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2013年3月

2013年3月26日 (火)

ヨーヨーの思い出

ヨーヨーは日本でもお馴染みの玩具なのだけど、
その歴史は古く、あんまり古いために実のところ良くわからないところが多い。
まず、その名前である「ヨーヨー」からして、これが何語なのか、
はっきりと断定することが難しい。

近代的なヨーヨーは東南アジアのフィリピンで完成しているので、
フィリピン国内のどこかの言語の可能性が高いと言われている。

競技としてのヨーヨーの歴史は1932年にロンドンで世界大会が行われていて、
カナダ人のハービー・ロウさんが13歳で優勝している。
2009年にお亡くなりになったときの記事を見ると、中国系の方なのかなと思う。

現在のいわゆる「ヨーヨー世界大会」と言うのは
1990年代からおもにアメリカで行われているものだが、
これには多くの日本の名人が出場しておられ、数々の輝かしい戦歴を残している。
有名なヨーヨー名人として鈴木裕之さんがいらっしゃるけれど、
Youtubeで「Yo-yo God 」を検索すると、その凄まじい技を見ることが出来る。
興味のある方は是非。


さて、自分が子供の頃にもヨーヨーのブームと言うのはあった。
御存じの方も多いと思うけれど、コカコーラが自社の宣伝のために仕掛けたもので、
そのド派手な広報戦略は子供心にも「すげー!」と驚かされた。

自分の実家の近くに「タバコ屋さん」という雑貨屋さんがあって、
そこにはコカコーラの冷蔵庫が置いてあったのだけど、
そこから瓶コーラを引っ張り出して冷え冷えのコーラを買うことが出来た。
まだ缶の自動販売機が主流になる前の話だ。

今でも見かけることがあるけれど、自販機と同じ大きさで、
左に細長いガラス窓があり、開くとコーラの瓶が引っ張り出せるようになっている。
冷蔵庫の右下には箱型の栓抜きがぷら下がっていて、中に不要になった王冠がためられる。
スターウォーズ(のちにエピソードⅣと呼ばれるやつ)がブームの時、
王冠の裏に映画の名場面が印刷されていたことがあり、
自分はおばちゃんに頼んでその栓抜きにたまった王冠を集めまくったことがある。

もちろん、自分でも買いました。(重要)

Img082_4

さて、そんな小学校3・4年生のころだったか、

タバコ屋のおばちゃんに、
「コカコーラのお祭りがあるから、ひろ君も行かない?」
と誘われた。確か、何かプリントされた紙を見せられた記憶がある。
それで、ヨーヨー大会があるらしいというのはなんとなくわかった。
自分は天満宮のお祭りを連想して、

「コカコーラがテキ屋を出したらさぞ豪華だろうな」

と思い、おばちゃんについて行くことにした。

001_3

おばちゃんは、普段はワンピースを着て白いエプロン姿で店を切り回していたのだけど、
その日はちゃんとした和服に身を包んで、えらく気合が入っていた。

自分が連れて行かれたのは名古屋の中心にあるホテルで、
タクシーを降りるとドアボーイに笑顔で迎えられた。
ちょっとビビった。

自分のような庶民のガキにはホテルなんて縁のない世界なので、すっかり委縮して、
おばちゃんの後ろで小さくなっているしかなかった。
おばちゃんは例のプリントを受け付けの人に渡し、会場に入った。

入ってみて驚いた。既に大勢の着飾った大人たちがグラスを片手に談笑しており、
それがいわゆる「立食パーティ」であることがわかった。
明るいホール一杯にフレンチのオードブルが用意され、シャンパンが振る舞われていた。
あと、コカコーラのファンタも。

自分が想像していたのは、神社の境内にコカコーラのテキ屋が並び、
そこでヨーヨー大会が行われる姿だったので、
「どうしよう」
と思った。どう考えても自分のような小学生がいる場所じゃない。

