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2016年9月

2016年9月25日 (日)

画竜点睛

●画竜点睛

画家が竜の絵を描きまして、最後に渾身の気合を込めて黒目を書き込む。
するとあら不思議、竜の絵に魂が入って生き生きとし始めましたよ、の意味。

転じて、あらゆる仕事の仕上げに肝となるワンポイントを付け加えること。
ショートケーキにイチゴを乗っけたり、
日航機の垂直尾翼に鶴のマークを貼り付けたり、
和室の大掃除をして、最後に床の間に生け花を置いてみたり、
……
逆に
「画竜点睛を欠く」
となると、仕事自体はそつなく出来上がっているのに、何かが足りない、
あとちょっとなんだけど、なんか惜しい、みたいな意味でも使われます。
イチゴの乗ってないプレーンなショートケーキとか、
JALマークのない日航機、
綺麗なんだけど殺風景な和室
……

ネット上で「ガラスの仮面」のキャラクターが白目を剥いているのが広まって、
ついに本家までそれを宣伝に使うようになっていますが、
美内先生は何ゆえにあんな表現を思いつかれたのか、ときどきぼんやり考えたりします。
あまりのショックに魂が吹き飛んでしまった表現としては、なかなかに秀逸。
画竜点睛を欠いているわけですから、まさに魂の吹き飛んだ状態の絵なわけです。

005
ネット上から勝手に拝借してきました。驚愕の北島マヤ。

ひょっとして美内先生はペン入れで最後に黒目を入れるタイプの漫画家で、
ペン入れ中に
「ここで黒目を入れなかったらショッキングな絵になるわ!」
と思いつかれたのかもしれない。

絵を描かない方にはピンと来ない話かもしれませんが、
割とリアルな絵を描こうとすると、黒目は最後に入れた方が「生きてる感じ」がします。
僕は黒目は最初に入れてしまう派なんですけど、
理屈的に前者の方が圧倒的に正しいな、というのは何となく感じているのです。
まさに「画竜点睛」、魂は最後に渾身の気合を入れて書き込むのです。

でも、本当にそうなんでしょうか。

自分は、目から作画を開始するタイプの絵描き屋さんなので、
最初にいい感じの目を描いて、そこから鼻、口、輪郭、髪の毛、体と作画を進めます。
この描き方だと目が印象的になる、ってことを経験的に知っているからです。

……今現在はもっと複雑な描き方になっているけど、
割と最近まで、目から描き始める描き方を忠実に守っています。というか、
それ以外のやり方をすると、絵が崩壊してしまう。
体を最初に描いて「画竜点睛!」とかやると、視線のあやしいおかしな人物になる。

美内先生風のびっくり顔を描いて、最後に黒目を入れる、というのもやってみました。
これも、僕だとなんか上手くいかない。
「画竜点睛」って、あれは出鱈目なんじゃないかい、ただ「画竜点睛」言いたいだけちゃうん?と、
四字熟語に似非関西弁で文句を垂れ始める始末です。

僕なりの結論から言うと、「画竜点睛」は正しい作画指南の言葉です。
いろいろ試してみた結果、条件付きでこの作画方法が成立することがわかりました。
すなわち、

「丸が綺麗に描けること」

筆記具でパッと○を描いて、それがコンパスで引いたみたいに綺麗な真円なら、
そこにポンと筆を落とすと、中心に筆は落ちます。ある程度作画経験のある人なら
そうなる。
たぶん、そうなるんじゃないかなぁ。
いびつな○だと中心が明後日の方向にすっ飛んでしまっているので、
極端な話、中心が円の外に飛び出すことだってあります。
「画竜点睛」は、目を描きいれるまでの、竜の体の作画が「綺麗な真円」だから、
最後の竜の目が生きるのだと、僕は考えます。
いくらきれいな和室でも、掃除の仕方が独特過ぎると床の間の花が生きない。
「綺麗に整頓はされているけど、こんな本ばかり積み上げられた部屋じゃ花は似合わない」
となるわけです。
大師匠のお描きになった竜の絵は、その体を描いた線が、忠実に円を描いている、
だから、最後に黒目を描きいれることで、そのすべての線がその一点に向かって収束する。
「まるで魂が込められたように」絵が生きてくるわけです。

「竜の体が忠実な円て、どういう意味だよ」
と突っ込まれそうですが、これをどう表現したらいいものか、
ぶっちゃけ、「デッサンがきちんと出来ている」ということなのですが、
自分はその方面ではダメダメな人なので、上手く表現することが出来ない。

