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2014年9月

2014年9月25日 (木)

弘南鉄道の取材をさせていただきました。

現在発売中の月刊ヤングマガジンに
「鉄子の育て方」第9話が掲載されております。

今号のヤンマガの表紙は都丸紗也華さんなのですが、
その隅で鉄子の主人公、あずさが同じポーズをしています。
……デザイナーさんが狙ったのでしょうか。
狙ったのなら、ありがとうございます。ちょっとうれしい。

さて、前回のブログでも触れましたが、今号は青森県の弘南鉄道が舞台です。

私鉄の電気鉄道会社としては最北端だそうです。
すぐ北側にストーブ列車で有名な私鉄の津軽鉄道がありますが、
あちらは私鉄の旅客鉄道会社として最北端だそうです。非電化ってことです。

僕は雨男でして、取材に行くとベトナムで雨に降られたり、
石垣島で台風に遭遇したり、いすみ鉄道の取材で歴史的な豪雪にあったりするのですが、
弘南鉄道さんの取材では、見事に晴天に恵まれました。

移動中のタクシーの運転手さん曰く、弘前にしてはかなり暑い日だったそうです。
それでも東京に比べたらちょっと涼しかったんですけど。

「でもねぷた祭の期間中には毎年必ず一度は雨が降るんですよ」

とのことです。祭の前日で良かった良かった。

Hirosakijyou

弘前城天守。

担当さまが「小さいね」といっておられましたが、この天守は本丸辰巳櫓だったものを、
江戸時代に改装したもので、弘前城の本来の天守は焼失しております。
それでも、櫓として1600年代には作られていた年代物で、
現存する12天守の一つに数えられています。重要文化財です。

弘前城は本丸や二の丸、三の丸までが「弘前公園」として残されており、
城好きマニアにはそこがたまらなく面白いと思われます。
そして何より、桜の名所だったりします。
自分は小学館のサライという雑誌を四半世紀近く買い続けていますが、
桜の花見特集などではほぼ常連さんと言っていいくらいです。

自分が行ったときは桜の開花時期ではなかったですが、
公園内で担当さんと迷子になってあちこち歩き回ったので、西の丸の蓮池あたりも、
見ることが出来ました。モネじゃないけど蓮の池ってなんか癒されます。

P1050975

弘南鉄道大鰐線、中央弘前駅。

昭和の香りを残す古い駅舎です。昭和40年代の昭和日本を覚えている身には、
ひたすら懐かしい感じがします。

ここから7000系で移動します。
つり革が東急時代のままなのは漫画で描いた通り。

P1050987

津軽ってことで持ち手のところが赤く塗られてリンゴになっています。
これ、地元の方には好評だそうですが、鉄道ファンには複雑な想いの方もおられるとか。

P1060012

津軽大沢駅。
こちらの車両基地に、6000系が二編成おります。
業務部の中田さんに御案内いただきました。

このツーショットは取材した八月が最後なのだそうです。

P1060194

さて、漫画の中では弘南鉄道の6000系を東急の旧6000系に戻すという、
「そこまでやるの」って感じのエピソードを紹介しました。
これは四年くらい前に鉄子原案の山守さんが担当なさった番組で、
実際に行った出来事だったのですが、
弘南鉄道で雪よけのためにつけられた銀色のスカートも、
「東急時代にはなかった」
という理由で黒く塗りつぶされました。

さて、ではその後どうなったかといいますと、
取材で来たらみんな黒くなってました。

P1060011

「テレビの撮影で黒く塗ったら、整備の方で他の車両も黒く塗ってしまった」
そうです。

P1060019

銀色に輝くステンレスの勇姿。
ボコボコのお弁当箱とあずさはあきれてましたけど、
いかにも機械って感じのこの面構えは、個人的には結構好きです。

P1060033

取材中、いつの間にか方向幕が「渋谷」に変わっていました。
東京からいらした「十人のメンバー」の一人の方のサービスです。

漫画の中にもご登場いただいて、クルクルと方向幕を回しておられます。

P1060035

P1060043

「桜木町」の方向幕の6000系……ここだけ昭和の東京になってます。
貴重なショットだね。僕のおんぼろカメラじゃもったいない。

P1060131

ラッセル車。鉄人28号って感じの面魂です。

車内の取材や基地内部の取材をさせていただいて、その帰りにふと振り向くと、
6000系に「急行」の表示板がついてました。

P1060155

芸が細かいというか、本当に何から何までありがとうございます。

取材が早く終わったので弘南線の方にも乗って来ました。
僕が前の日に「田んぼアート駅ってなんですか」と発言したせいかもしれません。

……とてもカメラに収まりきれない、巨大なサザエさん一家の絵がありました。
Sazae_2

今回の取材でご協力頂いた皆様、本当にありがとうございました。

2014年9月20日 (土)

「鉄子の育て方」8話掲載です。

9月20日発売の月刊ヤングマガジン誌上で、
「鉄子の育て方」8話目が掲載されています。

弘南鉄道編になります。

P1050951_2

青森県弘前市の弘南鉄道に行って、大昔に東京で走っていた車両を復活させる、
そういうお話です。
復活させるのは東急電鉄の初代6000系。
思いっきり「昭和」の空気を感じさせる、懐かしい感じの車両です。

P1060056_2

既にお読みになった方はお気づきかもしれませんが、
この漫画の中で実現したプロジェクトは、4年くらい前かな、
原案の山守さんが担当された鉄道番組の中で実際に行われたものです。
このプロジェクトに関わった皆様にとっては、鉄道魂を揺さぶられる体験だったそうで、
「これをやりましょう!」
という山守さんの熱い気持ちを受け、今回コミカライズという運びになりました。

