあの時一回きりだ。

島根の本家は木造で、立派な農家という風情である。
当時は牛も一頭飼っていた。縁側に腰かけて外を見ると、緑の畑が麓の方まで続いていた。

祖父が紫のちゃんちゃんこを着てこの縁側に座っている写真を見たことがある。
頭はきれいに剃られていてつややかに光っている。絵に描いたようなおじいちゃんである。
自分は末っ子の長男という事でかわいがられ、鯉のぼりや足ふみ自動車などを贈られたそうだが、
生きて動いている祖父の記憶というのは残念ながらない。
いきなり白い服を着て布団に横たわっている状態から記憶が始まる。

その部屋に大きな樽のようなお棺が持ち込まれ、
そこに胡坐をかくような感じで祖父の遺体が安置された。
その上から、レコードのドーナツ盤のような板をはめ込んで、
頭だけ出る感じで中蓋を落とす。
ここに冥途の土産をいろいろ並べるのである。

なぜ三歳児がここまではっきりと覚えているかと言えば、
自分が食べかけのまま供物台に置いたキャラメル箱が、一緒に入れられてしまったからだ。
まさか!と思い、覗き込んだ時の情景が、いまだにまぶたに焼き付いている。
ずいぶん、あさましい話である。

棺は天秤棒に固定され、それを大人の男達が担いで山の上の墓地に持って行った。
その様子を、自分は離れの二階から母と親戚のおばさんたちと見ているのだが、
花咲き誇る山道を葬列が登っていく様子は童話の中の出来事のようで、
なんだかきれいだなと感じた。

墓地には前もって大きな穴が空けられており、そこに棺をおろし、
こんもりと土饅頭を作り上げる。
時間が経つとお棺が潰れて土饅頭がぺしゃんこになる。
そこを大人たちが踏み固めて、上に墓標を乗せるのだという。
これは何年か後、おそらく幼稚園児くらいに聞いた話だと思うが、
その、「踏み固める」という過程が恐ろしくて、
もしズボッと穴の中に落ちたらどうずるのだろうといらぬ心配をした。

この墓地には自分が生まれる前に亡くなった祖母と父の長兄の墓もある。
長兄は戦争に行って亡くなったという話だが、
最近、うちの母が何かの話のついでに
「おじいさんは沖縄まで追悼に行っている」
みたいなことを言っていたので、この人の話がでたらめでなければ、
伯父は沖縄で戦死したのだろう

この、あまり信用できない母の話によれば、
二歳児くらいの自分がこの墓地に墓参りに連れられてきたとき、
たくさんある墓標の中をまっすぐ走って、真っ先に祖母の墓標にすがりつき、
次に伯父の墓標に抱きついたということである。
以前、自分には霊感がないという話をしたけれど、
「あんた、しっかり見えてたんじゃないの」
と、おっかないことを母に言われた。
母はオカルトっぽい話が好きな人なので、いまいち信用できないのだけど、
見えていたのなら、それはそれで霊にとっても何かしらの慰めにはなったのだろう。

これらは昭和40年代の話で、当時は名古屋だって道路が完全に舗装されていなかったし、
町中木造家屋があたりまえで、鉄筋の建物は金持ちの建物だった時代のはなしだ。
島根などはおとぎ話の世界のように思えた。
自分にとってこの古き日本の風景はとても印象的で、
こういう記憶があることはとても誇らしいことだったりするのだけど、
あんまり田舎田舎言うと親類に怒られるのでこの辺にしておく。

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2012年10月14日 (日)

さらば、大名古屋ビルヂング

上京したての頃、東京の道路の狭さにはびっくりさせられた。

名古屋出身の自分は「都会」と言って想像できるのが
栄の久屋大通だったり、名古屋駅周辺だったりしたので、
東京に出てきた当初は、ビルの巨大さや、その広大さには驚いた。
新宿は人も多いし、普通に歩いている若者もテレビの中の人みたいに洗練されている。
ところが道路に関しては、ひどくせせこましく思えた。