頭をクルクルさせて会場を見回してみると、なんか変な着ぐるみが2体いた。
ファンタオレンジとファンタグレープのマスコットキャラクターだった。
白い大きなカゴのようなものを持って、招待客に何かを配っている。

近づいて覗いて見ると、そこには大量のヨーヨーが入っていた。

もらっていいものか少し悩んだけれど、まあ、みんな勝手に持って行ってるからと、
緑色のヨーヨーを手に取った。

そこには白字で「スプライト」と書かれていた。

やがて、コカコーラの偉い人が舞台上でスピーチを始めた。
子供なので何を言ってるのかよくわからなかったけれど、
今考えてみると、
「コカコーラの宣伝戦略としてヨーヨーのブームを仕掛けるから、
小売業者の皆様にも、ご協力のほどよろしくお願いします」
と言っていたのだろう。

スピーチは延々と続いた。
ファンタをちびちびと舐めながら、「これの何処が祭りなのだろう」と、
素朴な疑問を抱いた。子供にはさすがに退屈すぎた。
おばちゃんに騙されたとちょっと恨めしく思った。

けれどその退屈はすぐに熱狂へと変わることとなった。

「それでは、各国のヨーヨーチャンピオンの皆様をご紹介しましょう!」

偉い人が手をあげると、舞台のそで口から赤いジャケットを着た外人さんが、
ずらずらと10人くらい登場した。
背の高い人、太った人、女の人もいたと思う。

その外人さんたちはみんな手にヨーヨーを持って、
それを音楽に合わせて器用に振り回していた(ように見えた)。
なかには両手にヨーヨーを持ってブルースリーのヌンチャクのように回している人もいた。

これには会場の小売業者の方々も拍手喝采、大いにウケた。

自分も会場にいた数人の子供たちと舞台の前の方に行って、
そのアクロバティックな妙技の数々を、目を皿のようにして見つめた。

彼らが使っているヨーヨーは、自分たちが手にしているものと同じで、
両サイドにコカコーラの商標と商品名がプリントされたものだった。
赤いコカコーラのヨーヨー、緑のスプライト、オレンジのファンタなど、
……よくわからんけど、カッコいいぞ!と子供心に素直に思った。
自分の持ってるヨーヨーがすごい宝物のように思えてきた。

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その後のヨーヨーブームは大変なもので、
子供ならみんな「マイ・ヨーヨー」を持っているのが当たり前、
そのデザインがコカコーラか、ファンタか、そんなところにもこだわったりした。
ヨーヨーの紐が取り換えできるとわかると、
わざわざ紐を長くしたり、木工用ボンドで固めたりした。
男子は休み時間(名古屋弁で言うと放課)になると教室の後ろに集まり、
ヨーヨーを振り回して過激なバトルを繰り広げた。

自分もあの「スプライト」のヨーヨーを持って、
ブンブンと振り回した。

このブームをそこまで大きくしたのは、
「ヨーヨーチャンピオン」と呼ばれた例の外人さんたちの存在にあると思う。
日本全国に散らばって行ったヨーヨー名人たちは、
コカコーラを販売する小売店の店先で子供たちを集め、
そのヨーヨーの妙技を披露したのだ。

自分もおばちゃんの店の前で赤いジャケットを着た外人さんが、
ヨーヨーの技を繰り広げるのを、近所の子供たちと食い入るように見つめた。
「すごい技を持っている大人」というのは、
それだけで子供たちにとって最高のヒーローなのだ。

スターウォーズの王冠にしてもそうだけど、
この当時のコカコーラの宣伝戦略はユニークで面白いものが多い。
コカコーラが日本人の生活の一部分にまで溶け込んでいるのは、
そういう宣伝の上手さがあるのだろうと心から感心してしまう。

もちろんコカコーラ本体もすごくおいしいですけど。(重要)