出演者が「女性化」しているのはいつもの通りです。

取材が行われたのは8月の頭で、担当さまと山守さんとご一緒して、
青森県の弘南鉄道まで行ってきました。

弘前は賑やかな街でした。なんでこんな賑やかなんだろうと思ったら、
「ねぷた祭」
が行われる時期と取材の時期がたまたま重なっていたのです。
本当にたまたまです。
ねぷた祭が見たくて弘南鉄道編をやった訳ではありません。

ねぷた祭りはとても勇壮で面白かったです。

P1060386

弘南鉄道の取材についてはまた次にご紹介できればと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

9月24日水曜日に、ドラマの「鉄子の育て方」のDVDが発売されます。

詳しくは月刊ヤンマガ誌上に「カラーページ」で紹介されております。
筋金入りの鉄道ファンがDVDボックスを作ったらこうなりました、ってくらい、
おまけから何から、凝りに凝りまくっております。

ちょっと前に山守さんから特製ブックレットの見本を見せていただき、
「こんなブックレット見たことないです!」
と興奮して、そのまま自分のカバンに入れようとしたら止められました。
作画資料にも使えそうな、すぐれものです。

それにしても情報がすごくいっぱい入ってるカラーページですね。

2014年9月19日 (金)

ドラマ「鉄子の育て方」の総集編が放送されます。

中部地方限定のお話ですが、
本日メ~テレ様にて、「鉄子の育て方」の総集編が放送されるそうです。
以下、詳細。

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

ドラマ「鉄子の育て方」の2時間総集編が、メ~テレ(名古屋テレビ)で放送決定!
9月19日(金)25:44~27:39(115分)
古厩監督が自ら再編集!!映画のような「鉄子の育て方」が観られるはず!
DVD発売を直前に控え、メ~テレが金曜の夜にやってくれます!!

就職活動に失敗した女の子“二郷あずさ”(小林涼子)が、鉄道番組専門放送局の女子アナとして活躍する物語。ただ、局員&取材相手は全員鉄ヲタ。果たして“あずさ”は女子アナとしてやっていけるのか!?

愛知・岐阜・三重の方は要チエック!!
http://www.nagoyatv.com/tetsuko/index.html

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

……なんか、年末の大河ドラマの総集編を思わせるような、
おっきな話になっています。

ご覧いただける方は是非、チャンネルをメ~テレ様に合わせてみてくださいませ。

P1060644

JR五能線にて、キハ48系。
このカラーリングが妙に気に入って、
何枚か写真を撮って来ました。

場所は鰺ヶ沢駅です。

長い停車中に朱5号塗装のキハ48系がやってきました。
国鉄時代のカラーリングを再現しているそうな。
こっちもいい感じ。

P1060656

2014年9月18日 (木)

文明開化の男たち~諭吉と海舟~

 1

文明ってなんじゃらほい。

インダス文明、エジプト文明、メソポタミア文明、黄河文明……
いろいろな文明がありますけど、どうもピンとこない。
そんなあなたにこの一冊。

福沢諭吉は明治の八年ごろに「文明論之概略」という本を書いて、
文明とは何かを語っております。
西欧社会は確かに日本よりすぐれている、これを文明的とすれば、
日本はその文明からは数歩遅れている。
だから日本は文明化すべきであろう。
ただし、その文明化とは鉄道や電信などの外面的なものではなく、
そういうものを生み出した西欧の考え方から入るべきである。
……

この本が明治時代の日本人に「文明」というものを意識させ、
のちは「文明開化」なんて言葉まで生み出す元となるのですが、
タイトルが「概略」なんて硬い感じなので、現代ではちょっととっつきにくいです。
でもこれ、福沢諭吉が自分の考えの総決算として書いたもので、
かなり面白いです。
文語調の難しい文章ですが、福沢諭吉ってレトリックの天才なので、
慣れるとけっこう引き込まれます。

福沢諭吉って人は中津藩の貧乏藩士の生まれなのですが、
徹底的なリアリストであったことは有名。
当時主流だった尊王攘夷の思想にも染まらず、物事を即物的に、論理的に考えた。
鬼神のことは決して語らず、国家という仕組みをメカニックに考えた。

慶応3年に「西洋事情」という本を書いて……洋書の翻訳抜粋が中心ですが、
これが大ベストセラーになります。
後年「文明論之概略」で
「鉄道とか軍艦より、文明的な考え方を持つことの方が先である」
と書いている福沢諭吉ですが、ここでも科学技術より西欧の思想から書き起こしています。
なんというか、恐ろしくぶれない人です。

「外国とどう接するのか、軍艦や大砲を揃えて武を競うのはよろしくない、
それよりはその金で船を買って交易を盛んにするべきである」

「富国強兵」より「外国交際」が重要と考えた福沢諭吉ですが、
これが口先のたわごとに終わらず、生涯その通りに実践しました。
このブレなさと頑迷さが福沢諭吉の真骨頂だと思うのですが、
この人物について語るとどうしても「学問のすゝめ」の福沢諭吉、慶応義塾の創始者、
咸臨丸でアメリカに渡った福沢諭吉がクローズアップされてしまうので、
後半生の人生になかなか焦点があてられません。
福沢諭吉という人が明治政府とは距離をおいていたという事実が、
うやむやになって誤魔化されてしまうのです。

だから後年、勝海舟に論文を突き付けた話も、ちょっとわかりにくくなる。

 2

勝海舟と福沢諭吉の関係は複雑です。

安政年間、江戸の中津藩邸に蘭学の教師として呼び出された福沢諭吉ですが、
「俺の蘭学がどれだけのものか知りたい」
と繰り出した横浜で、世界の主流が英語になっている事実を知って愕然とします。
「俺の大坂での学問はなんだったのだ」
アイデンティティの崩壊に直面する福沢諭吉ですが、これくらいではへこたれない。
ゼロから英語をマスターしようとあれこれ模索し始めます。
大村益次郎なんかにも「英語やろうぜ」
と声をかけたみたいですが、
「オランダ語が読めれば英語の本の翻訳も手に入るからいらね」
と突き放されます。
幕府の学問所に英語の辞書があるというので出向いてみれば、
「貸出し禁止」
と追い返されたりもしています。