最近の自分は、どんな線であれ、それが立体物の輪郭をどうなぞっているのか、
かなり意識して描いています。背広をペン入れするときは、
その襟が立体物であることを意識して、その外側をなぞる感じでペン入れしています。
紙はできるだけ回転はさせない。
時計に例えると、六時から九時、一二時の線は普通に引けるのですが、
お昼を回って三時四時になってくると、中心が内側に入って来るので、
体の向きを少し横にずらします。
五時、六時のあたりの線は、少しだけ紙を回転させ、
なるべく円の中心から外側の線を引く、というルールを守って、線を引きます。
だから背広の左の裾、紙面上の右下のラインを引くときは、少し体をひねっている。

P1100743
葛飾北斎師匠の「略画早指南」より。
これは毛筆で曲線を描くときの筆の握り方についての解説。
「右へ引く線かくのごとし、左へ引く線かくこのごとし」
右ページの左下に「すべて筆と書き手との間……」とあって、面白そうなんだけど、
僕の読解力じゃこれ以上は読めない。

自分のペン入れが駄目だったのは、
この最後の五時六時のラインを時計の外側から引いていたからだと思います。
ここでペン入れが崩壊して絵が無秩序になっている。

……ようは、ペン入れの上手い下手は、物体を正確に認識してペン入れしているかどうか、
だと思うのです。
出来る人はペンを握って次の瞬間には完全なペン入れが出来ている。
出来ない人は、たぶん文字を書くような感じでペン入れしているから、
線それ自体が記号になって、なんだかうるさい感じの絵になる。
線は、あくまで物体を浮き上がらせるための手段です。
上手な人の線がしびれるくらい流麗なのは、その線が
「物体を浮き上がらせる」という目的に徹しているからです。
物体の外側をなぞっているのだから、定規を使ったようにブレのないきれいな曲線が引けるのであって、
それ以上でもそれ以下でもない。
いくら線の流麗さを真似しようとしても、それが目的になってしまうと、
ただの曲線しか引けない結果になる。
大切なのは、物体をはっきりとイメージして、それを円で包み込む感じでペン入れすること、
なんじゃないかなと僕は考えるのですよ。

……なんで絵の描き方でこんなに熱くなっているんだか。

で、自分は目から絵を描くタイプの人なんだけど、
これの欠点は、目がちゃんと描けていないと、そのあとの体の線までいびつになっていく、
ということが一番大きい。
逆に言うと、目がしっかり立体を意識した完璧なものであれば、
そのあとの部品も目のいびつさに引きずられることなく、きちんと正確に描けるということです。

自分は何十年も絵を描き続けてきて、最近になってようやく糸口がつかめてきたという、
遅すぎる人、なのですが、
若い人でこれから上手い絵を描きたいという途方もない願望を抱いている人に、
少しでもヒントになればと、思っていることを書き綴ってみました。
「画竜点睛」は最後の一点で絵に魂を込めるという意味ではなく、
そこに至るまでの過程があって初めて成立する話だ、ということです。

絵の話は書いてる方はノリノリで語ってしまうので、もうしばらく続くかもしれません。

P1100740
北斎の「風流おどけ百句」より「孕んだ男」
「孕んだ男とかけて、落ちた青梅ととく、心は、うむことがない」(ならぬ?)
だと思う。こういうのがもっとスラスラ読めたら楽しいんだろうな。
北斎の線はこの道の達人だけあって正確でするどい。この線を見てるだけでご飯三杯いけます。

追記)
記事をアップしてから、上の絵の意味がなんだか気になっていろいろ調べてみた。
目の前に置かれた米とかつお節らしきものはいったい何なのか。
これに梅干を加えると、何かが「熟む」のだろうか。
米が日本酒なら、江戸時代の「煎り酒」という調味料を作りたかったのに、
孕み男を連れてきてどうするんだい、みたいな意味なんだろうけど、何か、江戸の特殊な風俗なんだろうか。
(どうでもいいけど、梅とかつお節を日本酒で煮込んだ調味料ってなんかおいしそうだ)
坊主が頭を掻いているのは、女人禁制のお寺で寺内の小僧に手を出して孕ませた、の意味。
案外、米を炊くのに鰹節と梅干を入れて炊くとおいしいかやくご飯ができる、くらいの意味なんだろうな。
それなのにこの糞坊主が孕み男なんて連れてきやがった、産めねえよ、
落ちた青梅でおいしいかやくご飯が作れないみたいに、孕んだ男じゃ子供は産めねぇんだよ、
って意味なのかな。

上の絵で一番面白いのはポッコリ膨らんだ小僧のおなかの表現。
北斎のラインが生み出すお腹のポッコリ感は、妖艶にして生々しい。
肉のダボついた感じがよく出てる。
あと、着物の上からでもわかるオバちゃんの骨ばった体つき。
こういうものが表現できてしまうのだから、筆の絵ってすごいなとホトホト見惚れてしまうのです。

2016年9月18日 (日)

ヒデキ、カンゲキ!