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新宿アルタ前
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渋谷

自分の感じる「大きな道路」というものが極端にすくない。
なんというか、道路の両側のビルがひどく近いような感じがする。
名古屋なら、百メートル道路の向こう側のビルは隣の島くらい遠くに感じる。
横断歩道を渡るときも、「さあ、渡るぞ!」と気合を入れてから足を踏み出す。
東京でそこまで気合を入れて道路を渡るようなことはない。
名古屋人としては味気なさすら感じてしまう。

なにせ名古屋は道があまりに広いので、真ん中の車線にバス専用レーンを作ったりもした。
いわゆる、「基幹バス」というやつである。

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右が基幹バスで左が普通の名古屋市のバス。弟のコレクションを黙って勝手に撮影。
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ウィキペディアから。なんでもあるな、あそこ。

道路の真ん中にバス停を作って、バス専用レーンのみ黄色く着色した。
それが名古屋の東の果てから茶屋ヶ坂を通って名古屋城の手前で左に曲がって南進し、
市役所の前を通って栄の方まで続いている。
この間道路は二車線分黄色であり、一般車両の進入は原則禁止されている。

東京では絶対に出来ないだろう。まあ、やりたくもないだろうが。

この違いは都市設計にある。
名古屋は戦争で一度都市を焼かれたあと、縦横に大きな道路を作って
災害による延焼が広がらないように作り直している。
これが100メートル道路になって名古屋の景観を開放的に、
あるいは殺風景にしている要因となっている。
もちろん、東京にもその機会は幾度かあったのだけど、
都市の構造がそれを許さなかった。

東京は江戸の昔から城を中心にカタツムリの殻のように
渦を巻くように発展してきた。
元が城という防御陣であるために中心へのアクセスがすこぶる悪い。
どうしても城の周囲をクルクル回ってしまうことになる。
こうして山手線が生まれ、環状線が作られ、首都高が出来上がった。

道がまっすぐにならず、最終的に大きな円形になるので、
基幹道路がいくつも必要になり、相対的にひとつひとつの道が狭くなったのだろう。
これはもう、どうしょうもない。あきらめるしかない。

20世紀末の東京はこのアクセスの悪いところへトラックが大量に入り込んでいたため、
大気の汚染がすさまじかった。
環状7号線などは深夜でもひっきりなしに大型トラックが行き来していたし、
真っ黒な粉じんが周囲をどす黒く汚していた。
それが石原都知事になってから環状8号線の整備が行われて、
大型トラックが都心に入らずに迂回できるようになって
ずいぶん道路が落ち着いてきた。

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環七。 でも基幹道路を名乗るならこの倍の道路幅は欲しいと感じてしまう。

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環八。というか平和台。そういえば松任谷由美の「カンナ8号線」はこの道のことを唄っているんだっけ。

自分はもう東京に住んで20年以上になるけれど、
これだけ長く住んでいるといい加減、東京の狭い道路にも愛着がわいてくる。
逆に、たまに名古屋に帰った時など、道路がだだっ広い上に殺風景で、
機能的ではあるけれどつまらないなと感じるようになった。
20年前には大繁華街に思えた栄や名古屋駅も、
なんとなく貧乏くさく思えたりする。そしてそのことを地元でうっかり口にして
生粋の名古屋人たちから袋叩きにされたりする。

以上、名古屋と東京の道路の話でした。

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名古屋駅前のターミナル。日本最大の地方都市の開放的空間。
そしてある意味有名な「大名古屋ビルヂング」。

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でかでかと看板がでているので名古屋人のネーミングセンスが面白い、
みたいな言われ方をしているけど、東京の皇居の周りを歩いていても
普通に「ビルヂング」という名前の建物は存在している。
この場合問題にすべきは、名古屋駅を出て見上げるとあの看板がある、
というインパクトの方だろう。(あと昭和臭い球体看板)

