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2018年9月22日 (土)

ごっちゃ煮カオス的日常

 1

絵とかの話。

なんだかんだで五十年近く絵を描き続けている。
絵を描き始めたきっかけなんて、たいていの場合はよくわからないものだけど、
僕の場合ははっきりわかっている。
わかっていて、ああなるほど、だからそういう傾向なのかとも考える。

僕には二十歳ほど年齢の離れた従兄のお兄ちゃんがいるのだけど、
僕が絵を描き始めたのは、間違いなくこの方の影響である。

このお兄ちゃんは島根の出身で、とある電機メーカーに勤めていた。
食品関係の業務用冷蔵庫を作る最大手の会社で、
ベトナムまで漫画の取材で行ったとき、
大使公邸の調理場の冷蔵庫なんかもこの会社のものだったので、
「不思議な因縁だな」
と思いながら、漫画の中にせっせと描き込んだりしている。
ペンギンのマークの会社なので、知ってる人は「へえ」と思うんじゃないかなぁ。

この会社が業務用冷蔵庫を作り始めるきっかけは、このお兄ちゃんだったりする。
昭和四十年代、僕の父は名古屋の某製氷会社に勤めていたことがあって、
当時メーカーの名古屋支社に勤務していたお兄ちゃんは、
「業務用の氷ってどうやって作るんだろう」
と興味を持って、わざわざ見学に出向いたらしい。
父も本家の甥っ子の頼みだから、喜んで案内したことだろう。
まさかそれがそのまま甥っ子の会社の主力商品になろうとは、
考えもしなかっただろうけど。

このお兄ちゃんはときどきバイクに乗って父の家まで遊びにきていた。
川原通のアパートの前で、浴衣姿の自分が、お兄ちゃんに抱きかかえられてる写真がある。
たぶん二歳くらい。
さすがに物心も何もありゃしないので、まったく記憶に残っていない。
ただ、このお兄ちゃんは毎度遊びにやってきて、バイクや車の絵を描いてくれたそうな。
仕事柄、設計図や図案を描くのが得意だったし、機械マニアで乗り物が大好き。
子供相手に絵を描くとなれば、嬉々として趣味全開の絵を披露したことだろう。

だからなのか、僕が幼稚園くらいまで描いていたのは、なぜか車の絵ばかりだった。

 2

人間をまともに描き始めたのは高校生くらいになってからである。
それまではロボットとか、機械っぽいものが多かった。
このへん、露骨に従兄の影響なのだと思う。
絵といえば、メカなのだ。

ビバ・ロータリーエンジン!(従兄の愛車はマツダのコスモだった)

基本的にメカニックな発想で絵を描いているので、
頭の中で人体を動かそうとすれば、すべてがすべて「ミクロマン」になった。

ミクロマン……今の子は知らないだろうけど、昔はそういうオモチャがあったのだ。
小さな巨人♪小さな巨人♪いくぞー!ミ・ク・〇・マ~ン!!!
男の子が遊ぶリカちゃん人形みたいなもので、手のひらサイズなのに手足の関節が動いた。
洋もののバービーちゃんが日本でリカちゃん人形になったように、
GIジョーの日本版がミクロマンだった。
設定の上ではサイボーグ化された宇宙人で、資源を有効活用するために小型化されている。
宇宙船の中で「そうだ、小型化すればいいんだ!」と考えついて、
小型化した宇宙人たちが船内を地球のように改造していく様子は、
子供心にも魂の震えるような感動を覚えた。(漫画版を愛読していた)
まあ、実際はおもちゃ会社が子供の手軽な玩具にするために仕掛けた戦略なんだけどね。

このへんのオモチャの歴史というのは、踏み込んでみるとちょっと面白いかもしれない。
まずアメリカ発のGIジョーがあった。
女の子が着せ替え人形に嵌るなら、男の子にもそういうものがあってもいいってんで、
だったら海兵隊やら陸軍の軍服を着せられる人形を作ろうと考えた、
で、ライフルやら手りゅう弾を使うのだから、手足の関節を可動式にして、
いろんなポーズを取らせようと考えた。で、そういうオモチャを大量生産してしまうのが、
当時のアメリカの恐ろしさなのだな。

このオモチャは当然日本にも入ってきたのだけど、どうだろう、ヒットしたのかな。
なんせ戦後に軍隊が解体されて平和主義のぬるま湯にどっぷりつかっていたから、
「軍人人形」
という発想がそもそも子供たちに受けなかったように思う。
大日本帝国が存続していたら、いろんな軍人さんの人形が作られたんだろうけど……

