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2016年5月22日 (日)

文明開化の男たち(補足)


蒸気機関について語ってみようと思ったけど、なかなか難しい。

今年(2016)の一月に、以前このブログで紹介させていただいた、
「肥後七左衛門」のご子孫の方からメールを頂戴した。

肥後七左衛門は幕末から明治にかけてかけて実在した薩摩藩士だ。
その名前は、幕末の重大事件にひょいひょい出てくるので、
「いったい、この人物は何者なのだろう」
と、長く疑問に思っていた。
それで、歴史に残っている事績をつなぎ合わせて、
「こんな人生だったんじゃないかな」
と推測をしてみた。それが3年くらい前。

今回メールをやり取りさせていただいて、
いくつかわかったことを、許されている範囲で紹介させていただくと、

●肥後七左衛門は文化11年11月に鹿児島で生まれている。
西暦で言うと1814年。肥前の鍋島直正公と同い年である。
激動の幕末期には五十歳を超えていたわけだ。

●斉彬公の命で長崎まで蒸気機関の研究をしに行っている。時期的に考えて、
勝海舟と面識があった可能性が高い。

●薩摩藩邸焼き討ち事件ののちには他藩の屋敷に身柄を預けられている。
(士分が伝馬町とか書いた僕は大馬鹿野郎です)

●その後は「浪花丸」の艦長として、徳川の軍艦のいる中、物資を運んでいる。

●明治23年1月18日にお亡くなりになっている。

晩年は薩摩藩邸の跡地を拝領して、官吏として開拓局に任官したあと、
穏やかな余生を送ったものと思われる。

蒸気機関というのは歴史を大きく変えた原動力で、
この発明があったから、西洋列強は人類の大半を支配する勢いを持った。
それはまあ、現在までも続いている。

ひょっとしたら、その勢いの反動が21世紀なのかもしれんけど。

当時鎖国中だった日本でも、早くから蒸気機関の重要性を認識し、
これを開発しようという藩がいくつもあった。
薩摩藩もその有力な一つだ。
肥後七左衛門は、その研究開発メンバーの一人であり、
蘭学者川本幸民の助力等もあって、洋書の翻訳と絵図面からの想像のみで、
国内最初の蒸気機関の開発に成功している。
もし、藩主島津斉彬公がお亡くなりにならなかったら、
国内最初の実用蒸気船の開発までいけたかもしれない。

肥後七左衛門は歴史の上ではほとんど無名の存在であり、研究もされていないと思う。
それは、「薩摩藩邸焼き討ち事件」という幕末史の暗部に関係したことが大きいのだろう。
なにしろこの事件をまともに研究したら明治の建国神話に泥を塗る可能性もある。
ブラックである。
でもこの人物が江戸城無血開城のために大きな役割を果たした可能性は、
かなり高いと、僕は愚考するのですよ。

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2016年6月26日
上の文章は一度書いたものを短く圧縮したものなのですが、
その原型の方をここに置いておきます。
肥後七左衛門さんについては、なにしろ歴史的な資料が少なく、
書いている内容も想像による部分がどうしても多くなります。
ご本家様の方でも、大戦時の疎開で失われた史料が多い、とのことでしたので、
この人物にスポットライトを当てようとすると、どうしても「創作」の部分が多くなります。
それで、元の文章から「創作」の部分を排除したのが、上の文章なのですが、
「これは勝手な妄想の部分もある」と断った上で、
元の文章を読んでいただければと考えました。

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 1

蒸気機関について語ってみようと思ったけど、なかなか難しい。

今年(2016)の一月に、以前このブログで紹介させていただいた、
「肥後七左衛門」のご子孫の方からメールを頂戴した。

肥後七左衛門は幕末から明治にかけてかけて実在した薩摩藩士だ。
その名前は、幕末の重大事件にひょいひょい出てくるので、
「いったい、この人物は何者なのだろう」
と、長く疑問に思っていた。
それで、歴史に残っている事績をつなぎ合わせて、
「こんな人生だったんじゃないかな」
と推測をしてみた。それが3年くらい前。

