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2014年9月18日 (木)

文明開化の男たち~諭吉と海舟~

 1

文明ってなんじゃらほい。

インダス文明、エジプト文明、メソポタミア文明、黄河文明……
いろいろな文明がありますけど、どうもピンとこない。
そんなあなたにこの一冊。

福沢諭吉は明治の八年ごろに「文明論之概略」という本を書いて、
文明とは何かを語っております。
西欧社会は確かに日本よりすぐれている、これを文明的とすれば、
日本はその文明からは数歩遅れている。
だから日本は文明化すべきであろう。
ただし、その文明化とは鉄道や電信などの外面的なものではなく、
そういうものを生み出した西欧の考え方から入るべきである。
……

この本が明治時代の日本人に「文明」というものを意識させ、
のちは「文明開化」なんて言葉まで生み出す元となるのですが、
タイトルが「概略」なんて硬い感じなので、現代ではちょっととっつきにくいです。
でもこれ、福沢諭吉が自分の考えの総決算として書いたもので、
かなり面白いです。
文語調の難しい文章ですが、福沢諭吉ってレトリックの天才なので、
慣れるとけっこう引き込まれます。

福沢諭吉って人は中津藩の貧乏藩士の生まれなのですが、
徹底的なリアリストであったことは有名。
当時主流だった尊王攘夷の思想にも染まらず、物事を即物的に、論理的に考えた。
鬼神のことは決して語らず、国家という仕組みをメカニックに考えた。

慶応3年に「西洋事情」という本を書いて……洋書の翻訳抜粋が中心ですが、
これが大ベストセラーになります。
後年「文明論之概略」で
「鉄道とか軍艦より、文明的な考え方を持つことの方が先である」
と書いている福沢諭吉ですが、ここでも科学技術より西欧の思想から書き起こしています。
なんというか、恐ろしくぶれない人です。

「外国とどう接するのか、軍艦や大砲を揃えて武を競うのはよろしくない、
それよりはその金で船を買って交易を盛んにするべきである」

「富国強兵」より「外国交際」が重要と考えた福沢諭吉ですが、
これが口先のたわごとに終わらず、生涯その通りに実践しました。
このブレなさと頑迷さが福沢諭吉の真骨頂だと思うのですが、
この人物について語るとどうしても「学問のすゝめ」の福沢諭吉、慶応義塾の創始者、
咸臨丸でアメリカに渡った福沢諭吉がクローズアップされてしまうので、
後半生の人生になかなか焦点があてられません。
福沢諭吉という人が明治政府とは距離をおいていたという事実が、
うやむやになって誤魔化されてしまうのです。

だから後年、勝海舟に論文を突き付けた話も、ちょっとわかりにくくなる。

 2

勝海舟と福沢諭吉の関係は複雑です。

安政年間、江戸の中津藩邸に蘭学の教師として呼び出された福沢諭吉ですが、
「俺の蘭学がどれだけのものか知りたい」
と繰り出した横浜で、世界の主流が英語になっている事実を知って愕然とします。
「俺の大坂での学問はなんだったのだ」
アイデンティティの崩壊に直面する福沢諭吉ですが、これくらいではへこたれない。
ゼロから英語をマスターしようとあれこれ模索し始めます。
大村益次郎なんかにも「英語やろうぜ」
と声をかけたみたいですが、
「オランダ語が読めれば英語の本の翻訳も手に入るからいらね」
と突き放されます。
幕府の学問所に英語の辞書があるというので出向いてみれば、
「貸出し禁止」
と追い返されたりもしています。

そんな時、築地の桂川甫周の屋敷で、
「うちの嫁さんの兄君がアメリカに派遣されることになったそうだ、お気の毒にな」
という話を耳にします。
福沢諭吉はこの話に飛びつきます。
「私をその方に紹介してください!」

こうして中津藩士福沢諭吉は幕府のお偉いさんである木村摂津守の下僕になります。

たぶん、福沢諭吉に「生涯最高の出会いはなんですか」と質問したら、
木村摂津守の名前が出てくるのではないでしょうか。。
木村は、幕府の御用船である咸臨丸に中津藩士の福沢が乗ることを許し、
自分の僕としてアメリカに連れて行ってくれた大恩人です。
慶応義塾設立のときにも、大きな役割をはたしています。

