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2013年9月

2013年9月27日 (金)

古い日記

古い外付けハードディスクの中に昔の日記があったので、ちょっと抜粋してみます。

平成11年12月13日

なにも書くことなどないのだが、ブラインドタッチを覚えるために心に移りゆくよしなきことでも書いてみようかと思う。
パソコンなんてものを買ったのは今年の10月16日頃のことだ。
自分では将来これでシナリオが書けるくらいのところまではいきたいと思っている。しかしなかなか難しい。キーボードを見ながらだったらけっこう早く打ち込めるのだが、画面を見ながらだとどうしても考え考えになってしまう。

★(今はタッチタイピングとか言うそうな)

平成12年1月18日

「大使閣下」は文化庁のメディア芸術祭の漫画部門にノミネートされていたのだけどあれからなにもいってこないということはやはり賞は取れなかったんだろうな。
不思議なもので「取れそうだ」ということになるとそれまでどんなに賞に無関心であってもちょっと手に入れてみたいという気分になる。自分の中にこういった下衆な考えがあるというのは面白くないことではあるが、下衆でなけりゃ下衆な人間は描けない訳で、漫画家という職業上これはしょうがないことだ、なんてね。 

★(ノミネートされていたことすら、日記読むまで忘れていた)

平成12年1月20日

新聞の書評を読んでいると「この本を読みたいな」ということがよくある。その場でメモを取れば問題は簡単なのだけど、根っからの不精者なので「あとでいいや」と思い、結局そのままになってしまう。何日かして本屋に立ち寄って「そういえば面白そうな本があったんだよな」と思ってもあとの祭り、読みたいという思いだけを残してその本のタイトルも著者名も永遠にわからない羽目になる。こうして闇の彼方に消えていく本は山のようにあるのだけど、たまにふと手にした本が大昔に書評で取り上げられていた本だったりすると長い間引き裂かれていた恋人同士が再会したような気分になる。そして、その本が思ったより全然詰まらなかったりすると自分の今までの思いこみはなんだったのだろうとちょっとだけ悲しい気分になる。

○○さんは以前編集部にネームの持ち込みに行って、××さんにチェックを入れられたとき、「俺、これ描いてみたいです」と言って勝手に作画に入ってしまったことがあった。これはもちろん論外である。漫画家は編集部からの注文があって始めて描けるのであって、自分の趣味嗜好を満足させるために描くのはアマチュアのする事である。
しかし世の中どう転ぶかわかったものじゃない。こうして描き上げられた○○さんの原稿は「代原」として編集部に買い取られ、今掲載の機会を虎視眈々と狙っている。

★(これは編集部の方が太っ腹だ)

平成12年1月22日

先日のことだがモーニング編集部の××さんのところにテレビ局から電話があって、「炎のチャ○ンジャー」という番組で大使閣下を使いたいということであった。なんでも百時間絶食出来たら百万円という企画で料理漫画を無理矢理読ませるんだそうな。当日はしっかりビデオに録画して観たのであるが、期待に反して大使閣下は一度も出てこなかった。よくよく考えてみると飢えた人間に絵に描いた料理を見せたっておもしろかないのだ。これは企画のミスである。

★(すごく期待していたらしい)

平成12年1月24日

昨日長生き双子姉妹の「金さん銀さん」の金さんの方がお亡くなりになった。百七才だった。大往生であるが正直もうちょっと長生きしてもらいたかった。世界レベルのニュースソースになるくらいまで。

★(地元名古屋の有名人でした)

平成12年2月25日

もうすぐ3月だ。大使閣下の話が来たのが98年の3月下旬だから、あれからもう2年になる。早いというか何というか、よくぞここまで続いたものだと思う。あと一年はとてももたないであろう。編集長が初めの頃言っていたように、十巻まで行けば万々歳である。

★(長く続けさせていただき、ありがとうございました)

平成12年3月14日(火)8:28 AM

ネット上に「死んだ漫画家」の話題があって、おかげで「かがみあきら」さんの死因がわかった。自律神経失調症で暑がりなため、水風呂に入って、そのあと扇風機を回しながら寝てしまい、心不全か何かを起こしたんだそうな。
「かがみあきら」が亡くなったとき、僕は高校生で、「かがみあきら」の本はたいていそろえていた。はっきりとした個性を持った作家さんだったと思う。ある意味、八十年代の漫画の方向性を形作った人だと僕は思う。(アニメ的なものと漫画的なものの融合と言った意味で)

