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2016年5月

2016年5月31日 (火)

レビュー、ありがとうございます。


アマゾンのレビューとか、食べログとか、ときどき目を通すこともあります。
「この本、面白いのかな」
「近所に美味しいお店はないかな」
なんてとき、とても重宝します。
すぐ近くにシュークリームの美味しい洋菓子店があるのですが、
まあ、入ったことはないのですが、
「あの値段であのシュークリームはすごい」
みたいなレビューをされていました。
と同時に、
「店員の態度が悪い」
とか、
「接客がのろい」
といったネガティブな評価もされていました。

以来、その店の前を通るたび、かわいい制服を着てコマネズミのように働く、
洋菓子職人の女の子たちを見ると、
「そうか、態度が悪いのか」
「あんなに一生懸命働いているよう見えるけど、接客はのろいのか」
と、あれこれ余計なことを考えるようになりました。

本気でそれを真に受けているわけではないんですけどね。

アマゾンでよく見るのはクラシックCDのレビュー。
これは、ものすごく参考になる。
というか、意外と面白い。
その演奏家のコンサートに行った思い出とか、
その人柄まで書いてあったりします。
で、クラシックのCDなんかは千円しないものも多いので、
けっこうポチポチ押してしまう。

自分も、漫画でお仕事をさせていただいているので、
いくつかレビューをいただいていたりします。
褒められていたらすごくうれしいし、
問題点を指摘していただければ、大いに反省したりもします。

レビューは匿名で自分なりの論評を載せられる場です。
アマゾンだと、一応運営の目は通しているのかな。
一流の評論家顔負けのレビューもあれば、
「何かつらい人生を送られているのかな」
と、心配になってしまうくらい攻撃的なものもあります。

中には、その攻撃的なレビューに紳士的に反論するレビュー、
なんてものもあります。

作家なり演奏家なりは、基本的にこれらに反応しないものだと思うのですが、
まあ、みんないろいろ一喜一憂していると思いますよ。
僕はそうだし。

今回、自作にレビューをいただきまして、
「あの解釈でいいものか、ご指摘いただけませんか」
と、とても丁寧なメールをいただきましたので、お答えさせていただきます。

大丈夫です。あれで解釈は間違っていないです。

「はまりんこ」は20年も前のデビュー作ですし、記憶もまばらなのですが、
都会と田舎の対立構造とか、故郷に対する愛憎半ばする思いとか、
当時20代だった自分が考えていたものは、だいたいあの通りのものです。
むしろ、
「無いはずの故郷」
みたいな表現をしていただけて、かえってこちらが教えられた感じです。
上手い言い回しだと思います。

「はまりんこ」を描いていた当時は江戸川区に住んでいました。
オウムのサリン事件が起こって、朝、友達に電話でたたき起こされたのもあの頃です。
そんな不安定な世相の中で、ひたすら漫画のネームを描いている自分、
もっと違った生き方があったんじゃないかな、
誰かが故郷で自分を無理やりにでも引き留めてくれたらな、なんて、
かなり悲観的になっていた時期のものです。

いや、いたんですけどね、
「夢を見るのはやめとけ」
みたいなことはかなり言われていて、応援してくれた人たちよりも、
かえって印象が強いくらいです。
まあ、それに対して、
「夢ではない、これは現実なのだよ」
と返していた自分はかなりのドリーマーでしたが。

だから、東京に来て何年もフリーター生活を送るうち、
もし自分に「絶対的な故郷」というものがあったら、そこで幸せになれたんじゃないかなと、
妄想したりもしたのです。
かわいい幼馴染がいて、自分のことを待ってるみたいな、
野郎本位の身勝手な妄想なのですが、
そういうものを人工的に構築して、みんなが幸せになる世界は作れないかな、なんて、
妄想はどんどん肥大化していったのです。

例えば、日本の歴史を振り返ってみると、
時の権力者は「神話」と「巨大なモニュメント」と「官位」みたいなもので、
絶対の秩序を構築したわけです。
天皇なら、「記紀神話」「都の造営」「天皇の称号」だったりします。
「時間」「空間」「人間」のそれぞれに揺るぎのない中心点を作り上げれば、
国家という共同体はたぶん成立する。