肥後七左衛門は幕末の薩摩藩で蒸気船の研究開発を行った人物だ。

蒸気機関は、なにしろ歴史を大転換させる発明だった。
イギリスはこの発明があったから、一時地球の半分くらいを支配することが出来た。
「内燃機関」が作られたことによって、
自力走行する船やら汽車やら、前時代をはるかに凌駕するマシンを開発できたからだ。
大量輸送を迅速に行うことが可能なら、物資や兵隊を効率よく動かすことが出来る。
21世紀になってネット社会が地球をコンパクトにしたように、
西洋人は地球全体を自分の版図とみなすことが可能になった。

おいしいお茶が飲みたければインドまで出かけて現地から収奪すればいいいし、
ステーキに胡椒をかけたければ、東南アジアまで取りにくればいい。
そうやって世界中の富がヨーロッパ周辺国に集中するものだから、
この地域が強力な軍事力を一方的に持つようになってしまった。

蒸気機関を持たないアジアの国々にとっては、これはとんでもない脅威だった。

なにしろ、蒸気式の軍艦が世界中を我が物顔で走り始めたとき、
日本の海を走り回っていたのは一本マストの運搬船くらいだったのだ。
もし、日本が資源豊かな黄金の国だったら、とっくに征服されていただろう。
ああ貧乏ってすばらしい。

ペリーが江戸幕府に開国を迫ったのも、クジラを取る船の中継基地が欲しかったからだ。
香辛料があるわけではないし、黄金も産出しない。
銀の質にはなかなか見るべきものがあったが、地球規模で考えれば微々たるものだ。

だから、西洋人は日本よりは中国の方を巨大なフロンティアとみなした。
アヘン戦争が起こって領土が次々と西洋列強の支配地になった。

当時絶賛鎖国中だった日本にも、その情報は逐一入っていた。
「これはやばい」
英明な大名たちはみんな焦った。佐賀藩の鍋島公、薩摩の島津斉彬公、
このあたりが情報を分析して、
「世界で今何が起こっているのか」
をかなり正確に把握していた。

「つまり、蒸気機関の発明が地球の勢力地図を変えようとしているのだ」

そこでこの両藩をはじめとするいくつかの藩が、蒸気機関の研究を始めた。
科学的興味などという生易しいものではない。自国の領土を守るための大事業だ。

当初、この研究と実用化の試みは薩摩藩がリードしていた。
なにしろ藩主の島津斉彬公は若殿様の時代から江戸の蘭学者に声をかけ、
蒸気機関に関する洋書の翻訳などをさせていた。
自分が藩主の座に就くや、西洋科学を研究するプロジェクト「集成館」まで設立している。

このプロジェクトに早くから参加していたのが、肥後七左衛門である。

集成館では西洋式の帆船が何艘か制作され、薩摩から江戸まで運用試験がされている。
このとき、薩摩の洋式船のマストには日の丸の旗がひらめいていたのだが、
この古来からあるデザインの調整をしたのが、肥後七左衛門だと言われている。
島津斉彬公の命令で、絵心のある七左衛門が赤い丸の大きさを研究したのだ。
(ネット情報だから正確かどうかはわからないけど)

船の外観が出来れば、いよいよ蒸気機関の取り付けである。

蒸気機関が誰の手によって薩摩藩で開発されたのかは不勉強なのでよくわからない。
ただ、その開発メンバーに宇宿彦右衛門、松木弘安、肥後七左衛門がいたのは、
まあ、間違いないんじゃないかと思う。
江戸の薩摩藩邸で諸藩の偉い人を呼んで公開実験をしている。

この公開実験の後、実際に薩摩の洋式船に取り付けて、
品川沖を航行させた記録が残っている。
ひどくのんびりした速度だったようだが、一応これが国産初の蒸気機関であろう。

このときの船は「雲光丸」と名付けられて、薩摩の港で使われていたようだが、
それをたまたま見たオランダ人が、
「図面だけであれだけのものを作るとは、すごい奴らがいたもんだ」
と感心したそうな。