そんな時、築地の桂川甫周の屋敷で、
「うちの嫁さんの兄君がアメリカに派遣されることになったそうだ、お気の毒にな」
という話を耳にします。
福沢諭吉はこの話に飛びつきます。
「私をその方に紹介してください!」

こうして中津藩士福沢諭吉は幕府のお偉いさんである木村摂津守の下僕になります。

たぶん、福沢諭吉に「生涯最高の出会いはなんですか」と質問したら、
木村摂津守の名前が出てくるのではないでしょうか。。
木村は、幕府の御用船である咸臨丸に中津藩士の福沢が乗ることを許し、
自分の僕としてアメリカに連れて行ってくれた大恩人です。
慶応義塾設立のときにも、大きな役割をはたしています。

ところがこの木村摂津守が勝海舟には嫌われまくっていた。
それも「身分が高いだけのボンボンだから」というのが理由で、
晩年の自伝の中でも徹底的にこき下ろされています。

「あんにゃろが俺の上司になって、練習船なのだからもっと外洋に出るべきじゃないか、
なんて抜かしやがるから、五島列島を越えて日本からどんどん離れてやったら、
奴さん、顔を青くしてオロオロし始めたぜ」
と、長崎海軍伝習所時代の思い出をさも楽しそうに回想しています。
いや、ただのいじめっ子だろう、それ。

咸臨丸でいちばん偉いのはその木村摂津守だったのですが、
「船長は俺だから」
という勝海舟のごり押しで、キャプテンの地位を譲らされています。
福沢諭吉は、当然その一部始終を見ておりました。(明治期の勝海舟は木村喜毅の家に足を運んでいたそうなので、そこまで嫌っていたわけじゃないとこの頃は思います。2016年5月記)

スタートラインから、福沢諭吉と勝海舟の関係は波乱含みです。

 3

勝海舟という人は、西欧の文明を「脅威」と感じとった人物です。
だから西欧に負けない日本を作らなくてはならないと考え、
江戸城を無血開城し、新しい国家建設の方を優先させました。

そこには横井小楠の思想が強く働いているのでしょうが、
国家が産業を興し、国家事業としてどんどん外資を得て、強い国家を作り上げる、
軍艦も買う、大砲も買う、そうすれば西欧と対等の国家になれると考えました。
あくまで国家中心の考え方です。

これはこれで立派な考えなのかもしれませんが、そのために幕府側の人間は切り捨てられ、
佐幕派の人間は徹底的に差別されることとなりました。
薩長藩閥政治です。
新政府を建設した薩摩と長州、土佐に肥前の人材が優先的に上にいき、
旧幕府の人材はなかなか出世できないという世の中です。

福沢諭吉は、おそらくノンポリでどちらでもない立場だったと思うのですが、
世間的には佐幕派の人間だと目されていました。
彼はたびたび新政府からの要請があったにもかかわらず、決して出仕はしなかったのです。

維新直後の明治政府には人材が不足していました。
自民党を破って政権を取った民主党のようなもので、
破ったのはいいけれど、何をどうしていいのかさっぱりわからない。
そりゃそうでしょう、江戸の徳川幕府は早くから西欧との交際法を研究し、
そのための人材を集めていたのですが、薩長にはその準備がありませんでした。

ですから、優れた人材ならば幕府の人間でもこれを活用しようと考え、学者の中では、
福沢諭吉、神田孝平、栁川春三の三人にまず声をかけたのです。

たぶんですが、この三人は膝を交えて話し合ったのではないでしょうか、
少なくとも福沢諭吉と開成所の頭取である栁川春三は会っていると思います。
「俺は大坂まで出向くのは嫌だがね」
と、名古屋出身の栁川春三は名古屋弁で拒絶したと思います。
ちなみにこの人、最近まで反新政府の新聞を発行し続けていまして、
上野の戊辰戦争の時には日本初の号外まで出しちゃってる人です。
外国語の天才で、当時原子論を理解していた数少ない日本の学者の一人です。

「私は病気なので、新政府の御用は無理です。そういうことにしておきましょう」
これが福沢諭吉。慶応義塾を開校したばかりで、攘夷政府などには興味がない、
私はこれからの日本のために優れた経済人を育成しなければならんのだ、と、
そういう考えでした。

この二人は先ほど出てきた桂川甫周の学者サロンに出入りしており、
おそらく結構な知り合いだったはずなのですが、
福沢諭吉は自伝の中で上のエピソード以外は何も残していません。

栁川春三がこののち、反政府的な内容の新聞を発行して開成学校を追われたからだと、
僕は勝手に推測しています。
政府に刃向った人間のことを詳しく自伝に書いたら、慶応義塾が危ないです。

福沢諭吉は、このあとも再三にわたる政府の出仕要請を拒否し続けました。
新政府としては、新しい国民教育の基礎を作る人材が必要だったのですが、
それが出来るはずの横井小楠が明治の早々に暗殺されてしまったのです。

勝海舟はこの人の学識をとても高く評価して、

「俺は横井小楠と西郷隆盛は本当に恐ろしい奴だと思ったよ」

なんて持ち上げているのですが、
その横井に変わる人材がなかなか出てこない。
福沢諭吉は慶応三年に「西洋事情」なんて本を出してベストセラーにしており、
そこには西欧の学校制度についても詳しく記述されていました。
あいつなら出来るんじゃないかと、勝海舟も思ったのかもしれません。

幕府は滅びた、これからは国民一丸となって新政府を盛り立てて行かなきゃならない。
確かに暗殺の危険はあるが、そのために命を落とすのは男児の本懐ってもんだ。
お前さんは俺の嫌いな木村摂津守のシンパだけど、
その学識を認めないわけじゃない。何よりお前さんは国民に人気がある。
どうだい、一つ明治政府に出仕して学校制度の建設をやってみないかい。

