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« 米騒動 | トップページ | 三波春夫著 「熱血!日本偉人伝」 »

2013年11月 1日 (金)

まる

やなせたかし先生がお亡くなりになって、新聞なんかでその生涯が取り上げられて、
ああ、大器晩成ってあるんだなとしみじみ思った。

若い頃に芽が出なくて、地道にコツコツやっていた人が、
人生のラストスパートのあたりで突然才能を開花させるのは、物語としても面白い。
浮世絵の葛飾北斎など、若い頃にも名品はあるけれど、
現在代表作とされている「富岳三十六景」にしても「北斎漫画」にしても、
七十を超えた年寄りの作品だったりする。

北斎は自分のことを「画狂」と称していたし、「画狂卍老人」なんて筆名もあるけれど、
絵に関しては一種のマニアだったようで、
あらゆる技法を一通り習得して、世界のあらゆるものを紙に写し取ろうとした。
珍しい生き物がいると聞けば、弟子に頼んで江戸に取り寄せたりもしている。

ぶん回し(コンパス)で丸を描いて、それをベースにして絵を描くテキストも出している。
自分も若い頃は「絵は感性で描くものだ」なんて考え方をしていたので、
北斎の指南書は読み飛ばしていたのだけど、

「絵の基本は円である」

というのは、たぶん正しい。
経験的に、絵を書くときに部品からちまちま描くより、シルエットから始めた方がいいと、
なんとなく知っているのだけど、それは、人間の手が描き出すシルエットが、
丸に近いからだと思う。細部から描きだせば、最終的なシルエットは丸ではなくなる。
いびつで統一性のないグニャグヤのラインになる。
人の目は、グニヤグニャのラインを正しく認識できない。
丸に近いほど、すんなりと目に入ってくる。

北斎の晩年の作品は、そのような積年の技法が一気に噴き出したもので、
見るほどに北斎と言う人の技術面での奥深さを感じる。

と、ここまで大器晩成の話をしてきたけれど、
本当は「若い頃の勢いのある作品は素晴らしいよね」という文章を書くつもりだった。
いろいろ考えているうちにまるで逆の方向から始めてしまった。

若い頃は子供の絵はくだらないと思っていた。
小学生の頃だったかな、全校写生大会があって、学校のあちこちでみんなが絵を描いた。
それで僕は友達と先輩たちが描いている絵をのぞいて回ったのだけど、
その時、一番「すげえ」と思った絵は、

「宇宙戦艦ヤマトの第一艦橋を精密に描いた絵」

だった。
艦長席から正面を見た有名な構図である。
それを鉛筆でちまちまと描いた絵を見て、僕と友人たちは「すげえ」と熱狂した。
こういう上手な絵が描きたいものだと心から憧れた。その先輩を尊敬さえした。

割と最近まで、僕は緻密な絵と言うのが好きだったし、
究極の絵は「図面」じゃないかと考えもしたけれど、
それは僕が細部を見て全体を見なかったからで、自分の子供時代は見る目がなかったなと、
この頃はしみじみ思うのである。

郵便局とかスーパーとか、あるいは公共の建設現場のフェンスなんかに、
近所の小学生が描いた絵が展示してある場合、僕はその絵をまじまじと見てしまう。
その絵が「絵」という固定観念から自由になって、のびのびと好き勝手描いてあると、
「いいな」
と惚れ惚れする。そういう自分を爺臭いとも思うのだけど、
いいもんはやっぱりいいもんだ。

そして、こういう面白い絵を描いている子たちも、数年後には、
「いい絵というのは美術館に飾ってあるような絵だ」
とか、
「漫画みたいな女の子の絵が描きたい」
とか、汚染された思想に憑りつかれて「上手な絵」を描きだすのかと思うと、
なんともさみしい気分になる。

小手先の器用な絵より、子供がクレヨンで描いた大きなマルの方が、
よっぽど気持ちがいい絵になっていたりする。
だから、北斎の言う「究極の絵は丸」というのも、
なんとなくわかる。
人間は歳を取るごとに思考が複雑で精緻になっていくけれど、
時にそれは独りよがりで不愉快なものになっていたりする。
何か有難い自説を喋っているつもりで、相手に不快感を与えていることもよくある。
だから、絵も思考も「究極的には丸」でなくちゃいけない。
子供がクレヨンで描くような、単純な「マル」の気持ちでなくちゃいけない。

クラシックの作曲家でも、モーツァルトやメンデルスゾーンはすごい神童だった。
神童だから、少年時代に完成された傑作を書いていたりする。
そして、そういう若い頃の作品を聴いていると、しみじみ若いって素晴らしいなと思う。
モーツァルトは晩年は晩年で素晴らしいのだけど、
メンデルスゾーンの場合は、晩年よりも若い頃の方が好きだったりする。

メンデルスゾーンは「結婚行進曲」とか「バイオリン協奏曲」が有名だけど、
同時に、裕福なユダヤ人の銀行家の子供として、音楽史上もっとも恵まれた環境で、
何不自由なく育ったことでも、有名。
しかも残された肖像画を見ると超美少年。