でも全身の関節が稼働する人形というのは、ものすごく魅力的だった。
このアイデアは使いようによっては子供たちに受けるに違いない、
そこで日本人が考えたのが、いかにも日本人なのだけど、
「サイボーグジョー」というクリスタルボーイ(コブラ)みたいな透明人形だった。
なんと、透明なボディで中のメカニックな機構がすべて丸見えなのだ!
この人形は僕も持ってたなぁ。
関節が取り外し可能なのが仇になって、おもちゃ箱の中でバラバラ死体になってたけど。

当時デパートのおもちゃ売り場に行くと、サイボーグジョーに着せられる服が売ってた。
まあ、人形用の着ぐるみなのだけど、仮面ライダーやらキカイダーやら、
なるほどと思わせるものもあったけど、ウルトラマンとかゴジラとか、
「それはサイボーグと違う!」
みたいなものも多々あった。(メカゴジラは最初ゴジラの着ぐるみを着て登場したな、そういえば)
ファイアーマンもあったな。なんとなく覚えてる。

本体が売れれば別売りのアクタースーツも売れるわけで、
これはあれだ、プリンターが売れればインクカートリッジが売れるみたいなもので、
おもちゃ会社としてはものすごくおいしい商売に思えたんだろうな。
でもまあ、サイボーグジョーは一時のあだ花としてはかなく消えていったのであった。

そういえばうちの近所に日泰寺ってお寺があって、
毎月21日の弘法さんにはいろんな屋台が出てたけど、
そこでパチモンのサイボーグジョーが売ってて、それを買った記憶がある。
透明なボディの下のメカニックな機構が金色のおがくずみたいなのだった。
なんであんなもん買っちゃったのかな、僕は。

サイボーグジョーのアイデアは「もっと安い商品にしなくちゃ売れない」
という判断に落ち着いたのだと思う。そこでコストダウンのため、小型化された、
それが上記の「ミクロマン」になったんじゃないかなぁ。これは大ヒットした。
ミクロマンを乗せられる巨大ロボとか、関連商品も多数存在した。
「アクロイヤー」なんて悪者の商品まで存在したしね。

僕らの世代にとって関節が動く人形といえば「ミクロマン」だった。
レオナルド・ダ・ビンチは人体解剖の知識で人体を想像しただろうけど、
少なくとも僕は、ミクロマンでしか人体の動きを思い浮かべることができない。
人体解剖なんてやったことがないもの。
でも、幸か不幸かで言ったら、ミクロマンのおかげで頭の中の人体図を動かせるわけで、
それはそれで、ものすごく役に立ってるわけなんだよな。

今でも美少女フィギュアなんかがポピュラーになってるけど、
二次元を強引に三次元に落とし込むという、造形師さんたちの悪戦苦闘が、
逆に絵師さんや漫画家、アニメのクリエイターさんたちに影響を与えて、
「手足のラインはこうすればカッコいいのか!」
みたいな「ひらめき」につながっているように思える。

綺麗なライン、カッコいいポーズ、そういうのって宇宙の法則にのっとったもので、
つきつめれば三次元の人間や動物、植物の形態の中に普遍的に存在しているものだから。
いくら二次元の絵を描きなぐっても、刺激的なラインは見つからない。

 3

この齢になって、いよいよはっきり確信しているのだけど、
絵でもなんでも大切なのは頭の中でイメージする能力だと思う。
ちょっと話が脱線するけど(いや、基本的に脱線してばっかりなんだけど)
僕が最近になって志賀直哉を読み返していたのは、
この方が頭の中で具体的な情景をイメージし、それを言葉にする能力を持っていたからで、
その能力は芥川龍之介をして「なんであんな文章が書けるんだ?」と絶望せしめ、
それに答えた夏目漱石に「文章を書こうなんて思ってないからだ。俺にもあれは書けん」
と言わしめた程のものである。

例えば駅のホーム越しに会話している二人の人間がいて、その会話が通常文だと、
志賀直哉には耐えられなかった。
「どう考えても大声で会話しなきゃ通じないのに、なんで小声の会話なんだ!」
となる。頭の中に具体的な情景を再現して、その中で喋らせないと気が済まないのだ。

だから、雪の日を書いた短編なんかだと、志賀直哉の文章は本当に寒そうなのである。
雪の日の寒空の下に意識が飛んで行って、そこから文章が流れ出してる。
それを読む読者にはそういう空気は必ず伝わる。
芥川にしても夏目漱石にしても、お話を頭の中でこしらえてそれを文章にする人だから、
言葉の背後に明確なイメージが存在する詩文のような文章はなかなか書けないし、
書けない方が作品には有効なんだろうなと思う。
いちいちイメージに引きずられていたら、論理的な文章は組み立てられない。

