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2017年8月20日 (日)

サザエさんは年下のお姉さんなのだ。

短い人生を彗星のように煌きながら駈け抜ける人生もあるし、
長い人生をのんべんだらりんと、平穏無事に生きる人生だってある。

十代の頃の自分を思い返してみると、
「長く生きたって仕方がない、太く短く生きるのがカッコいいのだ」
と、夭折に憧れていたフシがある。

歴史上「この時に死んでいれば英雄だったのに」って人はいる。
幕末の井上多聞なんかはそうだろう。
過激な尊王攘夷論者が開国論者となり、
英国留学中に長州戦争が勃発するや、取って返してその折衝にあたり、
戦争を無事に終息させ、そのことを恨まれて闇討ちされる。
この時に死んでいれば坂本竜馬みたいな英雄になっていたかもしれないけど、
そうはならなかった。
全身をなますのように滅多切りにされて、虫の息で
「兄上、介錯を」
と頼んだところを、母親が止めに入った。

で、明治になって井上薫と名前を変え、大臣の位にまで栄達するのだけど、
そこからは金に汚い汚職政治家となって、明治人のひんしゅくを買ってしまう。

そういうのはなんか、嫌だなと思う。
人生は太く短く、鮮やかに駈け抜けてみたい。

で、高校時代の僕はフランスのラディケなんかを学校で読んでいたりした。
タイトルは「肉体の悪魔」。
「かわすみがエロ小説を読んでるぞ!」
とクラスの連中にひやかされたりしたっけ。
「いやいや、フランスの天才小説家だから、とりあえず本を返しなさい」
「やーい肉体の悪魔」
「だから、その本は真面目な小説だって!(そうとも言い切れんフシはあるけど)」

ラディケは二十歳くらいで夭折しているので、それで憧れていた部分はある。
「僕も病床で神の兵隊に殺されると叫びながら死んでしまいたい!」と思ってた。
中二病を高校時代にまで引きずるのは、まあみっともない話だ。

僕の若いころはノストラダムスの大予言みたいなのがあって、
人類は1999年には絶滅する段取りになっていた。五島勉さんがそう言っていた。
この終末論というのはものすごく刺激的なもので、当時は冷戦体制でもあったし、
バブルで浮かれた日本に鉄槌を!みたいな気分も僕にはあった。
九月に空から大魔王が降ってきて、それで終わりになるなら、それもいいやって、
なんか投げやりな部分があった。

八十年代末期あたりだと、冷戦が終結し始めた時期で、
ルーマニアのチャウシェスク大統領が惨殺され、ソビエトでペレストロイカ進行、
ロシア連邦となり、中国もついでに民主化に走るかと思われたが、
胡耀邦さんがお亡くなりになって、例の天安門事件になり、
ギリギリ中国は共産国家であり続けることになった。

世界は基本的にこのまま平和裏に民主化されていきそうな情勢ではあった。
中国なんかは、その情勢に乗り遅れてこのまま没落していくんじゃないかと思ってたけど、
鄧小平という無駄に有能な政治家がいて、共産主義体制を維持しつつ、
資本主義を一部導入するという荒業をやってのけ、21世紀への筋道をつけた。
共産主義は事実上失敗に終わり、資本主義陣営の勝利!って形にはなった。

あの当時、90年代の初頭だと思うけど、
「東西の冷戦は終わったけど、これからは南北の冷戦時代になる」
って見方もあって、そんなもんかなと思ってたけど、まあ、そんな感じにはなってる。
緩やかな資本主義の崩壊というか、資本主義に虐げられていた民衆がテロに走って、
「これからはグローバリズムの時代だ!」
と能天気にはしゃいでいた西欧国家を破壊しまくっている。

日本はプラザ合意以降バブルが崩壊して、東西冷戦の終結と不景気が同時にやってきた。
「いやいや、また日本は復活するだろう」
と漠然と期待していたけれど、なかったねぇ。
ジュリアナで扇子降ってたのが日本の最後の輝きになった。
以降、山一証券の倒産があって、有名な大企業でもコロッといってしまう時代になった。
東芝があぶないなんて、バブルを知っている世代にはものすごい笑い話だよ。

東芝と言えば、
自分が25歳になったとき「サザエさんと同じ年齢になった」というのは衝撃だった。
自分は永遠にサザエさんより年下だと考えていたのが、そうではなくなってしまったのだ。