久しぶりに西城秀樹さんの歌を聴いて、伸びのあるビブラートが滅茶苦茶気持ちいいなと、
またも低周波治療器を喜ぶおじいさんみたいな感想を抱いてしまった。

ローラああああああああああ、とか
ブーメランストリートおおおおおおおおおおとか、

演歌でいう「こぶし」みたいな感じなのかな、
特にブーメランストリートのおおおおおおおおおお~が現在大変お気に入り。
あの曲は作詞家が狙って「おおおおおおおおおお」が歌詞の区切りにくるように
歌詞を作ってるんだと思う。
西城秀樹さんの歌声の特徴はいろいろあるけど、
この伸ばす歌声のバイブレーションはハマるとちょっと癖になる。
1970年代の女の子たちにはたまらなかっただろうな。

だいたい、「ブーメラン通り」って何だよって話だし。
案外、おおおおおおおおおお~が使いたかったから、「ストリート」って言葉を、
やや強引に使ったのかもしれない。
あくまで門外漢の当て推量なのだけど。

自分でもカラオケで出来るんじゃないかと喉の奥を震わせてみたけど、
あんなコロコロ音を転がす感じにはならない。

「きっとおおおおおおお、あなたは戻って来るだろおおおおおお~」

……この手の振動する歌声って、昭和ならではのものなのなんだろうな。
バブル期以降はカラオケで素人が歌えることが第一条件みたいになってるし、
歌声メインの絶唱系の曲はカラオケで歌うにはちょっと恥ずかしすぎる。
やや臭い歌詞も、歌声を計算して作られた緻密な芸術と考えれば、
かなり手間のかかった工芸品みたいなものだ。
久しぶりにヒデキの歌声を聴いて、昭和はいい時代だったなとしみじみ思った。

自分にとって西城秀樹というと、小学校の催しだか何だかで、
YMCAの手信号を繰り返しやらされたという思い出が蘇ってくる。
「ヤング・メンズ・クリスチャン・アソシエーション」
……何が悲しゅうてアメリカの基督教団体の曲なんて踊らにゃならんのだって話なんだけど、
ヒデキのは
「ヤング・マン・キャン・ドゥ・エニシング」
ということになっているらしい。
ちなみに「YMCA」がゲイの巣窟で、その手の意味のスラングだってのは、
割と有名な話。
まあ、ヒデキ最大のヒット曲だし、聴けばあの時代の楽しい空気が蘇ってくる。
とても西城秀樹らしい元気な曲だと思う。
「ヤングマン!」

どこかのお寺の境内にオリエンテーリングか何かで出向いて、
そこでラジカセから流れる「ヤングマン」に合わせてみんなで踊ったのを覚えている。
小学生ながら「なんかこっ恥ずかしいなぁ」と思っていた。
まあ、そのあとオクラホマ・ミキサーを踊ることになって、
お手本として小学生環視のもと、若い女の先生と独身男性教師が踊らされたのは、
なかなかに羞恥プレイだったと思う。(たぶんオバサン先生の差し金)

タッ、タッ、タララララ
タッ、タッ、タララララ
タッ、タッ、タララララ
タラララ唇を重ねよう!(歌は坂本九で)

この二人は卒業のどさくさに婚約を発表したのだった。
澤先生元気かな?

最近は西城秀樹さんの闘病生活がクローズアップされることが多いけれど、
頑張って再び元気な歌声を響かせてもらいたいと、心からお祈り申し上げております。

日本の元気の象徴みたいなイメージが僕にはあるので。

2016年9月10日 (土)

秋が唐突に始まっている


秋ですね。
窓の外で虫が鳴いているのに気づいて「おやまあ」と驚いたりもします。
日中に散歩をしていて、蝉がやたら転がっているのにももの悲しさを感じます。
ああ、茶わん蒸しが食いたい。

父が亡くなる前に「茶わん蒸しが食べたい」と母に言っていたそうで、
それを食べさせる間もなく急死してしまったため、
実家の母は命日になると毎度茶わん蒸しを父の霊前に供えている。

