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思い出

2013年12月 9日 (月)

敗者復活 その4

駄文紹介の4回目。
思い出としては笑えないので没にしたものです。

------------------------------------------------

新谷かおる先生の傑作漫画に「エリア88」というのがある。
有名な作品なので今さら解説もないのだけど、
日本の民間航空会社のパイロットが、親友に裏切られ、
中東の激戦地帯で、戦闘機乗りとして闘い続けるという、
とても面白い漫画である。

温厚な青年パイロットが、地獄の戦場で空の狼となり、
日本に戻るため、恋人の元へと帰るために殺戮を続けるというこの壮絶な物語は、
漫画史に残る傑作だと、自分は考える。

ところで、これと似たような経験を、自分は一度したことがある。
スケールはかなり違うのだけど。

たぶん、高校の二年か三年生くらいじゃないかと思う。
夏の暑い盛りに、古い友人から電話がかかってきた。
「かわすみ、お前、絵が得意だったよな」
「うん、まあ、程々にはね」
「君のその才能を生かしたアルバイトがあるんだけど、やらないか」
「どういうバイトなんだ」
「来てみればわかるって。他にも何人か誘ってあるからさ」

今なら、この会話の段階で怪しさ120%なのだけど、
当時は「友情」というものを純粋に信じていたし、
小学校、中学校と馬鹿をやった仲間ではあったので、そのバイトに参加することにした。

土曜日の早朝だったかな、名古屋の南の方のどこぞの地下鉄の駅で地上に出ると、
三人くらい、中学時代の馬鹿仲間が集まっていた。
卒業後の進路はみんなバラバラで、工業高校だったり進学校だったりした。
しかし、そこに電話をかけてきた友人Nの姿はなかった。

そのかわり、ガタイのいい土方の親父さんたちが5,6人、我々を取り囲んだ。
「お前らがNの友達か」
「はあ……」
「じゃあ、これから現場に行くから、みんなつなぎに着替えな」

我々はライトバンの中から引きずり出された湿ったつなぎを身にまとい、
その「現場」とやらへ連れて行かれた。

「まあしかし、絵の才能が必要と言うのだから、ペンキ塗りか何かだろう」
と、この段階ではまだ友人Nの言葉を信じていたのだけど、
現場がどこぞの中学校の家庭科室で、
しかもその床が完全に取り払われ、土がむき出しとなり、
その土を工事用一輪車で外に運ぶ仕事だとわかったときに、
自分は「裏切り」の苦さを存分に味わうこととなった。

普段、運動なんかしないなまった体で、
一輪車に土を盛り、細長い一枚板を綱渡りのように登って、
廊下まで持ち上げる、これだけで全身の筋肉が悲鳴をあげる。
そこからさらに、青いシートを敷いた長い廊下を延々と進んで、
非常口からまた一枚板の上を下って、
校舎の外にザーッと土を捨てる。
空になった一輪車を押してまた家庭科室に戻る。
これをひたすら何十回も繰り返す。

何処にも絵の才能を使う余地がない。

だいたい、本人が顔を出さないのがおかしい。
友人を売りとばして、奴はいったい何をやっているのだ。

彼は中学卒業後、就職して堅実に働いているという話だった。
年に数回、中学時代の「仲間」で集まって、ボーリングをしたり、
スケートをしたり、楽しく「友達」をやったりした。

今回もそのノリだろうと思ったのだけど、
自分の考えは、激烈に甘かったようだ。

昼になって、仕出し弁当の昼食が出た。
(この当時は今ほどコンビニは普及していなかった)
自分はやれやれと思いながら、とりあえず腹が減っていたので完食したのだけど、
一緒に騙されたK君は、胃が食べ物を受け付けないようで、
炭酸飲料をなめるように口にするだけだった。
M君はしんどそうに日影で俯いていた。

それから夕方まで、過酷な労働は続いたのだけど、
もう立てねぇ、この地獄から一刻も早く解放してくれ、となったところで、
裏切り者Nがお調子メガネをピカピカさせながら、
「よう、元気?」
なんて感じで現れた。

悔しいけれど、体はボロボロだし、
長時間ガタイのいい親父どもにこき使われた後だったので、
知ってる顔が現れたのがちょっとうれしかった。

「何が君の才能を生かしたアルバイトだよ」
と睨みつけると、
「俺、そんなこと言ったっけ?」
とすっとぼける。
確か給料は一日働いて七千円だったと思うけど、
まったく割に合わないバイトだった。

ちなみに、人生最初のアルバイトだったりする。

そのあと、お詫びと称して、Nの運転する車に乗って、
どこぞのスナックまで飲みに連れて行かれた。
スピードキチガイのNの運転する車は、商店街を猛スピードで突っ切り、
「ああ、新聞に載ってる若者五人乗りの暴走車が大破ってこの状況なんだろうな」
と、恐怖に青ざめた。

馬鹿な若者として新聞に載るのはすごく嫌だけど、
今の自分はどう考えても馬鹿な若者なのでどうしょうもない。

ちなみに後になって彼が無免許であることを知った。

「河原で兄貴の車を運転して覚えたんだ」
と、酒を飲みながら話すNだった。

友達は選ぶものだよなと、心から思った。

まったく自慢にも何にもならないし、
むしろカッコ悪くて情けない話なのだけど、
Nとしては、仕事で急遽人を集めなくてはならなくなって、
知り合いをかき集めないとかなりヤバイ状況だったのだろう。
今ならそこまでは想像できるし、それはまあ、仕方ないかなとも思うのだけど、
やっぱり、やり方が汚い。

筋肉痛は数日の間全身を苛んだ。
翌日に「月曜日も仕事あるんだけど来ない?」
と誘われたけど、全力でお断りした。

どうしょうもなく残念な思い出である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

肉体労働って一か月くらい辛抱して体を作らないと、
ひたすらしんどいもんですよね。

P1010359

東武東上線、大山駅横の踏切。
この写真自体、トレスして何かに使ったと思います。

最近、歩きスマホをしている人をよく見かけますが、
本当にあれだけは止めた方がいいです。
自分も何回か「歩き小説」をやったことがありますが、
車が急に出て来ても、「きょとん」とするだけで、
自分が今危ない目に合ったという事さえわからなかったりします。

せっかく親からもらった命なので最期まで大切に使いたいものです。



2013年9月27日 (金)

古い日記

古い外付けハードディスクの中に昔の日記があったので、ちょっと抜粋してみます。

平成11年12月13日

なにも書くことなどないのだが、ブラインドタッチを覚えるために心に移りゆくよしなきことでも書いてみようかと思う。
パソコンなんてものを買ったのは今年の10月16日頃のことだ。
自分では将来これでシナリオが書けるくらいのところまではいきたいと思っている。しかしなかなか難しい。キーボードを見ながらだったらけっこう早く打ち込めるのだが、画面を見ながらだとどうしても考え考えになってしまう。

★(今はタッチタイピングとか言うそうな)