以降、自分の中で永遠に年上だと考えていたものが、次々と年下になっていく。
こういう気分は、高校野球を観ていると味わうものなんだろうな。
自分が高校生の頃はPL学園全盛の時代で、清原とか桑田が大活躍していた。
実際に観ていた記憶はないんだけど、年表的にはそういうことになっている。
ゴジラ松井が全打席敬遠されて新聞メディアが相手チームの監督を袋叩きにしたとき、
僕はもう高校生ではなくなっていて、
「未来のある若者なんだからもっと全力でやらせてあげりゃいいのに」
とメディアにのっかって一緒になって叩きまくっていた。
完全にオッサンの目線である。

大相撲もそうだ。スポーツ選手が次々と現役を引退していき、
プロのスポーツとは若いもんがやるもんだって意識になったとき、
心のギアがガチャっと入れ替わる。
自分もある時期まではそのギアを若いままで保持していたけれど、
中日の山本昌が引退した時点で、それが不可能であることを悟った。
あの人ピッチャーなんだけどずいぶん続いたもんだなぁ。

で、1999年は何事もなく、平常運転で通り過ぎてしまった。
その頃には自分も「今人生が終わったらシャレにならねえ!」って気分だったし、
ノストラダムスなんて嘘さ、大予言なんてメディアのでっち上げた大嘘だと、
完全に黙殺していた。このへんで人生についても、
「太く短く」よりも「細く長く」に趣旨替えしたんじゃないかと思う。
人生やっぱり、長く生きてみないとわからないことがいっぱいある。
それを味わうことなく死んでいくのは、なんか悔しい。もったいない。
三重県のお祖母ちゃんが亡くなったのもこのあたりだったかな。
93歳で大往生。孫やひ孫に囲まれて「そんじゃまあ、先行っとるわ」ってな感じで、
笑顔のままで棺に収まっていた。
地味な人生で葬式が最大のイベントってのもどうかと思うけど、
本人がああやって笑って死んでいけるのは、なんにしても最高のことなんだろう。

21世紀になって、僕ら昭和世代が思い描いていたバラ色の未来になって、
ある日テレビをつけたら高層ビルにジャンボ旅客機が突っ込んでいた。
なんの映画だろうと思ったら911のテロだった。
それから朝までテレビに釘付けになって、戦争だ!戦争だ!と大騒ぎしていたな。
ある意味、ノストラダムスの予言が当たっちゃったとも取れなくはない。
それくらい、ショッキングな出来事だった。
メディアは連日のようにジャンボが突っ込むシーンを放送し、
スクープ映像として貿易センタービル崩壊の直前の現場を流していた。
途中停止していたエレベーターの一基が、奇跡的に動いて何人か助かったってやつ。
その間も外では何かが落ちるドンドンという音が続いていて、
そこにナレーションが
「この音はビルの上から火災に追われて落ちてくる人間の音です」
なんてのを平気でかぶせてきてた。

オサマ・ビンラディンの計画したテロは、人類史上最悪のテロで、
この衝撃は先進諸国に一斉に広がった。
テロ許すまじの空気はこの時に爆発的に広がって、いまだに続いている。
今年もイギリスやらスペインやらで何件も続いている。

各国はテロを未然に防ぐために最大限の努力を払っているのだろうけど、
それでも、その網の目をかいくぐるようにしてテロは発生する。
一般人を犠牲にしたテロ行為は絶対に許せないものであるし、
いつか自分もその犠牲になる可能性があるというのは、ゾッとする事実だ。

歴史を勉強しても、西欧が中東にしでかした悪事はひどいもんだと思うけど、
僕らの世代はそれを過去のものと一度リセットしてしまっているので、
なかなか事の実態が見えずらい。
世界の構造を歪ませたのは、それは間違いなく先進諸国だ。
隣の柿木が実をつければそれを奪い取ってむさぼり食べた。
柿の木ごとごっそり奪い取って相手の庭に草木も生えないようなことまでしでかした。

「富めるものが弱者を搾取するのは自然の摂理だ」
「この世界は弱肉強食なのだ」

と、この理屈は、20世紀までは有効だったかもしれないけれど、
その巨大な軍事力に対するに、テロが有効だと錯覚させてしまったがために、
窮鼠は一斉に猫を噛み始めた。
先進国が描いたグローバルなバラ色の未来は、世界規模の保守化の時代へと後退した。
経済的国境をなくすことで世界が一つになるという夢は、
貧困をも呼び込むという現実に気が付いて、一斉に門戸を閉ざし始めてるって格好だ。

なんの話をしているんだっけ?

