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2017年7月

2017年7月23日 (日)

カッメーラ!

デジタルカメラを買いに池袋まで行ってきた。
以前にもこのブログで書いているけれど、長年愛用していたのが壊れてしまい、
しばらくは携帯のカメラでしのいでいたのだけど、いよいよどうにもならなくなって、
「買うべ」
と腹を据えた。

だいたいのイメージとしては、小型で持ち運びに便利なもの、できれば望遠、
接写もできれば素敵だね、くらいのものだったので、まあ大抵のものがOKになる。
日本のカメラの技術は大したものなのだ。

特に自分のような、いまだに頭の中がフイルムカメラ時代のままなおじさんにとっては、
21世紀のデジタルカメラはドラえもんのひみつ道具みたいなもので、
どの機能をとっても「へぇ!」と驚くことになる。
奥様、自動でピント合わせができるんですってよ!お肌の色も機械が調整してくれて、
本人よりも写真の方が美人に写りそうな勢いなんですってよオホホホホ。

池袋のデンキ屋さんには中国人のお客さんが多い。エレベーターに乗ろうとしたら、
店員さんが中国人の男の子と話しているのとすれ違った。なんつーか、
あっちの子は物怖じしないよなぁと素朴に思う。
日本人の子供が店員と対等に話してるのって、なんかイメージしづらい。

カメラ売り場に上がって、良さそうなのを見つけ、
「これください」
と若い店員さんに声をかける。
キヤノンのシルバーっすねと、在庫を探しにバックヤードに引っ込み、しばらくして、
「お客さんラッキーっすね、このカラーの在庫はこれが最後っすよ」
と、ちょいと気持ちのいいことを言ってくださる。そうか、それはラッキーだな。

僕の買い物はこれで終了なのだけど、店員さんにとってはここからが本番になる。
「液晶画面の保護フイルムいかがっすか!」
ああ、あの玄人は風呂場で裸になって貼るってやつね。僕はいらないかな。
傷がついてもその傷を楽しむって境地になってるし、誤って気泡ができたり、
フイルムの角度が微妙に傾いて貼れてしまったりすると、めちゃくちゃイラつくから。

「SDメディアいかがっすか!製品には入ってませんよ!」
写真を保存するやつか。
古いデジカメのメディアをそのまま再利用できればいいんだけど、なんせ十年前のだし、
たぶん認識しないんじゃないかなと考え、買うことにする。ちなみに前のは2G。
「一番安いので8Gになります!」
ありゃ、やっぱ容量デカいのな。(ちなみに前の2Gも認識はしてくれた)

「各種保証はいかがっすか!メーカー保証のほかにビックの五年保証もできますよ!」
これは入る。故障があって修理を依頼するとき、
保証があるとないとでは店の客に対する対応が極端に変わるのだ。
保証があるととりあえず人間扱いはしてもらえる。
でも無いと迷惑クレーマーなみにぞんざいな扱いになる。

「全損保証はいかがっすか!ぶっ壊れても五百円の保証に入っていれば、二千円くらいで
同じ商品が手に入りますよ」
「それはいらないかな」
「ですよねーぇ」
あんたもそう思ってたんかいと、心の中で突っ込みを入れる。

家に帰ってからいろいろ写真を撮ってみる。
画素数はやたらデカいけど、ブログ用はレベルを落とすからあんまり意味なし。
接写はさすがに前のよりも高性能だ。しかも自動で接写モードになる。
Img_0012

どっかお出かけして風景も撮ってみたいけど、それはまた別のお話。

今朝の読売新聞の日曜版。
Img_0022

毎度見出しが著名人の名言だったりするのだけど、今回はこいつが来た!
思わす、声に出して歌っちまったよ。
(ジャスラックに気をまわしてボカシ入りました)

高校時代、名古屋ローカルのラジオ番組を毎晩聞いていたんだけど、その中で
「GSア・ゴーゴー!」ってグループサウンズの特集コーナーがあって、おかげさまで
ザ・タイガースとか、昔の音楽もそれなり耳にしていたりする。
「花の首飾り」はそのコーナーのテーマ音楽だったのかな。
当時のトップアイドルだったザ・タイガースが一般から歌詞を募集して、
18才くらいの女学生が書いたのがこの詩だ、というのは雑学として知ってた。
いわゆる企画ものなんだけど、これが当時大ヒットしたんだよね。
リアルタイムは知らんけど。