平成12年1月18日

「大使閣下」は文化庁のメディア芸術祭の漫画部門にノミネートされていたのだけどあれからなにもいってこないということはやはり賞は取れなかったんだろうな。
不思議なもので「取れそうだ」ということになるとそれまでどんなに賞に無関心であってもちょっと手に入れてみたいという気分になる。自分の中にこういった下衆な考えがあるというのは面白くないことではあるが、下衆でなけりゃ下衆な人間は描けない訳で、漫画家という職業上これはしょうがないことだ、なんてね。 

★(ノミネートされていたことすら、日記読むまで忘れていた)

平成12年1月20日

新聞の書評を読んでいると「この本を読みたいな」ということがよくある。その場でメモを取れば問題は簡単なのだけど、根っからの不精者なので「あとでいいや」と思い、結局そのままになってしまう。何日かして本屋に立ち寄って「そういえば面白そうな本があったんだよな」と思ってもあとの祭り、読みたいという思いだけを残してその本のタイトルも著者名も永遠にわからない羽目になる。こうして闇の彼方に消えていく本は山のようにあるのだけど、たまにふと手にした本が大昔に書評で取り上げられていた本だったりすると長い間引き裂かれていた恋人同士が再会したような気分になる。そして、その本が思ったより全然詰まらなかったりすると自分の今までの思いこみはなんだったのだろうとちょっとだけ悲しい気分になる。

○○さんは以前編集部にネームの持ち込みに行って、××さんにチェックを入れられたとき、「俺、これ描いてみたいです」と言って勝手に作画に入ってしまったことがあった。これはもちろん論外である。漫画家は編集部からの注文があって始めて描けるのであって、自分の趣味嗜好を満足させるために描くのはアマチュアのする事である。
しかし世の中どう転ぶかわかったものじゃない。こうして描き上げられた○○さんの原稿は「代原」として編集部に買い取られ、今掲載の機会を虎視眈々と狙っている。

★(これは編集部の方が太っ腹だ)

平成12年1月22日

先日のことだがモーニング編集部の××さんのところにテレビ局から電話があって、「炎のチャ○ンジャー」という番組で大使閣下を使いたいということであった。なんでも百時間絶食出来たら百万円という企画で料理漫画を無理矢理読ませるんだそうな。当日はしっかりビデオに録画して観たのであるが、期待に反して大使閣下は一度も出てこなかった。よくよく考えてみると飢えた人間に絵に描いた料理を見せたっておもしろかないのだ。これは企画のミスである。

★(すごく期待していたらしい)

平成12年1月24日

昨日長生き双子姉妹の「金さん銀さん」の金さんの方がお亡くなりになった。百七才だった。大往生であるが正直もうちょっと長生きしてもらいたかった。世界レベルのニュースソースになるくらいまで。

★(地元名古屋の有名人でした)

平成12年2月25日

もうすぐ3月だ。大使閣下の話が来たのが98年の3月下旬だから、あれからもう2年になる。早いというか何というか、よくぞここまで続いたものだと思う。あと一年はとてももたないであろう。編集長が初めの頃言っていたように、十巻まで行けば万々歳である。

★(長く続けさせていただき、ありがとうございました)

平成12年3月14日(火)8:28 AM

ネット上に「死んだ漫画家」の話題があって、おかげで「かがみあきら」さんの死因がわかった。自律神経失調症で暑がりなため、水風呂に入って、そのあと扇風機を回しながら寝てしまい、心不全か何かを起こしたんだそうな。
「かがみあきら」が亡くなったとき、僕は高校生で、「かがみあきら」の本はたいていそろえていた。はっきりとした個性を持った作家さんだったと思う。ある意味、八十年代の漫画の方向性を形作った人だと僕は思う。(アニメ的なものと漫画的なものの融合と言った意味で)

★(絵的な影響はかなり受けていると思う)

平成12年3月20日(月)3:54 AM

土曜日に講談社の国際部から韓国語版の大使閣下一巻を送ってきた。タイトルもハングル。中身もハングル。僕が描き込んだ擬音や効果音まで見事にアンニョンハシムニ化している。実家の隣に韓国人の奥さんがいるのでその人に贈呈するつもり。

★(最初の頃だけもらっていただいていた)

平成13年10月14日

ニューヨークでは炭そ菌が大ブレイク中。マスコミや国連なんかに白い粉の入った封筒が送りつけられてきて、その粉に触れた人が病院に担ぎ込まれる騒ぎになっているとか。今のところ詳細は不明だが、先ほどの同時多発テロの関連でイスラムの過激派ゲリラがやっているのではないか、といわれている。

このことでふと思ったのは、なぜか出口王仁三郎だったりする。この人が生前「日本で起きることは世界で起こるんじゃ」とのたまっていたのだが、それは「北海道は北米大陸じゃ」とか、「四国はオーストラリアじゃ」とか、「本州はユーラシア大陸じゃ」とか、まあ、そういうくだらない話なのだが……ちなみに九州は南米大陸だったと思う。……このテロ騒動の成り行きが数年前の「オウム真理教」のサリン事件によく似ていて、まさしく「日本で起きることは世界で起こるんじゃ」な感じがする。アフガニスタンを攻撃するアメリカ軍を見ていても、あの上九一色村のサティアンに機動隊がのり込んでいった時の映像がなんとなくダブってくる。

オウムの事件は風化してしまったけど、あの事件で日本という国は何か大きく「歪んだ」ような気がする。あの事件のあとに神戸の連続殺人事件が起こったし、犯罪の質が極端に陰湿で不気味になったように思う。僕は出口王仁三郎が何を言ってもギャグとしか思わない人間だが、21世紀の世界の展望に対しては、何か暗澹たる気持ちになり始めている。

★(何か大事件が起こるたび、神経質になる人間なんです)

平成13年10月21日 日曜日

BGMにルクレールを流してるんだけど、いいね、これ。フランスのバロック音楽なんだけど、華やかで感覚的。ああ、クラシックにはこういう世界もあったんだな、これにはまっちゃうとロマン派だの現代音楽だのは馬鹿らしくって聴いてられなくなるよな、ってな感じ。

でもシベリウスも良かったりするんで、人間の感覚なんて信用できません。ユッカ=ペッカ・サラステ指揮、フィンランド放送交響楽団による、いわば本家本元による演奏ですな。交響曲3番、6番、7番が入っております。自分がこれを買った理由はただ一つ、「まともな6番交響曲が聴きたい!」……というわけで、今回はシベリウスの交響曲6番物語ですな。

昔、自分がまだ江戸川区に住んでいたころ、ラジオでクラシック放送を聴く事が多かったわけです。今もやってるけど、渡辺徹のおしゃべりクラシックなんてのを腹を抱えて聴いていた時代だわな。

ラジオのクラシック番組だと、リクエストをする人の個人的な思い出だとか、パーソナリティーの思い入れたっぷりの作品紹介とかがあって、普通にCDとかで聴くのとはまた違った面白さがあるわけです。たとえば、戦前浅草かどこかの舞台で悲壮交響曲の第一楽章のあの美しいメロディーを聴いて、「俺は大陸に行くんだ!」と若い胸をかきむしられる様な高揚感を感じた男性がいて、実際満州に行ってしまったらしいんだけど、その後ソ連軍の参戦とともにシベリア送りになってしまい、艱難辛苦の末、ようやく日本に帰国した後、あの交響曲がロスケの作ったものだと知り、「ある意味願い通りになったわけだ」と苦笑交じりに話している人がいたりする。自分は今でも悲壮交響曲を聴くと、この老紳士のリクエストの事を思い出すわけです。

