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2018年4月

2018年4月30日 (月)

セピア色

普段、お酒はあまり飲まないのだけど、ゴールデンウイークたけなわの昨今、
ちびりちびりと梅酒を飲んでいる。
この頃の都内は晴天に恵まれ、歩道わきのツツジの花も鮮やかな色彩が目に痛いくらいだ。
すでにして、半袖の人も大勢歩いている。まさに汗ばむ陽気というやつ。
こんな気持ちのいい日にさわやかな梅酒というのは、まんざら悪くもない。

なんでまた梅酒なのかというと、仕事場を少し整理していて、
古い新聞の切り抜きを発見したのだ。たぶん十年くらい前のもの。
毎日の新聞に目を通していて、自分の興味のあるものが見つかれば、とりあえず切り抜く。
そのうち何かの役に立つだろうと思ってのことだけど、その時は内容も覚えているのに、
五年、十年とたつうちには、そんな切り抜きがあったことですら、忘れてしまう。
「いったい何のために切り抜いているんだか」
という話なのだけど、まあこうして何年か経って読み返す機会もあるわけで、
まったく無意味ということも、なかったのだな。

その切り抜きは、
「旦那がテレビで梅酒を使った親子丼の作り方を覚えて、私に作れとリクエストした」
という女性コラムニストさんによるもので、
「へえ、梅酒で親子丼ね」
と、多少の興味をひかれたのであった。いや、じゃあ面白いのはテレビのネタじゃん!
となりそうだけど、
自家製の梅酒づくりに精を出し、その活用法をいろいろ試行錯誤する旦那さんとか、
親子丼を作る過程で、梅酒より鶏肉を湯引きする面白さに目覚めてしまった奥さんとか、
夫婦のすれ違いと、その中で生まれる生活の豊かさと、
……読んでいてとても楽しいコラムだと思う。

で、その切り抜きを発見したので、では、梅酒を買ってきて作ってみますか、
となったわけである。親子丼は手軽なので自分でもよく作るのだけど、
梅酒を加えるのは、もちろん初めてである。

砂糖やみりんなどの甘みを梅酒に置き換えるということだと思うのだけど、
いちおうちゃんとした親子丼になった。少し味が薄いかなと感じたのは、
コラムにあった、濃い目にタレを作れと言う指示を無視したからだ。
……僕は高血圧なのである。

で、余った梅酒はと言えば、当然、飲んでしまえとなる。
お酒はあまりたしなまないけど、身近にあれば手をだすことにやぶさかではない。
幸い、今日もお天気は「梅酒日和」なのだ。

「梅酒くらいで酔うことはないだろう」と高をくくっていたけど、
久しぶりであれば、ちょっといい心地にもなってくる。

新聞の切り抜きは大量にある。大量にありすぎて、読み返すのが億劫になってくる。
昔、裁判員裁判が始まった頃は、連日新聞に載る記事やら特集をファイルしていたので、
その分だけでもものすごい量があった。
小説家の小川国男さんのコラムも発見。お亡くなりになる少し前のものだけど、
短い文章に印象的なフレーズが散りばめられている。
ギリシャ彫刻のような大理石の文体は、コラムになってもやっぱり心地がいい。

切り抜かれてそのまま積み上げられた新聞紙面は、歳月の経過とともに日に焼け、
煙草の煙にいぶされて、茶色く変色していたりする。
古い昭和の写真と同じ、セピア色である。
今ならスマホやパソコンでコピーペーストすれば済む話なので、
ずいぶん時代がかった作業だな、とも思う。

ふと、古い時代がセピア色になるという昭和時代の言い回しについて考えてみた。
たぶんこの表現も、何十年か経つうちには、死語の世界に入ってしまうかもしれない。
なんせ、この場合のセピア色というのは、紙の色が劣化して茶色くなったり、
昔のカラー写真の青い色彩が退色して、赤みがかった色合いになることを言うのだ。
写真の画像データがデジタル信号に置き換われば、
「セピア色」という表現が実感を伴わない時代に変わるかもしれない。
僕たちが映画やテレビなどで、古い時代を表現するのに、白黒の映像で過去を感じたり、
セピア色の映像に懐かしさを感じるのは、
半世紀前の映像は基本的にモノクロであるとか、
紙や写真が時間の経過とともに茶色く変色するという体験を、土台にしていたりする。