ボーカルは加橋かつみさんで、「ニルスのふしぎな旅」のオープニングの人といえば、
僕らの世代ならまず通じる。同じザ・タイガースの沢田研二さんとはまるで違う歌声で、
雄大な大地の歌声、みたいなスケールのデカさを感じる。すごい好き。

で、この日曜版はその著名人の名言とそのゆかりの土地を毎度紹介しているのだけど、
今回は北海道の八雲町なのだった。作詞の女の子のふるさとなのだ。
で、ここはお土産品として有名な木彫りの熊の発祥の地だといわれている。

鮭くわえた例のアレですね。八雲町のはくわえてないのが特徴だそうだけど。

この熊のお土産の由来については最近テレビで知ってちょっと興味を持っていました。
明治の御一新で尾張徳川藩士が職を失い、新天地を求めて北海道に入植したあと、
その行く末を常に見守っていた尾張藩の徳川義親公が、
「スイスに視察に行ってこんなん見つけたけど、みんなも作ってみたらいいんじゃね?」
と提案したのが土産物用の小さな木の彫り物で、
「だったら熊が定番だよね」
って彫り始めたのが、北海道の熊の彫り物のルーツなんだそうな。

わが地元名古屋も少し関係があるのかと思うと、ちょっと誇らしかったりする。

で、その土地が「花の首飾り」の詩の生まれた場所だってのは、また驚きだったりする。
いつか、行ってみたいものだなと、しみじみ考えたのでした。

あ、いつの間にかカメラの話でなくなってら。

2017年7月20日 (木)

イワシ

今年はウナギが平年よりも一割ほど安くなってるぞと、夕刊紙に書いてあった。
稚魚漁が好調だったそうな。それでも水産庁は、
「ウナギの資源量が回復しているという科学的根拠はない」
と、慎重な姿勢を崩さないのだが、
実際スーパーなどをのぞいていて、
「おやおや」
と肌身に感じていたことではあるので、ウナギは今年の「売れ線」になるのだろう。

イワシ。

先日の新聞紙面で日本の漁獲量の変化をバブル期から追ったものが載っていて、
それによると八十年代後半をピークに、日本の食卓から魚が消えていく様子がわかる。
ピーク時と比較して、現在は一割以下といったところか。
魚売り場は本当に寂しくなった。
マグロが主役の座を降りたのはいつのことだったか。
いつの間にやらサーモンが刺身の目玉商品になっていたりする。庶民的にはそうなる。

漁獲量激減の一番の原因はイワシの不漁が三十年近く続いているためで、
かつては朝食メニューの定番だった「めざし」が鮭やシシャモにその座を譲っている。
若い人の中には「めざし何それ」な人も多いみたいで、ネットでちょっと調べてみたら、
若者のめざし離れを嘆く老人の愚痴がいくつか見つかった。

全体の流通量が激減しているので、逆にめざしなんか安くなってる気もする。
スーパーの隅っこのほうで九尾二百円くらい。一時おいしいので食べまくっていた。
都内だと節分に厄除けで食べたりするので、その時期は大量に出回ったりする。

近年は漁獲量が回復傾向にあるという観測もある。

この頃は中国人がサンマやサバのおいしさに目覚め、公海での乱獲が問題になってるけど、
彼らもさすがにイワシには手を出さないんじゃないかと思うので、
案外何年か先には日本の国民食の地位を回復するかもしれない。

日本人にとってイワシは諸外国以上に身近な魚だったりする。

だいたい「鰯」という漢字そのものが日本の代表的な国字で、中国由来ではない。
最古の事例は長屋王(!)の邸宅跡から出土した木簡で、
そこに「魚編に弱い」の文字が確認できる。
なにしろすぐに痛む魚なので、干物にするか油につけるかするしかない。
だから「弱い魚」と表記するのかなとも思うけれども、
語源はいまいちよくわからない。