ところがこの木村摂津守が勝海舟には嫌われまくっていた。
それも「身分が高いだけのボンボンだから」というのが理由で、
晩年の自伝の中でも徹底的にこき下ろされています。

「あんにゃろが俺の上司になって、練習船なのだからもっと外洋に出るべきじゃないか、
なんて抜かしやがるから、五島列島を越えて日本からどんどん離れてやったら、
奴さん、顔を青くしてオロオロし始めたぜ」
と、長崎海軍伝習所時代の思い出をさも楽しそうに回想しています。
いや、ただのいじめっ子だろう、それ。

咸臨丸でいちばん偉いのはその木村摂津守だったのですが、
「船長は俺だから」
という勝海舟のごり押しで、キャプテンの地位を譲らされています。
福沢諭吉は、当然その一部始終を見ておりました。(明治期の勝海舟は木村喜毅の家に足を運んでいたそうなので、そこまで嫌っていたわけじゃないとこの頃は思います。2016年5月記)

スタートラインから、福沢諭吉と勝海舟の関係は波乱含みです。

 3

勝海舟という人は、西欧の文明を「脅威」と感じとった人物です。
だから西欧に負けない日本を作らなくてはならないと考え、
江戸城を無血開城し、新しい国家建設の方を優先させました。

そこには横井小楠の思想が強く働いているのでしょうが、
国家が産業を興し、国家事業としてどんどん外資を得て、強い国家を作り上げる、
軍艦も買う、大砲も買う、そうすれば西欧と対等の国家になれると考えました。
あくまで国家中心の考え方です。

これはこれで立派な考えなのかもしれませんが、そのために幕府側の人間は切り捨てられ、
佐幕派の人間は徹底的に差別されることとなりました。
薩長藩閥政治です。
新政府を建設した薩摩と長州、土佐に肥前の人材が優先的に上にいき、
旧幕府の人材はなかなか出世できないという世の中です。

福沢諭吉は、おそらくノンポリでどちらでもない立場だったと思うのですが、
世間的には佐幕派の人間だと目されていました。
彼はたびたび新政府からの要請があったにもかかわらず、決して出仕はしなかったのです。

維新直後の明治政府には人材が不足していました。
自民党を破って政権を取った民主党のようなもので、
破ったのはいいけれど、何をどうしていいのかさっぱりわからない。
そりゃそうでしょう、江戸の徳川幕府は早くから西欧との交際法を研究し、
そのための人材を集めていたのですが、薩長にはその準備がありませんでした。

ですから、優れた人材ならば幕府の人間でもこれを活用しようと考え、学者の中では、
福沢諭吉、神田孝平、栁川春三の三人にまず声をかけたのです。

たぶんですが、この三人は膝を交えて話し合ったのではないでしょうか、
少なくとも福沢諭吉と開成所の頭取である栁川春三は会っていると思います。
「俺は大坂まで出向くのは嫌だがね」
と、名古屋出身の栁川春三は名古屋弁で拒絶したと思います。
ちなみにこの人、最近まで反新政府の新聞を発行し続けていまして、
上野の戊辰戦争の時には日本初の号外まで出しちゃってる人です。
外国語の天才で、当時原子論を理解していた数少ない日本の学者の一人です。

「私は病気なので、新政府の御用は無理です。そういうことにしておきましょう」
これが福沢諭吉。慶応義塾を開校したばかりで、攘夷政府などには興味がない、
私はこれからの日本のために優れた経済人を育成しなければならんのだ、と、
そういう考えでした。

この二人は先ほど出てきた桂川甫周の学者サロンに出入りしており、
おそらく結構な知り合いだったはずなのですが、
福沢諭吉は自伝の中で上のエピソード以外は何も残していません。

栁川春三がこののち、反政府的な内容の新聞を発行して開成学校を追われたからだと、
僕は勝手に推測しています。
政府に刃向った人間のことを詳しく自伝に書いたら、慶応義塾が危ないです。

福沢諭吉は、このあとも再三にわたる政府の出仕要請を拒否し続けました。
新政府としては、新しい国民教育の基礎を作る人材が必要だったのですが、
それが出来るはずの横井小楠が明治の早々に暗殺されてしまったのです。