だから、例えば十年前の思い出をセピア色の映像で表現するのは、
理屈としてはおかしい。あの時代に撮影された映像は、画素数の違いこそあれ、
基本的に劣化のないデジタル画像のはずであるから。
実際、今描いている漫画でも、編集部から十年前の写真データをいただいているけど、
これがつい昨日のことだと言われてもまったく見分けがつかない。
写真に写っている方の現在の姿と引き比べて、ようやく十年の重みを感じるくらいだ。

では、十年の時代の流れをどう表現するかといえば、これがまるで見当もつかない。
もし映像作品であるなら、色彩をセピア色にして時代の古さを表現するという、
古典的な手法に安易に頼らざるを得ない。
十年前の出来事がセピア色になるという物理的根拠はまったくないにも関わらず。

まあ、だからって回想シーンだけ画素数が十分の一以下になるっても、
おかしな話ではあるのだけど。

もし天才というのがいるのだとしたら、ここで万人の納得する回想の表現を、
鮮やかに編み出せる人を言うのだと思うのだけど、僕ごときではまったく見当もつかない。
昭和時代の映像表現に慣れ親しんだ自分にとって、
回想とは、新聞の切り抜きのようにセピア色に変色し、
扱いを誤ればボロボロと崩れ落ちてしまいそうな、ひどくアナログな表現なのである。

という文章を、梅酒を飲みながらほろ酔い気分で書き上げたのだった。(酔)

2018年4月29日 (日)

ジブリ


名古屋圏郊外にジブリパーク?みたいなのが作られるそうで、
自分が二十歳くらいの頃なら狂喜乱舞していたと思うのだけど、
五十歳くらいになると、それは素晴らしい話だな、くらいの感慨である。

建設予定地は愛知万博の開催されたあたりのはずだけど、
あそこには万博開催時に「トトロのメイの家」が作られ、
たぶんその縁でジブリさんとの付き合いが深まったのだと思う。

……ろくに調べもしないで記憶で書いてしまうと、
どうにも文章がまだるっこしい。

僕が子供のころは、あの辺りは青少年公園と呼ばれていて、
町内の子供会でサイクリングに出かけたりした。
でっかいサイクリングコースがあったのだ。
今でもあるかもしれんけど、番号の割り振られた自転車を借りて、
ずいぶん長いコースをひたすら走った記憶がある。

当時は「グランプリの鷹」とか「マシンハヤブサ」とか、
レーシングアニメに夢中だったので、
「V1エンジン始動!」とか、
「V5エンジン……これは危険も伴うもろ刃の剣!」
みたいなことを一人でわめきながら走っていた。

トンネルをくぐる時は車体と壁面の隙間が一センチ!という設定で潜り抜けた。
アニメを見ていないとまるでわからんな、これは。

そうやって自分が走り回ったあたりにジブリのテーマパークが出来るのは、
何にしろ喜ばしい。名古屋圏にはあまり目ぼしい行楽地はないので、
観光の目玉が出来るのは経済的にも大きなプラスだ。

僕は「未来少年コナン」で宮崎駿監督に嵌ったクチで、
「カリオストロの城」は心のバイブル、「風の谷のナウシカ」は初日に映画館で鑑賞し、
「トトロ」は椅子のひじ掛けを握りしめて「傑作だ!」と心の中で吠えまくっていた。
(ジブリ作品はトトロだけだと突っ込まれそうだ)

ある時期から(手塚治虫への追悼文を読んでからだけど)熱は冷めてしまったけど、
十代の自分が熱狂していた記憶は、こっぱずかしくもあり、誇らしくもあり、
ええもん観させてもらったな、と感謝している。