西洋ではオイルサーディンとかアンチョビみたいな油漬けが主流の食べ方になる。
なんだかんだ、お酒のお供にぴったりな魚なんだな。
どうでもいいけどオイルサーディンはあの髭のマークの缶詰が大好きだ。
洋酒あおりながらちびちび食べたくなる。

イワシは生臭くて焼いても独特の臭いがするのだけど、
それが昭和の家庭のにおいだった気もする。
サザエさんなんか、ずいぶんイワシ臭い世界だったと思うのだけど、
この頃はそんな空気もなくなっているんだろうな。

イワシ、カムバック!とおじさんは願うのでありました。

2017年7月15日 (土)

新聞小説のヒロイン

夕刊の新聞小説をこの頃は読み続けている。
平将門の時代を舞台とした歴史もので、馬と甲冑と弓矢が飛び交う坂東の物語だ。
これを毎夕楽しみにしていて、夕刊はまずそこから読み始める。

日々に移ろうニュース記事よりも、小説の中の登場人物の方が気がかりだったりもする。
新聞小説というのはそうやって読者を毎日紙面に引き付けるものなのだろう。

新聞小説というと、尾崎紅葉の「金色夜叉」あたりがまず浮かんでくる。
「金色夜叉」は僕は読んだことがないのだけど、寛一お宮の悲恋物語じゃないかと思う。
昔の名古屋のテレビCМで
「来年の今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせてみせる!」
という名セリフを繰り返し流していた。
熱海の浜辺で学生服の男が、このセリフとともに美人の娘に蹴りを入れる、
娘はそれでも成金との縁談にすがりつく。
「ああ、ダイヤモンド!」
……そこで「宝石の美宝堂」とかなんとか、社名が流れたんじゃないかと思う。

あらすじを読んでも、絶世の美女が学生との恋よりも成金との縁談を選ぶ話のようで、
女の即物的な欲望の象徴が「ダイヤモンド」(アクセントはヤの字にあり)なのだろう。
これをCМで使ってしまうあたり、名古屋の下世話なお笑いセンスなんだろうけど、
苦笑とともに宝石屋の名前は頭に残るので、まあCМとしては成立している。

明治の新時代、古風な大和撫子は知的で即物的な明治の女へと変貌しつつあった。
江戸の封建時代を知る明治男からすれば、それが実に新鮮で、面白く見えたであろうし、
女性からしても、最新の女性とはそんなものかしらと興味をそそられたに違いない。

夏目漱石が大学教授の職を投げうって、朝日新聞の新聞小説を連載し始めたとき、
その題材がまた、「今どきのけしからん女」だったのは面白い。
「虞美人草」は漱石の文語美文体小説では最後の作品になるのかな。
(※「草枕」があるの忘れてた)
古めかしい文体なんだけど、読み始めるとこれが滅法面白い。
名家の令嬢の藤尾が周りの男性を手玉に取りまくる。
「金色夜叉」のダイヤモンドに対して、こちらは金時計なのだけど、
その金時計を振り回して「お金が欲しければ私の犬になりなさい」みたいな感じで、
明治の男どもをばったばったとなで斬りにする。

夏目漱石としては「金色夜叉」はあまりお気に召さなかったみたいで、
島崎藤村の「破戒」を「金色夜叉」などより上だとほめていたりするのだけど
その漱石が新聞小説を書くと、「金色夜叉」っぽいノリになってしまうのは、
一般読者の興味を分析した結果なのかもしれないけど、まあ面白い。
実際、「虞美人草」は発表当時大評判となり、関連商品も売れたそうな。
アニメのヒロインが話題になってキャラクターグッズが売れるのと似ている。
藤尾は明治時代のヒロイン像の一つの典型なのだろう。
その影響は「高飛車で上から目線の金持ちのお嬢様」として未だに生き続けている。

ところで、漱石自身は藤尾のようなヒロインは「大嫌い」で、
「虞美人草」という作品そのものが、このいけすかない女を破滅させるための物語だ、
みたいなことを手紙か何かで書いていたはずだ。
たしか門人か誰かにあてた手紙。
「藤尾ちゃん、いいすね、激モエっすよね」みたいな言葉に対して、
「あんなもんを好きになっちゃいかん!あれはダメな女だ、あれを破滅させるために私は小説を書いたんだから!」
みたいな感じだったかな。