……これは完全な創作ですが、勝海舟がこう考えていたかもしれないと、
僕は勝手に想像しています。

でも福沢諭吉は出仕しません。あくまで民間の立場から経済人の育成を続けます。

 4

福沢諭吉は請われても明治政府への出仕を拒絶し続けました。
なんで明治政府に出仕しないのかと聞かれ、
「私は政治下戸だから」
と、酒飲みの癖にわけのわからない理屈を言い訳にしています。
おそらく、本当のことを言えば政府を敵に回すと考えていたのではないでしょうか。

その福沢諭吉の考えを知るための手掛かりが、
冒頭の「文明論之概略」だと僕は思うのです。

ここでくどいくらい述べられているのは、
「文明とは科学技術ではなく、それを生み出した西欧の考え方にある」
ということです。
「この順番を間違えて科学技術を先に導入し、西欧の考え方を後回しにしては、
それが根付かないばかりかそのうち国を亡ぼすことにもなりかねない」

これは、明治八年の段階でギリギリ福沢諭吉が残せた国家戦略論だと思います。

「家の前に大きな大砲をおいても、家の中が無茶苦茶ではその国は勝手に倒れてしまう。
だから、まず貿易を盛んにし、西欧との交際を盛んにして、
日本のことを知ってもらうことが大切なのだ。鉄砲や大砲はそのあとに揃えればよい。
紳士が分相応の武器を持っていても外国は何とも思わないだろうが、
文明国と思えないような国が身に過ぎた武器を持っていては、諸外国は日本を警戒する」

おそらくですが、福沢諭吉という人は、数度にわたる西欧体験で、
世界が軍事を中心に動いているのではなく、
経済の力で動いていると確信したのだと思います。
西欧を中心にものすごい経済活動の活発化があり、
その結果として、西欧諸国が優れた科学力と、巨大な軍事力を持つようになっている。

もし、今日本が国民一丸となって軍事大国になったとしても、
それは経済の裏付けのない、張りぼての軍事大国であるから、
それは西欧諸国を警戒させこそすれ、文明国だと認めさせることにはならない。
もし、西欧諸国と対等に渡り合おうとすれば、それは経済という土俵の上以外は
ありえない。

そのことに幕末の段階で気が付いていた福沢諭吉は、
上野の山で彰義隊が闘っている間も、創設間もない慶応義塾の教壇で、
「経済学」の講義をしたのだと思います。

まず優先させるべきは「経済」であり、「軍事」はそのあとであるべきである。

「経済」が先か、「軍事」が先か、ここが福沢諭吉と明治政府、
もっと言ってしまうと、福沢諭吉と勝海舟の違いだと僕は考えます。

 5

ですから、明治になってからも福沢諭吉と勝海舟はなかなかわかり合えません。
明治六年に旧幕府の学者が集まって、今後の日本の文化についての話し合いを持ちます。

「明六会」

というその会合は、もし江戸城が無血開城されなければ、
徳川込みの新しい政権で中心を担っていた学者たちによる、これからの日本についての、
とても興味深い会合でした。
一年くらいで明治政府に解散を命じられますけど。

その会合からは雑誌が定期的に発行されており、
「明六雑誌」
というその冊子を読むと、なかなか興味深いです。
ブックオフで岩波文庫の上巻だけ売っていたので、買ってきてときどき読んでます。

参加メンバーは開成所の関係者が中心で、
西周、森有礼、神田孝平と、そこに福沢諭吉と勝海舟まで加わっています。
議題は日本語をローマ字にするのはどうかという意見ついての賛否から、
一夫一妻制について、ロシアの脅威に対する警鐘など、多岐に渡っています。

この会合でのことだと思われますが、
勝海舟が福沢諭吉に向かって、
「諭吉さんはまだ寄宿舎なんかやってるのかい」
とからかったという話があります。

寄宿舎というのは慶応義塾のことで、
「諭吉さん」といういい方も失礼ですが、暗に学校経営を金儲けとみなしているところに、
勝海舟の悪意を感じます。
でも、これ、裏を返せば、
「学校経営なんて金儲けにうつつを抜かさないで、とっとと明治政府に来い」
と言っているようにも取れます。
ここが勝海舟という人の難しいところなのですが、
なんかとても回りくどいことを言って、本心をはぐらかしている。
僕は勝海舟はこの時点では福沢諭吉を評価していたのではないかと思うのです。

けれど、福沢諭吉は慶応義塾の運営を最優先し、明治政府には出仕しません。
勝海舟は福沢諭吉を金儲けの亡者と考え、徹底的に無視し始めます。

明治政府は徴兵令を出して、若者の兵役を義務化するのですが、
学生については免除されることになっていました。
ところが、この特例が東京大学以外は取り払われ、
優れた人材がすべて東京大学に流れ込むという事態になります。
慶応義塾からも、生徒がどんどん抜けて行って、経営危機に直面します。
「資金援助をお願いできませんか」
と福沢諭吉は勝海舟に頭を下げるのですが、勝海舟はこれを突っぱねます。
「お前さんにはまだ売るものがあるだろう。校舎と土地がある限りは手を貸さないよ」
……俺はお前さんの金儲けの片棒を担ぐ気はないよ、という事だと思います。

慶応義塾は、それでも何とか経営を立て直すのですが、
福沢諭吉と勝海舟の関係は、完全に切れたのではないかと思います。

 6

ところが明治24年だったかな、福沢諭吉が突然論文を上梓して勝海舟に突き付けます。
曰く「痩我慢の説」です。
これは海軍卿となって明治政府に出仕した勝海舟(及び榎本武揚)に対する批判の書で、
幕臣が味方の苦境も省みず、己の栄達に腐心することをこき下ろしています。
「武人たるもの、最後まで戦い抜いてこそではないか、
なぜあなたは無血開城なんてしたのか、
なぜ痩せ我慢をしてでも抵抗をしなかったのか、
多くの幕臣を困窮させておいて、なんで海軍卿なんてものになってるのか」
と、勝海舟の生き方を批判しています。