ジブリと言えば「火垂るの墓」は劇場で動撮アリ(動画を撮影した線画状態のもの)
を一度見た切り、あまりに悲しすぎて二度目は見ていない。つまり完全版未視聴。
(高畑監督が徹底的にこだわり抜いたために、完成が封切りに間に合わなかったのだ)
動撮だと画面が真っ白になるのだけど、演出に合わせて青い色がほんのりのせてあって、
観客への細かい配慮を感じさせた。

高畑監督と偶然すれ違ったことがあるけど、こちらが頭を下げたら、
ご丁寧に挨拶を返してくださって、ああ、紳士だ、とアシさんたちと盛り上がった。
「そうじゃのう、そうだとも、アン」
という謎のセリフが僕の口から飛び出してくるようになったのは、この名匠のおかげ。
(赤毛のアンは名作劇場だ!と突っ込まれそう)

自分が子供のころ夢中になったアニメの世界が、現代まで脈々と続いていて、
それを自分が見ることができるってのは、本当にありがたいこどだなぁと思うのでした。

2018年4月22日 (日)

みそぎ

1980年代のことと言えば、もう四十年近く昔の話になる。
ある朝、小学生だった自分が新聞を読んでいると、
「ジョンレノン暗殺」という記事があった。
僕にもわかる、音楽をやってた人だ。
「ずーとるび」の元ネタになった「ザ・ビートルズ」というバンドのメンバーだった。ビートルズの曲なら「カモン、カモン」とか「イェイ、イェイ」叫ぶのを「ひらけ!ポンキッキ」で見たことがある。四人いたメンバーの、たぶん一番目立つ人がジョンレノンだ。

その人が1980年の12月8日にニューヨークのダコタハウスの前でマーク・チャップマンに射殺された。その翌日の朝刊を僕は読んでいた。小学生には経済とか政治の記事はまったく興味が持てないので、比較的組みやすそうな芸能関係の記事には毎度目を通すことになる。その記事に、
「ポール・マッカートニー氏は葬儀には参列しない模様」というのがあった。
四人いた「ザ・ビートルズ」のメンバーで、一番ジョンレノンに近い人だと聞いていたので、その人が葬式にもやってこないというのは、なんとも薄情だなと思った。小学生の自分には友情は何よりも尊いもののような気がしていたので、この時の「薄情」という印象が、その後もずっと根っこに残り続けることになる。

いちおうフォローを入れておくと、その後ポール・マッカートニーの曲を聴くようになって、彼がダコタハウスのジョンの元を時折訪ねては、バンドを再結成しようと持ちかけていたことなんかも何かで読んだ。暗殺の一報に接して、レコーディングを中断してプロデューサーのジョージ・マーティンと一晩中ジョンの思い出を語り合った話も知っている。その彼が葬儀に参列しなかったのは、自分が顔を出すことによるメディアの過剰な反応を恐れたからなのは理解できる。でもそれがわかるのは自分が大人になったからで、小学生のときに感じた「仲間に対して冷たい薄情な人」という印象は、どうにもぬぐい切れない。その後、スティーヴィー・ワンダーと「エポニー・アンド・アイボリー」をやっても、マイケル・ジャクソンと「セイ・セイ・セイ」をやっても、果てにはエルビス・コステロとアルバム曲を作っても、「薄情な人がまたなんかやってら」としか思えなかった。子供のころの刷り込みというのはどうにもタチが悪い。

小学五年生というのは、年齢的になかなか微妙なお年頃である。あと三か月もすれば上級生は卒業し、小学校のヒエラルキーの中では頂点に君臨することが約束されている。そこそこ知恵もついてきているので、大人が禁止していることをやってみたいという欲求も芽生え始める。八十年代の初頭は「ツッパることが男の勲章」みたいな時代だったので、あえて怒られそうなことをやってみるのが、一つの冒険でもあった。