それを漫画の中で構築しようとしたのが「はまりんこ」です。

町の中心に「こけし」がそそり立っているのは、
あれがあの世界の空間的中心軸だからです。
時間的な中心軸は「マコトとの思い出」だったのかな、
人間の中心は「筆おろし」を営む美貌の女性。

そして強烈な「共同体への帰属意識が生まれる」と、
こんな感じで物語を構築していきました。

自分もあれからだいぶん大人になりましたので、
こういう青臭い妄想はいかがなものかと、割と批判的になってしまうのですが、
地方がどんどん崩壊して、「故郷」が観光スローガンみたいになってくると、
「本当の故郷って何なのだろう」
って、マジメに考えてしまいます。

とりあえず、自分の今住んでいる地域を散歩しまくって、
新しい発見をしまくることが、当面の自分の目標なのですけどね。


2016年5月22日 (日)

文明開化の男たち(補足)


蒸気機関について語ってみようと思ったけど、なかなか難しい。

今年(2016)の一月に、以前このブログで紹介させていただいた、
「肥後七左衛門」のご子孫の方からメールを頂戴した。

肥後七左衛門は幕末から明治にかけてかけて実在した薩摩藩士だ。
その名前は、幕末の重大事件にひょいひょい出てくるので、
「いったい、この人物は何者なのだろう」
と、長く疑問に思っていた。
それで、歴史に残っている事績をつなぎ合わせて、
「こんな人生だったんじゃないかな」
と推測をしてみた。それが3年くらい前。

今回メールをやり取りさせていただいて、
いくつかわかったことを、許されている範囲で紹介させていただくと、

●肥後七左衛門は文化11年11月に鹿児島で生まれている。
西暦で言うと1814年。肥前の鍋島直正公と同い年である。
激動の幕末期には五十歳を超えていたわけだ。

●斉彬公の命で長崎まで蒸気機関の研究をしに行っている。時期的に考えて、
勝海舟と面識があった可能性が高い。

●薩摩藩邸焼き討ち事件ののちには他藩の屋敷に身柄を預けられている。
(士分が伝馬町とか書いた僕は大馬鹿野郎です)

●その後は「浪花丸」の艦長として、徳川の軍艦のいる中、物資を運んでいる。

●明治23年1月18日にお亡くなりになっている。

晩年は薩摩藩邸の跡地を拝領して、官吏として開拓局に任官したあと、
穏やかな余生を送ったものと思われる。

蒸気機関というのは歴史を大きく変えた原動力で、
この発明があったから、西洋列強は人類の大半を支配する勢いを持った。
それはまあ、現在までも続いている。

ひょっとしたら、その勢いの反動が21世紀なのかもしれんけど。

当時鎖国中だった日本でも、早くから蒸気機関の重要性を認識し、
これを開発しようという藩がいくつもあった。
薩摩藩もその有力な一つだ。
肥後七左衛門は、その研究開発メンバーの一人であり、
蘭学者川本幸民の助力等もあって、洋書の翻訳と絵図面からの想像のみで、
国内最初の蒸気機関の開発に成功している。
もし、藩主島津斉彬公がお亡くなりにならなかったら、
国内最初の実用蒸気船の開発までいけたかもしれない。

肥後七左衛門は歴史の上ではほとんど無名の存在であり、研究もされていないと思う。
それは、「薩摩藩邸焼き討ち事件」という幕末史の暗部に関係したことが大きいのだろう。
なにしろこの事件をまともに研究したら明治の建国神話に泥を塗る可能性もある。
ブラックである。
でもこの人物が江戸城無血開城のために大きな役割を果たした可能性は、
かなり高いと、僕は愚考するのですよ。