自分の持っていたスプライトのヨーヨーは、軸が折れて壊れてしまったけれど、
復刻されたものを持っているので、写真を1枚。

Image0581_2

子供の頃のことはよく覚えているのに、
この復刻版をどういう経緯で手に入れたのかまるで覚えていない。
自分が昔持っていたやつは端っこが透明ではなく白かったはず。

今でもときどきブンブン回して遊んでます。

2013年3月21日 (木)

肉まん物語

これはあくまで自分の子供の頃の記憶なので、いくつか間違いがあるかもしれません。

「肉まん」

これが自分の子供の頃には憧れの食べ物だったりしました。
たぶん、小学校の2年か3年くらいだと思いますが、
店頭で巨大なガラスケースの蒸し器を置いて、ずらっと並べて販売し始めました。
昭和52年か53年くらいじゃないかと思います。
当時の価格は一個50円。
子供がおこずかいで買えるギリギリの値段じゃないかと思います。

以前にも書きましたが、自分の家の近所にタバコ屋さんと呼ばれた雑貨屋があって、
ここでは菓子パンやら子供のお菓子なんかも扱っていました。

そこに突然、背の高いガラスのケースが設置され、
そのガラスの中でアツアツの肉まんあんまんが蒸かされるという、
食いしん坊の子供にはたまらない光景が出現したわけです。

「いい匂いだ、あれはきっとおいしいものに違いない」

当時は中華饅頭なんてものはそうそう食べる機会もなかったので、
その未知の食べ物への期待は小学生の胃袋の中で無限に高まっていきました。

ところが、自分たち兄弟はこれを食べることを禁止されていたのです。

当時の実家は飲食業をやっておりまして、
店を切り回していた母親は、
「あんな、店の前で蒸かしたようなものを食べて、食中毒を出したらどうするの!」
と、肉まん禁止令を出してしまいました。

まあ、飲食業をやる以上、多少神経質なくらいが安全なのでしょうけど、
この母親さまはカップヌードルでさえも、
「お湯を注いで三分待つなんて、そんな食べ物がありますか!」
と、沸騰したお湯に中身の麺やら具を投げ込んでグツグツ煮込むような人でした。
今だってやりかねない。

子供の時分は、せっかくのカップヌードルを鍋でグツグツ煮込まれて、
自分は大いに不満でした。
そんなことをしたらカップヌードルがカップヌードルである意味がない。
三分待つからこそ、カップヌードルなんじゃないか!
……まあ、今でも子供の食に敏感なママさんは大勢いるので、
うちの母だけが特別ではないと思いますけど。

まあ、そういうわけで、かろうじて「あんまん」はOKでしたけど、
「肉まん」は自分の家では禁断の食べ物だったわけです。

「あんまん」もおいしいですけど、子供からすればあれはホットなアンパンなわけで、
やはり具に肉やら椎茸やら、いろいろ入ってるやつが食べてみたかった。

では、自分はいったいいつ「肉まん」を食べることが出来たのかと言うと、
案外早い時期にパクパク食べまくっていたりします。
もちろん、親には内緒ですけど。

まず、自分は「肉まんあんまん」を売ってるタバコ屋のおばちゃんと仲が良かった。
コカコーラが日本全国にヨーヨーブームを巻き起こしたときは、
名古屋市内のホテルで開催されたヨーヨーお披露目会に連れて行ってもらい、
ステージ上で赤いジャケットを着たヨーヨー名人の外人さんたちが、
一斉に妙技を披露するのを見ていたりします。

ですから、こっそり肉まんを食べさせてもらうくらいのことはあったわけです。

中華料理なんてものに縁のない、名古屋の小学生にとっては、
肉の具の入ったまんじゅうというのは、ものすごい御馳走なわけで、
無心で口いっぱいに頬張りました。
あれは、おいしかったな。

