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« 8ミリフイルム | トップページ | 文明開化の男たち~肥後七左衛門~ »

2014年7月 5日 (土)

文明開化の男たち~栁川春三~

幕末の貴重な証言を外国人の立場から残している人物に、アーネスト・サトウがいる。
この人はイギリス公使の日本語通訳として、オールコックとパークス両英国公使に仕えた。
その人物が晩年にまとめた日本見聞録に、こんな一行がある。

 外国語学校の教師、栁川春三(しゅんさん)と一緒に霊巌橋の大黒屋で鰻飯を食べた。

大政奉還の前日の話なのだけど、何の脈絡もなく飛び出したこの一文は、結構おもしろい。
まず、外国語学校とは幕府の開成所のこと。
幕府が徳川の幕臣の洋学教育のために開設した教育機関で、元は「蕃書調所」と言った。
日本の洋学研究の最高峰であり、当時の英才が日本国中から集まっていた。
その中でもとびきりの天才が、栁川春三である。

出身は名古屋で個人的な話だけど僕と同郷である。
幕末の有名人で名古屋出身の人はあんまりいないので、ちょっとうれしい。

天才であるけれどそれを鼻にかけず、ときに河童の宴会芸を披露する。
たぶん女好きで吉原から開成所に通ってくる。
何でこの人が幕末史の中で注目されないのか、不思議なくらいである。

まあ、理由ははっきりしているのだ。
幕末史の中で悪名を轟かせた新撰組などは敵として名前が残るけれど、
幕府の中にあって文明開化を準備していた天才たちは、
新政府に絶対の忠誠を尽くさない限り、歴史から抹殺されてしまう。
福沢諭吉はその数少ない例外で、新政府に睨まれても「学問のすゝめ」の諭吉先生として、
日本の国民から幅広く支持されたけれど、
栁川春三には、そのための時間がまったく与えられなかった。

栁川春三の学才はまず語学の方面で発揮される。
12歳にしてオランダの砲術書を読み、成人してからは各国語を読み分けるようになる。
幕府に取り立てられてからは主に横浜からもたらされる洋文字の新聞を翻訳し、
幕府にとって貴重な情報を提供する。
また、西洋科学にも興味を示し、原子理論も理解していたという。
開成所教授筆頭の川本幸民が自分のあとはこの男に開成所を任せようとした秀英、
大天才なのである。

この栁川春三も、以前に紹介したみねちゃんの実家に頻繁に出入りしており、
みねちゃん直筆の似顔絵まで残っている。……ひょっとこにしか見えないけれど。

(※みねについての文章は下の方に付け足します)

冒頭に上げたアーネスト・サトウと鰻飯を食べたのは慶応三年十一月のことで、
この頃には外国人が自由に江戸の町を歩き回っていたことが垣間見える。

当時幕府の主導権を握っていたのは小栗上野介である。(将軍慶喜公はずっと大坂)
彼ら改革派の指揮の下、江戸では文明開化への流れが起きつつあった。
まず、外国人の飲食店への入店や芝居見物が許可された。
それと、築地のあたりに外国人居留地が許可され、「築地ホテル」が建設中であった。
すべて幕府によってなされた事業である。
さらに小栗は横須賀に巨大な軍艦ドッグまで建設している。
幕府は決して、旧弊で時代遅れの頑固者ではなかった。

さて、建設中の外国人居留地だけど、
実は築地鉄砲洲には中津藩の藩邸があり、福沢諭吉が私塾を開いていた。
外国人が江戸の町に入ってくることは諭吉先生にとっては喜ばしい事だったろうけど、
自分が追い出されるハメとなるなんてことは、夢にも思わなかっただろう。
ここを追い出されて新銭座に新しく作ったのが慶応義塾となる。

文明開化は何も薩長が始めたことではない。
江戸の役人や学者たちは早くからそれを準備していた。
このまま何事もなければ、文明開化は多くの知識人の手によって成し遂げられたはずだ。
栁川春三も、もちろんその一人である。
彼は幕府による文明開化の最先端を走っていた。
そこへ西国の田舎者たちがやってきて、彼らの事業を台無しにしてしまった。

