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2017年6月21日 (水)

鉛筆の話の続き

 1

地下鉄の工事現場に子供の絵が長い間飾られていた。
そこは有楽町線でも多くの軌道が重なるところで、工事は何年も続いている。
百メートルくらい、殺風景なフェンスが続く道路があったりする。
道なりに地下鉄の軌道があるのだから仕方がない。

あんまり殺風景だから、近所の小学校の子供の描いた絵がフェンスに飾られていた。

どなたのアイデアかは知らないけれど、これが案外悪くない。
何十メートルも子供の絵がひたすら並んでいる。散歩中の自分もつい見入ってしまう。
上手い下手でいえばヘタクソな絵なのだけど、
そのヘタクソさ加減が、なんとも心地よい。
クレヨンや水彩で描かれた家族や友達、未来予想図、心地よい部屋の風景、
そんなものを何十メートルも歩きながら眺めていると、
「これが絵なんだよな」
としみじみ考えたりもする。

絵は上手下手ではない、いくら綺麗に描いてある絵でも不快なものはある。
よく言われることだけど、小学生の天真爛漫な絵が中学にあがる頃から技巧に走りはじめ、
安っぽい漫画みたいな絵になったり、「俺、絵が上手でしょう?」的な空気を漂わせて、
大人をがっかりさせることがある。違う、そうじゃない、そういう絵を描いちゃいけない、
そういう自尊心を満足させるだけの絵は、ものすごく不愉快なんだよと、
叫び出しそうになる。

自分がそういう不愉快な絵をいっぱい描いていたから、なおさら目を背けたくなる。

子供はなにしろ無垢な生き物だから、上手に描こうとか認められたいとか、
あんまり複雑なことは考えない。だから、思春期以降の大人よりはよっぽどいい絵を描いている。、
絵を描く根源的な理由に近い感じはあるから、眺めていると癒される。

 2

鉛筆の話、その続き。

鉛筆で線を引いて、それが気持ちのいいラインか、そうでないか。
一本の線ならいい。
人間には誰にでも、自分の引きやすい線というのがある。
勢いよく、サーーーッと引けば、それはたいてい気持ちのいいラインだ。

では二本目の線はどうするか。
同じような線では絵として成立しないから、ちょっと無理をしていびつな線を引く。
この瞬間に、絵は成立しなくなる。だって、無理やり引いた線なのだから、
それが気持ちがいいはずがない。

子供はそんなことを考えない。
ひたすら気持ちのいい線だけを引く。だから、絵として成立する。

上手な絵を描こうとする人は、無理やり線を引きまくって気持ちの悪い絵を描く。
見た目はなるほど上手そうに見えるが、それはたいてい上手な人の絵の模倣であり、
線の集合体としてはむしろ死んでいることが多い。

だから、無理やり上手そうに描いた絵よりは、下手糞でも勢いのある線の絵の方が、
よっぽど気持ちが良かったりする。
複雑なデッサンを駆使した絵が、なんだか気持ち悪く感じてしまったりするのは、
たいていこんな理由である。もちろん、複雑な絵でも気持ちのいいものは気持ちいいんだけど。

だから、一本目の線を引いて、二本目をどう引くかというのが、
わりと重要な問題だったりする。

うん、まったく鉛筆の話になっていない。

書きやすい鉛筆というのは、芯が本体の中央を正確に貫いている
「そうでない鉛筆なんてあるの」
と聞かれそうだけど、ある。昔の鉛筆は芯が中央に来ていないものがときどきあった。
極端な話だけれど、昔中国の色鉛筆をお隣にいただいたら、
芯が思いっきりずれていて、鉛筆削りで削ったら「ときんときんの木の棒」になった。
芯はその先端のわきに、木星の大斑点のようにずれまくっていた。

書き心地のいい鉛筆というのは、いろんな要素があるけれど、
まず芯が中央になくてはいけない。
そうでなくては、握りを変えるたびに線がぶれてしまう。この、線がぶれるというのが、
なかなかに重要だったりする。

いい絵は線がぶれていない。
常に一定の法則の上に線が存在している。
それは、線が常に円を描いて始点と終点をつないでいるからで、
ようは綺麗な円を描いている。

これがきれいな絵の第一要素。

一本目も二本目も、同じ円の円周上に存在していること。
そして三本目四本目と円を重ねていって、
それらが常に同じ中心点を持つ円の上に構成されていれば、絵は綺麗に成立する。

二本目の線がいびつで不快になりがちなのは、この法則を完全に無視しているからなので、
絵として出来上がったとき、その線が示す円の中心点が、てんでばらばらだったりする。
人の目は対象をとらえたとき、その中心点を無意識に見ている。
いい絵はその中心点が明確であり、見るものはその中心点の明確さをもって
いい絵と悪い絵を区別している。
たぶん、そうなんじゃないかと思う。(いきなり弱気になった)

鉛筆という筆記具の優れたところは、この円を導き出しやすいところにある。
筆だとある程度修行を積まないときれいな円は描けない。
気合を入れて、
「ふんぬ!」
と筆をぶんまわして、
それで中心点の明確な絵になる。
でも鉛筆だと、そこまで気合を入れなくても、消しゴムで線を修正しながら、
大体の形を探ることができる。いわゆる、「下書き」というやつである。

僕は何十年も絵を描いているけれど、それで気が付いたことは、
「自分の絵は芯のずれた鉛筆で描いた絵みたいだ」
ということだったりする。
絵の中心に対して、向かって左側に少しずれている。

いい絵を描く人はたぶん中心がしっかり真ん中にきている
だから二本目三本目と線を重ねても、すべて中心が明確な線になっている。
僕は中心がずれているから、なかなかうまい絵にならない。
人体を描いて、その中心が人体の外側にあったら、それは幽体離脱した絵であり、
見ていて気持ちが悪いのは当然のことだ。

すなわち、絵が死んでいる。

だから、絵を描くときはこの「中心」がしっかり対象の真ん中になくてはならない。
自分の目の右側にすっ飛んでしまった中心を、しっかり目の前に移動させる。
おかげさまで、絵の中心というものは、なんとなくわかるようにはなっているのだ。
それをぐっと中心に移動させて、意識をそこに集中させる。
気合を注入する。
で、頭に浮かんだイメージにそって、鉛筆をできるだけ気持ちよく動かして、
大体の輪郭を一気に描き写す。

あとはその中心を意識しながら、細部をちょこちょこ入れていく。

弘法は筆を選ばすという言葉があるけれど、
いい筆は、持つと自然と中心の明確な線が引けたりする。
ペン先でも、おろしたてのものは中心のはっきりした絵になりやすい。
体がペン先にひきずられて、正しい姿勢になっているからだ。
逆に使い込んでへたったペン先だと、無駄な力が入らないから、体はその分だらける。
そのだらけた体の導き出した中心に向かって、てんでバラバラに線を引くから、
絵はぼやけるし、見ていて不快な絵になったりもする。

でも弘法大師ほどの達人になれば、筆記具の力は借りなくても、中心は見えているので、
どんな筆であろうが、きれいな線が引けてしまう。

初心者ほどいい筆記具を使わなければならないというのは、このためなのだろう。

Photo

本当に、年をとるといろんなものが見えてきて、
若いころにこれが理解できていればなと、歯噛みすることがいっぱいある。
早いとこ医学が進歩して、老人でも十代の若者の気力が持てるようにならないものか。

ま、無理か。

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