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« 文明開化の男たち~栁川春三~ | トップページ | 「鉄子の育て方」6話掲載です。 »

2014年7月 7日 (月)

文明開化の男たち~肥後七左衛門~

 1

肥後七左衛門という名前は、歴史上まったく有名ではありません。
実のところ、僕も彼についてはほとんど何も知らないのです。
ひょっとしたら、彼の生まれた鹿児島あたりに行けば、何かわかるかもしれませんが、
本やネットで調べても、その人となりはイマイチ良くわかりません。
ウィキペディアにも、彼の項目は存在しないのです。

そんな謎の人物である「肥後七左衛門」ですが、
歴史の本を読んでいると時々お目にかかります。
……決して主役ではないけれど、ちょこちょこ脇役で出てくる謎の人物、
「肥後七左衛門」とはいったい何者なのでしょうか。

肥後七左衛門は幕末の薩摩藩士です。
あの名君、島津斉彬公に仕えていました。
幕末の歴史好きならば島津斉彬公の名前を知らない人はいないと思うのですが、
大河ドラマ「篤姫」で高橋英樹さんが演じておられた方です。

斉彬公は鎖国時代の日本で早くから西欧の脅威を認識していて、
「日本も西欧化しなくては」
と考えました。
そのために西洋のものを研究させ、実際に作らせたりしたのです。
パンなども作らせましたし、洋式の帆船や蒸気船、それから電信装置まで作らせています。
モールス信号のツートンツートンやるあれですね。
離れた場所で一瞬で情報を伝達する当時最先端の科学技術です。

その蒸気機関と電信装置の両方の開発に、肥後七左衛門という人が登場します。

肥後七左衛門は今でいう工学博士みたいな人です。日本最先端の科学者ですね。
斉彬公の命を受けた肥後七左衛門をはじめとする学者が、蒸気機関を作り、
実際に船に取りつけ、洋上を走らせました。
なかなかすごい人物です。

薩摩で作られた洋式船は江戸までやってきて、幕府に献上されています。
ただ、見た目がどうしても洋式船なので、
そのままでは「またペリーの黒船が来た」と誤解されるかもしれません。
そこで、この船には幕府が使っていた白地に赤い丸の旗をつけることになりました。
日の丸ですね。

いつ頃の話か知りませんが、江戸の薩摩藩邸で肥後七左衛門が斉彬公に呼び出されました。
何だろうと御前に参上してみると、
「お前、絵がうまいからこれをカッコよくアレンジしてくれる?」
と一枚の紙を渡されました。
そこには斉彬公直筆の赤い丸が書かれていました。
「……これは何でございましょう?」
「船に掲げる旗じゃ、日本の船だと見分けるためにそれを付けるのじゃ」
そこで肥後七左衛門は白地と赤い丸がカッコよくまとまるように、研究をしたと言います。
日本の国旗についてはその来歴に諸説がありますが、
肥後七左衛門も日本の日の丸を完成させた一人だと言われています。

蒸気機関を作り、日の丸までデザインするという天才科学者「肥後七左衛門」なのですが、
彼の名前はそのあとも思わぬところで飛び出してきます。

幕府は西欧の言語や科学技術を研究するため、開成所という学問機関を作り、
そこに日本中の英才を集めていました。
いちおう建前は旗本子弟のための教育機関なのですが、
家柄の良いお坊ちゃまたちに学問に対する情熱などあろうはずもなく、
学者たちが教育そっちのけで自らの研究に励む場となっていました。

そこには川本幸民という天才蘭学者がおりまして、カメラを研究したり、
日本で初めてビールを作ったりしていたのですが、
その人物が日本で初めて「化学」の教室を開成所に開設したとき、
そのメンバーに「肥後七左衛門」の名前が出てきます。
開成所は幕府の最高の学問機関であり、明治になってから東京大学に進化するのですが、
そんなところに薩摩藩士の肥後七左衛門の名前が出てくるのは、いろいろ感慨深いです。
(ちなみに、栁川春三の名前もメンバーの中にあります)

島津斉彬公という薩摩の殿様は、
日本は一つにまとまって西欧に対抗するべきだと考えていた人で、
そのためには幕府に協力することが大切だと考えていました。
だから蒸気船の技術も薩摩が独り占めするのではなく、幕府に解放しましたし、
肥後七左衛門という人材も幕府に貸し与えていました。
肥後七左衛門も当時の最先端の日本の学者たちと接し、化学の勉強までしている。
おそらく、この頃が肥後七左衛門にとって一番幸せな時期だったのではないでしょうか。

肥後七左衛門にとって不幸だったのは、島津斉彬公が早くに亡くなってしまったことです。
薩摩の殿様がもう少し長生きしていたら、
肥後七左衛門は歴史に名前を残していたかもしれません。
蒸気機関を作り、日本の国旗をデザインし、日本で最初の化学教室の創立メンバーの一人、
こんな人物が、なんで無名のままなのでしょうか。

