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2017年10月10日 (火)

先人の汗

いつもはノートパソコンで文章を打っているんだけど、
今回はデスクトップPCの方で書いてます。キーボード使いづらい。
Img012

お絵かきアップ。カメラ目線は難しい。
難しいなら「描かない」という判断が正しいのだけど、
人間というのは不可能に挑戦してみたくなる生き物なので、あえてドツボにはまってみる。
で、無駄に時間を浪費する。

無駄に浪費された時間というのも、当人には案外充実していたりする。困ったもんだ。

若い頃、二十歳ぐらいの時に似顔絵描きのアルバイトをしたことがある。
ひょっとしたら以前にもこのブログで書いてるかもしれないけど、
先輩に誘われて、名駅前のピアノ屋さんでお客さんの顔を描きまくった。
(名古屋人にしか通用しないそうだけど、「めいえき」とは名古屋駅のこと)

ご両親に連れられた幼稚園児から小学生くらいのお嬢様方がわんさか押しかけ、
その似顔絵を先輩と二人で色紙に描いた。
「このお兄さんたちは美大の学生さんなんだよ」
と、お店の人が強烈な嘘八百をかました。美大生がこんな漫画みたいな絵を描くものか。

近くでは写真専門学校の女の子たちが、動物の着ぐるみをかぶって踊っていた。
どうせ描くならあの子達がいいなぁと、ぼんやり考えた。

子供らは、とにかくまっすぐこちらの目を見てくる。
写真を撮られるのと同じ気持ちなのだろう。当然絵はカメラ目線になる。

難しかった?とんでもない。二十歳ぐらいの自分はまだ絵の壁にぶち当たっていないので、
何の障害もなく、下手くそな絵を描きまくっていた。今考えるとゾッとする。
この世界の名古屋圏のあたりに、今でも自分の下手くそな似顔絵があるかもと考えると、
かなり困った感じになる。あれでお金をもらったというのがとにかく申し訳ない。

で、カメラ目線の話。
前回モナリザの話をこのブログに書いて、
それからしばらくレオナルドさんの技法について、あれこれ考えた。
カメラ目線の絵というのは、レオナルドさんのあたりから肖像画の定番になった。
それまでは視線をそらす絵がほとんどだった。なんでか。

カメラ目線の絵というのはものすごく難しいのである。

まして正面を向いてカメラ目線となると、難しさは格段にアップする。
前回紹介した「裸のモナリザ」の素描がレオナルドが描いたものだとすると、
巨匠ダ・ヴィンチもこれに挑戦して、かなり苦心しているのがわかる。
わかるような気がする。わかるんじゃないかなぁ。

顔単体ならばいい。なんとか描けないでもない。
でも絵として背景が入ってきたり、体全体を描写しようとすると、視線が死んでしまう。
日本でも俗に「八方睨み」なんていい方をするけれど、
絵の向こうから生き物の視線を感じる絵というのは、絵の全体の構成が難しくなる。
ちょっとでも変な線を引くと、視線を感じる障害になってしまうのだ。

視線を中心に、強烈な「磁場」が発生していて、そこから絵を描けばデッサンは狂うし、
ぞんざいなデッサンの絵に目だけ強烈なのを入れても、デッサンの歪さが目立ってくる。

だから、レオナルドは考えた。目と手だ。
この二つを正確に描写しさえすれば、視線の強烈な絵の構成が可能になる。
それで、レオナルドさんは「モナリザ」の手にこだわりまくった。
こだわりすぎて、ついに納得が出来ず、右手の人差指を未完成で放り出してしまった。

あの絵の不思議な奥行きと静けさ、均衡が、あの手によってもたらされているというのは、
ダ・ヴィンチさんのものすごい発明だと、素人の僕は主張してみる。
実際、以後の肖像画はこの絵を規範に「モナリザ風の肖像画」になっていくけど、
「モナリザ」ほどの強烈な視線を感じるものは、あんまりない。
あの「手」のような画面の均衡を出せないからじゃないかなと、僕は考える。