担任の先生は髪の長いダンディだった。当時テレビでやってた「金八先生」のようなロングヘアーではなく、七三に分けた「鬼太郎」のような髪形だった。よく学年主任の先生に「のだしゅー髪を切れ」と怒られていた。「のだしゅー」というのは先生の愛称だ。本名を縮めただけなんだけど。
冬はタートルネックのセーターをよく着ていた。そのセーターの上にジャケットを着ていたのだけど、そのファッションが70年代っぽい感じで、微妙に時代遅れだった。まあ、このあとブリティッシュムーブメントがあってパンクなファッションが八十年代を席捲していくことになるのだけど、その無駄にド派手な乱痴気騒ぎを思い出せば、先生の時代遅れの服装は逆に好ましく思えてきたりする。
そういえばジャケットの肘にアップリケのような濃い色の布があててあったな。あれも七十年代っぽかった。

この先生に一度叱られたことがある。クラスの悪ガキが集まって、「公園で焚火しょうぜ」という話になり、授業が終わってから公園に集まって焚火をした。僕も「焚火と言えば焼き芋だ」ってんで、大衆食堂の調理場からイモを失敬して、焚火の底に突っ込んだ。「ツッパることが男の勲章」の第一章みたいなもんだ。悪いことをあえてする、そこに男のロマンがあった。もちろん、バケツに水を入れてしっかり消火する準備は万全だった。
男子が七人ほど輪になって「あったけ~」と両手を火にかざしていたら、
「あんたら何やってんの」
とクラスの女子二人組がのぞきに来た。
「焚火。イモも焼いてる」
「へえ、私たちも食べたいな」
「ダメ」
「ケチ、先生に言いつけけてやる」

かくして「公園焚火事件」は先生の知るところとなった。
名古屋では授業の合間合間の休憩時間のことを「放課」というのだけど、その「放課」の時間に首謀者7人は教壇わきの先生の机の前に呼び出された。
「焚火をしたんだって?」
「やりました」
「うーん」
先生はしばらく腕を組んで考え込んだ。子供だけで焚火をしたのが大問題なのだけど、火の後始末はちゃんとしているし、近隣住民からの抗議の声も出ていない。悪さと言えば悪さなのだけど、これくらいの節度のある悪さならば目をつぶってやってもいいんじゃないか、先生もたぶん、そんなことを考えているはず、普段の先生の言動を考えると、ここは叱責だけで済ませるんだろうなと僕らは思っていた。

「今から順番にお前らを殴るから」

僕らは一瞬ひるんだ。いつもはニヒルな「のだしゅー」が殴るという熱血教師みたいなことを口にしたからだった。

「なんで殴られるかは、わかるよな」
「……はい」
今考えれば先生としても子供を殴るなんてのは嫌だったと思うのだけど、なんらかの制裁を加えなくてはこの場が収まらないと考えたのだろう。

ぱちん、ぱちんと、教室中に乾いた音を立てて、右から順番に僕らは殴られた。痛かったけど、先生に悪いことをしたなという後悔の気持ちの方がよっぽど大きかった。僕らが席に戻った後も、先生はずっとムスッとして、一日中不機嫌だった。

僕はこの先生をけっこう尊敬していたのかもしれない。中学に上がる頃には髪を伸ばして「鬼太郎」のような髪形になっていたから。
その中学でも体罰に関するエピソードが一つあった。

М先生は「いつもニコニコ現金払い」がキャッチフレーズの眼鏡のオジサンだった。「ゴキブリげんちゃん」と自分で言ってたけど、その愛称の出どころはまったく覚えていない。
いつも三十センチほどの竹の棒を持ち歩いていて、怒るとそれで生徒の頭を叩いた。僕も何度か叩かれたけど、体罰というよりは教師としてのイメージ作りのジェスチャーだったので、あんまり痛くなかった。この竹の棒にはかわいいゴキブリのマスコットがついていて、クラスのAさんのお姉さんがプレゼントしたものだった。茶色だとグロテスクだからなのか、青いゴキブリマスコットだった。

ある時、クラスの「エーゾー君」が悪さをした。具体的に何をやったかまでは覚えていないのだけど、普段から悪さばかりするやんちゃな生徒で、僕も一度ケンカをして、体重差で負けたことがある。太った憎々しい顔つきの男の子を想像してもらえば、だいたい間違っていない。