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2016年6月26日
上の文章は一度書いたものを短く圧縮したものなのですが、
その原型の方をここに置いておきます。
肥後七左衛門さんについては、なにしろ歴史的な資料が少なく、
書いている内容も想像による部分がどうしても多くなります。
ご本家様の方でも、大戦時の疎開で失われた史料が多い、とのことでしたので、
この人物にスポットライトを当てようとすると、どうしても「創作」の部分が多くなります。
それで、元の文章から「創作」の部分を排除したのが、上の文章なのですが、
「これは勝手な妄想の部分もある」と断った上で、
元の文章を読んでいただければと考えました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 1

蒸気機関について語ってみようと思ったけど、なかなか難しい。

今年(2016)の一月に、以前このブログで紹介させていただいた、
「肥後七左衛門」のご子孫の方からメールを頂戴した。

肥後七左衛門は幕末から明治にかけてかけて実在した薩摩藩士だ。
その名前は、幕末の重大事件にひょいひょい出てくるので、
「いったい、この人物は何者なのだろう」
と、長く疑問に思っていた。
それで、歴史に残っている事績をつなぎ合わせて、
「こんな人生だったんじゃないかな」
と推測をしてみた。それが3年くらい前。

肥後七左衛門は幕末の薩摩藩で蒸気船の研究開発を行った人物だ。

蒸気機関は、なにしろ歴史を大転換させる発明だった。
イギリスはこの発明があったから、一時地球の半分くらいを支配することが出来た。
「内燃機関」が作られたことによって、
自力走行する船やら汽車やら、前時代をはるかに凌駕するマシンを開発できたからだ。
大量輸送を迅速に行うことが可能なら、物資や兵隊を効率よく動かすことが出来る。
21世紀になってネット社会が地球をコンパクトにしたように、
西洋人は地球全体を自分の版図とみなすことが可能になった。

おいしいお茶が飲みたければインドまで出かけて現地から収奪すればいいいし、
ステーキに胡椒をかけたければ、東南アジアまで取りにくればいい。
そうやって世界中の富がヨーロッパ周辺国に集中するものだから、
この地域が強力な軍事力を一方的に持つようになってしまった。

蒸気機関を持たないアジアの国々にとっては、これはとんでもない脅威だった。

なにしろ、蒸気式の軍艦が世界中を我が物顔で走り始めたとき、
日本の海を走り回っていたのは一本マストの運搬船くらいだったのだ。
もし、日本が資源豊かな黄金の国だったら、とっくに征服されていただろう。
ああ貧乏ってすばらしい。

ペリーが江戸幕府に開国を迫ったのも、クジラを取る船の中継基地が欲しかったからだ。
香辛料があるわけではないし、黄金も産出しない。
銀の質にはなかなか見るべきものがあったが、地球規模で考えれば微々たるものだ。

だから、西洋人は日本よりは中国の方を巨大なフロンティアとみなした。
アヘン戦争が起こって領土が次々と西洋列強の支配地になった。

当時絶賛鎖国中だった日本にも、その情報は逐一入っていた。
「これはやばい」
英明な大名たちはみんな焦った。佐賀藩の鍋島公、薩摩の島津斉彬公、
このあたりが情報を分析して、
「世界で今何が起こっているのか」
をかなり正確に把握していた。

「つまり、蒸気機関の発明が地球の勢力地図を変えようとしているのだ」

そこでこの両藩をはじめとするいくつかの藩が、蒸気機関の研究を始めた。
科学的興味などという生易しいものではない。自国の領土を守るための大事業だ。

当初、この研究と実用化の試みは薩摩藩がリードしていた。
なにしろ藩主の島津斉彬公は若殿様の時代から江戸の蘭学者に声をかけ、
蒸気機関に関する洋書の翻訳などをさせていた。
自分が藩主の座に就くや、西洋科学を研究するプロジェクト「集成館」まで設立している。

このプロジェクトに早くから参加していたのが、肥後七左衛門である。

集成館では西洋式の帆船が何艘か制作され、薩摩から江戸まで運用試験がされている。
このとき、薩摩の洋式船のマストには日の丸の旗がひらめいていたのだが、
この古来からあるデザインの調整をしたのが、肥後七左衛門だと言われている。
島津斉彬公の命令で、絵心のある七左衛門が赤い丸の大きさを研究したのだ。
(ネット情報だから正確かどうかはわからないけど)