別に父の好物というわけではなかったんだけど、
どうもそうしないと気が収まらないらしい。
おかげで父の命日が近づくと茶わん蒸しが無性に食べたくなる体質になった。

弟の嫁さんにそのことを説明したところ、
「それはとても大切なことだよ」
と説教された。
「でも、たまたま茶わん蒸しが食べたいと口にしただけだと思うよ」
「大切なことなんです」
「……」
どうやら女にだけ通じる何かがあるらしい。
父は毎年供えられる茶わん蒸しをどう思っているのか、
どうせなら好物の刺身とかの方が喜ぶんじゃないのかな。

まあ、それでも今年の命日は刺身で一杯やりつつ、茶わん蒸しも食べるのだろうけど。

今年は本当にいろんな人がお亡くなりになっていて、
亡くなった方の偉業を考えるにつけ、わが身がなんとも頼りなく思えてくる。
まあ、亡くなった方も「やり切った」なんて思ってはいないのだろうけど、
まわりの人間は「立派にやり切った」と考えているのだから、
なんとか納得してもらいたい。

自分は果てしなく上昇志向の人間なので、
昨日よりは今日の方が成長していると意味もなく信じ込んでいる。
乗り越えるべき宿題はいつも山積みで、長く生きていると宿題は果てしなく累積していく。
たぶん死ぬときは宿題の山を前にして「こんちくしょうめ」と悔しがると思う。
あの葛飾北斎でさえ、死ぬ前には「あと数年生きられたら本当の絵が描けるのに」
と嘆いたらしいのだ。90過ぎの爺さんだってのに。

だから、とりあえず目の前の宿題を一つ一つ片づけていく。
宿題が見えるというのは、なかなかに良い資質だと思うのですよ。
世の中には自分の宿題が何かわからない人だって、いっぱいいるのだから。

音楽評論家の吉田秀和の言葉で、
「壁というのは見えない人には一生見えないものだ」
みたいな言葉があって、自分はずっとその言葉を頭の隅に置いている。
これはフランスの作曲家サンサーンスをくさした言葉で、
あの人の音楽がどこか空々しいのは壁を突き破ることを器用に避けているからだ、
みたいな意味で使ったのだと思う。

えっと、僕は結構好きですよ、サンサーンス。吉田大明神の著作にある言葉です。

「動物の謝肉祭」とか「オルガン交響曲」で有名なこの作曲家を、
吉田秀和はけちょんけちょんにくさしていたりする。
別の本では「女子高生が壁に飾るお菓子の包装紙」みたいなひどい表現もしている。
いや、それは言い過ぎだろうと思うけど、
言いたいことはなんとなくわかる。
あと少し、音楽に真摯にぶつかって悩むなり自暴自棄になるなりしてくれた方が、
音楽は聴く人の耳をもっと引き付けたのではないかと、そう言いたいのだろう。

例えばピアノの詩人ショパンさんなんてのは、ピアノの前でずいぶん苦しんだらしい。
出来上がった作品を聴くと、すらすら作曲している姿しか浮かんでこないけど、
実際のところは顔色は青ざめ、何日もピアノの前で書いたり破ったりを繰り返していた、
とのことだ。

作曲をすすめるうちに、問題点はいやでも目の前に現れてくるし、
それを突き破る自分の力量についても、どんどん自信が持てなくなってくる。
ああ、なんで俺は作曲なんてやってんだろうと、自分の仕事を呪ったりもしただろう。

でも、そうやって壁に正面からぶつかることで生まれてくる作品というのは、
人の心に訴える力を持つだろうし、何より誠実さが匂い立って曲に品格を与えるものだ。

ショパンさんみたいに、壁が目の前に見えることは大切なことだし、
壁が目の前にあるってのは、実は幸福なことなんだぜ、
サンサーンスを見てみろよ、あいつは壁紙みたいな音楽しか作れなかったんだからと、
吉田大明神は言っている……と僕の中ではそう解釈している。

くどいようだけど、僕はサンサーンスの音楽は結構好きで、ときどき聴いたりしてます。
ピアノ協奏曲5番「エジプト風」とか、すごくきれいな音楽だったりします。
吉田秀和の言っている問題点を、ものすごく感じさせる曲だとは思うけど。