実際、物語の終盤になると漱石の筆はノリノリになってきて、ものすごく楽しそうに
自分の創造したヒロインを破滅させている。
文章を読んで書き手の「グルーブ感」を感じたのは僕は「虞美人草」が初めてだったので、
その部分はやたら強烈に頭に残っている。

でも読者はそうは読まなかった。高飛車な藤尾というヒロインが
ものすごく魅力的に映った。
だから関連商品は売れたし、作品も評判になった。
のちに映画化もされたし、ドラマにもなっている。
(自分のイメージだと大原麗子なんだけど、実際は古手川祐子さんだった)

新聞小説の使命として、魅力的なキャラクターを創造し、
その一挙手一投足で読者を引き付けるというのが大きいと思うのだけど、
その点でいえば漱石の「虞美人草」は新聞小説の大成功例なのは間違いない。
でも、漱石自身は、案外「金色夜叉のパロディ」を書いただけだったのかもしれない。
「こういう女を喜ぶとか、おかしいんじゃないか」
と一般の読者に提示したつもりだったのに、読者は藤尾を称賛している。
これぞ新時代の女であると、喜んでいる。この生意気さがかわいんだよね、
俺も藤尾に振り回されてみたいと、けしからんことまで言い始めた。
「従順なだけの女は面白くない、こういう男を足蹴にする女が魅力的なんだ」
まできたところで、漱石はおおいにつむじを曲げる。
以後、漱石は藤尾のような新時代の女はヒロインにせず、
むしろ昔ながらの古い女を持ち上げるようになる。

人妻が百合の花を手にしながら、自らの恋心に罪悪感を感じるとか、たまらんですよ。
それを奪い取って破滅していくとか、本望じゃねぇか!みたいな。
ある意味、裏返しの「金色夜叉」みたいな方向へと走る。
「それから」の美千代さんが藤尾ほど印象的なキャラクターとは思えんけど、
漱石としてはそれは近代と敵対してでも守るべきものだったのかもしれない。

新聞小説の大ヒット作といえば、菊池寛の「真珠婦人」がある。
僕は横山めぐみさん主演のドラマのほうをCSで観て、滅茶苦茶はまった。
昼ドラの帝王といってもいいくらい、奥様方に人気のあった番組である。

男どもを手玉に取る若き美貌の未亡人「真珠婦人」。
その彼女は実は秘めた恋を守り通す一途な女性だった!みたいなお話。
ある意味、「金色夜叉」「虞美人草」のヒロインの発展形なのだけど、
悪女的な新時代の女性に「貞淑な昔ながらの女性」を強引に合体させたところが、
なんとも新機軸だったりする。
これは原作を読んで、そちらも面白いなと夢中になった。

なんでこんなアクロバットなことが可能になったかというと、
状況が清楚で貞淑な女性をどんどん追い込んでいき、
「この恋を守るためには、私は悪女にだってなってやるわ!」
な心境にさせてしまうのだ。だから、本当の意味で悪女ではないのだけど、
大衆娯楽作品としてはこの微妙な匙加減が大いにウケた。
だって、外面的には男を手玉に取る悪女なのに、
実は一人の男を一途に思い続ける貞淑な大和撫子なんですぜ、お客さん。

設定としては日和ってるし、尾崎紅葉や漱石が描き出したかった「醜悪な近代文明」とは、
違うような気がするけど、「一途に恋を守り通すヒロイン」は確かに魅力的なのだ。

新聞小説ではないけれど、ラジオドラマの「君の名は」(アニメじゃない方)も、
状況がヒロインを悪女にしていく系の作品である。
男性が冷静に物語を見ると、
「こうまで不運の連続攻撃を受けると、ギャグとしか思えない」
となるのだけど、製作者のご都合主義は「運命のいたずら」という甘い言葉になり、
「真知子さん、かわいそう!春樹はもっと彼女の気持ちを考えるべきだわ!」
という女性からの共感を引き起こすことになる。
僕は映画の三部作を見て笑いが止まらなかったけれど。
(恋敵のアイヌの少女が谷底に落ちていくときは、腹を抱えて笑ってしまった)