船の外観が出来れば、いよいよ蒸気機関の取り付けである。

蒸気機関が誰の手によって薩摩藩で開発されたのかは不勉強なのでよくわからない。
ただ、その開発メンバーに宇宿彦右衛門、松木弘安、肥後七左衛門がいたのは、
まあ、間違いないんじゃないかと思う。
江戸の薩摩藩邸で諸藩の偉い人を呼んで公開実験をしている。

この公開実験の後、実際に薩摩の洋式船に取り付けて、
品川沖を航行させた記録が残っている。
ひどくのんびりした速度だったようだが、一応これが国産初の蒸気機関であろう。

このときの船は「雲光丸」と名付けられて、薩摩の港で使われていたようだが、
それをたまたま見たオランダ人が、
「図面だけであれだけのものを作るとは、すごい奴らがいたもんだ」
と感心したそうな。

ここまでの開発は、洋書を読み解いての手探り状態なのである。

日本人が実際に現物の蒸気機関を目にしたのは、この直後のことだ。
オランダから幕府に蒸気船が寄贈されて、ようやく日本人は蒸気機関を目にすることが出来た。

「是非、私どもにも見せてください」

薩摩藩主島津斉彬公の申し出に、江戸幕府は快く応じてくれた。
この頃は「公武合体」が推進されていて、薩摩と幕府はとても仲が良かったのだ。

オランダから寄贈された蒸気船は格好の教材となり、
幕府は「長崎伝習所」を開設することになる。
歴史好きの方はよくご存じだろうけど、勝海舟がいた、あれである。
海軍士官を養成する訓練生として、薩摩からはあの五代友厚などが参加しています。

おそらくこのとき、エンジニアとして蒸気機関を見分した侍の中に、
肥後七左衛門がいたのではないかと、肥後家の方では伝わっているようです。
長崎で机を並べて勉強した人物の名前が、伝習所一期生の中にあるからです。

自力で国内初の蒸気船を走らせた開発メンバーの一人である肥後七左衛門ですが、
現物を見たのはこのときが初めてのはずです。
さぞ熱心にメモを取ったことだろうと思われます。
他藩の侍の中には、妖怪の内臓を見て吐き出す者もいたそうですが、
肥後七左衛門はそんなことはしなかったでしょう。
その構造を必死で目に焼き付けていたはずです。

「薩摩でもこれと同じものを開発するのだ」

それが肥後七左衛門のこの時点での目標なのです。


 2

ところが話はそう上手くは進まなかった。
薩摩藩主の島津斉彬公が、突然亡くなってしまうという驚天動地の事態が起こったのだ。
この英邁な藩主の死は、西洋科学の研究プロジェクト「集成館」には大打撃となった。
次の藩主の久光公は兄の「道楽」をあまり快くは思っていなかったのです。
「西洋船なんて、買った方が安上がりじゃないか」
とばかりに、集成館の規模を縮小してしまいます。
なんか、最近の日本の産業に起こっていることとよく似ています。
別に自分が開発しなくても、他所から持って来ればいいのです。

いや、それはその通りなんだけどね。
目の前の事態を収束させるのが先決なのはわかるんだけど、
斉彬公はもっと先の未来を考えていたと思うんですよ。
自分たちで作って、その技術を血肉として次の代では西洋列強と肩を並べる。
ここまでが集成館プロジェクトの意味だったと、僕は愚考するんですけどね。

で、肥後七左衛門は蒸気機関の開発というプロジェクトからは離れてしまう。
技術者の悲しさです。上が「経費削減のために部署を縮小する」といえば、
それに従うしかない。
いくら研究への情熱があったとしても、薩摩藩士の身分じゃ何もできないのです。

以後、肥後七左衛門の拠点は江戸の薩摩藩邸に移ります。
僕の想像なのですが、薩摩藩が外国から買った蒸気船にはメンテナンスが必要です。
蒸気機関に精通した者が、薩摩と江戸の両方にいなくてはいけない。
肥後七左衛門は江戸の薩摩藩邸に役宅をいただいていたそうなので、
その役割は江戸側の蒸気機関整備だったんじゃないのかな。