あと、吉田秀和さんはNHKのFMでサンサーンスの特集をしたこともあった。
新聞のラジオ欄で見つけて「おやまあ」と思ったのだ。放送はもう終わった後だったけど。
いったいどんなコメントをしたものか、すごく気になる。
このラジオ番組の音楽を抜いてコメント部分だけを集めたCDが発売されたときは、
かなり食指が動いた。
高価すぎて手が出なかったけど。

てか、世の中にはずいぶんマニアックな人がいるもんだな。

今年は自分のまわりでも大切な人がお亡くなりになったりしていて、
その人がたぶん、納得してないんだろうなとも考えるのだけど、
それはその人が全力で生きていた証拠みたいなもので、
立派な人生だったと、周囲の人間や僕なんかは考えているのですよ。

ただ、その誠実さにもっと早く気づいていればと、
ここ数か月間ずっと後悔してるんですけどね。

個人的な話題ですいません。

2016年9月 4日 (日)

そば焼酎を生のまま飲んでる自分


先日、従兄の息子さんの結婚式が都内で行われて、山陰から一族が大挙してやってきた。
(出雲のそば焼酎をお土産でいただいてとても美味しかったです)
久しぶりに正装してエッチラオッチラ出向いたのですが、
なんかすごいゴージャスな披露宴で、おじちゃんは太陽にさらされた土竜の気分だったよ。

ちなみに、このホテルで自分は講談社コミックオープンの賞をいただいている。

ちば賞コミックオープンと、ヤンマガの新人賞をいっぺんにやっていただいたんだけど、
「金のちばてつや胸像」がトロフィとして贈呈されたのはこの時が最初で、
自分は第一回の面子の一人、だったりする。
なんかいろんな地方から受賞者の方がいらしていて、大阪とか北海道の方もいたな。
「みんなで頑張ろう!」みたいな話もしたように思うけど、
誰も残ってねぇ。
当時の担当編集者さんの「今回は天才はいないねぇ」の言葉が苦々しく思い出されます。

いや、それはともかく結婚式である。

チャペルに入場するとき、入り口で若い女の子ががに股でチェロを演奏していた。
ジャクリーヌ・デュプレがミニスカートでチェロを演奏して以来、
この手のがに股女性チェリストはなぜかカッコよく見えてしまう。
ピンクのドレスの女の子ががに股でチェロを演奏するって、良くないですか、
僕だけですか、まあ趣味は人それぞれなので。

演奏していたのはJ.Sバッハの無伴奏チェロ組曲第一番のプレリュード。

聴けば「ああ、あれか」となるくらいの有名曲です。
演奏するのは割と簡単な曲らしい。それでいてなんか荘厳な空気も醸し出されるので、
結婚式の前に演奏するにはうってつけの曲なのだろう。

おかげでその日以来、バッハのプレリュードが頭の中で鳴り続いているので、
この頃はそのCDばかり聴いていたりする。
無伴奏だからチェリストが一人で延々曲を演奏し続ける。
僕が持っているのはマイナルディの3番と4番のCDで、アマゾンで確認したら
中古価格が9000円台にまで高騰していた。
クラシックのCDは売れないから、マニア向けのアイテムだとどんどん高値がつく。
マイナルディさんの演奏は時間をかけてじっくり弾き込むタイプのものなので、
一般受けはしないが、好きな人には「一生持っていたいCD」になるらしい。

チェロの低音がえらく気持ちいい。肩こりや腰痛には効果抜群なんじゃないか。
この頃思うのだけど、演奏家は按摩師の心で演奏してくれるとありがたい。
感動させようとか、強烈なインパクトを残そうとか、変な欲をかいてはいけない。
ひたすらお客の体をもみほぐす心で、エッチラオッチラ弦をこすってもらいたい。

……なんか若者の結婚式の空気に当てられて、ちょっとおじいちゃんモードになってるな。

学生時代の先輩に先生をしている方がいらっしゃるのだけど、
その方に「若いもんに交わるとちょっと元気になりますね」とメールしたところ、
「俺はいつも若いもんと一緒だから若いんだぞ!」
とお言葉を頂戴してしまった。
そりゃそうだ。いつだかの年賀状で剣道の防具で完全武装した先輩が
剣道部に取り囲まれているスナップがあった。若いエナジーを吸収しまくりだろう。

孫がお風呂に入った後に湯船につかるおじいちゃんおばあちゃんのようなもので、
老人はそうやって吸血鬼のように若者のエキスを取り込むのである。
ずいぶん前にテレビで浮世絵の摺師のおじいちゃんだったかな、孫に頬ずりして、
……というか顔面をこすりつけて、
「力をいっぱいもらうんじゃ」
とやっていたけど、あれは本当にエナジーを取り込んでいるのだとこの頃は思う。