★(絵的な影響はかなり受けていると思う)

平成12年3月20日(月)3:54 AM

土曜日に講談社の国際部から韓国語版の大使閣下一巻を送ってきた。タイトルもハングル。中身もハングル。僕が描き込んだ擬音や効果音まで見事にアンニョンハシムニ化している。実家の隣に韓国人の奥さんがいるのでその人に贈呈するつもり。

★(最初の頃だけもらっていただいていた)

平成13年10月14日

ニューヨークでは炭そ菌が大ブレイク中。マスコミや国連なんかに白い粉の入った封筒が送りつけられてきて、その粉に触れた人が病院に担ぎ込まれる騒ぎになっているとか。今のところ詳細は不明だが、先ほどの同時多発テロの関連でイスラムの過激派ゲリラがやっているのではないか、といわれている。

このことでふと思ったのは、なぜか出口王仁三郎だったりする。この人が生前「日本で起きることは世界で起こるんじゃ」とのたまっていたのだが、それは「北海道は北米大陸じゃ」とか、「四国はオーストラリアじゃ」とか、「本州はユーラシア大陸じゃ」とか、まあ、そういうくだらない話なのだが……ちなみに九州は南米大陸だったと思う。……このテロ騒動の成り行きが数年前の「オウム真理教」のサリン事件によく似ていて、まさしく「日本で起きることは世界で起こるんじゃ」な感じがする。アフガニスタンを攻撃するアメリカ軍を見ていても、あの上九一色村のサティアンに機動隊がのり込んでいった時の映像がなんとなくダブってくる。

オウムの事件は風化してしまったけど、あの事件で日本という国は何か大きく「歪んだ」ような気がする。あの事件のあとに神戸の連続殺人事件が起こったし、犯罪の質が極端に陰湿で不気味になったように思う。僕は出口王仁三郎が何を言ってもギャグとしか思わない人間だが、21世紀の世界の展望に対しては、何か暗澹たる気持ちになり始めている。

★(何か大事件が起こるたび、神経質になる人間なんです)

平成13年10月21日 日曜日

BGMにルクレールを流してるんだけど、いいね、これ。フランスのバロック音楽なんだけど、華やかで感覚的。ああ、クラシックにはこういう世界もあったんだな、これにはまっちゃうとロマン派だの現代音楽だのは馬鹿らしくって聴いてられなくなるよな、ってな感じ。

でもシベリウスも良かったりするんで、人間の感覚なんて信用できません。ユッカ=ペッカ・サラステ指揮、フィンランド放送交響楽団による、いわば本家本元による演奏ですな。交響曲3番、6番、7番が入っております。自分がこれを買った理由はただ一つ、「まともな6番交響曲が聴きたい!」……というわけで、今回はシベリウスの交響曲6番物語ですな。

昔、自分がまだ江戸川区に住んでいたころ、ラジオでクラシック放送を聴く事が多かったわけです。今もやってるけど、渡辺徹のおしゃべりクラシックなんてのを腹を抱えて聴いていた時代だわな。

ラジオのクラシック番組だと、リクエストをする人の個人的な思い出だとか、パーソナリティーの思い入れたっぷりの作品紹介とかがあって、普通にCDとかで聴くのとはまた違った面白さがあるわけです。たとえば、戦前浅草かどこかの舞台で悲壮交響曲の第一楽章のあの美しいメロディーを聴いて、「俺は大陸に行くんだ!」と若い胸をかきむしられる様な高揚感を感じた男性がいて、実際満州に行ってしまったらしいんだけど、その後ソ連軍の参戦とともにシベリア送りになってしまい、艱難辛苦の末、ようやく日本に帰国した後、あの交響曲がロスケの作ったものだと知り、「ある意味願い通りになったわけだ」と苦笑交じりに話している人がいたりする。自分は今でも悲壮交響曲を聴くと、この老紳士のリクエストの事を思い出すわけです。