Comp_431_559

……自分としてはやっかみ半分で貶しそうな相手なのだけど、
それでも少年時代に作っていた音楽はすごい。

まず、17歳で作曲した「真夏の夜の夢」序曲がある。
オーケストラの精妙な使い方とか、メンデルスゾーンの独自性が既に現れてるとか、
いろんな褒め方が可能だけれど、
当時の高校生が大作曲家レベルで作曲するとどうなるか、と言う点ですごくおもしろい。

なにしろ、メンデルスゾーン家では、子供たちに音楽のあらゆる英才教育を施した。
専門の先生につけて、課題として弦楽のための交響曲も作らせている。(これも良い)
オーケストラの楽団員が頻繁に出入りして、子供たちが作った曲を演奏したりもした。
ああ、お金があるって素晴らしい。

だから、メンデルスゾーンは子供の時代の感性を持ち続けたまま、
一流のプロフェッショナルの技術で作曲をすることが出来た。
こういうことは、人類の歴史上でもそうめったには起こらない奇跡だと思う。
「ピアノとバイオリンのための二重協奏曲」なんて、14歳の頃の作品だけど、
音楽としてはとても立派だと思う。
そして、どの作品にも、のびのびとした自然な勢いがある。
それが自分には、子供がクレヨンで描く丸を思わせて、とても気持ちがいい。

このままこの子が大人になったら、どんなすごい曲を作るんだろうとワクワクする。
そして、実際この子は三大バイオリン協奏曲の一つと言われる例の曲を作曲するのだし、
交響曲も「イタリア」とか「スコットランド」は超有名曲だ。
……それでも、自分はどうしても子供の頃の方が面白かったなと思ってしまうのだ。

メンデルスゾーンはあのショパンやらシューマンやらとほとんど同世代だ。
シューマンとは親友と言っていい関係だったりする。
二十歳を過ぎて、こういう過激な連中と接するうち、神童は「保守化」していく。
天才の赴くままに形式を破壊して作曲する「狂人」達を目の前にすれば、
古典形式を徹底的に叩き込まれた神童としては、反発しないではいられなかったのだろう。
子供の頃の勢いとかのびのびとした部分はどんどん消えて行ってしまう。
しかも、往年の美少年はどんどん前髪が後退し始める。
オッサン臭くなる。
……かなり偏った意見かもしれないけれど、自分はメンデルスゾーンは十代をとる。
「八重奏曲」とか何度聴いてもいいなと思う。

たぶんそれは、自分が子供の持つのびのびした感じが好きだからで、
歳をとって小難しい技巧的な作品を受け付けなくなったからなんだろう。

……メンデルスゾーンの話はここで終わる。

丸と言えば、アンパンマンである。
小っちゃい子に「ライオン描いて」と言われて、
大人げない僕はリアルなライオンを書いて不興を買ったりするのだけど、
そんな僕でもアンパンマンを描くと子供はたいてい喜ぶ。
ドラえもんも描けるけど、アンパンマンの子供ウケは次元が違う。
あの記号には子供のテンションを上げる不思議な力がある。
考えると、あそこまで丸だけで構成されたキャラクターもそうめったにいない。

やなせ先生はどうして子供の心をああも鷲づかみにするキャラクターを作れたのだろう。

僕にとってのやなせたかしは「手のひらを太陽に」の作詩家で、
小学校の頃、運動会なんかでぼんやり空を眺めているとき、
太陽に手の平をかざして、例の

♪手のひらを太陽にすかしてみれば

を実演して、わー本当に真っ赤だ、と喜んでいた記憶がある。
こういう小学生は当時何万人もいたこどだろう。
あの曲は、すごくいい曲だと思う。あの歌詞で命の大切さを教えられた子供は多いはず。
やなせ先生は手の平に血が通って、光にすかせば赤いことに素朴な感動を抱ける人で、
「みんな生きてるんだ、友達なんだ」
と力強く言い切ることの出来る方だ。
すごく素朴で単純なことばだけど、背後にある意味は深い。

こういう言い方をすると語弊があるかもしれないけれど、
手塚治虫とか、漫画界の巨匠の方々と比べると絵の技術は決して高くない。
いわゆる、「上手な絵」を描く人ではない。
上手な人は上手であることにプライドがあるので、どうしても単純な絵が描けない。

それでも手塚治虫は「丸」であることの重要性にはかなりこだわっていた。
晩年になってペンで丸が描けなくなったことを嘆いているインタビュー記事は、
胸にズキリとくる。
そして実際、晩年の「ルードヴィヒ・B」では丸の右上がガタガタ震えていたりして、
ハラハラしながら連載を追っていた。
ペンで丸を描くのは、特に手塚先生のように高速でペン入れするのはかなり難しい。
僕なんて最初から出来ない。

そこをやなせ先生はくるっと描いてしまう。
なんのことはない、丸なんてマジックで描いてしまえばいいのだ。

同じことを、葛飾北斎はぶん回し(コンパス)を使ってやった。
下絵に丸をいくつも墨書きして、その上になぞるように絵を描いた。

技巧的に細部にこだわると、どんどん本質的なものから遠ざかっていく。
ならば技術なんてものは投げ出してしまって、単純であればいい。
そして本質的なものに近づけば近づくほど、
子供の頃のものの見方というのが、懐かしく思い出される。

子供みたいに単純な気持ちで絵が描きたいなと思う今日この頃です。

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