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2017年5月23日 (火)

ひねもす本を読んでいる。

携帯の保存フォルダーを漁ってみたらガチャピンが出てきた。
とりあえずさらしてみる。

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本を買って何年も放置、なんてのはよくあることです。
いわゆる「積読」ってやつ。
「老後の楽しみに」と保管してある某全集とかもありますし、
最初の数ページを読んでそのまま放置、なんてこともあります。

若いころはそのことで罪悪感を覚えて、無理やり読んだりもしたのですが、
この頃は「本にはそれを読むべき時が自然とやってくるのだな」と、
積みっぱなしの本が語り掛けてくるのを待つ、みたいな感じになってます。
ああ、今の自分がこんな状況だから、この時のためにこの本があったのだなと。

どんどん怪しい神秘主義を発症し始めているぅぅぅう。

今、精神的には割とどん底の状態なので、近くに積んであった本を読みだしたら、
なんかものすごくのめりこんでしまって自分でも驚いています。
吉村昭さんの「海も暮れきる」なんですけどね。
今回はこの本について思ったことを少し書いてみます。

吉村昭先生は小説家です。ただ、どんな小説家なのかをカテゴライズしようとすると、
ちょっと困惑したりする。
一般に知名度のある作品をピックアップしていくと、
「ふぉん・しーほるとの娘」とか「桜田門外ノ変」などの時代小説家になります。
世に出るきっかけになった作品が「戦艦武蔵」だから戦記作家のようでもあり、
カンヌで賞を取った映画「うなぎ」の原作者となると、もう何が何だかよくわからない。

今回読んだ「海も暮れきる」は俳人の尾崎放哉を主人公にしたものなので、
ますますもってカテゴライズが難しくなる。
いっそ、カテゴライズなんて無粋なことはやめて、
「自分の共感した人物の人生を丹念な調査のもとに掘り下げる文筆家」
としておいたほうがおさまりがいいようです。

僕はこの方の作品はたくさん読んだ方だと思いますが、
「海も暮れきる」は、その中でも一番作者の共感する度合いが高い作品だと思います。
作者自身が尾崎放哉と同化しているともいえるくらいで、
それは吉村昭先生の作品の中ではかなり異例なことです。
ほかの作品だともう少し主人公との間に距離がある。

尾崎放哉は「咳をしてもひとり」の句で知られる明治大正期の俳人で、
42歳で瀬戸内海の小豆島でお亡くなりになっている。
酒癖が悪くてそのために身を持ち崩し、流浪の果ての最期である。

吉村先生はその小豆島での最後の数か月を丹念に描き出している。
正直、「なんで吉村先生が尾崎放哉を書いたんだろう」と疑問を感じたのだけど、
それは読み進めるうちにだんだんとわかってくる。
結核で病み衰えていく放哉は、吉村先生の若いころの闘病生活に似ているのだ。

吉村先生は戦後間もないころ結核に侵され、死の瀬戸際までいっている。
そのことが初期の小説作品の重要な主題となっており、「骨フェチ」という、
一般には理解不能で不気味な一面まで持っていたりする。
肺にまで広がった結核の病巣を自然治癒させるために、背中の肋骨を切断しているのだ。
当時では最先端の手術だったのだけど、成功確率はかなり低かったそうで、
死のギリギリ寸前まで行ってかろうじて生還できたというのは、全く誇張ではない。

尾崎放哉は同じ病気に侵されながら、生還できなかった。
だから、吉村昭の描く結核に侵される放哉の最期は描写としてもかなり生々しいし、
その病人の心情も、まるで本人が乗り移ったかのようにリアルである。
作家が題材に共感して主人公と同化しているというのは、このためであるし、
ここまで同化してしまっているのは、他の吉村作品にはない特色である。

死ぬとはいったいどういう現象なのか、それは吉村昭の初期作品の一貫したテーマで、
「少女架刑」などは死後に解剖される女の子の描写を少女の視点から描くという、
かなりグロテスクな試みまでしている。

人が死ぬということは桜の花びらが散るような簡単なことではない。
「海も暮れきる」の中の尾崎放哉は「病気に殺される」という死に方であり、
体は生きようとしているのに結核が放哉の首を絞めて捩じり殺すのが苦しいくらいに伝わってくる。
それは不条理に突然襲い掛かる死なのである。
けれどその死が放哉の文学的感性を研ぎ澄ませ、晩年の俳句が生まれてくる。
とても残酷な事実なのだけど、放哉は死ぬことによって「本物の歌」を残すことができた。
ならば、死には残酷なだけでは説明できない、何か特別な意義があるのだろうか。
吉村先生の筆は、その何かを描写しようとしているように僕は感じた。

吉村先生ご自身の最期は、奥様で作家の津村節子さんが公表していらっしゃるけれど、
僕はそのことを当時の新聞で読んで、ご遺族には不謹慎で申し訳ないのだけど、
「吉村昭らしい死に方だな」
と思ってしまった。生命維持装置のケーブルを自分で抜くというのは、
死をあえて受け入れるという覚悟のようでもあるし、
地震があったとき、家族をおいて一人だけ外に逃げ出した先生の臆病さのためとも思え、
どちらであったとしても、死という現象を正面から考え続けた作家であるから、
誰よりもそれが見えていたのだろうなと、思わされたりもするのです。
本当のところはまったくわからないのだけど。

好きとか嫌いとかは別にして、「海も暮れきる」はとても吉村昭らしい作品であり、
僕は読後もずっと尾崎放哉の最期の数か月間を頭の中で繰り返しているのです。

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