菊池寛が発明した「悪女の免罪符」としての「運命のいたずら」は、
昭和のドラマの全盛期にそれこそ雨後の筍のように乱用されまくることとなる。
本来微妙な匙加減だったものが、乱造され、それがドラマだ!みたいなノリになる。
むしろ、その過酷な運命(製作者の悪意)に立ち向かう健気なヒロインさえ出てくる。
山口百恵の赤いシリーズなんかはそうだろう。
スプリンターのヒロインが走れなくなった足にフォークを突き立てるシーンは、
壮絶なギャグとして僕の中では記憶されているのだけど、70年代のドラマではそれが
割と当たり前の演出だった。運命とは、笑ってしまうくらいに過酷なのである。

この時期のドラマを見まくった自分たちの世代なんかは、
運命がいたずらをするのはむしろ当然のことであって、
それが物語のような気さえするのだけど、たぶんとんでもない勘違いである。

新聞小説の世界で魅力的なヒロインを創造しようとすれば、悪女が一番である。
でもその悪女に道義的免罪符を与えようとすれば、運命のいたずらに頼るしかない。
で、そのうち「運命のいたずら」の面白さに製作者が目覚めてしまって、
ドラマの世界に「運命の歯車の大脱線まつり」がはじまってしまったのではないか、
なんてことをちょっと考えてみた。

何考えてんだろうな、僕は。

2017年7月 6日 (木)

エイトフォー

久しぶりに床屋に行った。若いころは無精に髪を伸ばすのが
「反体制的」
みたいな70年代のノリを引きずっていたので、割とほったらかしだったのだけど、
年を取ると「爺さんの長髪」というのは、よっぽどの覚悟がなくてはできない。
「反体制」のフラッグが「社会不適合者」の烙印になりかねない。
オッサンは東京の片隅でひっそりと漫画を描く「小市民」なのである。

「この街には落ち武者ヘアーの漫画描きがいる!」
と、妙なUMA扱いされて、当局に要注意人物扱いされたくはない。

床屋の話は以前にもこのブログで書いたのだけど、
近所の床屋が「お客さん漫画家さんなんですか」とやたら根掘り葉掘り聞いてくるので、
ここ二十年ほどは隣り町の無口な床屋さんを贔屓にしている。

自分の頭頂部の栄枯盛衰を知り抜いているのは、家族とこの親父さんくらいのもんだ。

平日なのでお客はおらず、店主はお客の椅子でテレビを観ておられた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」

この頃は無口は無口なりに時事的な会話程度はするので、天候についてあれこれ話した。
台風は僕の知らない間に関東を通り抜けていたらしい。
「今年は雨が少ないので、もう少しいっぱい降らしてもらいたかったですけどね」
なるほど、店のテレビ(床屋式の椅子からは見えない)でも、関東の水がめがピンチで、
荒川水系で節水が始まっているとニュースキャスターの声がしている。
「荒川は埼玉県を通っている」と、どうでもいい予備知識まで披露している。
ダムの貯水率は平年の20%程度らしい。

「今年も去年のキャベツのように、野菜が値上がりするかもしれませんね」
と、適当な感想をのべると、
「そうですねぇ」
と、あちらも適当な相槌を返す。

テレビは節水についての蘊蓄をしゃべり続けている。
歯磨きはコップに水をためて、蛇口の水は流しっぱなしにするな、
髪を洗う時もこまめにシャワーを止めろ、
それだけで一日に2リットルのペットボトル十本分くらいは節約できるらしい。

うちは共栄住宅なので、水を流しっぱなしにするのは配管の中の水を入れ替えるって、
そういう意味もあるんだけどなぁと、ぼんやり考える。
以前部屋の外で水道業者が会話していたのを聞いてしまったのだけど、
「外側のパイプの入れ替え工事をして、それで水は奇麗になりますか」
「ダメだね。個々の部屋への配管は古いままだから、ずいぶん汚いことになっているよ」
と、物騒なことを話題にしていた。
以来、水道の水を口に入れるときは、ある程度流しっぱなしにしている。