その「エーゾー君」がやらかした悪さがクラスで問題になって、とうとう先生が場を収める仕儀となった。先生がなんらかの制裁を加えないと、教室のみんなが納得しないし、「エーゾー君」も立場がない。だから先生、やっちゃってください、という場面である。

いつもなら先生が竹の棒で頭を叩けばそれで収まりそうな展開だったのだけど、この時はそれでは足りないと思ったのか、
「クラスのみんなに迷惑をかけたのだから、みんなにこれで叩いてもらいなさい」
と竹の棒を教室の一番前の席の子に手渡した。

「エーゾー君」も自分のいたずらの決着は甘んじて受ける覚悟だったようで、殊勝に頭を差し出して「やってくれ」と目をつぶった。こういう時は暗黙の了解というか、強くは叩かないのものだと思うのだけど、みんなそっと撫でる程度で済ましていた。僕もゴキブリマスコットのついた竹の棒を手渡され、やさしく「コツン」と叩いた。

でも中学生といってもまだ子供だから、中には思い切り叩く馬鹿な子がいるんじゃないかなと思ったら、やっぱりいた。彼女は力任せに、思い切りデカい音を立てて「ボコ!」と殴ったのだった。ちなみに土建会社の社長令嬢である。こういう場合に一番空気を読まないのは、育ちのいいわがままなお嬢様だと相場は決まっている。「ああ、やっちゃった」と僕は天を見上げた。

普段は強面の「エーゾー君」も、あまりの痛さに激しく泣き始めた。お嬢様はマスコット付きの竹の棒を手にしたまま、なんかキョドってる。クラスの抗議の視線が一斉に彼女に向かったからだ。私、何も悪いことしてないじゃない、なんでみんなそんな目で見るのよ!とでも言いたげである。……今風に言えば、完全に空気が読めていない。

この事態はさすがに先生も予見していなかったようで、
「すまん、俺のやり方が間違っていた。悪いのは先生だ。ごめん」
と教壇に額を押し当てて謝罪した。集団体罰はお嬢様のところで終了した。

体罰には「ケリをつける」という様式的な側面もあった。みそぎというか、罰を受けることで場を収めるという意味合いもあったのだ。もちろん、感情に任せて生徒を殴る不埒な先生も大勢いるので、体罰なんてあってはならないと僕は思うのだけど、通過儀礼としてのみそぎはある程度は必要なんだろうなとは考える。僕らの時代は先生が殴って、それでチャンチャンと終わりにできたのに、今の子供たちにはその安全装置みたいなものがなくて、いろいろめんどくさいだろうなと同情する。思えば僕らの時代はなんとも牧歌的なものだったのだ。

そう、これは男同士が殴り合いで友情を深めていた、昭和のお話なのである。

2018年4月15日 (日)

ショートショート……かな?


軒先に床几を引っ張り出して、爺さんがのんきに夕涼みをしている。
夏の暑い日のことだ。私は夏の制服が汗でべとつくのを気にしながら、
「お爺ちゃん、ただいま」
と気のない挨拶をした。
「おう」
と気のない返事が返ってきた。

昭和が終わろうという時代の話だ。先の戦争では南方まで行き来する輸送船に乗っていた爺ちゃんも、このごろは少しボケ始めていて、久美子という私の名前をよく失念する。貴ちゃんになったり、胡蝶になったりする。面白いので一度その名前で
「なあに」
と返事をしたら、私のお尻を撫でまわしてきたので、慌ててその手を叩いて逃げ出した。
お爺ちゃんはカラカラと陽気に笑いながら、また床几の上に横になった。

窓の下で綺麗に咲いていた朝顔は、花がしなびて鉢のふちに垂れ下がっている。
十年前も、五十年前も、同じような風景が下町にはあっただろう。たぶん十年後も五十年後も、やっぱり同じ風景がこの町に残っているはず。新幹線が走り、街に歌謡曲が流れるご時世になっても、爺ちゃんの時間感覚の中では銀座は大正時代の銀座のまま、チンチン電車が走り回り、モボとかモガとかがオシャレなパーラーでアイスクリンを食べているのだ。