 2

僕が次に肥後七左衛門の名前を見つけたのは「福翁自伝」の中です。

福沢諭吉が晩年に書いた自伝の中に、肥後七左衛門の名前がちょっとだけ出てきます。
福沢諭吉は中津藩の貧乏藩士なのですが、
学問の情熱止みがたく、さんざん苦労の末に大阪で適塾の緒方洪庵に学び、
漫画の神様、手塚治虫のご先祖様をいじめたりしたのですが、
それは次にまわすとして、
肥後七左衛門が福沢諭吉を訪ねたのは、薩英戦争の数か月後のことです。

当時の福沢諭吉は江戸の中津藩邸で私塾を開いていました。
要領のいい諭吉はまんまと幕府の使節団にもぐりこみ、
アメリカに行ったりヨーロッパに行ったりしたのですが、
その過程で一人の薩摩藩士と仲良くなります。
松木弘安といいます。

松木弘安は先ほど出てきた大学者川本幸民の弟子で、
優秀な科学者でした。
島津斉彬公が電信の実験をさせたとき、
肥後七左衛門と一緒にこの実験に加わっています。

その松木弘安が薩英戦争のどさぐさで行方不明になってしまったのです。

斉彬公の亡くなった後、薩摩藩の行列が生麦村で外国人を無礼討ちにするという、
「生麦事件」
を起こします。その結果起こったのが「薩英戦争」です。
イギリスの艦隊が鹿児島湾の防備隊との間で砲撃戦を行います。
この時、松木弘安の乗っていた船がイギリス軍に鹵獲され、
それ以後彼の消息が分からなくなったのです。

松木弘安の友人である福沢諭吉はとても悲しみました。もう死んでしまったに違いない。

そんな傷心の福沢の元に肥後七左衛門が訪ねて来たのです。

「福沢殿、松木弘安は生きておりますぞ」

なんでも、一度はイギリスの捕虜となった松木弘安ですが、
「今解放されたらスパイを疑われて攘夷派に殺される」
と考え、逃げ回っていたらしいのです。
蘭学者というのは攘夷派にとっては西欧かぶれの売国奴に見えてしまうもの、
ただでさえ風当たりが強いのに敵のイギリス人と接触したとなれば、
それがたとえ捕虜であっても、内通を疑われ切腹をさせられるかもしれない。
……さんざん逃げ回った末、
「薩摩ではイギリスとの戦争後、攘夷派は大人しくなっている」
という話を聞き、ようやく江戸藩邸に所在を知らせたわけです。

肥後七左衛門は松木弘安の生存を知り、そのことを福沢諭吉に知らせに来たのでした。
「会いたいのなら、会えるように私が手配をしましょう」

……僕が肥後七左衛門について調べていて、彼の肉声に接したのはこれだけなのですが、
わざわざ福沢諭吉のところへ知らせに来たことといい、この言葉といい、
すごく人情味のあるいい人だなと思うのです。

そんな肥後七左衛門ですが、
次に名前が出てくるのは恐ろしく血生臭い事件の関係者としてです。
いわく「薩摩藩邸焼き討ち事件」です。

 3

斉彬公時代は徳川幕府に協力的だった薩摩藩ですが、
長州征伐あたりから態度がガラッと変わって来ます。
例の坂本竜馬とかいう武器商人の仲介で、密かに薩長同盟なんて結んでいたりします。

「幕府を倒して薩長で帝を中心の新国家を作る」

幕府の方でも薩摩の不穏な動きはわかってきますので、
開成所にいた肥後七左衛門も、自然と幕府側の知己との交流を止めたと思われます。
福沢諭吉と会うという事もなくなったのではないでしょうか。
ただ、それでも肥後七左衛門は江戸にいて、エンジニアとして、
薩摩藩の蒸気船の修理をしていたのではないかと、僕は空想しています。

慶応三年の秋のこと、益満休之助という薩摩藩士が大坂から江戸の薩摩藩邸に来ます。
彼は伊牟田尚平(ヒュースケン暗殺犯の一人)や相楽総三(反幕浪人)を連れてきて、
江戸市中でテロ行為を始めます。
徳川を暴発させて天皇側に弓を引かせるための挑発行為ですね。
金持ちの家に押し入ったり、放火をしたり、なかなかやり方がえげつない。

江戸城の二の丸が炎上したあたりで、徳川の首脳も堪忍袋の緒が切れます。
「あいつら全員ひっ捕らえろ」
という命令の下、庄内藩他多数の治安部隊が三田の薩摩藩邸を取り囲みます。

その結果が「薩摩藩邸焼き討ち事件」となるのですが、
徳川としては江戸の治安を守るために不埒者を成敗した、というのが正しく、
「焼き討ち」なんてヒャッホーなことはしていない。
最初に火をかけたのは薩摩側だという説もある。
このへん、歴史は勝者によって作られるものなので、僕も深くは突っ込めない。
とにかく、このとき捕えられた薩摩側の重要人物に、
益満休之助とともに肥後七左衛門の名前があるのです。