基本的にそれほど神経質な人間ではないので、ネットで、
「中国のウナギ業者は自分のところのウナギは食べない」
って話題を読んだ時も、そんなもんかなと納得した。
なんか、始末に困った人間の死体を餌の代わりに養殖槽に放り込んでるとか、
そういう風聞なのだけど、
「危険な薬物を投入されるよりはまだマシ」
「死体が怖くてシャコが食えるか」
とネット人が笑い飛ばしていて、まあそりゃそうだ、生々流転ってくらいで、
自分が普段口にしている有機物にも、かつては人様を構成していた物質もあろうし、
だいたい肉や魚はまんま生き物なのだ。

そんなどうでもいいことをあれこれ考えているうちに床屋は仕事を終えていた。
本当にどうでもいいことだ。
僕は頭をいじられていると面白いアイデアを思いつくことが多いので、
風呂で髪を洗っているときとか、床屋でアイデアを仕入れることがある。
「外国語で話すと人格が変わるって面白いよな」
ってこの店で髪を刈られている間に思いついて、早くメモしなくてはと焦ったこともある。
でもこの頃は割と平凡に、くだらないことばかり考えている。

レジで会計を済ませようとすると、小ぶりなゴミ箱が置いてあった。
「商店街の催しなんですよ」
とクジを引くように勧められた。五百円で一回。僕は七回引くことになる。
五等が五枚、三等が二枚当たった。
「申し訳ない、二枚も当たってしまった」
「景品交換所でお菓子なんかと交換できますよ」
とのことだった。

毎年やっているので、これまでにも干物の詰め合わせとか、割とよく当てている。
今年は何だろうと交換所の文房具屋に向かう。

何も買わないのも何なので、漫画用のインクとピグマを買う。まさに思うつぼ。

三等の景品は店の隅の箱の中から選べるとの話だったが、目ぼしいものはあまりなかった。
むしろ四等の箱の中のほうが、お菓子やらグッズやらがあって賑やかな感じがした。
三等は洗剤とかティッシュの箱とか、制汗剤だったりした。「8×4」だ。
「なんで八かける四なのだろう」と今調べてみたのだけど、
もともとはドイツの商品で、有効成分に
「Hexachlordihydroxydiphenylmethan」
が使われているらしい。これが三十二文字。だから八かける四でエイトフォー。
「ちなみに現在はこの成分は使われていない」となっている。

語呂が面白いから名前だけ意味不明のまま残っているってことか。どうでもいいけど、
商品名の来歴だけまとめたブログがあったら、そこそこ人気になるんじゃないかと思った。

景品を目の前にしばらく考えてから、除菌剤と洗剤を取り出して、
「これいただきます」
とお店の人に提示した。
「そこに袋があるんですよ」と、店主がレジ袋に詰めてくれた。

面白い商品名というと、サランラップがある。
透明な樹脂を発明した二人組の研究者がいて、それぞれの奥さんが「サラとアン」だった。
だから愛妻家の二人はのろけ半分に「サラ・アンド・アン樹脂」と名前を付けた。
それが詰まって、「サランラップ」になったのだけど、
「ン」一文字に短縮されたアンさんがなんか不憫だなと、思い出すたびに考える。

夕方の空は夏前なのでずいぶん明るいのだけど、少し曇っていて、時々雨粒が落ちる。
買い物の奥様方が自転車で行き過ぎる。半袖にコットンパンツで、尻の形が頭に残る。
漫画描きの名言に
「若者は胸にこだわるが、年を取ると尻の良さに目覚める」というのがあるのだけど、
人体のデッサンをしていると、尻のデッサンが案外難しいのだなと気が付く。

尻とはなんであるか。

股関節から足が分岐し、その付け根の形状が尻になる。
ダビンチのように人体の構成を解剖学的に考えると、そこには一切の無駄はなく、
筋肉の配置の妙があの形を作り出していることになる。それなのに、
なんで人間は尻に変なロマンを抱いたりするのだろうか。
一説には、サルは発情期に交尾を促進するために、メスの尻が赤くなって、
それが煽情的にオスを駆り立てるというのがある。
太古の人間にもそういう時期があって、女性の尻の形状に種の保存への欲望が、
フツフツと湧き上がるのかもしれない。