あと、やはり戦前、友との別れにベートーヴェンの「クロイッエルソナタ」を聴いたとか、その曲を聴くとよみがえってくるリクエストのコメントが結構ありますね。

で、シベリウスの交響曲第6番なんだけど、これはパーソナリティーの作曲家の先生が「これは宮沢賢治の銀河鉄道の夜みたいな曲だ!」と熱く語っていた思い出の曲です。宮沢賢治フリークで、銀河鉄道の夜なら何回読んでるか分からないほどの自分としては、「どんな曲やねん」と半ば馬鹿にしたような気持ちでラジオを聴いていたのだけど、流れてきた曲を聴いて、本当にびっくりしたね。これ、まるで銀河鉄道の夜のために書かれたような曲だよ、ってさ。実際、賢治の執筆年代と、シベリウスの作曲年代ってのはほぼ同時期らしい。時代の空気、ってのも微妙に作用しているんだろうけど、それにしても、第一楽章の冒頭の神秘的な感じ、そして、主題部の汽車がミルキーウェイを走っているようなリズムとか、まったく賢治の世界そのままなので、のぼせ上がった自分はすぐにCD屋まで走りましたよ。

その作曲家の先生は「カラヤンの演奏が最高!」とのたまっておられたので、自分も迷うことなくそれを買いました。カラヤン聴いて感動したためしがないのに。

★(省略。以下延々曲の感想)

AM 06:09

ネームが進まなくて、ついまたPCに手を出してしまう。なんだか眠くなってきたし。肩もまた、凝り始めてるんだよな。休むか、今日?

田中真○子外務大臣をモデルにした話なわけだけど、肝心な真○子大臣のデザインが決まらないんだよね。そっくりさんにするか、それとも全然違った感じにするか。

★(結局正反対で描いてますね)

……以上です。
自分はかなり懐かしいのですが、読んでくださる方にとっては、
「今と大して変わらない」
と感じるかもしれません。
文体なんてものは二十代で完成してしまうと大きくは変化しないのかもしれない。

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ストロンガー。後ろがサザエボン。実家の母がくれた。

2013年9月11日 (水)

出前の話 その6

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追記。

「歯磨きおばさん」と「解体屋のおばさん」については出前の話の一話目で書いてます。
ずいぶん昔の記憶なのでところどころ記憶が変わっているかもしれず、
特に解体屋のおばさんはシミーズだったのじゃないか、という疑惑もあるのですが、
今回絵を描いていて、「あ、ゴメン、この格好はないわ」と言っていたのを、
突然思い出したので、どっちにしろひどい恰好だったのだと思う。

でも、そういう記憶の変化も面白いと思うので、まんま描いときます。

ソフト部も八割くらいは実話。
親父さんがテンパってたというのは無いと思う。
ラーメンだけの注文だったらむしろ「ラッキー」ってくらい簡単だったはず。
どっちかってと、あの嬌声を発ずる集団の中にアツアツのラーメンを運んだ自分の方が、
修羅場だったんじゃないかな。

2013年9月 8日 (日)

東京オリンピック

2020年オリンピックが東京に決まりました。
自分はついさっきまで早朝の民放番組を観ていたのですが、
決定の瞬間は、やっぱりうれしいものですね。
思わず手を叩いてしまった。

ところで幻の名古屋オリンピックを御存知でしょうか。

1988年のオリンピック開催を名古屋は韓国のソウルと争ったのですが、
1981年のIOC総会で負けてしまった、それで幻の名古屋オリンピックなわけです。
なにせ、当時地元では名古屋開催がほぼ確実と言うムードで、
競技場の用地などもあらかた目星がつけられ、
実家の近所の平和公園が活用されるという話でした。
あと、青少年公園(名古屋じゃないけど)も使われると聞いたように思います。

だから、名古屋が落選したときは「信じられない」という空気で、
自分も中学生くらいだったと思うけど、がっかりしたのを覚えています。
名古屋人はこの時の悔しさをずっと引きずっていまして、
この悔しさが、のちの愛知万博への異常な情熱へとつながったとも、聞いています。
会場はまんま青少年公園でしたし。

だから、東京決定の瞬間と言うのは、自分は本当にうれしかったですし、
場所は名古屋じゃないですけど、いいオリンピックになることを心から願ってしまうのです。

さて、毎度ふらふらと筆の進むままに雑文を書いているのですが、
上で出てきた平和公園について、ちょっと触れておきます。
名古屋の平和公園と言ってそれをイメージできるのは地元民だけかもしれません。
東京で言えば青山墓地とかと同じで、ひたすらいろんな宗派のお墓が続いている一帯です。
オリンピック誘致の時はうちの父も存命だったのですが、
亡くなってからこちらにお墓を作っておりますので、
僕にはすっかり馴染の場所だったりします。