勝海舟はこの人の学識をとても高く評価して、

「俺は横井小楠と西郷隆盛は本当に恐ろしい奴だと思ったよ」

なんて持ち上げているのですが、
その横井に変わる人材がなかなか出てこない。
福沢諭吉は慶応三年に「西洋事情」なんて本を出してベストセラーにしており、
そこには西欧の学校制度についても詳しく記述されていました。
あいつなら出来るんじゃないかと、勝海舟も思ったのかもしれません。

幕府は滅びた、これからは国民一丸となって新政府を盛り立てて行かなきゃならない。
確かに暗殺の危険はあるが、そのために命を落とすのは男児の本懐ってもんだ。
お前さんは俺の嫌いな木村摂津守のシンパだけど、
その学識を認めないわけじゃない。何よりお前さんは国民に人気がある。
どうだい、一つ明治政府に出仕して学校制度の建設をやってみないかい。

……これは完全な創作ですが、勝海舟がこう考えていたかもしれないと、
僕は勝手に想像しています。

でも福沢諭吉は出仕しません。あくまで民間の立場から経済人の育成を続けます。

 4

福沢諭吉は請われても明治政府への出仕を拒絶し続けました。
なんで明治政府に出仕しないのかと聞かれ、
「私は政治下戸だから」
と、酒飲みの癖にわけのわからない理屈を言い訳にしています。
おそらく、本当のことを言えば政府を敵に回すと考えていたのではないでしょうか。

その福沢諭吉の考えを知るための手掛かりが、
冒頭の「文明論之概略」だと僕は思うのです。

ここでくどいくらい述べられているのは、
「文明とは科学技術ではなく、それを生み出した西欧の考え方にある」
ということです。
「この順番を間違えて科学技術を先に導入し、西欧の考え方を後回しにしては、
それが根付かないばかりかそのうち国を亡ぼすことにもなりかねない」

これは、明治八年の段階でギリギリ福沢諭吉が残せた国家戦略論だと思います。

「家の前に大きな大砲をおいても、家の中が無茶苦茶ではその国は勝手に倒れてしまう。
だから、まず貿易を盛んにし、西欧との交際を盛んにして、
日本のことを知ってもらうことが大切なのだ。鉄砲や大砲はそのあとに揃えればよい。
紳士が分相応の武器を持っていても外国は何とも思わないだろうが、
文明国と思えないような国が身に過ぎた武器を持っていては、諸外国は日本を警戒する」

おそらくですが、福沢諭吉という人は、数度にわたる西欧体験で、
世界が軍事を中心に動いているのではなく、
経済の力で動いていると確信したのだと思います。
西欧を中心にものすごい経済活動の活発化があり、
その結果として、西欧諸国が優れた科学力と、巨大な軍事力を持つようになっている。

もし、今日本が国民一丸となって軍事大国になったとしても、
それは経済の裏付けのない、張りぼての軍事大国であるから、
それは西欧諸国を警戒させこそすれ、文明国だと認めさせることにはならない。
もし、西欧諸国と対等に渡り合おうとすれば、それは経済という土俵の上以外は
ありえない。

そのことに幕末の段階で気が付いていた福沢諭吉は、
上野の山で彰義隊が闘っている間も、創設間もない慶応義塾の教壇で、
「経済学」の講義をしたのだと思います。

まず優先させるべきは「経済」であり、「軍事」はそのあとであるべきである。

「経済」が先か、「軍事」が先か、ここが福沢諭吉と明治政府、
もっと言ってしまうと、福沢諭吉と勝海舟の違いだと僕は考えます。

 5

ですから、明治になってからも福沢諭吉と勝海舟はなかなかわかり合えません。
明治六年に旧幕府の学者が集まって、今後の日本の文化についての話し合いを持ちます。

「明六会」

というその会合は、もし江戸城が無血開城されなければ、
徳川込みの新しい政権で中心を担っていた学者たちによる、これからの日本についての、
とても興味深い会合でした。
一年くらいで明治政府に解散を命じられますけど。

その会合からは雑誌が定期的に発行されており、
「明六雑誌」
というその冊子を読むと、なかなか興味深いです。
ブックオフで岩波文庫の上巻だけ売っていたので、買ってきてときどき読んでます。

参加メンバーは開成所の関係者が中心で、
西周、森有礼、神田孝平と、そこに福沢諭吉と勝海舟まで加わっています。
議題は日本語をローマ字にするのはどうかという意見ついての賛否から、
一夫一妻制について、ロシアの脅威に対する警鐘など、多岐に渡っています。

