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2016年4月10日 (日)

川端康成


髪が伸びたので床屋に行った。
自分は割と人見知りな方なので、寡黙な親父が黙々と仕事をする店を贔屓にしている。
隣の町だからずいぶん遠いのだけど。

近所の店は十五年以上前に一度入ったきり、再び利用していない。
その店が悪いわけではない。

「平日のこんな時間にいらっしゃるなんて、お仕事は何をなさってるんですか」

の一言から、いろいろ根ほり葉ほり聞かれてしまったので、
ちょっと苦手意識を持ってしまったのだ。
自分は今まで何十件と床屋を利用しているけれど、あんなに喋る床屋はめったにない。
しかも、そこには当時連載中の雑誌が置いてあったので、なおさら行きにくくなった。

二十年近く前のある暑い夏の日、ぶらりと入った床屋さんは良かった。

「うちは裏に井戸があってね、その水を汲んでおしぼりを冷やしてるんですよ」

そう言っておしぼりを首筋に当ててくれたのだけど、
暑気に火照った体にひんやりとしたおしぼりが実に心地よかった。

その近所には家族経営の床屋さんがあったのだけど、そこでは恐怖を味わった。
店主が髪をカットして、髭を当たる段になって親父さんと交代した。
七十歳は超えていそうな白髪の老人である。
剃刀を持つ手が微妙に震えていた。

子供のころ、近所の「まるひろ」さんだったかな、ときどき研修の若い子が入ったりした。
その中に大きな胸を押し当ててくる女の子がいて、当時小学生だった自分は、

「ああ、大人になったらこういうことがたまらなくうれしくなるんだろうな」

なんて考えたりしたけど、
あれから四十年近くたってアレがめったにない僥倖だったことを知った。

現在贔屓にしている隣町の床屋は、寡黙である。
それが気に入ったから、15年以上ずっと利用し続けている。
でもここ一年ほどは、何か言葉をかけてくるようになった。
今日は桜の話だった。

「もう盛は過ぎましたね」
「日曜に満開になっていたら丁度よかったけど、今年はだいぶん早かったですからね」

齢をとるとこの程度の、小鳥がさえずるような会話が丁度良くなってくる。
しみじみと味わい深い。

もし、この世界にガンダムについて熱く語りだす床屋さんがいたら、
自分は調子に乗って熱く語ってしまうだろうけど。

その桜の盛りもだいぶん過ぎた。東京ではちらほらと躑躅の花が咲き始めている。
自分は桜の花には春の始まりを感じ、躑躅の花に春の本番を感じる。
開花時期が比較的長いので、強いピンクの色彩が長く楽しめる。

春は外で読書をするのによい季節だ。本も傷まないし、光の加減もちょうどいい。

ここ半年ほどは川端康成を読んだりしている。
自分の読書傾向からすると、かなり異端。
文章で描写を積み重ねて、そこに起こる情感を味わう、みたいな小説は、
短気な自分に向いていない。
けれどこの頃は年齢的にもだいぶん間延びしてきたので、一行をしみじみ味わいもする。

川端康成は、エロい。

自分が十代のころノーベル賞作品の「雪国」を読んだ時の感想がまさにそれ。
作品には男の主人公の目から女性を観察する感じのものが多い。
これを年代順に並べてみると、

「伊豆の踊子」で純真な踊子の明るいエロスに心を癒され、
「雪国」で主人公に翻弄される山里の芸者の娘をサディスティックに味わい、
「眠れる美女」で意識のない女たちの肉体だけをひたすら凝視する。

みたいな感じになる。
どんどんマニアックになってる。

川端康成の作品が教科書に載ってるのを見たことがないし、
読書感想文の推薦図書としてもイメージがないのだけど、
こんだけエロければ、それも当然であるとなんか納得してしまう。

文章は美しい。「抒情歌」なんかはほとんど詩じゃないかと思う。
この見事な文章で目の前の女性をひたすら見つめ続けるというスタイルが、
川端康成ではわりと一貫している。
「眠れる美女」なんかはその究極の形なんじゃないか。
寝ている女の子をあそこまで生々しく描写できる筆力は驚嘆に値する。

是非、夏の推薦図書にして全国の子供たちの読書感想文を読んでみたいものだ。

もちろんこれらが名作である由縁は、エロいからばかりではない。
女性のエロスを媒介に、文章は季節の移り変わりや風景の繊細な味わいまでも描写し尽す。
「伊豆の踊子」が名作なのは、そうやって描写された伊豆の風景の中で、
主人公の学生が「救われる」ことに説得力があるからなのだろう。

このへん、川端作品が本来向いていない自分にははっきり断言はできない。
ただ活字を連ねるだけでこんなにエロい世界が作れるのはすごいなと、
下種な根性で読んでいるだけだ。

こういった「美少女小説」を読んでから梶井基次郎などを読むと、
今までわからなかった部分がいろいろ見えてくる。
凝視し、描写するという点ではこの二人の作家はよく似ているのだけど、
梶井基次郎の凝視する世界は憂鬱な大正・昭和の日本の風景だ。

物語性を一切排除して、ひたすら凝視し、描写するという小説の伝統は、
たぶん、ある時期に途絶えた。
八十年代から九十年代にかけて、それは起こったように感じる。
読者は小説に漫画のような物語性を求めるし、
出版もその方が売れるから、わかりやすいカタルシスのある作品を求める。

でも、カタルシスのパターンはすでに出尽くしてしまい、
今はそれを変態的にいじくる方向に流れているように感じる。

そういう21世紀の状況下で、たまに川端康成のような描写に徹した作家の作品を読むと、
作品というのは人間がその五感で感じたものを身近な素材で形にするものなのだなと、
はたと気が付いたりもするのだ。

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