あと、やはり戦前、友との別れにベートーヴェンの「クロイッエルソナタ」を聴いたとか、その曲を聴くとよみがえってくるリクエストのコメントが結構ありますね。

で、シベリウスの交響曲第6番なんだけど、これはパーソナリティーの作曲家の先生が「これは宮沢賢治の銀河鉄道の夜みたいな曲だ!」と熱く語っていた思い出の曲です。宮沢賢治フリークで、銀河鉄道の夜なら何回読んでるか分からないほどの自分としては、「どんな曲やねん」と半ば馬鹿にしたような気持ちでラジオを聴いていたのだけど、流れてきた曲を聴いて、本当にびっくりしたね。これ、まるで銀河鉄道の夜のために書かれたような曲だよ、ってさ。実際、賢治の執筆年代と、シベリウスの作曲年代ってのはほぼ同時期らしい。時代の空気、ってのも微妙に作用しているんだろうけど、それにしても、第一楽章の冒頭の神秘的な感じ、そして、主題部の汽車がミルキーウェイを走っているようなリズムとか、まったく賢治の世界そのままなので、のぼせ上がった自分はすぐにCD屋まで走りましたよ。

その作曲家の先生は「カラヤンの演奏が最高!」とのたまっておられたので、自分も迷うことなくそれを買いました。カラヤン聴いて感動したためしがないのに。

★(省略。以下延々曲の感想)

AM 06:09

ネームが進まなくて、ついまたPCに手を出してしまう。なんだか眠くなってきたし。肩もまた、凝り始めてるんだよな。休むか、今日?

田中真○子外務大臣をモデルにした話なわけだけど、肝心な真○子大臣のデザインが決まらないんだよね。そっくりさんにするか、それとも全然違った感じにするか。

★(結局正反対で描いてますね)

……以上です。
自分はかなり懐かしいのですが、読んでくださる方にとっては、
「今と大して変わらない」
と感じるかもしれません。
文体なんてものは二十代で完成してしまうと大きくは変化しないのかもしれない。

P1000331

ストロンガー。後ろがサザエボン。実家の母がくれた。

2013年6月24日 (月)

ランドセルの話

日本の小学生というのはランドセルを背負って学校に通います。

アメリカやヨーロッパでは、教科書をいちいち家に持ち帰らないそうで、
大量の教科書を収納するランドセルのようなものが発展しなかったようです。
ところが日本では戦後になって、それまで一部の層しか使っていなかったランドセルが、
全国の小学生の標準的な収納鞄として定着しました。
このへん、戦後の軍需産業としての背嚢を作る職人の事情とか、
いろいろ勘ぐってしまいたくなるのですが、
例えランドセルが軍隊の背嚢を起源とするものであっても、
その語源がオランダ語のランセルで、軍隊の備品の名称であるにしても、
丸みを帯びた革の曲線のかわいらしさとか、赤やら黒やらの色の美しさとか、
ランドセルには道具として完成された品格があるように、自分には思えます。

実際、自分が子供の頃のランドセルと、現在のランドセルとでは、
それほど大きな違いがないように感じられます。トランペットやバイオリンのように、
道具として一つの究極の形にまで達している。
こういう日常のものに対する徹底的なこだわりは、いかにも日本人らしい。

自分の子供の頃もこのランドセルを背負って集団登校をしていました。

「分団」

と言っていましたけど、町内ごとに一年生から六年生まで集まって、
時間になると二列縦隊で学校まで「行軍」するアレです。

ランドセルはもともと軍隊の背嚢が進化したものですから、
行軍と言うのはあながち間違いでないような気がします。

ときどきは、上級生の命令でジャンケンをして
負けた人がランドセルを前後に連結させて交代で歩いたりもしました。
当時は子供も多かったですから、十個くらい連結していたかもしれない。

1a
1b
そんなこんなで六年間使い倒したランドセルなのですが、
さすがに最後の方はボロボロで、肩バンドの付け根がへたっていました。
緑色の毛糸で補強していた記憶があります。

六年生の秋ごろのことですが、
授業が終わってクラスの男子何人かと下校するとき、
北門のあたりで女の子の集団と口論になって、ちょっとした乱闘になりました。
それで、忘れもしない、森と言う女の子なのですが、
力任せに僕のランドセルを引っ張って、肩バンドを完全に破壊してしまった。
自分も驚きましたが、あっちも相当あせったと思います。
「ごめんなさい……」
と頭を下げてきました。まあ、もともと壊れそうな部分だったので、仕方ないです。

ただ、どう修理しても直りそうになかったので、翌日に担任の先生に見てもらって、
新しい鞄を使う許可をもらいました。
もちろん、普通の肩掛け鞄です。
卒業まであと数か月というところでしたし、
その数か月のためにランドセルを買うというのは、ちょっと馬鹿馬鹿しい話ですから。

休みの日に親と鞄を選びに行って、月曜日に新しい鞄を下げて登校しました。
まわりがみんなランドセルなのに、一人だけショルダーバックというのは、
なかなか優越感を感じさせるものでした。
自分はクラスでも背の高い方でしたし、半ズボンを止めて長ズボンを履き始めた頃で、
一足先にランドセルを卒業できたのは、自分としては願ったりかなったりだったのです。
森さん、よくぞランドセルを破壊してくれたと、内心では感謝していました。

ところが、それから数日して、クラスの何人かがランドセルをやめて、
普通カバンで登校してきました。
「どう、俺のカバンいいでしょう?」
後ろの席のおしゃれ番長のY君が緑のカバンを嬉しそうに見せてくれました。

自分のより高そうでカッコいい鞄だったのを覚えています。

でも、これはさすがに問題になるんじゃないかなと心の中でドキドキしていたのですが、
果たして、朝のホームルームで担任の先生が激怒しました。

「お前ら何やってるんだ」

「だってかわすみは普通のカバンで登校してるじゃないですが」
生徒の一人が強い調子で反論しましたが、先生には通じない。
「ランドセルが壊れたんだからしょうがないだろう」
とたしなめます。
「どうしてもと言うなら、先生のところにランドセルを持ってきなさい。壊れてるかどうか確認するから」
と、きちんと道理を立てて説明しました。

なにせ、六年生の秋ですから、
みんなとっととランドセルなんて羞恥プレイからは解放されたかったのです。
自分ですら「ヤッホー!」てな気分でしたから、
クラスのお洒落さんたちにはたまらなくうらやましかったのでしょう。
翌日から元の通りみんなランドセルで登校しましたが、
無駄な出費をさせてしまったことで、自分は少し申し訳ない気分になりました。

ランドセルと言うのは、やはり六年間使い倒してこそです。
どんなに羞恥プレイであっても、卒業式までランドセルで通ったという思い出の方が、
一時の解放感よりよっぽど大切だと、今は思います。(みんなの視線が痛かったし)