勝海舟はその論文を読み、
「俺は自分の正しいと思うことをやっただけだ、どう考えるかは他人の自由だ」
と言って、出版を黙認します。
榎本は、忙しいからと言ってこの件からは逃げたようです。

福沢諭吉は、結局この論文を引き出しにしまって、公開はしなかったのですが、
その存在が噂となり、明治30年を過ぎた頃になって発表しています。
旧幕臣たちは手を打って喜んだことでしょう。

この事実をどう考えるかは、難しいところです。
作家の司馬遼太郎は「勝海舟の勝ち」としています。
たとえ逆臣の汚名にまみれても、新国家建設を優先した勝が偉い、ということです。
明治も二十年以上経っているのに、今更維新の愚痴を書いた福沢は、
器が小さいとも言えます。

勝海舟は晩年のインタビューで、福沢諭吉を小馬鹿にし続けます。
あいつは弱いやつだ、維新のときは本所に隠れていたっていうぜと、
徹底的に弱虫扱いします。人間が小さい、金儲けしか考えていない。
あいつはただの学者だ、徳川幕府の中にいて日本を見ていない、
百年先の未来まで考えが及ばない……と、散々な書きようです。

でもこれ、福沢諭吉の立場からすると、
勝海舟くらい日本を捻じ曲げた人間はいないということになります。
福沢諭吉は幕府に徴用され、そのいいところも悪いところも見てきました。
少なくとも、幕府には次の時代を担う優れた人材が集められていたのです。
明六会のメンバーを見るだけでも、それはそれはすごいものです。
これらの人は、幕府の洋学研究の最高機関である開成所のメンバーで、
西周など慶喜公の指示でオランダあたりまで行って議会制度などの研究をしている。
もし、勝海舟が無血開城などせず、幕府軍が徹底抗戦をしていたら、
新しい時代の政府では、徳川の人材を完全に排除することは出来ず、
これらの人が国家のかじ取りをしていた可能性もあります。
すくなくとも、薩長藩閥政治はかなり弱められたはずです。
東北出身者が逆賊として政府の要職につけない、なんてことも回避できたかもしれない。

福沢諭吉だって意味のない戦争は嫌でしょう。
彼は血を見るのが生理的に大嫌いという人で、ロシアだったかな、
西洋の手術を見学中に失神したという、武士にあるまじき失態までしでかしています。
でも、あの時は戦うべきだった。
そうすれば、日本が富国強兵に邁進することもなく、経済中心の国になっていたはずだ。
軍事国家の建設は、一時の脅威を去ることは出来ても、
百年のちにはかならず行き詰まる。
もし、幕府の人材が明治政府の要職に加わっていたら、
攘夷派が幅を利かす薩長の明治政府よりよほど文明的な国家になっていたはずだ。
そういう国家であったなら、福沢諭吉は喜んで仕官していたかもしれません。
「文明論之概略」を読むと、そんな風に感じられます。

僕は「痩我慢の説」はそういう福沢諭吉の主張が下敷きになっていると考えているのです。
ただ、そうははっきりと書けないので、勝海舟や榎本武揚らを吊し上げることで、
幕府は簡単に降参してはいけなかったという自分の考えを
残したかったのではないでしょうか。

福沢諭吉の考えかあの当時の世界情勢で正しかったかどうかは難しいところで、
目の前のロシアの脅威を考えますと、
薩長が明治政府を作ってくれて良かったと思うのですが、
その後に調子に乗って軍部の独走を許す結果になったことを考えれば、
福沢諭吉が正しかったようにも思えるのです。

日本は戦後、経済によって復活しました。
経済によって西洋諸国と対等に渡り合い、信頼関係を築くことも出来たと思います。
そんで、日本が経済によって国家建設をするべきだ主張した福沢諭吉さんは、
日本の高額紙幣の肖像となり、
世界中を駆け回っています。
「諭吉」といえば、一万円札。なにか、似つかわしいような気もします。

世界はお金で回っている。決して軍事力で動いているわけではない。
それが現代文明の現状である。
いつか、人類がより高度な文明に達する日が来るかもしれないけど、
それまでは経済を勉強して、各国の人々と「交際」を盛んにするべきである。

「文明論之概略」はとても面白い本なので、
もっと読まれるべきだと、個人的には思うのです。


注)これは漫画描きの妄想なので、定説でもなんでもありません。
どちらかと言えば暴論だと思います。
あと、めんどくさいので本文中の抜粋はほとんど筆者の記憶による意訳とか創作です。
本を読んだらそんなこと書いてないじゃんとなるかもしれませんが、
まあ、おおよそ間違ったことは書いていないと思います。



2014年9月17日 (水)

文明開化の男たち~福沢諭吉~

(※以下は何か月か前に書いた文章です。一部過去のブログと重複します)

 1

福沢諭吉と言えば、一万円札です。
ああ、福沢先生といっぱいお知り合いになりたい!