あと、自分は小学校の四年生くらいまで近所でやってる工作教室に通っていたのですが、
工作教室が終わったあと、先生を手伝ってライトバンに道具を運んだりすると、
「ご褒美」として肉まんを買ってくれたことがありました。
当然、自分はこの後片付けの常連となって、毎週のように肉まんを食べていました。
同年代の男女で道路に座り込んで食べる「肉まん」はまた格別で、
空が夕焼けに赤く染まっていくのを見ながら、
ニコニコ頬張ったものです。

そんなある日、先生が近所の店で買ってきた肉まんに、黄色い肉まんが混ざっていました。

そう、新発売の「カレーまん」が市場に流通しはじめたのです。
当然、みんながジャンケンをして取り合いになるわけですが、
自分も何度目かには勝利者となって、黄色いカレー味の肉まんを食べることが出来ました。
これもおいしかった!

子供の頃の味覚体験というのは強烈です。
大人になって、担当さんから頂いた神楽坂の名店の肉まんも、
横浜の中華街の肉まんも、これが天国か!ってくらいおいしかった。

でも、そのおいしい肉まんと並ぶくらい、
子供の頃に食べた50円肉まんはおいしかったのです。

あれから何年かして、ピザまんが発売されたり、値段が70円になったり、
いろいろ変化はありましたが、
今ではコンビニにの定番商品になって、レジの脇には必ずあの、
ガラスの蒸し器の小さいのが置いてあります。
値段は倍近い110円くらいになってましたっけ。

桜の季節になりましたが、桜と肉まんもまた一興。
降り注ぐ桜の花びらを眺めながら、口いっぱいに頬張ってみたいものです。

(自分は名古屋出身なので、本社が三重県の井村屋の肉まんではないかと思います)

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2013年3月13日 (水)

アシスタントの話

昔、自分がアシスタントをしていた時の話。

アシスタントと言うのは基本、先生とアシとの直接の雇用関係である。
自分は御給料日に直接先生から頂いていたと記憶している。

それが、あるとき某出版社が間に入って、アシスタントの派遣を始めたことがあった。
お給料は出版社から頂くということで、ちょっとめんどくさくなった。

これはあくまで試験的な試みだったと思うのだけど、
御給料日に各自出版社に出向いてお給料を頂戴することになっていた。
交通費は自分持ちで。

それで、五人くらいだったかな、いつもの仕事場のメンバーが先生以外全員集合して、
なにやらプーたれながらもそれぞれお給料を頂戴した。
担当編集の人に「登録して他の先生の所に行かない?」と聞かれたけど、
自分は技術的にはとてもプロアシになれるようなシロモノではなかったので、
丁寧にお断りした。

出版社を後にして、せっかくだからみんなで飯でも食っていこうぜ、と言う話になった。
自分は当時、ギリギリの生活をしていたので、
給料袋から直接お札を出すしかなくて、ちょっと恥ずかしいなと考えた。

出版社と駅の中間地点にトンカツ屋があったので、そこに全員なだれ込んで、
アツアツのトンカツ定食を注文した。

自分はペーペーのアシスタントだったけれど、
他の皆様は歳こそ近いけれど歴戦のつわものぞろいで、
超有名な先生のチーフをやっていた人もいたし、
既にプロデビューして作品が雑誌に掲載された人もいた。

「○○先生はホワイトを使うのが大嫌いで、白抜きは寸止めしろって言われたけど、
構わねーから人物にピッタリくっつけてやった。ガッハッハ!」
みたいな愉快な会話がポンポン飛び出して、傾聴しているだけでも楽しかった。

「××先生は原稿の印刷されない部分にヒロインのオッパイ描いてましたよ。
滅茶苦茶いい人だよな」
アシスタントへのサービスだったのだろうか、自分もちょっと見たいなと思った。

プロデビューした人は、担当に見せるネームで、
絶対掲載不可能なヤバイシーンを入れまくった話をして、
「あれがボツとかどうかしてる」
とうそぶいた。滅茶苦茶かわいい女の子を描く人なのに、
レイプやら凌辱やら、信じられない言葉がポンポン飛び出して、
掲載作品を知っているだけに「なんかイメージと違う」と笑ってしまった。
本人は無茶苦茶イケメンなのに。