壊れたランドセルは、あれからどうなったかと言いますと、
いくら壊れたからといって、六年間使った愛着もありましたので、捨てることも出来ず、
小物入れか何かみたいになって、机の脇にずいぶん長いこと放置されていました。
自分が上京するまでは実家にあったかもしれない。
けれど今は実家も引っ越しましたし、たぶんその時に処分されたのではないかと思います。

1c
話は変わりますけど、この頃ブログ用にイラストをちょこちょこアップしてます。
追加したのは「ヨーヨーの思い出」と「名古屋ローカル」です。
お暇な折など、目を通していただければありがたいです。

2013年4月19日 (金)

名古屋ローカル

 1

名古屋のローカルの番組で、「天才クイズ」というのがあった。
小学生の子供たちがボーイズチームとガールズチームに分かれて、
○か×かでクイズに答えていく。

「アメリカの首都はニューヨークである。○か×か!」

舞台中央の博士の人形(上半身のみで、でかい)が出題する。
子供たちは両手に持った○の帽子か×の帽子かのどちらかをかぶる。

「答えはっ!ノーーーーーーーーっ!」

博士が高らかに判定を下し、間違えた子供たちはその場に座ったのだと思う。
「アメリカ横断ウルトラクイズ」の子供版……というか歴史的にはこっちの方が先だ。

確かCBC放送でチャンネルは5チャンネル。土曜日の五時半に三十分の番組だった。

01

小学校の低学年の頃は、この番組や「マゴベエ探偵団」なんかは見ていたと思うけど、
裏番組がアニメの「ザンボット3」だったり「ダイターン3」だったりしたので、
自然と見なくなっていった。

そんな小学校4年生の時、クラスの男子が回答者として出演するというので、
担任の美人先生とクラスの何人かで応援に行くことになった。
公開収録というやつだ。

美人先生というのは、新任一年目の澤先生で、本当に美人だった。
自分のイメージする美人のイメージは、半分くらいこの先生じゃないかと思う。

自分は友達の応援というよりは、美人先生と課外授業だ!やったー!って感じで、
すっかりご機嫌であった。

02

03

友達は番組開始早々に脱落した。

04

番組収録後、ステージの近くまでみんなで降りていって、
その友達を慰労したのだけど、
その時、テレビのセットをかなりまじかで見て、
博士の人形の巨大さにちょっとびっくりした。
収録後なので、静止したままウンともスンとも言わないのも不気味だと思った。
中に人間が入って動かしていたわけで、当然そうなる。

収録現場を直接見てしまうと、やっぱり愛着が湧いてくるので、
それから一年くらいはこの番組をもう一度観るようになった。
おかげで、自分は裏番組の「機動戦士ガンダム」をリアルタイムで見ていない。

以上が小学校四年生の終わり頃の話で、それから何年か時間が飛ぶ。

高校生の時に運動会の準備で巨大な張りぼてを作ったのだけど、
なんつーか、木材で骨組みを作って、表面を新聞紙で重ね貼りしたんだと思う。
全高2.5メートルくらいの鬼太郎で、バレーボールの目玉の親父を肩に乗っけた。
夜遅くまで残って、内部でさだまさしファンの近藤君と
「恋愛症候群 -その発病及び傾向と対策に関する一考察-」
を歌いながら作業していた記憶がある。……よくこんな早口言葉みたいな曲を歌えたな。

で、その巨大鬼太郎が名古屋の人なら大体知ってる「天才クイズ」の博士っぽいよね、
という話になったとき、クラスの男子で寡黙な優男がいたのだけど、その子が、
「あの人形の中、うちの親父」
と言い出して、クラス中が「えーーーー!」と大騒ぎになった。
発言した本人が、クラスの反応にびびっていた。

自分は目の前で彼の親父さんが博士の頭をクルクル回し、口をパクパクさせていたのを、
実際に見ていたわけで、なんか、世間て狭いよなと妙な感慨にふけった。
いや、実際名古屋って小さいんだけどさ。

「天才クイズ」はその後も放送は続いていて、
21世紀の初頭までは同じチャンネルの同じ時間にやっていたようだ。
名古屋ローカルの番組というのは、中京テレビの「お笑いマンガ道場」とか
NHK名古屋の「中学生日記」とか、
全国区で有名なのもあるけど、「天才クイズ」は中部圏の人しか知らないかもしれない。


 2

「中学生日記」といえば、クラスの女の子が出演したことがある。
中学生日記だから中学生の頃の話だ。
突然、テレビに出るよとクラスで発表して、
それまで彼女がそんな裏稼業をやっているとは知らなかったので、驚いた。

この女の子は新体操部で、ピンクのレオタードを着ていたように思う。

当時、部活の時間になると体育館の半分を卓球部が占拠し、
残りの半分を剣道部と新体操部が使っていた。
剣道部が「わーーー!」って感じで打ち込み稽古をした後、
その同じ場所でピンクのレオタード軍団がボールを持って踊りを始める。
自分たち剣道部は面をつけたまま、彼女たちが踊るのをじーーーーっと見ていた。
普段セーラー服を着ているクラスの女の子が、きわどい恰好できわどいポーズを取るのは、
そりゃあ、ドキドキものなわけで、見るなという方が難しい。
面がね越しだからわからないだろうと思っていたけれど、
後で聞いたらしっかりバレていたらしい。

この新体操部はやたらかわいい女の子が多かったのだけど、そのうちの一人が、
「中学生日記」に出演するのだという。
「そんなもん、見ねぇよ」
なんて興味のないふりをする男子が多かったけれど、たぶんみんな見たはず。
自分もしっかりテレビで観てる。

彼女はその番組のその回の主役であった。
親との関係が微妙にこじれる、みたいな話だったと思う。
けれどそんなことより、ドラマの中で突然自分の中学校の体育館が現れ、
彼女がうちの中学の体操服を着て平均台に登るシーンが挿入されたことに驚いた。

クラスの女子がテレビでヒロインやってるってのも、ずいぶん不思議な感じだったけれど、
自分が日常的に見ていた風景がブラウン管に映し出されるというのは、
かなり奇妙な感覚だった。

003_3

放送後も、彼女は別に女優ぶるふうもなく、普通に女子生徒を続けていたので、
なんだか自分がテレビで彼女を観たのが夢か何かだったのかという感じがした。

以上、名古屋ローカルのテレビのお話でした。

P1010742

古い写真を漁ってみたけど、名古屋駅のナナちゃん人形。
名古屋駅で待ち合わせというと、
「じゃあナナちゃんの下ね」
という感じでよく利用していた。

ちなみに、名鉄セブンの前だからナナちゃんて名前だったはず。

P1010743_2

毎度、いろんなコスプレをして名古屋人の目を楽しませる。
中日ドラゴンズが優勝すると、中日のユニフォームを着てくれるし、
夏は浴衣や水着、クリスマスはサンタのコスチュームである。

P1010737

で、定番の味噌カツ定食。
名古屋にいるときはほとんど食べなかったのに、
たまに寄ると寿がきやとか味噌カツとか、
名古屋っぽいものが無性に食べたくなる。
東京生活で失われた名古屋人のアイデンティティーを取り戻すためかもしれない。