若者よ、年寄りがいくらうざくてもエネルギーくらいは分けてやってくれ、
孫悟空が「オラに元気をわけてくれ」と言ってるようなもんなんだから。

で、結婚披露宴。
この頃はキャンドルサービスの代わりにビールのサーバーサービスなんてのを
やっているのだと初めて知った。
新郎がゴーストバスターズみたいに巨大なサーバーを背負って現れ、
新婦と一緒にテーブルを回ってビールをついでまわっている。
なかなかお洒落なことをやるんだなと思って見ていると、
若い新郎の友人たちがサーバージョッキのビールを一気飲みし始めた。

えらい盛り上がってたけど、会場の司会者にやんわりと注意されていた。

ああ、三十前後だとまだあれだけの元気はあるんだなと、
ちょっとうらやましくなった。
どうでもいいけどこの間テレビをつけたらゴーストバスターズをやってて、
思わず観てしまった。1984年の映画だからあの子らみんな生まれてないじゃん。
ついこの間、マシュマロマンで盛り上がっていたような気がするけど、
もう古典映画なんだな。新作も作られたし。

コンピューターグラフィックの発展が映画をスぺクタルとして大発展させた。
昔は「トロン」という映画が「全編CG使用」みたいなのを売りにしてたけど、
新しい技術というのは目新しいけどすぐに古くなる。
「トロン」なんて今の若い子が見たら笑っちゃう技術なんだろうな。
まあ、僕もたぶん笑うけど。
マイケル・ジャクソンが「ホワイト・オア・ブラック」のPVだったかな。
老若男女の顔が次々と変形していくという当時の最新のCGを使ったことがあって、
あの当時はビデオを繰り返し巻き戻して、
「すげえ、こんなことまで出来てしまうんだ」
と、体が震えるような感動をしたことがあったけど、
2016年現在の本物と見分けがつかないレベルにまで進化したCGを見てしまうと、
なんであれで感動できたのか、わりと普通に悩む。
技術革新はものすごい衝撃で僕たちを揺さぶるけれど、
あの当時の感動は時間がたつともう追体験することが出来ない。
今またあれくらいの感動をしようと思ったら、目の前の女の子がニッコリ笑っていて、
「でも私、CGなんですよ」
と空を飛び始めるくらいしないと、追いつかないんじゃないかな。

漫画の世界では八十年代にはもうあった設定なんだけどさ。バーチャルアイドルって。
メガゾーン23だっけ?
近所のビデオ屋で店じまいセールやったとき、アシの子が掘り出してきて、
「めずらしいもんが手に入りましたぜ、旦那」
とウシシ笑いかましてたっけ。

そのビデオデッキも生産が中止されて中古市場でしかもう手に入らない。

いかんな、老人めいた発言をするのが悪趣味的に楽しくなってきた。
とどのつまり、自分は文化的に刺激的だった時代を経験していることを自慢したいのだ。
おじいちゃんが「長嶋と大鵬はすごかった、そして卵焼きも昔の方がおいしかった」と、
懐古趣味丸出しで昔語りしているようなもんだ。

今の子だって「イチロー、白鳳、ふんわりプリン」の方がすごいと言い返しそうなもんだ。
この間のオリンピックだって、朝方のテレビに思いっきり食いついてたもんね。
錦織のテニスとか、トイレ長いよって結構やきもきしていた。

若い子の単純な実力だと、昔の若者よりもはるかに上を行っていると思う。
音楽業界だって、世界に通用するアーティストはいっぱいいる。
ただ、それらの才能を生かせる土壌が、どんどん削られていってるんだろうな、とも思う。
で、おじさんとしてはサーバージョッキのビールをイッキ飲みしている若者を見て、
「頑張れ」
と呟いてしまっていたりするのだな。
その子ら日本をマジで背負って立つ優良企業の人材だったりするし。

親族の女性陣にテーブルの花を持って帰りなさいと手渡されてしまったので、
しばらく百合の花が部屋に飾られていた。
披露宴会場にいたときは気付かなかったけど、華やかな香りが二日くらい続いていた。
その間、外を出歩くときもえらくはや足になって元気いっぱいに歩き回っていた。
なるほど、これが処女の血を吸った後の吸血鬼の気分なのだなと、少しうれしくなった。

この頃思ってることを片っ端から突っ込んだのでわけのわからない文章になってるけど、
まあ、書いてる本人は割と楽しんで書いているので、これでいいかなと。

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