桃の果実や半分に切ったリンゴの断面にも、ロマンを感じる男はいる。

そういったロマンを突き詰めていくと、尻のラインには生命の根源が感じられるようで、
その核心をなんとかつかみ取ってみたいものだなと思うけれど、
客観的に考えてただのエロおやじ以外の何物でもないので、困ったもんだ。
ものすごく哲学的な話題だし、それに人生をかけた芸術家もいるのだけど、
自分には万難を排して尻に人生をかける男気はないなと、
またしてもくだらないことを考えながら、夕方の商店街をブラブラと歩いた。

特に書く話題を用意しないでダラダラ文章を書くと、本当に意味のない文章になるという、
見本みたなものだな。

2017年7月 3日 (月)

七月は文月 本の陰干しの季節だ!


今年も半分終わってしまって、さあ後半戦だと張り切ってみたけど、
なんか雨が降っていたりして結局部屋の中でじめじめと本ばかり読んでいる。
本って言っても、十年くらい前の漫画なのだけど、
「この高校生たちももう二十代の後半か」
と考えるとなかなかに感慨深い。まあ、○○〇(自主規制)なんですけどね。

なんでこの漫画がうちにあるんだろうと考えるのだけと、
なんでかよく思い出せない。
「▽△▽(同上)」も同じ本棚に並んでいるので、たぶん当時プチブームだったのだろう。
この先生の漫画は感情が高ぶってくると絵に作者本人が乗り移って、
ぶっちゃけ、ご本人の顔が絵に出てきているようで、ちょっと困る。
まあそんなことを考えるのは僕だけかもしれんけど、原稿越しに作者の顔が見えると、
同業だけにちょっと居心地が悪くなる。

漫画家の飲み会でとある女性漫画家の方をお見かけして、
そのご尊顔がお描きになっているキャラクターとあまりにそっくりだったので、
思わず隣の方に「リアル○○だ!」と叫んでしまったことがある。
「いやいや、あれ動物キャラだからそんなこと言っちゃ失礼ですよ」
なんてたしなめられたのだけど。

美男美女系のキャラだと作者の願望やコンプレックスの裏返しみたいな事情もあって、
あんまり似ていることはないようだけれど、
少し砕けた感じのキャラクターだと、ご本人に生き写しということはよくある。
実際何度も目にしてるし、その名前を出せないのが歯がゆいくらい、クリソツなのである。
(いつの言葉だよ、クリソツ)
画家はたぶん自分の体を物差しにして絵を描いているので、
顔なんかも自然と画家本人の顔に似てくるものなんでしょう。
だから、売れっ子漫画家には味のある顔の人が多い!とまでは言わないけど、
DNAで絵柄は左右されるなとはときどき考えます。

昔、アマチュアの漫画描きの集まりで、
「怒った表情を描くときって自分も怒った表情で描いてるよね」
って話になって、ああ、僕だけじゃなかった!とうれしく思ったことがあります。
いまだに絵を描いているときによく思い出すのだけど、
そういえばこの頃は年のせいか、絵を描くときは割と無表情だなと、
いまさらのように気が付いたりもします。目玉はカッ!と見開いているのだけど、
口元なんかは表情につられて開いたりはしない。だってよだれが落ちたら原稿汚れるし、
いちいち表情筋を動かすのにも体力を使うお年頃なのである。

若いうちはデッサンの狂いなんかは気にしないで、気合の限りを原稿に叩きつけるのが、
後々のためには良かろうと考えます。デッサンが崩れるからと、
ハンコ絵のキャラばかり量産するよりははるかに良い。
そうやって若いうちに絵の人物の「表情筋」を動かしておくと、
年をとってから無表情で感情の激しい絵が描けるような気がします。
だって、ペン入れするときって、気合を込めすぎると線が汚くなるし、
あんまり気合の入りまくっていびつになった下書きにペン入れするのも、
なかなかに技術のいることなのです。たぶん。

絵の見易さ読みやすさというのが自分の漫画を描くときの重要テーマなのだけど、
激しい感情を絵としてどうやって成立させるか、それがなかなかに難しい問題なのです。
そういうことをつらつら考えていくと、浮世絵師の写楽とか、
あいつはスゲーなと笑ってしまいます。

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激しい感情を絵として成立させれば、それはいい絵なんじゃないかな。

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