薩摩藩邸のすぐそばには品川の海があります。
薩摩から蒸気船がやってくれば、馬で港まで出向いて蒸気船に乗り込み、
配下の者と蒸気機関の整備と保守点検を行う。
これも立派な仕事なのですが、肥後七左衛門としては面白くなかったかもしれない。

その頃、佐賀藩や幕府では独自に国産の蒸気機関の研究開発が行われています。
そういう風聞が耳に入るたび、地団駄を踏んだのではないかと思う。
結局、実用蒸気船の開発は、佐賀藩が成し遂げることになります。
ここでのノウハウの蓄積が技術者の育成につながり、
東芝が生まれて、今僕はダイナブックのノートパソコンでこの文章を書いている。
目の前の「TOSHIBA」のロゴを見ていると、誇らしいような、切ないような、
複雑な気分になります。

んで、ここまでのお話が、肥後家の方から教えていただいた伝承から、
僕が類推した肥後七左衛門の前半生です。
江戸に本拠地を移してからのことは、前のブログ記事「文明開化の男たち」にあります。
右のトピックのところから閲覧できます。

江戸で幕府の「蕃書調所」に出入りしていた肥後七左衛門は、
日本で最初の「化学教室」のメンバーに名前を連ね、
蘭学者の川本幸民や、福沢諭吉なんかとも交流があったみたいです。

薩摩が「生麦事件」を起こして「薩英戦争」が勃発したときは、
手にかけていた薩摩の蒸気船をすべて拿捕されるという事件にも遭遇します。

そのため、薩摩藩は幕府から洋式蒸気船を借りて海運に使っていたのだけど、
この蒸気船が「外国船打ち払い令」によって長州藩に沈められるという事件もありました。

この「長崎丸」の事件についてはちょっと書いておかなくちゃいけない。
長州は洋式船を見ればとにかく手当たり次第に弾を打ち込むものだから、
幕府の船だろうと、ガンガンやっちゃうわけです。
薩摩藩の借りていた「長崎丸」も、こりゃヤバイってんで蒸気機関をフル回転させた。
そしたら突然火を噴きだして炎上、沈没してしまったわけです。
この船には蒸気機関を操るための薩摩のエキスパートたちが乗船しており、
それを一気に失うことになってしまった。
集成館の実質的リーダーで肥後七左衛門と一緒に蒸気機関の開発をした、
あの宇宿彦右衛門もこのときに亡くなっている。

薩摩は怒り心頭で、幕府の徳川慶喜公に「長州を厳罰に処すべし」と抗議をする。
ところが、この最後の将軍になる優柔不断(に見える)な人物は、
問題が朝廷の「外国船打ち払い令」からきていることなので、なかなか重い腰をあげない。
このとき、薩摩の久光公は幕府を見限ったのではないかと思われます。

この事件が薩摩と幕府の関係を悪化させ、
逆説的に長州との関係を近づけたのは、皮肉というかなんというか、
歴史って不思議なものだなと思います。
薩長同盟が結ばれたとき、長州は薩摩藩に「長崎丸」を沈めたことを、
藩主自ら書状の形で謝罪したようです。

「長崎丸」の事件は薩長同盟への布石という点で重要なのですが、
一方で、薩摩の蒸気船開発を決定的に終わらせてしまったという一面もあります。
肥後七左衛門にとっては「終わった」って感じだったんじゃないかな。

薩摩と幕府の関係がどんどんきな臭くなっていくに従い、
肥後七左衛門が「蕃書調所」に出入りする機会も減っていったことでしょう。
この次に彼の名前が歴史に出てくるのは、
幕末のどんずまり、慶応三年の「薩摩藩邸焼き討ち事件」になります。

詳しくは以前に書いているので、ここでは繰り返しませんが、
訂正しなきゃいけないところが一か所あります。
僕は馬鹿なので、「七左衛門は伝馬町につながれて拷問された」
なんてことを書いていますが、士分の者が伝馬町はありえない。
他藩の屋敷にお預けになったことが、肥後家の方に伝わっているそうです。