武勇伝はどんどんエスカレートして、マニアが聞いたらさぞ面白かろうという話題が、
トンカツ屋のテーブルで展開された。

こういう豪傑さんたちの中で、今貰った給料袋からお札を出すのはなんかカッコ悪いな、
どうしようかなと思ったけれど、
全員何の躊躇もなく、給料袋からお札を出したので、
「えーーっ!」
と思わず叫んでしまった。

「かわすみさん、なに脳天から声出してるんですか」
「いや、なんかみんなお金持ちだと思い込んでたんでびっくりした」
「俺、財布思いっきりカラですよ」
と、その方は胸を張った。こうなるとみみっちいプライドで貧乏を恥じていた自分が、
すごくカッコ悪くなってくる。プロアシさんの一人が、
「俺も金ないんでトイレでこっそり出してこようかと思ってたけど、
みんなが堂々と給料袋を開けたんでホッとした」
と告白して、一同「金持ちとかいねーし」と笑い合った。

ああ、なんかこの一瞬は伝説のトキワ荘みたいだなと、内心ちょっと考えた。

その後、別の機会に同じ先生の所へアシスタントに行ったところ、
また先生からの直接雇用に戻っていたので、
出版社の実験はあれ一回限りだったのかもしれない。

アシスタントの派遣システムというのは誰もが一度は考えるし、
アシ仲間の人も、それで会社興したらもうかるんじゃね?みたいに言ってたけど、
個性の強い人たちを大量に管理するというのは、
並大抵の努力では難しいだろうなと、ちょっと考えた。

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2013年3月12日 (火)

桜の枝を愛でる季節

昨日、皇居のお堀端を歩いていて、
まだ咲いていない桜の並木を見ていたのだけど、
3月の中頃ともなると、ソメイヨシノの開花もすぐなので、
心なしか、黒々とした幹にも桜の花が詰まっているような気がする。

桜は、花もきれいだけれど、自分は枝ぶりを見ているのも楽しく、
絵師が筆でぐいぐい線を引くのを想像しながら、枝を眺めていると、
「この桜は男らしいな」とか、
「こっちはやさしいな」とか、
いろいろな表情が読み取れるようで、気分はすっかりご隠居である。

九段坂のあたりで武道館の屋根を眺めながら、
爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」を思い出す。
あれは、切々と男心に染み入る曲だな、
振られ男の嘆き節なんだけど、ひとつひとつのフレーズが妙にリアルだよな、
なんてことをぼんやり考える。

80年代の終わりごろにヒットした曲で、
CМか何かに使われたのか、頭にしっかり残ってる。
有名な話なので今さら書くことでもないかもしれないけど、
「大きな玉ねぎ」とは武道館の屋根のてっぺんの金色の球のことで、
その下でペンフレンドの女の子と初めてライブを観に行く約束が、
彼女はアンコールになっても現れなかった、と言う歌詞である。

情けない男の失恋話なのだけど、それがなんでまたああも壮大な曲になってしまうのか、
しかも、なんでああも名曲になってしまうのかと、
考え始めると、いろいろ止まらなくなる。

千鳥ヶ淵のお堀端で、老夫婦と並んで桜並木の縁起を読む。
もともとは明治時代に英国大使館の前に植えられた桜並木が、
どんどん伸びで、都内有数の桜の名所になったらしい。

都内には桜の名所がやたらと多い。
自分の住む町も、そういう名所とは違うのだけど、
それでも春になるとそこら中が桜まみれになる。

東京暮らしが長くなるにつれ、毎年の桜がどんどん楽しみになっていたりする。

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お堀端を歩いていて、カメラを構えるのもなんか野暮な気がして、
見るだけにしてしまった。
写真はいつだか有楽町の改札で見つけた信楽たぬき。

ジオラマとしては統一感がなさ過ぎてイマイチである。

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