名古屋の東側の、かなり広大な地域なので、ここを整理してオリンピック会場というのも、
まあ、しょうがないかなと当時は考えていました。父のお墓があったら、
また違った考え方になっていたんでしょうけど。

平和公園については
「あれは名古屋空港に降りていく飛行機が非常時に着陸するためのスペースだ」
という怪しい都市伝説がありまして、
いやいや、まさかそんなこともないだろうと思うのですが、
ある晴れた日に、父親の墓に一人で墓参りに行きまして、
ぼんやり空を見上げながら「昼なに食べようか」なんて考えていたのですが、
そこに旅客機が、銀色の腹を見せながら上空を通過していきました。
名古屋空港は名古屋のすぐ北にありますので、
千種区のあたりは旅客機がものすごい低空で滑空していくのです。
で、もろに平和公園の上空を滑り降りて行ったので、
都市伝説になるのも仕方がないなと笑ったわけです。


さて、
青少年公園と平和公園は、当時からオリンピックに活用されると聞いていたのですが、
あと一か所、三菱の工場跡地がひょっとしたらそうだったかもしれない。
なにせ、自分の住んでいた町の北側が、まるっと一町分の空き地だったのです。

僕は子供の頃、自転車に乗ってその空き地の向こう側まで遊びに行ったのですが、
延々とまっすぐな道路が続くさまは異常で、
なんでこの土地を使わないのだろうとずっと疑問だったのです。
オリンピックで使うために空けてあったのかなと、今なら考えますけど。

その後、名古屋がオリンピック開催地から落選して、
十年以上たってからその場所に巨大なドーム球場が作られました。
ナゴヤドームです。
自分は何もない原野の状態をよく覚えているので、
野球の中継でドームの映像を見るたび、お前ずいぶん立派になったよなと、
しみじみ思います。

何年か前に東京の晴海ふ頭に行ったとき、
あの辺に東京オリンピック用の広大な用地があるのですが、
そこを見たときも、ナゴヤドームの以前の姿を思い出して、ちょっと懐かしかったです。

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     五年くらい前の写真だと思う。

東京オリンピックには原発問題と汚染水排出問題など、
まだまだ解決しなくてはならない難問が多く残っているのですが、
考えようによっては、世界中から注目されるから、
国も真剣にこれに取り組まざるを得ないわけで、
それは楽観論かもしれないけど、オリンピックが東京で良かったと思います。

マドリードやイスタンブールも、開催されれば面白かったはずで、
名古屋が長くオリンピックショックを引きずったことを考えるにつけ、
それぞれの国の落胆の大きさもわかってしまうのですが、
だからいっそう、東京オリンピックには頑張ってほしいと思うのです。

漫画にとっては逆風かもしれないけれど。(成人規制とか)

追記。文中で青少年公園と連呼していますが、
僕が子供の頃は青少年公園と言えば緑に囲まれた巨大なサイクリングコースのある、
娯楽施設として名古屋では超有名な場所で、
小学生の頃はレンタル自転車で友達とくるくる走り回ったものです。
その青少年公園も、愛知万博のために一度閉園し、
万博後は愛・地球博記念公園と言う名前に変わっているようです。


2013年9月 1日 (日)

校歌

学校の校歌なんて、なかなか聴く機会はない。
せいぜい春夏の甲子園とか、お子さんの卒業式くらいのものだろう。

自分のこととして考えると、中学と高校の校歌は断片的にしか覚えていない。
ちゃんとした口語の、スマートな校歌なのだけど、
それだけに頭に引っかかるところがない。

ところが、小学校の校歌と言うのは、大人になってもフルで歌えたりするのだ。
しかも、僕の小学校は古くは寺小屋までさかのぼれる歴史あるところで、
「何かの呪文ですか」というくらい、
バリバリの古語だったりする。

♪朝日の光まずにおう、なかの都の上野なる
♪わが学び舎は丘のべに、松とさかえんよろず世に

現在でもこの校歌なのかはわからない。
案外わかりにくいから今風に変えられているかもしれない。でも、
自分はこの校歌が、わからないながらも大好きだった。

創立百年記念のとき、学校の記念本をいただいたのだけど、
その中に草書体の校歌を載せた絵葉書の写真があって、
二番までしかないと思っていた校歌に、実は三番があることを知って驚いた。