この建物も9月30日に営業を終え、新しいビルヂングに建て直されるらしい。
200メートル級のビルになっても「ビルヂング」の看板は
残してほしいと思う。無理は承知で。

2012年10月 8日 (月)

映画鑑賞会

高校時代に授業の一環として映画を見に行くというイベントがあった。
以前、このブログでも「ヤングシャーロック」を観に行ったことを書いている。

細かい状況はよく覚えていないけど、学生服を着ていたのは間違いない。
たぶん、現地集合で名古屋駅前の松竹じゃないかと思う。

数クラスずつローテーションを組んで貸切で観ていた。
平日のガラガラの映画館の有効利用ということなのだろう。
一年に一度のイベントなので三回観ている勘定になるけど、
自分が覚えているのは二回だけである。
忘れてしまったのか、そもそも二回しかやってないのか、
返す返すも、この時期日記をつけていなかったのが悔やまれる。

その、自分の記憶しているうちのもう一本の映画が
アカデミー賞をとった名作「アマデウス」である。
こちらは強烈な印象を受けたのではっきり覚えている。
というか、折に触れ繰り返し観ているので頭に焼き付いている。
テレビ放送された三ツ矢雄二吹き替え版も観ているし、
ディレクターズカット版のDVDも持ってる。

「アマデウス」は作曲家のアマデウス・モーツァルトと
同時代の宮廷作曲家アントニオ・サリエリを描いた映画である。
この手の作曲家や画家、ロックスターを扱った映画に名作は多くなさそうだけど、
モーツァルトのこれは本当によく出来ていると思う。

物語は高名な作曲家、アントニオ・サリエリの晩年から始まる。
イタリア出身のこの作曲家はオーストリアの宮廷音楽家として当時は第一級の人物であり、
その作品はオペラをはじめ、永遠不滅の作品とみなされていた。
ところが、この作曲家は長命だったために自分の作品がそのような力を持たず、
時代の流れとともに風化し忘れ去られていくのを見ることになる。
そして、かつては二流とみなされ、貧困のうちに死んだモーツァルトが
大作曲家として絶対的成功を収めるのを目の当たりにする。

彼はこの神の仕打ちと葛藤しながら、ついに首を掻き切って自殺を図る。
映画はこの印象的な自殺未遂のシーンから始まるのだけど、
オープニングに流れる交響曲第25番第一楽章がすさまじい効果を上げている。

老音楽家サリエリは精神病院に送られ、そこで神職の青年に過去を語り始める。
曰く、自分がモーツァルトを殺したのだと。

彼とモーツァルトの出会いはザルツブルク大司教邸での演奏会でのこと。
神童と呼ばれる天才作曲家の顔を一目見てやろうと招待客の顔を見て回っているうち、
恋人のコンスタンツェと戯れる下品な小男(モーツァルト)を見てしまう。
この戯れるシーンでコンスタンツェの超巨乳が画面いっぱいに大写しになるのだけど、
その瞬間、自分の席の近くの男子生徒が、
「すげえ……」
と呟き、映画館の中の多くの生徒がどよめいていたのを記憶している。

後年、ディレクターズ・カット版が出て、公開時にカットされていた
コンスタンツェのおっぱいシーン(乳首あり)が追加されたけど、
悲しいくらい残念おっぱいだったので、あれにどよめいた男子生徒一同が憐れになった。

おっぱいはともかく、この映画は多くの名作がそうであるように細部の仕事が丁寧である。
自分の高校三年の時の担任は小林先生という世界史担当の方だったのだけど、
この人が授業中にふと映画「アマデウス」のことに触れて、
「いやあ、あの配役はすごいですよ。役者が実際の肖像画そっくりでした。」
と妙に褒めていた。
先生が褒めていたのはオーストリア宮廷の一同で、
皇帝ヨーゼフ二世とその取り巻きの方たちのことと思われる。