栁川春三の悲劇は、最後まで新政府に反抗したところにある。
それはとても英雄的で、無謀な抵抗であった。

栁川春三は王政復古後に開成所の頭取に就任するや、
西郷隆盛の新政府軍が江戸に押し寄せてくるのも構わず、
最後まで開成所を続けようとする。
そして、真実を日本国中に伝えるために、新聞の発行を始める。
ちなみに、これは日本最初期の新聞発行なのだけど、
経緯が経緯だけに、そのことを顕彰しようとする者はあんまりいない。

その「中外新聞」は冊子になっており、
横浜からもたらされる外国の情報と、迫りくる西郷軍の状況を当時の交通機関を使って、
日本中に知らせた。
もちろん、長年洋文字の新聞を翻訳し続けた体験がものを言っている。
彼は筆を走らせた。正義がどちらにあるか、事実を世に知らしめることで、
天の判断を仰ぎたいような、そんな気持ちであっただろう。
あの彰義隊の上野戦争の翌日には日本最初の号外まで出している。

しかし、徳川はあっけなく江戸を新政府に明け渡してしまう。
日本最初のジャーナリストである栁川春三は、中外新聞の発行を止めざるを得なかった。
(45号まで発行)

さて、
新政府は幕府を潰したはいいが、そのあと優秀な人材を集めることに苦労し始める。
「福翁自伝」によると、幕府の人間で真っ先に声をかけられた学者は三人だったそうな。

福沢諭吉、神田孝平、そして栁川春三である。

福沢は病気を理由に出仕を断り続けたが(たぶん仮病)栁川春三は、
「大坂に行くのは嫌だ」
とこれを拒絶する。
理由はわからない。江戸でなら出仕してもいいという話だから、案外、
大好物の江戸のウナギが食べられなくなるのが嫌だとか、そんな理由かもしれない。
実際、新政府が江戸に移ってきてからはこれに出仕している。

幕府の開成所は新政府に接収され、名前を開成学校と改めた。
栁川春三はここの大学少博士に任命された。
開成学校はのちの東大へとつながる学問の最高機関であり、高待遇だと思うのだけど、
栁川春三としては複雑な気持ちだったに違いない。

何を考えたのか、彼は突然あの「中外新聞」を復活させてしまう。

この新聞は旧幕府寄りの論陣を張っていたため、新聞の発行はたちまち中止。
栁川春三は開成学校の教授の座を追われる結果となる。

彼はこの頃から、労咳(結核)を患い始めていたのかもしれない。

明治三年、39歳の若さで栁川春三は死ぬ。
あんまり若いのでちょっとびっくりするけれど、この人は本当に早熟の天才だったのだ。
あまりにもありがちな論評だけど、彼がもしあと三十年生きていたら、
日本のマスコミはまったく別のものになっていたかもしれない。
日本の進路だって、大きく変わっていたかもしれない。
とにかく、いろんな意味でもったいない人だった。

ところで、
彼の死には一つの伝説があり、この伝説があまりにも彼らしいので、
ちょっと笑ってしまう。そして、しんみりする。

栁川春三はその日、友人の宇都宮三郎とウナギの蒲焼を食べており、
食べ終わって「ああ、うまかった」と言うや、そのまま倒れて死んでしまったという。

よっぽどウナギが好きだったのか、その人物がみんなから愛されていたのか、
こういう伝説が残るというのは、歴史の美しい一面を見るようで、ちょっとうれしい。

ちなみに、福沢諭吉はウナギや川魚が苦手だったりする。

「福翁自伝」には栁川春三のような政府の要注意人物の話は当然排除されているのだけど、
福沢と栁川春三は同じ桂川甫周の学者サロンに頻繁に足を運んでおり、
それなりに交流もあったと思う。だいたい、栁川春三が大坂に行きたくないという話を、
歴史上に残したのは福沢諭吉なのである。