それはさておき。

自分と福沢諭吉との出会いは太田じろうさんの漫画でした。
この本は今でも学研の本として手に入ります。学研さんえらい。

初版が1980年とあります。35年前の漫画です。

はじめて読んだのはたぶん学校の図書館です。日本の偉人に興味があったので、
「学研まんが 人物日本史」というシリーズを読みまくりました。
そして、「西郷隆盛」と「福沢諭吉」を担当されていた太田じろうさん、
この方の絵に惚れました。
すごく上手い絵です。
ネットでいろいろ調べていたら、漫画家さんでこの方の絵をべた褒めしている方がいて、
その方がアマゾンのレビューに怒っていたのですが、
自分もまったく共感します。太田じろうさんの絵はすごいです。

で、何年かしてからお小遣いで買い求めまして、
「西郷隆盛」と「福沢諭吉」を繰り返し読みふけりました。

内容も面白いですが、やっぱり自分は絵に惚れていたのです。
ある意味、とても影響を受けた作家さんだと思います。

で、結果として西郷隆盛と福沢諭吉の人生についてはある程度頭に刷り込まれまして、
幕末から明治への日本の歴史を考えるとき、この漫画の知識が骨格になっています。

ですから、福沢諭吉について語る時はまず太田じろうさんの漫画を出さなきゃいけない。

次に手塚治虫先生の「陽だまりの樹」です。
これは、触れていいんだろうかと躊躇してしまうのだけど、
福沢諭吉の「福翁自伝」には手塚治虫の御先祖様が出てきます。
それも、手塚先生からすれば「こんちくしょう」と思うような書かれ方です。

若い頃の福沢諭吉は蘭学者緒方洪庵の「適塾」で蘭学を勉強しています。
「福翁自伝」で諭吉が「適塾」について語る時、自分の青春の思い出ですから、
それは生き生きと面白おかしく回想するわけです。
豚の仕分けをしてその肉を食べたとか、橋の上からみんなで皿を飛ばして遊んだとか、
川に船を浮かべてアンモニアの生成実験を行ってえらい目にあったとか。

こういう愉快な話は手塚先生の漫画の中でも生き生きと再現されています。

ところが福沢諭吉がなんか人相が悪い。目つきが陰険です。

後年、「福翁自伝」を読むことがあって、手塚先生のご先祖のくだりを読んで驚いた。
……あんまりひどいんで簡潔に書くと、手塚君の遊女屋通いがひどいんで説教をした。
今度行ったら坊主にすると約束したのだが、
それから真面目に勉強し出したので面白くない。
そこで遊女からの手紙をでっち上げて遊女屋に行かせた。
諭吉先生、鬼の首を取ったように喜んで、手塚君を坊主にしようとした。
まわりが止めるので酒と食い物を奢らせて手打ちにした。

これでは福沢諭吉の面相も悪くなろうってもんです。
案外、手塚先生が「陽だまりの樹」を描いた執筆動機は、
ご先祖様の名誉挽回だったのかもしれません。

 2

別に弁護するわけぢゃありませんが、福沢諭吉は手塚君に嫉妬していたのだと思います。
なにしろ福沢は貧乏な中津藩の、その中でも貧乏な侍の家の出身ですから、
さんざん苦労して緒方洪庵の元に弟子入りしています。
それなのに一方の手塚君は徳川家の御典医か何かの子弟だったと思うけど、
たいそう立派な家の出て、身なりも人物も立派だったりします。
そういう立派な人が大坂の「適塾」まで学問をしに来ている。
お金があるから島原の女郎まで買っている。(福沢は生涯で奥さん一人のみ)
ちょっと面白くない。いじってやれと思うのは、まあ、無理ないのかもしれません。
なにしろ、まだ二十歳くらいの青年のやることですから。

そんな貧乏な福沢諭吉ですが、百年後には日本の高額紙幣の肖像になるわけですから、
大したものです。
もっとも、今日本の紙幣になってる人って、みんな貧乏で苦労した方たちばかりですけど。

福沢諭吉の歴史的な功績はたくさんあります。
ベストセラー作家として「西洋事情」「学問のすゝめ」の著作があります。
これらの本が飛ぶように売れて、一般的な日本人の思想は大きく変わりました。
他にも、慶応義塾の創設とか、いろいろありますが、
一番影響力をもったのは、上にあげた二冊(分本だけど)でしょう。

「西洋事情」は自身の西欧体験を元に書かれた著作です。
慶応三年、あと一年で江戸が終わるという時期に発売されています。
西欧の紹介として、法制度から始めて最先端の文明に至るまで、
江戸時代の一般人にも理解できるよう、見事に構成されています。
(※洋書の翻訳抜粋だそうです)
僕はななめ読みですけど、
見世物的に「ガス灯だぞ!」「鉄道だぞ!」「電信だぞ!」「すごいだろう!」
みたいな書かれ方はしていません。
冒頭から西洋が何かを、社会制度からだんだんと説明しています。

個人的に面白かったのは学校のところで、
六三三制みたいなものや、運動場や鉄棒、ブランコ投の器具が紹介され、
学問には健康な肉体が必要なのだと記されています。
実際、翌年に慶応義塾の校舎が作られた時、そこには運動場とブランコがありました。

現代人の日常に福沢諭吉が与えた影響は甚大だと思います。

 3

そんな福沢諭吉ですが、彼は幕府から給料をもらっていた幕臣でもありました。
彼は当時数少ない、英語が読める知識人だったのです。(話す方は無茶苦茶でしたけど)

福沢諭吉が江戸無血開城後、彰義隊で有名な上野戦争のとき、
慶応義塾で経済の講義を平然と行ったのは有名な話ですが、
この時の彼の頭の中は、「いよいよ文明開化だ!」という考えはなかったはずです。

薩長が幕府を潰して文明開化の流れを止めようとしている。

たぶん、こうじゃなかったかと思います。
だからこそ、学生たちにオランダの例を出して、
「オランダはナポレオン戦争のときフランスの支配を受けたけれど、
日本の出島にある領事館でオランダ国旗をかかげ続けたのだ。
だから諸君も出島のオランダ人の気概に習って、勉学をやめてはならないのだ」
なんて話になったのでしょう。
この場合のオランダは徳川幕府であり、フランスは薩長ではないかと思います。

自分などはずっと勘違いをしていたのですが、
文明開化というのは古い徳川幕府を新しい明治政府が倒したことで起こったこと、
ではないみたいです。
徳川幕府は慶喜公や小栗上総介らの政策によって文明開化を推進していました。
慶応三年には築地のあたりに外国人居留地を作り、
築地ホテルなんてハイカラなものまで建設中でした。