2013年3月26日 (火)

ヨーヨーの思い出

ヨーヨーは日本でもお馴染みの玩具なのだけど、
その歴史は古く、あんまり古いために実のところ良くわからないところが多い。
まず、その名前である「ヨーヨー」からして、これが何語なのか、
はっきりと断定することが難しい。

近代的なヨーヨーは東南アジアのフィリピンで完成しているので、
フィリピン国内のどこかの言語の可能性が高いと言われている。

競技としてのヨーヨーの歴史は1932年にロンドンで世界大会が行われていて、
カナダ人のハービー・ロウさんが13歳で優勝している。
2009年にお亡くなりになったときの記事を見ると、中国系の方なのかなと思う。

現在のいわゆる「ヨーヨー世界大会」と言うのは
1990年代からおもにアメリカで行われているものだが、
これには多くの日本の名人が出場しておられ、数々の輝かしい戦歴を残している。
有名なヨーヨー名人として鈴木裕之さんがいらっしゃるけれど、
Youtubeで「Yo-yo God 」を検索すると、その凄まじい技を見ることが出来る。
興味のある方は是非。


さて、自分が子供の頃にもヨーヨーのブームと言うのはあった。
御存じの方も多いと思うけれど、コカコーラが自社の宣伝のために仕掛けたもので、
そのド派手な広報戦略は子供心にも「すげー!」と驚かされた。

自分の実家の近くに「タバコ屋さん」という雑貨屋さんがあって、
そこにはコカコーラの冷蔵庫が置いてあったのだけど、
そこから瓶コーラを引っ張り出して冷え冷えのコーラを買うことが出来た。
まだ缶の自動販売機が主流になる前の話だ。

今でも見かけることがあるけれど、自販機と同じ大きさで、
左に細長いガラス窓があり、開くとコーラの瓶が引っ張り出せるようになっている。
冷蔵庫の右下には箱型の栓抜きがぷら下がっていて、中に不要になった王冠がためられる。
スターウォーズ(のちにエピソードⅣと呼ばれるやつ)がブームの時、
王冠の裏に映画の名場面が印刷されていたことがあり、
自分はおばちゃんに頼んでその栓抜きにたまった王冠を集めまくったことがある。

もちろん、自分でも買いました。(重要)

Img082_4

さて、そんな小学校3・4年生のころだったか、

タバコ屋のおばちゃんに、
「コカコーラのお祭りがあるから、ひろ君も行かない?」
と誘われた。確か、何かプリントされた紙を見せられた記憶がある。
それで、ヨーヨー大会があるらしいというのはなんとなくわかった。
自分は天満宮のお祭りを連想して、

「コカコーラがテキ屋を出したらさぞ豪華だろうな」

と思い、おばちゃんについて行くことにした。

001_3

おばちゃんは、普段はワンピースを着て白いエプロン姿で店を切り回していたのだけど、
その日はちゃんとした和服に身を包んで、えらく気合が入っていた。

自分が連れて行かれたのは名古屋の中心にあるホテルで、
タクシーを降りるとドアボーイに笑顔で迎えられた。
ちょっとビビった。

自分のような庶民のガキにはホテルなんて縁のない世界なので、すっかり委縮して、
おばちゃんの後ろで小さくなっているしかなかった。
おばちゃんは例のプリントを受け付けの人に渡し、会場に入った。

入ってみて驚いた。既に大勢の着飾った大人たちがグラスを片手に談笑しており、
それがいわゆる「立食パーティ」であることがわかった。
明るいホール一杯にフレンチのオードブルが用意され、シャンパンが振る舞われていた。
あと、コカコーラのファンタも。

自分が想像していたのは、神社の境内にコカコーラのテキ屋が並び、
そこでヨーヨー大会が行われる姿だったので、
「どうしよう」
と思った。どう考えても自分のような小学生がいる場所じゃない。

頭をクルクルさせて会場を見回してみると、なんか変な着ぐるみが2体いた。
ファンタオレンジとファンタグレープのマスコットキャラクターだった。
白い大きなカゴのようなものを持って、招待客に何かを配っている。

近づいて覗いて見ると、そこには大量のヨーヨーが入っていた。

もらっていいものか少し悩んだけれど、まあ、みんな勝手に持って行ってるからと、
緑色のヨーヨーを手に取った。

そこには白字で「スプライト」と書かれていた。

やがて、コカコーラの偉い人が舞台上でスピーチを始めた。
子供なので何を言ってるのかよくわからなかったけれど、
今考えてみると、
「コカコーラの宣伝戦略としてヨーヨーのブームを仕掛けるから、
小売業者の皆様にも、ご協力のほどよろしくお願いします」
と言っていたのだろう。

スピーチは延々と続いた。
ファンタをちびちびと舐めながら、「これの何処が祭りなのだろう」と、
素朴な疑問を抱いた。子供にはさすがに退屈すぎた。
おばちゃんに騙されたとちょっと恨めしく思った。

けれどその退屈はすぐに熱狂へと変わることとなった。

「それでは、各国のヨーヨーチャンピオンの皆様をご紹介しましょう!」

偉い人が手をあげると、舞台のそで口から赤いジャケットを着た外人さんが、
ずらずらと10人くらい登場した。
背の高い人、太った人、女の人もいたと思う。

その外人さんたちはみんな手にヨーヨーを持って、
それを音楽に合わせて器用に振り回していた(ように見えた)。
なかには両手にヨーヨーを持ってブルースリーのヌンチャクのように回している人もいた。

これには会場の小売業者の方々も拍手喝采、大いにウケた。

自分も会場にいた数人の子供たちと舞台の前の方に行って、
そのアクロバティックな妙技の数々を、目を皿のようにして見つめた。

彼らが使っているヨーヨーは、自分たちが手にしているものと同じで、
両サイドにコカコーラの商標と商品名がプリントされたものだった。
赤いコカコーラのヨーヨー、緑のスプライト、オレンジのファンタなど、
……よくわからんけど、カッコいいぞ!と子供心に素直に思った。
自分の持ってるヨーヨーがすごい宝物のように思えてきた。

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その後のヨーヨーブームは大変なもので、
子供ならみんな「マイ・ヨーヨー」を持っているのが当たり前、
そのデザインがコカコーラか、ファンタか、そんなところにもこだわったりした。
ヨーヨーの紐が取り換えできるとわかると、
わざわざ紐を長くしたり、木工用ボンドで固めたりした。
男子は休み時間(名古屋弁で言うと放課)になると教室の後ろに集まり、
ヨーヨーを振り回して過激なバトルを繰り広げた。

自分もあの「スプライト」のヨーヨーを持って、
ブンブンと振り回した。

このブームをそこまで大きくしたのは、
「ヨーヨーチャンピオン」と呼ばれた例の外人さんたちの存在にあると思う。
日本全国に散らばって行ったヨーヨー名人たちは、
コカコーラを販売する小売店の店先で子供たちを集め、
そのヨーヨーの妙技を披露したのだ。