そうそう、年齢を重ねるといろんなものを追い抜いていくというお話だ。
僕も今年はいよいよ夏目漱石先生の没年齢を踏み越えてしまうのだ。
夏目漱石というと、明治の大文豪で永遠に追いつけないようなイメージがあったのだけど、
今の自分は彼とタメで年齢的には同格である。
偉そうに口ひげを生やしているけれど、
「おい夏目、そのヒゲうざいからとっとと剃れや」
とどやしつけても一向差支えはない。
なんせタメだから。

夏目漱石は日本に「小説」というものを本格的に確立させた人物だと思う。
それまでの明治の小説が人情噺にすぎなかったところへ、
文明批評的視点を持ち込んできた。
西欧文明が入ってきたために、俺は江戸時代の親父どもとは考えが違ってきている。
物質的に、金銭的に成功者となることはそれはケッコウな話だが、
自分の頭脳はそんなものを本当には望んでいない。
世に「勝利者」となることは実はそれほど面白い生き方ではない。
自分の情緒、趣味が全力でそのことを嫌悪している。
で、情緒、趣味に忠実に生きようとすれば、現代文明はそれを真っ向から否定してくる。
どうにも自分はどんどん孤独になっていくもんだなぁ。

で、その夏目君とタメになった記念てことで、
「それから」と「門」を連続で読み返してみた。
「それから」で現代文明に敗北した主人公は、「門」の中で敗残の人生を淡々と送る。
登場人物こそ違え、この二つのお話は連続している。

「アーサー王伝説」を下敷きにしたんじゃないかと思われる「それから」は、
親友の妻を略奪するという点でアーサーとランスロットの故事を再現している。
これは当時の西欧の流行みたいなもんだ。
「人の妻をNTRしてみたい」という男の要望を、「アーサー王伝説」に仮託して、
これを大っぴらに劇場で演目とするのが、西欧では流行していた時期がある。
夏目君もこれにハマっていたみたいだね。
「それから」で親友の奥方が主人公に攻略されていくさまは、下衆に楽しめたもんです。

でもそれを文学としているのは、西欧文明対日本情緒という構図だ。
「それから」はその対立構造をあぶりだすために細部にわたって緻密に構成されている。
赤と青の対立、父と子、薔薇と白百合、動と静、なんでそこまでやるのかなってくらい、
いろんな仕掛けがあちこちに埋め込まれている。
で、それらは最後の「主人公の破滅」へと向かって一直線に盛り上がっていく。

この完璧に構成された世界が「破滅」という結末を迎えた後、そのアフターケアのように、
ポツンと書かれた作品が「門」だ。
この作品は構成もなんだかゆるくて、結末もとってつけたようにあやふやで終わる。
若いころ初めて読んだときは、「よくわからない駄作」と早々に放り出してしまったけど、
夏目君とタメになって読み返してみると、ああ、これって二人の不幸を親身に見守る、
ものすごく優しい作品なんだなって気が付いた。
小説という形態を選択した以上、破滅は破滅と描写するしかない。
けれど、そのことを認めたくない夏目君もいるわけで、
その視線は暖かに二人を見守り、その夫婦愛の深化にわずかな救いを見出している。
物語としては「だからその後はどうなったんだよ!」とモヤモヤしたものが残るけど、
それはまあ、目的ではない。
不幸な二人の男女が不幸の中で必死に寄り添っている、その姿を確認できればそれでいい。

単純な成功よりも失敗した人生の中に光っているものが見つかることもある。
人生においてそれがどれだけ輝いて見えるか、それは若者にはとても理解できないし、
まだ理解しちゃいけないとも思う。
勝ち組の人生よりも負け組の人生の方が充実しているという幻想は、
梅干しの種のようにしみじみ味わう老人の楽しみなのだ。

夏目君は自分の作品で何が一番好きかと聞かれて、
「門」
と即答したらしいけど、
その気持ちはなんとなくわかる。
あれは、しみじみいいもんだと思う。「門」だけに。


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