そもそも、福沢諭吉が慶応義塾を作ったのは、
江戸の中津藩邸が外国人居留地の場所としてお召し上げになったため、
そこで私塾を続けられなくなった、というのが理由だったりします。

福沢の目から見れば、江戸で文明開化は始まっていたのです。
外国人は普通に日本橋あたりを歩き、芝居小屋にも入れましたし、
料亭で食事することも出来ました。
イギリスの日本語通詞アーネスト・サトウの本を読むと、
大政奉還の前日、彼は江戸の酒どころで栁川春三と鰻飯を食べています。
そればかりか、珍しい本を求めて古本屋通いみたいなことまでやっている。

外国人が江戸庶民の生活に入ってくれば、文明開化は必然です。

ところがその江戸の町を薩長が占領してしまう。
そのあと「これからは養蚕の時代だ」というので、
江戸文化の粋をこらした大名屋敷を破壊して、桑畑なんて作り始めている。

福沢諭吉の目から見れば、明治政府は文明開化の敵と映ったのではないでしょうか。

 4

明治維新というのは、徳川による文明開化と明治政府による文明開化、
ふたつの文明開化の戦いという側面もあるのかもしれません。

このふたつの文明開化の違いは、外国との接し方にあると僕は思います。

徳川幕府の考えた文明開化は、外国勢力に対して割とオープンです。
徳川将軍家からしてみれば、攘夷という思想はもっとも遠いものです。
外国と戦争をするよりは、のらりくらり誤魔化してうやむやにしてしまえという、
よく言えば平和的、悪く言えば、対処療法的なその場しのぎの文明開化です。

対する明治政府の文明開化は、もっと現実的です。
「国を富ませ、諸国列強と肩を並べる強大な国家を作り上げる」

思わず、

「この文明開化の根っこには攘夷思想があり、富国強兵はその進化型である」

と書いてしまいそうになるのですが、それはさすがに言い過ぎかもしれません。しかし、
明治時代が国民の生活よりは軍事的な国家体制の建設を急いだのは間違いありません。

僕はその一方が正しく、一方が間違っていると言えるほど勉強したわけではありませんが、
明治維新がふたつの文明開化の可能性のうちの一つだったというのは、
まず、間違いがなかろうと思います。

(ここまで書いて文章が中断しています。このあと別の文章を作り直していますが、
これはこれで悪くないので、載せます。続きは「諭吉と海舟」の方で)

2014年9月 4日 (木)

だらだら

 1

教育テレビで……今はEテレって言うんだっけ、
「セザール・フランク」のヴァイオリンソナタが特集されてた。
なんでも、日本で一番人気のあるヴァイオリンソナタらしいのだけど、
久しぶりに最終楽章のロンドを聴いたら、ちょっと感動した。
テレビの中のお姉さん二人もひどく感動していらしたので、
やっぱり日本人ウケする曲なのかな、と思った。

自分が初めてこの曲を知ったのは、吉田秀和の「主題と変奏」という本で、
大学の休み時間に古本屋を冷かしているときに見つけた。
確か「セザール・フランクの勝利」という短いエッセイのようなものだった。

吉田秀和先生は先年九十歳を越えたあたりでお亡くなりになったのだけど、
「主題と変奏」をお書きになった頃はまだ若手の音楽評論家で、
「あ、若い人が書いてるな」
というのがはっきりとわかる。
石を握りしめて音楽会に行き、シューマンのピアノ協奏曲を聴くくだりは、
「中二病だな」
と今なら笑ってしまうだろう。
いくら怒ってるからって凶器を持って音楽会に行っちゃいかん。

「セザール・フランクの勝利」もその調子で、
敬虔なオルガン教授が晩年の十年間に各ジャンルに一曲ずつ、
狙い澄ましたように傑作を書いていくのを、高揚した感じで書き記していた。

実際に音楽を聴いたのは1990年の「フランク没後100年記念コンサート」
みたいなラジオ番組で、ヴァイオリンソナタもその時に聴いた。
……演奏されたのはチェロに置き換えたものだったけれど。

このときに、例の最終楽章が「いい曲だな~」と感動したんだと思う。
それでこの曲が好きになって、この曲がメインのコンサートを聴きに行ったりした。

それから十年くらいは、「これが俺のテーマソング」ってくらいのめり込んだのだけど、
いくらいい曲でも十年も聴けば「もういいかな」となるので、
三十代になってからはめったに聴かなくなった。
デュメイが奥さんのピリスとこの曲の新譜を出したときはちょっと盛り上がったけど、
それもほんの一時のことだった。
いや、あれはいい演奏なんだけど、僕が繰り返し聴きすぎたのだと思う。

で、テレビで久しぶりにこの曲を聴いたのだけど、
あれ?と思うくらいまた感動した。
解説のお姉さんが高揚した感じで「このまま天国に行けそう」
みたいなことを言っていたけれど、まったくそんな感じ。
お葬式で流すには中間部が激しすぎるけど、それがなければ使ってもらいたいくらい。

……お姉さんの言ってた天国が別の意味の可能性もあるけど。

このあと、「伊福部昭 生誕100年記念番組」もあって、それも見た。
ゴジラのテーマソングを作った人。
これも面白かった。

ゴジラ、ゴジラ、ゴジラが来るぞ、ゴジラ

 2

八月に入って、ピタッと文章を書く気力がなくなってしまった。
まあ、死ぬほど暑かったとか、他にもいろいろ理由はあるのだけど、
仕事のメール以外は、ほとんどキーを触っていないんじゃないかと思う。

それで、いろいろ不義理もしてしまったのだけど、
原稿を送ったらちょっと書く気が戻って来たみたいなので、
リハビリみたいにキーを叩いている。

「鉄子の育て方」の七話が先月発売の月刊ヤングマガジン9月号に掲載されたのだけど、
気がついたらお盆進行で雑誌が月曜日に発売になっていたようで、
なんか、いつもみたいにコメントを出し損ねた。