……素人は無責任になんでも言いたい放題だから気楽なもんだ。

視線と画面構成について考えるうち、「あれ?」と気がついたことがある。
西洋絵画……てか、僕らが普通に考える絵というのは、遠近法で描かれている。
消失点を決めて、そこからパースラインを引いて絵に数学的な奥行きを作ってる。

漫画でもそう。大友克洋先生が緻密な背景を描くために、壁から糸を引っ張って、
正確なパースラインを引いていた、という業界で有名な伝説もある。
(普通そこまでやらない)

絵を勉強する人はパースについての概念を叩き込まれ、頭のなかにそれを構築する。
普段見ている風景でさえ、無意識に消失点を探し、脳内で絵を描いている。

でも、「透視画法」は絵の一つの技法でしかない。
ルネッサンス期に発達したこの技法は、「そうすれば奥行きのある絵が描けるよ」
というだけの話で、実際に人間の見ている風景がすべて遠近法であるわけじゃない。
実際、遠近法だと絵の端のほうがいびつにゆがむ現象は、同業者ならみんな知ってる。

じゃあ、遠近法じゃない見方というのは、どんなふうだっけ?と考え、
「あれ?」
となったのである。僕の目は視界を一度に認識できるほど優秀じゃない。
視点の先の、ほんの一部分を認識しているばかりだ。周囲はぼやけている。
これを移動させれば、そのたび消失点は変化する。
「ああ、ピカソとかブラックのキュービズムって、これなのかな」と、
ちょっとわかったような気になった。ぜんぜん違うかもしれないけど、
なんか自分のものの見方が透視画法の呪縛にがんじがらめにされているという事実は、
ようやくにして「発見」できたのである。

こういうことに十代のうちに気がついていればと思わんでもないけど、
年を取ってからでも気がついたのはラッキー♪と考えてみたい。

仕事をしていて、漫画の描線についても、「ああ」と考えることが多い。
ペン先にインクをつけて下書きにペン入れをする。その出て来るラインについて、
「ああ、この角度でペン入れするからこういうラインになるのか!」
と、先人の漫画家さんたちがやってきたことが突然理解できたりする。
それこそ、赤塚不二夫さんの線が飛び出してきて「これでいいのだ!」となったりする。

こういうことを十代のうちに……(以下略)

自分の絵が上達したとか、先人の域に達したなんて傲慢なことは考えないけど、
単純に「わかった気がする」ってのが楽しかったりする。
極端にデフォルメされた「漫画みたいな絵」であっても、根っこにおびただしい素描や、
三次元を二次元化するための研究の痕跡を感じたりする。

そんで、そういうものの積み重ねが日本のマンガの絵であり、
自分がそれに乗っかって絵を描いてるってのが、ものすごくありがたいことだと
ようやくにして考えるのだな、この「忘恩の徒」は
それこそ、漫画以前の浮世絵とか、鳥獣戯画のあたりまで遡って、
「その線を見つけてくれてありがとうございます」と、
先人の「汗」に頭をさげずにはいられない。

で、この先はどうなっていくのだろうと、漠然と考える。
線は、デジタル時代になって一度白紙に返った部分がある。
アナログの描線にあった味わいがデジタルで消えていくのは仕方がない。
ひょっとしたら線という概念でさえ、十年後には消えてなくなっているのかもしれない。

三次元を二次元に落とし込むという古来から続いた努力も、3D全盛となれば無意味だ。

でも、どれだけ質感を表現できて、VRで現実そっくりの世界を表現出来たとしても、
根本のところ、作者が目の前の現実をどう絵に落とし込んだかという部分、
それをきっちり表現できているなら、漫画の絵はまだまだ亡びないんじゃないかと、
僕は楽天的に考えてみるのだった。

観念的なお話でごめんなさい。

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