その後、勝海舟のお預かりとなった肥後七左衛門は、
益満休之助らとともに、東上してくる朝廷軍との折衝に当たります。
このへん、歴史的に謎が多い部分なので、
新資料が出てきたら肥後七左衛門の評価もかなり変わるかもしれません。

とにかく、肥後七左衛門の活躍がかなり大きかったのは、
江戸が東京になった後、島津家から薩摩藩邸の敷地を下賜されていることから、
いろいろ想像出来るはずです。

明治になってからの肥後七左衛門ですが、
明治政府の官吏として芝の開拓使出張所に勤めていたそうです。
屋敷の土地の一部が蒸気機関車の路線になったそうで、
「蒸気機関について何かアドバイスをしたんじゃないかな」と、
肥後家の方はおっしゃっておりました。


2016年5月16日 (月)

本をめぐる物語

 1

春の五月ごろは気候もいいので散歩がはかどる。
血圧を下げる薬を常用しているせいか、運動するとひどく疲れるのだけど、
春になってからはけっこう快調。

なんせ、去年鼻血が止まらなくなって病院に駆け込んだ時は、
上の血圧が「235」までいってた。
たまたま耳鼻科の先生が不在だったため、内科の先生に診ていただいたのだけど、
鼻血を止めるよりもまず、血圧を下げなきゃ駄目だってんで、
薬を処方されて数時間ベッドに横になってた。
結局、止まらなかったから別の病院に回されたんだけど、
そこの耳鼻科の先生が若い女の子で、
かわいらしいお嬢さんに鼻の穴の中を弄られるという、変なプレイを堪能できた。

いや、そんなのはどうでもいい。

それ以来、例の内科の先生に血圧を下げる薬を処方されている。
なんでも、
「限界ギリギリの量」
らしい。
昔、一日仕事をして自分で血圧を計ったら「245」までいったことがあるけど、
今は「130」くらいで落ち着いている。
「このまま、ボロボロになった血管を治していきましょう」
と、内科の先生はおっしゃる。
最初に診てもらったときは、
「エンジンが暴走している状態です」
とまで言われたので、薬というのはよく効くなとほとほと感心している。

この内科の先生は三十代くらいの好青年で、一度うどんの話をしたとき、
「九州の五島列島のうどんがおいしいですよ」
と教えてくれた。
自分は知識として五島列島のうどんは知っているだけで、食べたことがない。
どんな味なんだろう。

ボロボロになった血管を治すため、食生活には気を配らなくてはならない。
先生曰く、「ドロドロの油まみれの濁った血」を「きれいなサラサラ状態」にして
血管を再生させる、とのこと。
その話のときにいろんな食材を上げていって、
「うどんはいいね。塩分を取らないって前提なら」
って話題から、五島列島のうどんの話になったんだ。

このブログでも、肉を食べられないって書いたことがあったけど、
あれは、そういう理由。
「シーフードカレーはどうですかね」
と聞いたら、
「イカはやめといたほうがいい」
とも言われた。

以来、いろいろ自分でも勉強をして、中性脂肪を下げるには卵を食べないのがいい!と、
聞きかじりの知識にご満悦で、しばらく卵断ちもしていたのだけど、
意気揚々とそのことをドヤ顔で自慢したら、
「最近の研究だと、卵を食べてもあんまり変わらないと言われています」
と、一言のもとに斬り捨てられてしまった。
「中性脂肪は体内で生成されるのでうんたらかんたら」と説明されたけど、
正直、理屈はよくわからなかった。
素人の生兵法はあてにはならないなと、ちょっとガッカリした。

僕が肉を食べられないというのは、一部でギャグとして流通している。

弟が東京モーターショーを見に東京へ来たとき、
「弟よ、兄は肉が食べられない。さあ、今晩は何が食べたい?」
と聞いてみたら、
「肉」
と即答された。

仕方がないので焼肉屋に行ってたらふく食べてやった。

この弟さんは車が大好きで、漫画のネタに使うため、
「お父さんが最後に乗ってた車はなんだっけ?」
と聞いたら、当時小学四年生だったにも関わらず、
「日産ブルーバードの○○型、GX、シルバーとグレーのツートンカラーで
赤いラインが横についてるやつ」
と即答しやがった。
さらに、
「その前は○○の○○で、○○が○○」
と、よくわからない単語を羅列し始める。