この会合でのことだと思われますが、
勝海舟が福沢諭吉に向かって、
「諭吉さんはまだ寄宿舎なんかやってるのかい」
とからかったという話があります。

寄宿舎というのは慶応義塾のことで、
「諭吉さん」といういい方も失礼ですが、暗に学校経営を金儲けとみなしているところに、
勝海舟の悪意を感じます。
でも、これ、裏を返せば、
「学校経営なんて金儲けにうつつを抜かさないで、とっとと明治政府に来い」
と言っているようにも取れます。
ここが勝海舟という人の難しいところなのですが、
なんかとても回りくどいことを言って、本心をはぐらかしている。
僕は勝海舟はこの時点では福沢諭吉を評価していたのではないかと思うのです。

けれど、福沢諭吉は慶応義塾の運営を最優先し、明治政府には出仕しません。
勝海舟は福沢諭吉を金儲けの亡者と考え、徹底的に無視し始めます。

明治政府は徴兵令を出して、若者の兵役を義務化するのですが、
学生については免除されることになっていました。
ところが、この特例が東京大学以外は取り払われ、
優れた人材がすべて東京大学に流れ込むという事態になります。
慶応義塾からも、生徒がどんどん抜けて行って、経営危機に直面します。
「資金援助をお願いできませんか」
と福沢諭吉は勝海舟に頭を下げるのですが、勝海舟はこれを突っぱねます。
「お前さんにはまだ売るものがあるだろう。校舎と土地がある限りは手を貸さないよ」
……俺はお前さんの金儲けの片棒を担ぐ気はないよ、という事だと思います。

慶応義塾は、それでも何とか経営を立て直すのですが、
福沢諭吉と勝海舟の関係は、完全に切れたのではないかと思います。

 6

ところが明治24年だったかな、福沢諭吉が突然論文を上梓して勝海舟に突き付けます。
曰く「痩我慢の説」です。
これは海軍卿となって明治政府に出仕した勝海舟(及び榎本武揚)に対する批判の書で、
幕臣が味方の苦境も省みず、己の栄達に腐心することをこき下ろしています。
「武人たるもの、最後まで戦い抜いてこそではないか、
なぜあなたは無血開城なんてしたのか、
なぜ痩せ我慢をしてでも抵抗をしなかったのか、
多くの幕臣を困窮させておいて、なんで海軍卿なんてものになってるのか」
と、勝海舟の生き方を批判しています。

勝海舟はその論文を読み、
「俺は自分の正しいと思うことをやっただけだ、どう考えるかは他人の自由だ」
と言って、出版を黙認します。
榎本は、忙しいからと言ってこの件からは逃げたようです。

福沢諭吉は、結局この論文を引き出しにしまって、公開はしなかったのですが、
その存在が噂となり、明治30年を過ぎた頃になって発表しています。
旧幕臣たちは手を打って喜んだことでしょう。

この事実をどう考えるかは、難しいところです。
作家の司馬遼太郎は「勝海舟の勝ち」としています。
たとえ逆臣の汚名にまみれても、新国家建設を優先した勝が偉い、ということです。
明治も二十年以上経っているのに、今更維新の愚痴を書いた福沢は、
器が小さいとも言えます。

勝海舟は晩年のインタビューで、福沢諭吉を小馬鹿にし続けます。
あいつは弱いやつだ、維新のときは本所に隠れていたっていうぜと、
徹底的に弱虫扱いします。人間が小さい、金儲けしか考えていない。
あいつはただの学者だ、徳川幕府の中にいて日本を見ていない、
百年先の未来まで考えが及ばない……と、散々な書きようです。

でもこれ、福沢諭吉の立場からすると、
勝海舟くらい日本を捻じ曲げた人間はいないということになります。
福沢諭吉は幕府に徴用され、そのいいところも悪いところも見てきました。
少なくとも、幕府には次の時代を担う優れた人材が集められていたのです。
明六会のメンバーを見るだけでも、それはそれはすごいものです。
これらの人は、幕府の洋学研究の最高機関である開成所のメンバーで、
西周など慶喜公の指示でオランダあたりまで行って議会制度などの研究をしている。
もし、勝海舟が無血開城などせず、幕府軍が徹底抗戦をしていたら、
新しい時代の政府では、徳川の人材を完全に排除することは出来ず、
これらの人が国家のかじ取りをしていた可能性もあります。
すくなくとも、薩長藩閥政治はかなり弱められたはずです。
東北出身者が逆賊として政府の要職につけない、なんてことも回避できたかもしれない。