♪よしの帝の大尊、胸に刻みつ日に月に

とはじまる三番は、戦後に民主主義的でないという理由で削除されたのだろう。
もったいない。

呪文のようでわかりにくい校歌だけれど、歌うと小学生にも格調があることがわかり、
卒業式で歌ったときはそれはそれは感動的だった。
高校の卒業式の時なんて、一番は全員が歌えたけれど、
二番以降は伴奏の音楽だけが虚しく流れ、終わると失笑のざわめきが起こった。


校歌と言えば思い出すのが、ドイツの作曲家ブラームスの「大学祝典序曲」で、
ブラームスがドイツの大学から博士号を贈られるとき、贈呈条件として作曲したものだ。
俗っぽい曲だからと演奏される機会は多くないけれど、
自分はこの曲がなぜか大好きで、元気になりたい時にはよく聴いたりする。

曲のキャラクターは明快で、大学の校歌のメロディをつなぎ合わせ、
そこにブラームスの作曲技法の粋を込めて、壮大な序曲に仕立て上げたものだ。
だからどこかで聴いたようなメロディが飛び出してきて、とても面白い。

自分より年齢が上の世代だと「NHKラジオ講座」のテーマソングとして有名らしい。


西欧で校歌が生まれた背景は、自分はよく知らない。
おそらくキリスト教の讃美歌とか、革命歌とか、
たくさんの人の心を一つに結び付ける手段として、歌が発達してきて、
それで自然と「俺たちの学校の歌を作ろう」と言う発想が生まれてきたのだろう。

日本ではこういうものは生まれてこなかった。
日本で唱和と言えば仏教の念仏で、
これも西欧の讃美歌に似ていると言えば似ているけれど、
ここから「徳川武士団の歌」とか、「幕府開成所の歌」なんてのは出てこなかった。
「水戸藩歌」とか「長州藩歌」なんてものがあれば、是非聴いてみたいけれど、
江戸時代にはついにそういうものは生まれてこなかった。
廃藩置県があと十年くらい遅れていたら、
あるいはどこかの西欧かぶれが作っていたかもしれない。

今からでも誰か作らないものだろうか。
野球の球団歌みたいで、歴史好きには受けると思うのだけど。


日本で校歌が作られるようになったのは明治の二十年以降のことで、
特に大学の校歌は戦前は大いに歌われたようだ。
「都の西北、早稲田の森に~」
というのはたいていの人が耳にしたことがあるだろう。
もっとも自分は、
「都の西北、早稲田のとなり、馬鹿だ馬鹿だよ俺たちは~」
と、バカ田大学の歌として覚えていたりする。(天才バカボンのパパの出身校)

学生が酒を飲めば、共通の歌として校歌を歌った。
歌うことで団結し、友情を深め合うことが出来た。
ファウストか何かでそんなシーンがあったような気がする。
西欧では酒を飲みながら肩を組んで歌うような伝統があって、
それが明治期から大正・昭和の日本に入ってきて、日本人も歌うことを覚えた。


最近は校歌と言うのも、すっかり形骸化した感じがするけれど、
それは学校単位で団結する必然が希薄になったからで、
団結よりは個人の生活が重要視されるようになれば、歌の文化は当然すたれる。
日本の音楽業界の衰退は、終身雇用制の崩壊と無関係ではないのかもしれない。
日本人が集団で団結する機会と言うのは極端に少なくなったし、
団結することそのものが、なんだか気恥ずかしいような時代になってしまった。

今では歌は集団で歌うものと言うよりは、個人が楽しみに歌ったり聴いたりするもので、
こういう状態になるとなかなか大ヒットと言うのは生まれてこない。
自分は校歌や革命歌をみんなで歌って集団催眠状態になるのも怖いなとは思うので、
それはそれで仕方がないのかなとも考えるけれど、
学生時代にみんなで酒を飲みながら野球の球団歌を歌った楽しい思い出があって、
あんな愉快なことをもう一度くらいはやってみたいな、とは思う。

「校歌」というお題で考えているうち、こういう文章になってしまった。

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王蟲とゴジラは頂き物。王蟲はなぜか怒っている。

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