取り調べは過酷を極めたのではないかと思います。
事件の翌日には小栗上総介配下の小出秀実(ほづみ)が北町奉行になっています。
……この人物もかなり面白い人で、日本の外交官のハシリと言ってもいいのですが、
この事件に関わったのが仇になったか、歴史的にはほとんど注目されていません。

なにしろ、徳川としては薩摩の卑劣な行いを明白にしなくてはいけない。
拷問くらいはやったのではないでしょうか。
益満休之助とともに、肥後七左衛門もきつい取り調べを受けたのではないかと思います。

ところが、慶応四年の正月が終わったあたりから風向きが変わってきます。

益満休之助らが江戸で騒動を起こしたため、大坂の徳川軍が薩摩憎しで京都へと進軍し、
それが鳥羽伏見の戦いとなり、幕府の瓦解へとつながったのです。
益満休之助の計略はまんまと成功したというわけです。

鳥羽伏見の戦いに負けた慶喜公は、開陽丸に乗って大坂から江戸に逃げてきました。
彼には帝と争う気はなく、後始末を勝海舟にまかせて謹慎します。
その勝海舟が、伝馬町の犯罪者の一斉解放を行っています。

勝海舟の自伝に犯罪者と面会して、一人一人と話をするくだりがありますが、
おそらくこの時、薩摩藩の「テロリスト」とも面会したのではないでしょうか。

肥後七左衛門も益満休之助とともに勝海舟と面談し、
そのまま勝海舟のところに預けられることになったのかもしれません
(捕縛後すぐ勝海舟が預かったと書いてある本もあります)

……ここから先は有名な話ですが、益満休之助は勝海舟に頼まれ、
山岡鉄舟とともに西郷隆盛の東征軍に談判に向かいます。
薩摩藩士の益満休之助が一緒だったために山岡鉄舟は西郷隆盛と面談することが出来、
それが勝海舟と西郷隆盛の会見となり、
江戸城無血開城へとつながっていくのです。

日本史を動かしたという意味で、益満休之助は歴史上の重要人物なのですが、
なにしろ現代の目から見ればテロリスト以外の何者でもないため、評価は高くありません。
当時の薩摩側も「こいつらはまずい」という自覚があったため、
「薩摩藩邸焼き討ち事件」の関係者はみんなこっそりと始末されます。
益満休之助も彰義隊との戦闘で流れ弾に当たった傷がもとで戦死、となっていますが、
「薩摩に消された」とはっきり書いてある歴史書を、自分は読んだことがあります。
かなりアマチュアっぽい片寄った意見だとは思いますけど。

京都に脱出した伊牟田尚平も、相楽総三も、イチャモンをつけられ切腹になっています。
彼らが生き残って
「徳川軍を暴発させたのは俺たちが江戸で暴れたからだ」
なんて吹聴されたら、薩摩や新政府が困ったことになっただろうことは間違いありません。

では、肥後七左衛門はどうなったのでしょうか?

彼は幸いにして生き延び、明治の新時代を迎えることが出来たようです。
森有礼の結婚式で福沢諭吉とともに宴席に連なる彼の名前が確認できます。
ただ、このあとの彼の消息については、僕にはまるでわからなかったりします。

肥後七左衛門が関わった薩摩藩の電信の研究も、
明治初年にあの松木弘安による東京ー横浜間の電信開通となるのですが、
そこに肥後七左衛門の名前はないようです。
「薩摩藩邸焼き討ち事件」に関わったために、彼の存在が微妙なものに変わった、
ということなのかもしれません。

歴史からは抹殺されかかっている肥後七左衛門ですが、
福沢諭吉が自伝にエピソードを残してくれたおかげで、
かろうじてその人柄が偲ばれるわけです。
「福翁自伝」は明治期に書かれたものであり、
政府にとって都合の悪い人物の話などは極力排除されています。
だから、肥後七左衛門の話も、天才栁川春三のことも、
福沢諭吉はちょこっとずつしか書き残していません。
でも、本当はこれらの人達ともっと深い交流があったのではないかと想像すると、
けっこう面白いです。
歴史は、本当に微妙なさじ加減で変わってしまう、
慶応三年の12月に肥後七左衛門が江戸にいなかったら、
彼は幕末の優秀な科学者として名前が残せたのかもしれません。


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コメント

肥後七左衛門は、私の先祖です。1月18日が祥月命日で、なんとなく検索したところ、
肥後七左衛門の記述を拝見し、驚きました。肥後家の子孫は、私ひとりになってしまい
年齢も77歳です。もし、資料等が必要ならば、ご連絡いただきたく存じます。疎開等で
ほとんど紛失してしまいましたが、多少のものはありますので、お役に立てるかもしれません。よろしくお願いいたします。

302-0127 茨城県守谷市松ヶ丘5-22-3  電話 0297-48-5496  肥後陽介

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