宇宙人か、おまえは。

漫画が掲載されたコンビニ本を贈呈したら、とても喜んでくれたみたいで、
そういうところは、まあ、かわいいやつだと思わんでもない。

で、まあ、肉が食えないという話はギャグになっている。

冬のさなかに友達と東北を旅行して、
「最後は仙台で牛タンパーティー」と計画されていたのだが、

「そういえばかわすみは肉食べれないんだったな」

と、しっかりブログをチェックされていて、あやうく魚介パーティーになるところだった。
「仙台に来て牛タン食べるのが楽しみだったんだよ!」
と心の中で絶叫しつつ、
「いや、この頃は調子もいいから牛タンを食べましょう」
と穏やかに微笑んで見せたのだった。

結局、なんだかんだでお肉は食べている。

ただ、そのせいなのか、血液検査の結果がよろしからず、
「中性脂肪を下げる薬も処方しておきますね」
と例の好青年に言われてしまい、現在一日五種類の薬を服用する羽目になった。

血管再生への道のりは遠い。


 2

今回のブログのテーマは「知り合いからもらった本」だったりする。
自分は割と潔癖な方なので、人から頂いた本はなんとなく読みずらい。
古本屋で買うのは平気なので、たぶん、知ってる人が読んだ、という状態が嫌なのだろう。
だいたい、自分には興味のない本なわけだから、最初からハードルが高い。

だから、「この本、面白かったですよ」と渡されても、あんまり読まない。
仕事に関係するものはキッチリ目を通すのだけど、
それ以外だと、例えば「方丈記についての面白い本」みたいなのが、
ここ何年もずーっと放置されたままになっている。

方丈記、面白いのに。

ふと、おかしなことを思い出した。
学生時代に方丈記の授業で、「平十郎」という名前が出てきて、
隣席の友達が、
「お前の好きなビートルズだな」
とからかったことがあった。
なんのことかと思ったら、「ヘイ・ジュード」のことだった。
ジョンレノンの息子のジュリアンのためにポール・マッカートニーが作った曲だ。
今突然、電撃のように思い出した。

あえて言わせてもらうが、このギャグはあまり面白くない。

この友達はかなりの読書家で、
古本屋で井伏鱒二の「厄除け詩集」というものを見つけてきて、
「宝物だ!」
とものすごく喜んでいた。

この本には、「さよならだけが人生だ」という超有名なフレーズがあり、
みんな井伏鱒二の言葉だと知らないで使っていたりする。
二十代の頃、編集さんと打ち合わせをしていて、
「それ、井伏鱒二の厄除け詩集の言葉なんですよ」
とドヤ顔で教えてあげたら、
「なにそれ、なんでそんなことを知ってるの」
と宇宙人を見るような怪訝な目をむけられた。

「はまりんこ」のときだ。

で、その友達が学生時代に頻繁に引っ越しをしたのだけど、
いつだったかその手伝いをしてあげたとき、紙袋いっぱいの本をいただいてしまった。
さあ困った。
人からもらった本はとにかく読みづらい。
でも、頂いた以上は使命として読まなくてはいけない。
三浦綾子とか、自分がこの先死ぬまで読まなそうな本を、
なんとか頑張って読んだと思う。
でも覚えているのは「細川ガラシャについての本はなかなか面白い」だったりする。
結局、東京に出るとき実家に置いてきたのだけど、うちの母がなぜか読んで感動してた。
だからまあ、無駄にはならなかったと思う。
今でも母の本棚に並んでいる。