福沢諭吉だって意味のない戦争は嫌でしょう。
彼は血を見るのが生理的に大嫌いという人で、ロシアだったかな、
西洋の手術を見学中に失神したという、武士にあるまじき失態までしでかしています。
でも、あの時は戦うべきだった。
そうすれば、日本が富国強兵に邁進することもなく、経済中心の国になっていたはずだ。
軍事国家の建設は、一時の脅威を去ることは出来ても、
百年のちにはかならず行き詰まる。
もし、幕府の人材が明治政府の要職に加わっていたら、
攘夷派が幅を利かす薩長の明治政府よりよほど文明的な国家になっていたはずだ。
そういう国家であったなら、福沢諭吉は喜んで仕官していたかもしれません。
「文明論之概略」を読むと、そんな風に感じられます。

僕は「痩我慢の説」はそういう福沢諭吉の主張が下敷きになっていると考えているのです。
ただ、そうははっきりと書けないので、勝海舟や榎本武揚らを吊し上げることで、
幕府は簡単に降参してはいけなかったという自分の考えを
残したかったのではないでしょうか。

福沢諭吉の考えかあの当時の世界情勢で正しかったかどうかは難しいところで、
目の前のロシアの脅威を考えますと、
薩長が明治政府を作ってくれて良かったと思うのですが、
その後に調子に乗って軍部の独走を許す結果になったことを考えれば、
福沢諭吉が正しかったようにも思えるのです。

日本は戦後、経済によって復活しました。
経済によって西洋諸国と対等に渡り合い、信頼関係を築くことも出来たと思います。
そんで、日本が経済によって国家建設をするべきだ主張した福沢諭吉さんは、
日本の高額紙幣の肖像となり、
世界中を駆け回っています。
「諭吉」といえば、一万円札。なにか、似つかわしいような気もします。

世界はお金で回っている。決して軍事力で動いているわけではない。
それが現代文明の現状である。
いつか、人類がより高度な文明に達する日が来るかもしれないけど、
それまでは経済を勉強して、各国の人々と「交際」を盛んにするべきである。

「文明論之概略」はとても面白い本なので、
もっと読まれるべきだと、個人的には思うのです。


注)これは漫画描きの妄想なので、定説でもなんでもありません。
どちらかと言えば暴論だと思います。
あと、めんどくさいので本文中の抜粋はほとんど筆者の記憶による意訳とか創作です。
本を読んだらそんなこと書いてないじゃんとなるかもしれませんが、
まあ、おおよそ間違ったことは書いていないと思います。



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コメント

勝海舟と福沢諭吉の関係を客観的に研究しているものです。
以下の部分の出典をご紹介頂ければ幸いです。いろいろ調べましたが見つからないものですからご紹介いただければ幸いです。

1.ところがこの木村摂津守が勝海舟には嫌われまくっていた。それも「身分が高いだけ
  のボンボンだから」というのが理由で、晩年の自伝の中でも徹底的にこき下ろされて
  います。 
  ➤正確にはのような記述は見当たりませんが、原文はどのようなものでしょうか。

2.「あんにゃろが俺の上司になって、練習船なのだからもっと外洋に出るべきじゃない
   か、なんて抜かしやがるから、五島列島を越えて日本からどんどん離れてやったら、
   奴さん、顔を青くしてオロオロし始めたぜ」
  ➤上司というのは「教師」(おそらく外国人)と書いてあるだけで、木村摂津の守という
    記述は見当たりませんが。別の航海か何かでしょうか。
3.咸臨丸でいちばん偉いのはその木村摂津守だったのですが、「船長は俺だから」
  という勝海舟のごり押しで、キャプテンの地位を譲らされています。
  ➤出典を教えていただければ幸いです。

4.薩長の藩閥政治については明治期に海舟がこれを強く批判する建言をおくっています
  がこの点はどのようにお考えでしょうか。

以上、ご教授いただければ幸いです。

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