七話はエアトレイン編で、以前にこのブログにも書いたけれど、
漫画での表現が難しいので後回しにした話だったりします。
このブログに書いたことで、地方のテレビ雑誌にそのコメントが載ってしまい、
ちょっと笑ってしまった。
(鉄子については担当さんにお任せしているので、印刷されるまで知らんかった)

脚本はずいぶん前にいただいていたのだけど、
ドラマがメ~テレ様で放送になって、それがずいぶん面白かったので、
「これをやらない手はない!」
と考え、やってみました。
ドラマを観てから執筆したのはこの回が初めてです。

なんとか傑作だったドラマのエアトレイン編を汚さないよう頑張ったのですが、
音が全部書き文字になってしまうので、音が体感できるよう、
自分なりにいろいろ工夫もしてみました。
恩義ある先輩から「おっぱい強調しすぎ」と注意されちゃいましたけど、
まあ、エアトレインと言えば鉄道の振動を全身で表現するものだし、
漫画の表現としてはあれでいいんじゃないかと個人的には思います。

 3

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久しぶりに秋葉原に行ってきました。
恩義ある先輩さんが息子さんと東京に遊びにいらした折、
お茶したり飲みに誘っていただいて以来です。

セルフサービスのコーヒー屋さんで、
奢っていただいたので、「僕が運びますよ」とトレイのコーヒーを持ったのはいいけれど、
階段を二階分登るときに何度もバランスを崩しそうになり、
命の危険を感じたのが懐かしいです。

それが確か今年の三月で、、
もう半年も経ってしまったわけで、時間の流れるのが本当に早いです。

秋葉原の街は、自分が上京した四半世紀前からずいぶん変わってしまって、
今では「おたくの聖地」みたいになっています。
僕が覚えているのは純然たる電気街だった秋葉原で、
ウインドウズ95の発売時にはコンピューター関係の仕事をしていた友人と、
歩行者天国をのんびり歩いたりもしました。

あの頃でもCD屋さんの二階に上がると二次元美少女の立て看板があったりして、
少しずつオタクの聖地っぽくなっていたのですが、
自分にとっては海賊版のCDを漁ったりするのが目的だったので、
アキバというと海賊版の街という印象です。
チェリビダッケとか、クライバーの海賊版を嬉々として買い漁っていたっけ。

今回は取材が目的だったのですが、出かける前にアシさんに、
「石丸電気とかまだあるよね」
と、例の海賊版を買った店の一つを尋ねたところ、
「とっくになくなりましたよ」
と言われ、しょんぼりしてしまった。

本当に、時間が流れるのは早いもんです。

今回町を歩いていたら、「ラブライブ」がブームらしく、
そのキャラクターのでっかい看板と音楽がいっぱい流れていました。
過ぎ去りし時代は今更戻ってはこないので、
こういう若者の文化にハマってみるのも、楽しいのかもしれない。

P1060664

クラシックの話といえば、今年は有名な指揮者がたくさんお亡くなりになりました。
一月にはクラウディオ・アバド、七月にはロリン・マゼール、
八月にはフランス・ブリュッヘンです。

特にフランス・ブリュッヘンは、
「モーツァルトはこの人のが一番いいかもしれない」と思い、
七月に集中的に聴き直していたところだったので、
新聞で訃報を知ったときは「え!」となった。

これで僕が知っている「大指揮者」というのがほとんどいなくなった感じがします。

自分が若い頃も、カラヤンが亡くなったりレナード・バーンスタインが亡くなったりして、
テレビやラジオが追悼番組を流しまくったりしたのですが、
(特にカラヤンはすごかったと思う)
今年はどうなんだろう、これだけの歴史的な名指揮者が亡くなったにしては、
メディアはずいぶん静かな感じがします。自分が知らないだけかもしれないけど。

クラシックはヨーロッパにとっては伝統芸能みたいなものなんでしょうけど、
「レコード」の出現がこの古い昔の音楽に現代に生き残る可能性を与えたと思います。
確かに、チェリビダッケのように「音楽は演奏会場で生で聴くものである」
と主張して、レコードを出さないという指揮者もいましたけど、
(だからこの人の演奏は海賊版で手に入れるしかなかった)
もっと積極的に、レコードとして売れるものを作ろうという指揮者も現れました。
その代表例がカラヤンで、この方のレコードはクラシックの代名詞というくらい、
世界中で売れまくりました。
CDが開発された時、カラヤンが演奏するベートーヴェンの第九に合わせて、
再生時間が決められた、なんて伝説まであるくらいです。

家電としてのステレオが一般家庭に入っていくのと歩調を合わせ、
クラシックも普通の人に手が届く音楽になっていきました。
そういう一般層にとって、音楽の帝王はカラヤンであり、
育毛剤のカロヤンと聞いて「プププ」と笑ってしまうのも、
それだけカラヤンという指揮者が有名だったからだと思います。

以前にもこのブログに書きましたけど、新しい発明があると、
その発明を極限まで生かした天才が出現し、それがその時代の文化になっていきます。
クラシックの分野ではそれはカラヤンで、
この人のレコードとともにクラシックは巨大な音楽市場となり、
この人の死とともに、クラシックは産業として一つの時代を終えたという感じがします。
あくまで個人的な感想ですけれど。

アバドもマゼールも、カラヤンが帝王として君臨していた時代の若手指揮者で、
日本の音楽ファンが彼らの名前を知っているのは、カラヤン時代の若手というイメージが、
頭に焼き付いているからではないかと思います。

同じことは漫画での手塚治虫、歌謡曲での美空ひばりでも起こりましたし、
たぶん、宮崎駿でも起こりそうな気がします。
縁起でもない話ですけど、日本のアニメにとってそれだけ革命的な人だってことです。
日本のポップカルチャーのためには、この先何十年でも生きてもらいたいもんです。

以上、だらだらと書いてみました。

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