実家が食堂だったため、お客さんの中に本を下さる方もいた。
うちの本棚に吉川英治の新平家物語がどかんと置かれているのだけど、
これは妙齢のご婦人が入院時の退屈を紛らわすために読んだものだ。
豪華愛蔵本で、作りも立派なうえに挿絵もきれい。(杉本健吉さんだ!)
ただ、横に並べると四十センチくらいになる。
しかも本編二段組み。
どんだけ長く入院していらしたのだか。

しかし、これは全部読破した。
なんでも、吉川英治が連載終了後に原稿を積み上げたら天井に届いたという伝説の書だ。
だけど、これは面白かったから数か月がかりでなんとか読破できた。
今でもラストシーンは瞼に焼き付いている。
活字だけど、映像がありありと頭に浮かんでいた。
泣いた。
ティッシュを何枚も使いながら涙をふき続けた。
もう、話に感動したのか読破した自分に感激したのかよくわからない。

出来ればもう一回読みたいのだけど、あの量を考えるとちょっと辟易する。

人から頂戴して心から「ありがとう」と感謝の言葉を言えたのは、
この「新平家物語」が一番だと思う。


 3

江戸川区のコインランドリーで洗濯しながら文庫本を読んでいたら、
「あなたは本がお好きなのですか」
と、品のいいお爺さんに声をかけられたことがある。
まだ二十代の頃である。

明るい平日の昼ひなか、アルバイトのお休みか何かじゃないかな。
ラジオからはブラームスのドイツ鎮魂歌が流れていたような気がする。
ラジオ聴きながら本を読むなっての。

老人は小柄な人で、仕事を退職した後に暇を持て余しているという感じである。
白髪で汚れのないまっさらな笑顔だったのを覚えている。
「わたくし、○○ツクルと申します。ペンネームですけどね」
と、ニコニコしながらコインランドリーの待合い席に腰を下ろした。
たぶん、散歩コースか何かなのだろう。

「本は大好きですよ」
僕も笑顔で答えた。実家が客商売のせいか、目上の人への人当たりはとてもいいのだ。

「小栗虫太郎をご存知ですか」

なんだか、聞いたことのない名前が飛び出してきた。
「知りません」
「昔の推理作家ですよ。若い人は知らないかもしれませんね」
「江戸川乱歩とか、そんな感じですか」
「そんな感じです」

その老人は「そんなに本がお好きならこの次会ったときに本を差し上げましょう」と、
ニコニコしながら申し出た。
いや、自分は人様が読んだ本は読むのに抵抗があるのだけど、と思ったけれど、
こういう時に無下に断ってしまうのは失礼な気もした。
もらってしまえば、目の前の老人の中で、
「さまよえる若人に人生の指針を与えてやった」
という妄想が生まれるかもしれない。
それはこの人の人生を一週間くらいは伸ばす効能が、あるような気もする。
「いただきましょう」
と僕は返事をした。

で、本を頂いたのだけど、くだんの小栗虫太郎とやらの本は一冊もなく、
左寄りの啓蒙書が何冊もあった。これは読めんな、と棚の隅に追いやってしまった。

でも、小栗虫太郎という作家名はずっと心に引っかかっていたので、
図書館で代表作の「黒死館殺人事件」を借りてきて読んでみた。
これは推理小説の三代奇書と呼ばれる名作なんだそうだけれど、
言葉遣いが独特で、自分には最後まで読み通すことが出来なかった。
この濃厚な幻想的世界に共感できる人には、めちゃくちゃ面白いんだろうけど。

でもこの本で覚えたこともある。

物語の中で「膝カックン」がトリックに使われていたのかな、
その「膝カックン」を、「○×反応」と横文字で書いていたのもカッコよかったが、
(調べたけど具体名は思い出せない。エントレジャンス反応とか、そんな感じ)
その、相手の膝の裏のことを、

「ひかがみ【膕】」

と古風な日本語で表現していたのが、妙に「優雅だな」と思ってしまった。

おかげさまで丈の短いスカートの女の子を後ろから見ると、

「おお、ひかがみをさらして今の子は大胆であるな」

と典雅な表現をするようになってしまった。
そして、小栗虫太郎を思い出し、コインランドリーで二十年前に会った、
あの左寄りの老人のことも、思い出すのである。

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