ここまでの開発は、洋書を読み解いての手探り状態なのである。

日本人が実際に現物の蒸気機関を目にしたのは、この直後のことだ。
オランダから幕府に蒸気船が寄贈されて、ようやく日本人は蒸気機関を目にすることが出来た。

「是非、私どもにも見せてください」

薩摩藩主島津斉彬公の申し出に、江戸幕府は快く応じてくれた。
この頃は「公武合体」が推進されていて、薩摩と幕府はとても仲が良かったのだ。

オランダから寄贈された蒸気船は格好の教材となり、
幕府は「長崎伝習所」を開設することになる。
歴史好きの方はよくご存じだろうけど、勝海舟がいた、あれである。
海軍士官を養成する訓練生として、薩摩からはあの五代友厚などが参加しています。

おそらくこのとき、エンジニアとして蒸気機関を見分した侍の中に、
肥後七左衛門がいたのではないかと、肥後家の方では伝わっているようです。
長崎で机を並べて勉強した人物の名前が、伝習所一期生の中にあるからです。

自力で国内初の蒸気船を走らせた開発メンバーの一人である肥後七左衛門ですが、
現物を見たのはこのときが初めてのはずです。
さぞ熱心にメモを取ったことだろうと思われます。
他藩の侍の中には、妖怪の内臓を見て吐き出す者もいたそうですが、
肥後七左衛門はそんなことはしなかったでしょう。
その構造を必死で目に焼き付けていたはずです。

「薩摩でもこれと同じものを開発するのだ」

それが肥後七左衛門のこの時点での目標なのです。


 2

ところが話はそう上手くは進まなかった。
薩摩藩主の島津斉彬公が、突然亡くなってしまうという驚天動地の事態が起こったのだ。
この英邁な藩主の死は、西洋科学の研究プロジェクト「集成館」には大打撃となった。
次の藩主の久光公は兄の「道楽」をあまり快くは思っていなかったのです。
「西洋船なんて、買った方が安上がりじゃないか」
とばかりに、集成館の規模を縮小してしまいます。
なんか、最近の日本の産業に起こっていることとよく似ています。
別に自分が開発しなくても、他所から持って来ればいいのです。

いや、それはその通りなんだけどね。
目の前の事態を収束させるのが先決なのはわかるんだけど、
斉彬公はもっと先の未来を考えていたと思うんですよ。
自分たちで作って、その技術を血肉として次の代では西洋列強と肩を並べる。
ここまでが集成館プロジェクトの意味だったと、僕は愚考するんですけどね。

で、肥後七左衛門は蒸気機関の開発というプロジェクトからは離れてしまう。
技術者の悲しさです。上が「経費削減のために部署を縮小する」といえば、
それに従うしかない。
いくら研究への情熱があったとしても、薩摩藩士の身分じゃ何もできないのです。

以後、肥後七左衛門の拠点は江戸の薩摩藩邸に移ります。
僕の想像なのですが、薩摩藩が外国から買った蒸気船にはメンテナンスが必要です。
蒸気機関に精通した者が、薩摩と江戸の両方にいなくてはいけない。
肥後七左衛門は江戸の薩摩藩邸に役宅をいただいていたそうなので、
その役割は江戸側の蒸気機関整備だったんじゃないのかな。

薩摩藩邸のすぐそばには品川の海があります。
薩摩から蒸気船がやってくれば、馬で港まで出向いて蒸気船に乗り込み、
配下の者と蒸気機関の整備と保守点検を行う。
これも立派な仕事なのですが、肥後七左衛門としては面白くなかったかもしれない。

その頃、佐賀藩や幕府では独自に国産の蒸気機関の研究開発が行われています。
そういう風聞が耳に入るたび、地団駄を踏んだのではないかと思う。
結局、実用蒸気船の開発は、佐賀藩が成し遂げることになります。
ここでのノウハウの蓄積が技術者の育成につながり、
東芝が生まれて、今僕はダイナブックのノートパソコンでこの文章を書いている。
目の前の「TOSHIBA」のロゴを見ていると、誇らしいような、切ないような、
複雑な気分になります。

んで、ここまでのお話が、肥後家の方から教えていただいた伝承から、
僕が類推した肥後七左衛門の前半生です。
江戸に本拠地を移してからのことは、前のブログ記事「文明開化の男たち」にあります。
右のトピックのところから閲覧できます。