自分もおばちゃんの店の前で赤いジャケットを着た外人さんが、
ヨーヨーの技を繰り広げるのを、近所の子供たちと食い入るように見つめた。
「すごい技を持っている大人」というのは、
それだけで子供たちにとって最高のヒーローなのだ。

スターウォーズの王冠にしてもそうだけど、
この当時のコカコーラの宣伝戦略はユニークで面白いものが多い。
コカコーラが日本人の生活の一部分にまで溶け込んでいるのは、
そういう宣伝の上手さがあるのだろうと心から感心してしまう。

もちろんコカコーラ本体もすごくおいしいですけど。(重要)

自分の持っていたスプライトのヨーヨーは、軸が折れて壊れてしまったけれど、
復刻されたものを持っているので、写真を1枚。

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子供の頃のことはよく覚えているのに、
この復刻版をどういう経緯で手に入れたのかまるで覚えていない。
自分が昔持っていたやつは端っこが透明ではなく白かったはず。

今でもときどきブンブン回して遊んでます。

2013年3月21日 (木)

肉まん物語

これはあくまで自分の子供の頃の記憶なので、いくつか間違いがあるかもしれません。

「肉まん」

これが自分の子供の頃には憧れの食べ物だったりしました。
たぶん、小学校の2年か3年くらいだと思いますが、
店頭で巨大なガラスケースの蒸し器を置いて、ずらっと並べて販売し始めました。
昭和52年か53年くらいじゃないかと思います。
当時の価格は一個50円。
子供がおこずかいで買えるギリギリの値段じゃないかと思います。

以前にも書きましたが、自分の家の近所にタバコ屋さんと呼ばれた雑貨屋があって、
ここでは菓子パンやら子供のお菓子なんかも扱っていました。

そこに突然、背の高いガラスのケースが設置され、
そのガラスの中でアツアツの肉まんあんまんが蒸かされるという、
食いしん坊の子供にはたまらない光景が出現したわけです。

「いい匂いだ、あれはきっとおいしいものに違いない」

当時は中華饅頭なんてものはそうそう食べる機会もなかったので、
その未知の食べ物への期待は小学生の胃袋の中で無限に高まっていきました。

ところが、自分たち兄弟はこれを食べることを禁止されていたのです。

当時の実家は飲食業をやっておりまして、
店を切り回していた母親は、
「あんな、店の前で蒸かしたようなものを食べて、食中毒を出したらどうするの!」
と、肉まん禁止令を出してしまいました。

まあ、飲食業をやる以上、多少神経質なくらいが安全なのでしょうけど、
この母親さまはカップヌードルでさえも、
「お湯を注いで三分待つなんて、そんな食べ物がありますか!」
と、沸騰したお湯に中身の麺やら具を投げ込んでグツグツ煮込むような人でした。
今だってやりかねない。

子供の時分は、せっかくのカップヌードルを鍋でグツグツ煮込まれて、
自分は大いに不満でした。
そんなことをしたらカップヌードルがカップヌードルである意味がない。
三分待つからこそ、カップヌードルなんじゃないか!
……まあ、今でも子供の食に敏感なママさんは大勢いるので、
うちの母だけが特別ではないと思いますけど。

まあ、そういうわけで、かろうじて「あんまん」はOKでしたけど、
「肉まん」は自分の家では禁断の食べ物だったわけです。

「あんまん」もおいしいですけど、子供からすればあれはホットなアンパンなわけで、
やはり具に肉やら椎茸やら、いろいろ入ってるやつが食べてみたかった。

では、自分はいったいいつ「肉まん」を食べることが出来たのかと言うと、
案外早い時期にパクパク食べまくっていたりします。
もちろん、親には内緒ですけど。

まず、自分は「肉まんあんまん」を売ってるタバコ屋のおばちゃんと仲が良かった。
コカコーラが日本全国にヨーヨーブームを巻き起こしたときは、
名古屋市内のホテルで開催されたヨーヨーお披露目会に連れて行ってもらい、
ステージ上で赤いジャケットを着たヨーヨー名人の外人さんたちが、
一斉に妙技を披露するのを見ていたりします。

ですから、こっそり肉まんを食べさせてもらうくらいのことはあったわけです。

中華料理なんてものに縁のない、名古屋の小学生にとっては、
肉の具の入ったまんじゅうというのは、ものすごい御馳走なわけで、
無心で口いっぱいに頬張りました。
あれは、おいしかったな。

あと、自分は小学校の四年生くらいまで近所でやってる工作教室に通っていたのですが、
工作教室が終わったあと、先生を手伝ってライトバンに道具を運んだりすると、
「ご褒美」として肉まんを買ってくれたことがありました。
当然、自分はこの後片付けの常連となって、毎週のように肉まんを食べていました。
同年代の男女で道路に座り込んで食べる「肉まん」はまた格別で、
空が夕焼けに赤く染まっていくのを見ながら、
ニコニコ頬張ったものです。

そんなある日、先生が近所の店で買ってきた肉まんに、黄色い肉まんが混ざっていました。

そう、新発売の「カレーまん」が市場に流通しはじめたのです。
当然、みんながジャンケンをして取り合いになるわけですが、
自分も何度目かには勝利者となって、黄色いカレー味の肉まんを食べることが出来ました。
これもおいしかった!

子供の頃の味覚体験というのは強烈です。
大人になって、担当さんから頂いた神楽坂の名店の肉まんも、
横浜の中華街の肉まんも、これが天国か!ってくらいおいしかった。

でも、そのおいしい肉まんと並ぶくらい、
子供の頃に食べた50円肉まんはおいしかったのです。

あれから何年かして、ピザまんが発売されたり、値段が70円になったり、
いろいろ変化はありましたが、
今ではコンビニにの定番商品になって、レジの脇には必ずあの、
ガラスの蒸し器の小さいのが置いてあります。
値段は倍近い110円くらいになってましたっけ。

桜の季節になりましたが、桜と肉まんもまた一興。
降り注ぐ桜の花びらを眺めながら、口いっぱいに頬張ってみたいものです。

(自分は名古屋出身なので、本社が三重県の井村屋の肉まんではないかと思います)

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2012年11月 8日 (木)

サーキットは狼

実家はもう引っ越してしまったので、場所を特定されても大丈夫だと思うのだけど、
名古屋に覚王山という山があって、まあ、昔は山だったのだと思うのだけど、
ここに日泰寺が作られ、門前町が生まれ、「鬼まんじゅう」で有名な店があったりする。

日泰寺は日本とタイの友好を記念して作られたお寺だったと思う。
歴史は割と若い。タイのお寺からお釈迦様の骨を分けてもらって、
それを仏舎利の塔に収めている。
毎月21日になると「弘法さん」があって、出店が出たりする。
たぶん、弘法大師ゆかりの全国のお寺がみんなそうだと思うので、ああ、なるほどと
思う方もおられるだろう。