自分は想像するのだけど、栁川春三が福沢を鰻屋に誘い、
それを福沢が必死に断るという漫画みたいな展開が、
歴史の上で起こっていたかもしれない。個人的には絶対あったと思う。
だって、あのアーネスト・サトウを霊嚴橋の鰻屋に連れて行ったのは、
どう考えても、栁川春三なのだから。

以上、歴史ド素人による勝手な人物伝でした。
自分の読んだエピソードをつなぎ合わせて構成しているので、
間違いや勘違いがあるかもしれません。
そこは何とぞご容赦ください。

(※以下はみねについての文章です)

最近知ったのだけど、
「名ごりの夢」という本に福沢諭吉が出てくる。
原著で読みたいのだけど、高いので解説本とノベライズされたものを読んでみた。

「名ごりの夢」は幕府の御典医、桂川甫周の娘みねが、
昭和になってから御維新の前後を回想したもので、
その子供の頃のエピソードに福沢諭吉が出てくる。

桂川と言えば蘭方医としては超名門で、
その屋敷はさながら学者のサロンと化していた。
開成所の栁川春三なども頻繁に出入りしていて、愉快なエピソードを残している。

そういう蘭学者の社交場だから、大坂から江戸に下ってきた福沢諭吉は、
真っ先にこの家の門を叩いた。
当時のエピソードで、桂川甫周の前に緊張しながら座っている福沢諭吉の足袋に、
大きな穴が開いていた、というのがある。
「名ごりの夢」の作者「みね」はその頃五歳くらいじゃないかと思うのだけど、
その穴に松葉の先を差し込んで遊んでいたらしい。
当の福沢諭吉はたまったものじゃなかっただろう。

福沢諭吉が桂川家に出入りするようになって一年ほど経ったころ、
思わぬ話が耳に飛び込んでくる。

「今度幕府がアメリカに使節団を派遣するそうだ」

なんでも、桂川甫周の妻の兄、木村摂津守が使節の一員に選ばれたという。
当時日本は開国したばかりで、太平洋を渡って異国に行くなんて夢のまた夢、
生きて帰ってこられるかどうかもわからない。

「木村様も災難だね」

なんて話をしていたら福沢諭吉がものすごい勢いでこの話に飛びついてきた。

「私を木村様に紹介してください!」

福沢諭吉は桂川甫周のつてで木村摂津守と面会して、
見事「下僕」として幕府の使節団に加わることとなる。
歴史的には有名なエピソードだから「ああそうか」と思うけれど、
九州の中津藩の下級藩士が幕府の使節団に加わったというのは、
やっぱりすごいことなんじゃないか。
福沢が桂川家に出入りしていなければ、この展開はなかったことだろう。

さて、アメリカを体験して半年後に日本に帰って来た福沢諭吉は、
「みね」のためにアメリカ土産を持ってくる。
当時はまだ珍しかった「しゃぼん」と「りぼん」である。
みねは晩年まで石鹸の入っていた袋とリボンを大切に持ち続けていたそうだ。

補記)
霊巌橋の大黒屋は幕末の江戸の有名店だったらしく、
大坂から逃げ帰った慶喜公がここから鰻を取り寄せたりしている。
将軍様がわざわざ取り寄せるくらいだから、よっぽどおいしかったのだろう。
最近は鰻も高騰して滅多に食べられなくなったのだけど、
栁川春三のエピソードを思い浮かべるたび、僕は鰻が食べたくなる。

アーネスト・サトウの回顧録では、栁川春三のことは冒頭の一文だけで、
それもメモ書き程度なのだけど、
栁川春三が鰻を食べたあとに死んだエピソードは知っていたので、
はじめて読んだときは「さすが栁川春三!」と笑ってしまった。
上の文章はその感動というか、おかしさにつられて書いた文章だったりする。
いつか漫画にしたいと思って資料を集めているけれど、
まとまったものがまったく見つからないので、自分でまとめてみた。

もったいないのでブログにさらします。

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