江戸で幕府の「蕃書調所」に出入りしていた肥後七左衛門は、
日本で最初の「化学教室」のメンバーに名前を連ね、
蘭学者の川本幸民や、福沢諭吉なんかとも交流があったみたいです。

薩摩が「生麦事件」を起こして「薩英戦争」が勃発したときは、
手にかけていた薩摩の蒸気船をすべて拿捕されるという事件にも遭遇します。

そのため、薩摩藩は幕府から洋式蒸気船を借りて海運に使っていたのだけど、
この蒸気船が「外国船打ち払い令」によって長州藩に沈められるという事件もありました。

この「長崎丸」の事件についてはちょっと書いておかなくちゃいけない。
長州は洋式船を見ればとにかく手当たり次第に弾を打ち込むものだから、
幕府の船だろうと、ガンガンやっちゃうわけです。
薩摩藩の借りていた「長崎丸」も、こりゃヤバイってんで蒸気機関をフル回転させた。
そしたら突然火を噴きだして炎上、沈没してしまったわけです。
この船には蒸気機関を操るための薩摩のエキスパートたちが乗船しており、
それを一気に失うことになってしまった。
集成館の実質的リーダーで肥後七左衛門と一緒に蒸気機関の開発をした、
あの宇宿彦右衛門もこのときに亡くなっている。

薩摩は怒り心頭で、幕府の徳川慶喜公に「長州を厳罰に処すべし」と抗議をする。
ところが、この最後の将軍になる優柔不断(に見える)な人物は、
問題が朝廷の「外国船打ち払い令」からきていることなので、なかなか重い腰をあげない。
このとき、薩摩の久光公は幕府を見限ったのではないかと思われます。

この事件が薩摩と幕府の関係を悪化させ、
逆説的に長州との関係を近づけたのは、皮肉というかなんというか、
歴史って不思議なものだなと思います。
薩長同盟が結ばれたとき、長州は薩摩藩に「長崎丸」を沈めたことを、
藩主自ら書状の形で謝罪したようです。

「長崎丸」の事件は薩長同盟への布石という点で重要なのですが、
一方で、薩摩の蒸気船開発を決定的に終わらせてしまったという一面もあります。
肥後七左衛門にとっては「終わった」って感じだったんじゃないかな。

薩摩と幕府の関係がどんどんきな臭くなっていくに従い、
肥後七左衛門が「蕃書調所」に出入りする機会も減っていったことでしょう。
この次に彼の名前が歴史に出てくるのは、
幕末のどんずまり、慶応三年の「薩摩藩邸焼き討ち事件」になります。

詳しくは以前に書いているので、ここでは繰り返しませんが、
訂正しなきゃいけないところが一か所あります。
僕は馬鹿なので、「七左衛門は伝馬町につながれて拷問された」
なんてことを書いていますが、士分の者が伝馬町はありえない。
他藩の屋敷にお預けになったことが、肥後家の方に伝わっているそうです。

その後、勝海舟のお預かりとなった肥後七左衛門は、
益満休之助らとともに、東上してくる朝廷軍との折衝に当たります。
このへん、歴史的に謎が多い部分なので、
新資料が出てきたら肥後七左衛門の評価もかなり変わるかもしれません。

とにかく、肥後七左衛門の活躍がかなり大きかったのは、
江戸が東京になった後、島津家から薩摩藩邸の敷地を下賜されていることから、
いろいろ想像出来るはずです。

明治になってからの肥後七左衛門ですが、
明治政府の官吏として芝の開拓使出張所に勤めていたそうです。
屋敷の土地の一部が蒸気機関車の路線になったそうで、
「蒸気機関について何かアドバイスをしたんじゃないかな」と、
肥後家の方はおっしゃっておりました。


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コメント

かわすみ先生こんにちは!

実は、アマゾンのレビューで「はまりんこ」の書評(のようなモノ・笑)を

勢い余って3つも書いてしまったのですが、

的外れなモノになっているのではないかと、ちょっと不安になってきました。

もしよろしかったらあの解釈でいいものか、何かご指摘頂けないでしょうか?

お忙しいところ恐縮ですが、宜しかったらお願い致します。

それでは御身体にお気を付けて頑張ってください!

無茶なお願いをして済みませんでした。

それでは失礼致します。

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