そのお寺の後ろに山があって、それが覚王山だと思うのだけど、
てっぺんまで住宅が分譲され、きつい坂道よりほかには山の痕跡はない。
そのてっぺんに昔は「姫ヶ池」という池があって、亀やら鮒が泳いでいたのだけど、
今は埋め立てられて駐車場になっている。
バス停にかろうじて名前が残っている。いちおう、お姫様が身投げしたとかいう
伝説があったと思うが、あんまりきれいな池とも思えなかったので、
酔狂なお姫様だと子供心にも思っていた。

この姫ヶ池の脇には浄水場の貯水槽が埋められていて、広大なグランドになっている。
この貯水槽から水道塔にポンプで水をくみ上げて、
落下させて名古屋に水を送り込んでいた。もちろん、大昔の話だけど。
まあ、それくらい高い場所なのである。

高いと言っても普通に道路が通っている。
覚王山を南から登って、てっぺんで水道塔に水を送る水道橋をくぐり、
そこから北へまっすぐに坂道を下っていくと、麓のあたりで自分の実家となる。

高校時代に友達がバイクの免許をとって、
家に来るときそこを通るのだが、「サーキットみたいでカッコいい」と言っていた。
適当にカーブもあり、てっぺんから麓までは信号もないので、
走り下りるときには少しテンションが上がるらしい。
そのせいか、ここは昔、暴走族の通り道になっていて、
「バラヒリャパラヒリャ」
と変なクラクションを鳴らしながら集団で駆け抜けていったものだ。
そのあとに
「ウーウー止まりなさい、ウーウー止まりなさい」
というパトカーのおまけまでついてきた。
おかげで自分は多少うるさくても眠れる体になった。逆に静かすぎると眠れないくらいだ。

さて、この麓には昔、煙草屋さんがあった。
お菓子も売っていたし、インベーダーゲームがはやったときは
テーブルタイプのゲームが置かれていた。
パンツのゴムひもからセメダインや洗濯糊も売っていたので、
雑貨屋というのが正しいのかもしれない。
自分は煙草屋と呼んでいたし、お店のおばちゃんは
「煙草屋のおばちゃん」だった。

この店がこの「サーキット」の一番の被害者になっていた。

自分が子供の頃、明け方に急ブレーキの音とドッカーンという衝突音で目が覚めることが
何度かあった。
それでパジャマのまま飛び出して見に行くと、
トラックが煙草屋のシャッターを破って店を破壊しているのである。

言わゆる「魔の時間」というやつで、
明け方、長距離トラックの運転中に例の長い坂道を下っていると、
うつらうつらと意識が遠のいてしまうらしい、
それで、麓の信号のあたりで「はっ」と我に返る。
目覚めたときには手遅れで、信号脇の煙草屋に突っ込んでいくものらしい。

自分が覚えているだけで四回くらいあったと思う。

信号機に衝突してめり込んでいるのを学校に行く前に見た記憶もある。
おばちゃん、今日は助かったな、と素朴な感慨を抱いた。
でもそのうち、家ごと破壊されるのじゃないかとちょっと心配した。

自分は仮面ライダースナックをカード目当てで買っていたので、
この店が無くなるのはとても困ると考えていた。
浅はかな子供である。

この店は間もなく鉄筋コンクリートのビルになり、
一階のテナントにはコンビニエンスストアーが入った。
確か、コンビニになってからもトラックが突っ込んだという話を聞いたような気がする。
自分が東京に行ってからのことなので詳しくは知らない。
なんというか、呪われた場所なのだろう。

煙草屋のおばちゃんはその後大往生を遂げ、
ビルももう壊されたと思う。

このサーキットの道をさらに北へ向かうと上野天満宮がある。
子供の頃はこのお宮で庭になっていたイチジクを友達と盗んで食べたりした。
かなり罰当たりである。
先日雑誌を読んでいたらここの宮司が外人さんになっていてびっくりした。
友達がここに地鎮祭をしてもらったと聞いたので、その話題をぶつけてみたのだけど
「知らん」と言われた。
でもたぶん、外人さんが菅原道真公を祀っているはずである。

以上、とりとめもない話なのだけど、ひとまず。
今月はまた漫画サンデーに短編が載ります。
漫画サンデーって漫画誌としては老舗なんですけど、
このまま漫画のある限り、いついつまでも続いて行って欲しいと、僕は心から思いますよ。
本当。
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ミクラス!
なんかハワイとかバリあたりで民芸品として売ってそうなデザイン。

2012年10月22日 (月)

古い記憶

昭和46年のことである。

祖父の葬式があって島根の父方の実家に連れて行かれた。
計算すると自分が三歳の頃の話なのだが、
かろうじて記憶が残っている。
それだけ印象深かったということなのだろう。
作家の三島由紀夫などは、生まれたときの産湯をつかった盥のふちを覚えているという話だから、
自分などはとうていかなわない。

何がそんなに印象的だったのかというと、祖父の埋葬が土葬だったのである。
あれから和洋さまざまな葬式を体験してきたけれど、土葬はさすがにあの時一回きりだ。

島根の本家は木造で、立派な農家という風情である。
当時は牛も一頭飼っていた。縁側に腰かけて外を見ると、緑の畑が麓の方まで続いていた。

祖父が紫のちゃんちゃんこを着てこの縁側に座っている写真を見たことがある。
頭はきれいに剃られていてつややかに光っている。絵に描いたようなおじいちゃんである。
自分は末っ子の長男という事でかわいがられ、鯉のぼりや足ふみ自動車などを贈られたそうだが、
生きて動いている祖父の記憶というのは残念ながらない。
いきなり白い服を着て布団に横たわっている状態から記憶が始まる。

その部屋に大きな樽のようなお棺が持ち込まれ、
そこに胡坐をかくような感じで祖父の遺体が安置された。
その上から、レコードのドーナツ盤のような板をはめ込んで、
頭だけ出る感じで中蓋を落とす。
ここに冥途の土産をいろいろ並べるのである。

なぜ三歳児がここまではっきりと覚えているかと言えば、
自分が食べかけのまま供物台に置いたキャラメル箱が、一緒に入れられてしまったからだ。
まさか!と思い、覗き込んだ時の情景が、いまだにまぶたに焼き付いている。
ずいぶん、あさましい話である。

棺は天秤棒に固定され、それを大人の男達が担いで山の上の墓地に持って行った。
その様子を、自分は離れの二階から母と親戚のおばさんたちと見ているのだが、
花咲き誇る山道を葬列が登っていく様子は童話の中の出来事のようで、
なんだかきれいだなと感じた。

墓地には前もって大きな穴が空けられており、そこに棺をおろし、
こんもりと土饅頭を作り上げる。
時間が経つとお棺が潰れて土饅頭がぺしゃんこになる。
そこを大人たちが踏み固めて、上に墓標を乗せるのだという。
これは何年か後、おそらく幼稚園児くらいに聞いた話だと思うが、
その、「踏み固める」という過程が恐ろしくて、
もしズボッと穴の中に落ちたらどうずるのだろうといらぬ心配をした。

この墓地には自分が生まれる前に亡くなった祖母と父の長兄の墓もある。
長兄は戦争に行って亡くなったという話だが、
最近、うちの母が何かの話のついでに
「おじいさんは沖縄まで追悼に行っている」
みたいなことを言っていたので、この人の話がでたらめでなければ、
伯父は沖縄で戦死したのだろう