それと、これはずいぶん後になって知ったのだけど、
実際のアントニオ・サリエリは甘いお菓子が大好きだったらしく、
映画の中でもしつこいくらいに繰り返しお菓子が登場している。
冒頭の召使がサリエリのために持ってくるのもクリームたっぷりのお菓子だし、
モーツァルトと初めて出会う大司教邸でもつまみ食いをしてる。
コンスタンツェが旦那の楽譜を売り込みに来た時も乳首の形のお菓子を食べてるし、
ラストで老人サリエリを連れて行くのもお菓子の用意してある部屋である。

ここまでおちょくられるとサリエリが少しかわいそうに思えてくるのだが、
そこが笑えるのだからまあ仕方がない。

自分はこの映画を観るまではモーツァルトの音楽はほとんど知らなかったのだけど、
映像の力というのはすごいもので、すっかり感化された十代の自分は、
このあとモーツァルトの音楽を聴きまくることになる。

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自分は仕事中にもクラシックか洋楽を流していることが多いのだけど、
アシスタントさん達はたいてい洋楽にしか反応してくれない。
ウケを狙ってチャイコフスキーのくるみ割り人形の組曲を流して、
「ソフトバンクだよーん」
とかやるけど、それでハマってくれる人は皆無だ。

昔、流行に遅れまいとプライマル・スクリームが流行ってた時に
「Swastika Eyes」という曲をかけてたら、
アシさんが飛んできたことがあった。
あれは確か、プロレスで入場の曲に使われていたとかなんとか。

モーツァルトじゃそうはいかんわな。

2012年10月 1日 (月)

お札の話

紙幣や硬貨というのは世代によってイメージが違っている。

昭和40年代生まれの自分にとって千円札は伊藤博文、
五千円と一万円は、まあ子供だったのでほとんど見る機会はなかったのだけど、
聖徳太子だった。
それと、五百円紙幣が存在して岩倉具視なんてのが肖像になっていたりした。

先日、編集の方と飲んでいて、
「今、銀座カリーを買って応募券を送ると昔の紙幣が当たるんですよ」
なんてどうでもいい話題からお札の話になった。

一万円と五千円が聖徳太子で、千円が伊藤博文、
ここまでは記憶が一致していた。ところがその編集の方は、

「百円は板垣退助でしたっけ」

とおっしゃったので微妙な世代差を感じてしまった。
自分はたぶん、流通している板垣退助を見たことがない。

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ウイキペディアから持って来た百円紙幣の画像。

百円札は昭和41年まで流通し、翌42年から百円硬貨に取って代わられる。
自分が生まれる前の話である。そりゃ知らんわな。

紙幣というのは偽札防止のためか、はたまた政権のアピールのためか
割と短いスパンで新しいものに代わっていく。
そしてそのたびに紙幣に使われる歴史上の人物が話題になる。

高額紙幣が聖徳太子だった時代は1984年までで、
日本の高度成長時代のお金の代名詞はこの偉人だった。
今でも聖徳太子を見ると条件反射で

「お金」

を連想する方は多いと思う。聖徳太子にとっては迷惑な話だ。

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大蔵省では1979年から新札発行のプロジェクトが組織されていて、
当初、お札のラインナップは次のようになっていたらしい。

十万円札……聖徳太子
五万円札……野口英世
一万円札……福沢諭吉
五千円札……新渡戸稲造
千円札………夏目漱石

(講談社刊「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」北康利著より)

福沢諭吉は実は三番手だったという衝撃の事実が書いてあった。
1984年の発行時点では見送られたけれど、大蔵省としては
十万円札と五万円札は将来必ず必要になると踏んでいたらしい。
その時まではとりあえず最高額紙幣は福沢諭吉にしておき、
あとで聖徳太子を出すつもりだった、というのが正解のようだ。

そんな番狂わせで聖徳太子の座をまんまと奪い取った福沢諭吉だが、
お金と言えば諭吉、というイメージもずいぶん固まってしまった。
「経済」という言葉は福沢諭吉が「経世済民」から作った言葉だという説もあり、
そういう人物が一万円札の肖像になるというのは似つかわしいようにも思える。

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