まあ、論理も明確な一つのイメージではあるのだけど。

話を絵に戻す。
ここ最近は実録ものみたいな漫画を描いているので、
人物を描くにしてもいちいちご本人の写真を見ながら書いていたりする。
僕個人としては「漫画なんて記号だから面白い絵の方がいいだろう」と考えてるけど、
社長が(笑)
まあ、リアル路線を選択せざるを得ない状況なのである。

こうなって初めて自分の絵をしみじみ考察することになったのだけど、
基本の顔は自分の顔なのだってのは、嫌って程実感している。
取り立てて面白い顔でもないのだけど、それほど変な顔でもないので、
割と普通に、善男善女の絵は描けてしまう。
目鼻の位置や口の表情なんかは自分のがそのまま反映されているし、
むしろそれ以外の表情を出そうとすると、手間暇がいろいろかかったりもする。

今描いている天香膳一さんにしても、僕の顔とはずいぶん違っている。
骨格レベルで全然別物である。
これをうっかり手癖で描こうものなら、ご本人とは全く別物の、僕みたいな顔になる。
だからいちいち写真を確認しながら絵を描いているわけだけど、
その過程がちょっと面白いなとこの頃は考えているのだ。

最初のうちは自分の顔を天香さんの顔の部品の配置に変更する感じだった。
両目の位置を離し気味にし(当社比)顎を引いて前歯を少し前面に押し出す(当社比)
で、その出した分だけ頭の後頭部の位置を詰め気味にする(当社比)
するとまあ、天香さんぽい顔にはなる。
この段階では僕の頭の中に天香さんの顔のイメージはなかった。
「どんな顔だったかな」
と思い出そうとしても、なぜか中学時代の加藤君の顔が出てきてしまったりした。

そのうち、イメージがどんどん固まってくると、キャラクターとして頭に描いて、
それを動かせるようになってきた。
ああ、頭の中にイメージを作り上げるってのが、絵を描く上での肝なのだなと、
なんとなく実感するようになってきた。

こうなってくると他にもいろいろ応用してみたくなるのが僕の性分で、
志賀直哉の文章を読み返すようになったのも、その流れだったりする。
文章でも頭の中に明確なイメージがあって、それに語らせるのが本当なんだろうなと、
ちょっと思ったのだ。

ちょっとエキセントリックな話になるけど、
降霊術のような感じで文章を書く人もいる。例えば太宰治。
「女子高生になぁれ!」と唱えれば女子高生が語り始め、
「裏切り者のユダになぁれ!」と唱えれば、ユダがイエスについて語り始める。
太宰治の中には女子高生の太宰がいて、裏切り者のユダの太宰がいた。
それは長年かかって蓄積されたイメージであって、それがふとした拍子に、
文章を通じて語り始める感じなのだ。
ユダの時はべろべろに酔っぱらって編集者に口述筆記させたそうだけど。

そういうことって本当に可能なのかなと思って、若いころに自分でもやってみたんだけど、
なかなかうまくはいかない。
コツとしては、完全に無我の境地になることのようで、
ノートの上の文字をできるだけ見ないように、頭の中で文章を読み返さないように、
薄目になって、ただ頭の中に聞こえてきた声を書き綴る感じではないかと思う。
そうすればあなたの中に眠っている女子高生が、思いもかけないおしゃべりを始める
……かもしれない。

結局、絵や文章で表現できるのは自分の中に蓄積されたイメージの総量で、
それをアウトプットするのが、デッサン力や文章力なのだと思う。
後者は重要度では前者ほどではないかもしれないけど、
イメージする力は、たぶん絶対に必要。
時にそれだけで技術的な課題を乗り越えてしまうこともある。
かわいい女の子を描きたいという一念だけで、デッサン無視の美女を描き上げる人を、
僕は何人も見てきた。
逆にいくらデッサン力があっても、イメージの女の子が希薄だと、
ただの木偶の坊に成り下がったりもする。
アニメ監督の宮崎駿が「この頃の若いものはアニメ絵ばっかり描きやがる」と怒ったのは、
アニメ絵には記号化された情緒なり色気しか感じられないからだ。

そこで月並みな結論だけど、クリエイターはイメージを豊かにするために、
旅をしろ、もっと人と付き合え、みたいな話がでてくるわけだけど、
そこまでアクティブでなくても、今目の前にある風景をじっくり見るだけでも、
イメージは割とふくらんでくるんじゃないかなぁ。

すんません、最近考えていることをまとめて書き出したらごっちゃ煮の文章になりました。
こういう文章って一度どこかに放り投げてしまって、
時間をおいてからもう一度書き直すと、割とまともな文章になるはずなんだけど、
ほれ、名古屋人だから。ごっちゃ煮のカオス状態が好きだったりするから。
これはこれでわけが分からないなりに自分には面白かったりもするのだな。


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