「スマホがのう」
ある時、お爺ちゃんの隣で西瓜を食べていたら、聞きなれない言葉が飛び出してきた。
「何?」
「スマホだよ、スマホ」
お爺ちゃんはさも当たり前のことのように話を振ってくる。
「スマホって何よ」
「小さい電話だよ。お前は知らんのか」
……知らない。うちにあるのは昔ながらの黒電話だし、スマホなんて言葉は生まれてこの方聞いたこともない。大正時代には小型の電話のことをスマホとでも言ったのだろうか。
「あれは便利だのう。和江さんにもそのうち買ってあげよう」
爺ちゃんは私の頭をクルクルと撫でまわしながら満面の笑顔を見せる。ちびっこだった頃からの爺ちゃんの癖だ。あと、私は和江ではない。久美子だ。

スマホという謎のような言葉が気になって、図書館でいろいろ調べてみたのだけど、そんなものは百科事典のどこにも存在していなかった。父に質問してみても、
「軍隊の符丁か何かじゃないのか」
とのことであった。爺ちゃんは海軍の輸送船で南方まで行き来していたから、その可能性がもっとも高い。

「スマホって海軍の符丁でしょ」
そう本人に聞いてみると、
「阿保か、スマホがあれば日本はアメリカに勝っとったわ」
と笑い出した。なんだその最終兵器。
「じゃあスマホって何なのよ」
「カメラにもなるし、テレビにもなる。調べ物もすぐに見つかるし、音楽だって聴ける」
「ほう」
私はジャバラのついた二眼レフのカメラにブラウン管が搭載され、ブリタニカの百科事典と蓄音機のラッパの生えている奇妙奇天烈な物体を想像した。そいつが米軍の航空基地に襲い掛かり、B29を千切っては投げ、千切っては投げと八面六臂の大活躍をする。まるで怪獣映画のワンシーンだ。恐るべし最終兵器スマホ。帝国海軍はそんな秘密兵器を極秘裏に開発していたのか……そんなわけがない。

爺ちゃんは縁側で蚊取り線香の入った陶器のブタさんを眺めながら、
「スマホは便利じゃが、あれで街がすっかり衰退したのう。若者がスマホに夢中になるものだから、商店街も本屋も、みんな潰れてしまった」
と寂しそうにつぶやいた。
私の空想の中で秘密兵器スマホが商店街を破壊して回る姿が円谷プロのゴジラのノリで再現された。ジャバラの先のレンズから怪光線が発射され、八百屋の店先のキャベツやら大根やらが粉砕されていく。蓄音機のラッパから放たれた音響兵器により、本屋の本という本がビリビリに切り裂かれる。サザエさんが裸足で逃げ出していく。もう何が何だか訳が分からない。

「スマホって……怖いね」
わからないなりに感想を伝えてみると、爺ちゃんはウンウンと大きくうなずき、
「便利なものが人間を幸せにするとは限らん。便利だからってみんな切り詰めてしまったら、儲けるのは一握りの人間ばかりで、世のなかの大多数は貧乏人になってしまう。便利ってのは人に頼らないってことでもあるからな。人間が人間を支えあって、毎日を平穏に暮らしていく、それが一番の幸せだよ。みずゑさんにもそのうちわかるだろう」
と、満面の笑顔で私の頭を撫でまわした。
「爺ちゃん……私は久美子だよ」
爺ちゃんはカラカラと陽気に笑い出した。

爺ちゃんは昭和が平成になる少し前にポックリと大往生した。その後私は結婚し、一男一女の子宝にも恵まれた。彼らは今年高校二年生と中学の三年生になる。
今朝も朝食の用意をしていると、わき目も振らずにスマホとにらめっこだ。
「スマホばっかりいじってると人類が滅亡するわよ」
味噌汁を運びながら私が注意をすると、
「なんだよそれ」
「お母さん、大げさだよ」
とまるで相手にもしない。
やれやれ、今どきの子はつまらない。お爺ちゃんの話をしても、私の作り話だと思ってまるで信用してくれない。
でも私は確信しているのだ。お爺ちゃんはボケ始めて予知能力を発揮するミラクル爺さんになっていたのだと。


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