この、あまり信用できない母の話によれば、
二歳児くらいの自分がこの墓地に墓参りに連れられてきたとき、
たくさんある墓標の中をまっすぐ走って、真っ先に祖母の墓標にすがりつき、
次に伯父の墓標に抱きついたということである。
以前、自分には霊感がないという話をしたけれど、
「あんた、しっかり見えてたんじゃないの」
と、おっかないことを母に言われた。
母はオカルトっぽい話が好きな人なので、いまいち信用できないのだけど、
見えていたのなら、それはそれで霊にとっても何かしらの慰めにはなったのだろう。

これらは昭和40年代の話で、当時は名古屋だって道路が完全に舗装されていなかったし、
町中木造家屋があたりまえで、鉄筋の建物は金持ちの建物だった時代のはなしだ。
島根などはおとぎ話の世界のように思えた。
自分にとってこの古き日本の風景はとても印象的で、
こういう記憶があることはとても誇らしいことだったりするのだけど、
あんまり田舎田舎言うと親類に怒られるのでこの辺にしておく。

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2012年9月17日 (月)

傷だらけのハリー

「かわすみさん、走るんだ!」
と言われて、とりあえず走った。
自分が漫画家の先生のところでアシスタントをさせていただいたときの話。
同い年でチーフアシのKさんと一緒に、深夜の街を駅に向けて走った。
電車に乗り遅れると次の電車まで結構待たなきゃいけない、そういうことだったと思う。
それで、駅前の鎖を渡してあるポールを飛び越えようとして、
足をとられて力の限りこけた。
人生においてこれ以上ないってくらい、派手にこけた。
ゴールデンウイーク前だったので、長そでを着ていたはずなのだけど、
両腕が擦過傷でひどいことになっていた。
鞄の中ではテレコが粉砕し、インク瓶が割れて黒い洪水状態。
しかも、
「かわすみさん、ゴメン、今日土曜日だから電車の時間に余裕があった」
という落ちまでついた。

「いやあ、ごめんごめん」
と言いつつ、Kさんはこちらのどじっ子ぶりに大爆笑していた。
こけ方が面白かったと詳細に説明してくれた。
いい人だし、お世話にもなったけれど、
もっと心配してくれよと心から思った。

京浜東北線で秋葉原に行く途中まで、Kさんと一緒だったのだけど、
しばらくして腰のあたりが妙にくすぐったいことに気付いた。
何だろうと思って、満員電車の中、こっそりとズボンをめくってみる。
「わははははは」
「どうしたの、かわすみさん」
「笑えるwwwww」
「落ち着けって、どうしたの」
「腰に穴が開いてるwwww」

(※グロ注意)

寛骨が地面と衝突したときに腰の皮下組織を四センチほどぱっくり割ってしまって、
思いっきり体の中が丸見えになっていた。出血はなかったが
赤黒い筋肉だか腹膜だかがはっきり見えて気持ち悪かった。
最近、テレビドラマの「仁」を見たのだけど、
あれの手術シーンはすごくリアルだと、自分の傷口を思い出して感心した。

痛みはなくて、かゆいくらいだったのだけど、
さすがにこれは放置できねーとおもったので、
そのまま秋葉原で乗り換えて、総武線で小岩に帰り、
駅の交番に行って救急病院を紹介してもらった。
お巡りさんには最初、「喧嘩でもしたの?」と詰問されたけど、
事情を話したらなんや知らん、うけた。
傷口を見せろというのでズボンを半下ろしにして見せたら
「気持ち悪っ」
とドン引きされた。

タクシーに乗って救急病院まで向かった。
深夜の病院で7人くらいの若いナースに囲まれてびびった。

結局、五針縫ってゴールデンウイーク中は自宅で絶対安静となった。
傷口は見えなくなるよ、とお医者さんは言ってくれたのだけど、
抜糸したらしっかり痕が残っていて、
「君はケロイドになりやすい体質みたいだね」
と、すべてこちらが悪いことにされてしまった。
まあ、別に構わんのだけど。

ゴールデンウイーク中だか明けてからだか、
仕事先の先生がKさんに事の顛末を聞いて電話をかけてきてくれた。
「大丈夫ですか、息してますか」
「わ、わざわざありがとうございます!」
仕事のあとのことなので自分にも責任があると思ったそうだ。
悪いのはKさんとどじっ子の自分なのに、立派な先生だなと思った。

休み明けに仕事場に行って先生に五針縫ったところを見せた。
結構ひどい傷なので先生は面白がって見ていた。
「かわすみさん、君につけるあだ名が決まりましたよ」
「はあ、なんでしょう」
「君は今日からハリーだ」
「……」

それから一週間くらい、仕事場でみんなからハリーと呼ばれ続けた。

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元祖ロボコン。何気にリアルタイムで見てたんだよな。

2012年7月29日 (日)

怪談2

自分にはいわゆる「霊感」というのはありません。

ただ、霊魂というのはなんとなく存在しているのではないかと
考えることはあります。
以前に書いた墓場トレースの話もそうですが、
死んだ人間に対する敬意というのは、やはり忘れるべきではない。
お盆に墓参りは出来なくても、いちおう先祖に手は合わせています。

自分の父親が亡くなったのは自分が高校の二年生の時で、
9月の中頃のことでした。
それまで元気だったのが、脳の血管が切れて二週間のスピード逝去。
あっと言う間のことでした。

この前後数か月のことは今でも割と鮮明に覚えています。
父が倒れた状況、病院の集中治療室に何度も見舞いに行ったこと、
学園祭のクラス演劇でみんなに迷惑をかけてしまったこと、
その演劇の代役の美術部部長が急な交代だったのに
主演男優賞をとってしまったこと。(彼はとても立派だった。)
父が心肺停止で亡くなったこと、葬式の段取りや親戚とのやりとり、などなど。

ところがそれから何年も経ってから
うちの弟がこんなことを言い出しました。

「あの時計、どうしようか?」

あの時計がなんなのかわからなくて、真顔で聞き返したのだけど、
「あんたが黙ってろっていったんじゃないか。」
と弟はムッとします。

弟が語ったお話はこうでした。
弟は父が使っていたお古の腕時計を使っていたらしいのです。
父はとてもお洒落な人で、背広や時計などを結構とっかえひっかえして、
使わないものを子供にあげたりしていました。
弟は父が病院で亡くなったときもその時計をしていたのですが、
それが父が亡くなった朝の8時14分でピタリと止まってしまったらしいのです。

当時の弟は中学の二年生でしたが、この時計の始末に困ったそうです。
ひょっとしたら、父が死に際に霊的なメッセージを残したのかもしれない。
だったらこのことを家族みんなに知らせるべきではないかと。

それで葬式の準備中に長男である自分に相談をしたというのです。
するとその長男は
「お母さんには絶対教えるな。」
と言ったそうです。いえ、自分なんですけどね、この長男。

母親は父の死後、寝込んでしまいまして、
葬式の喪主も長男に一任という状況でしたから、
そんな不安定な精神状態の人に「死亡時間で止まった時計」なんて見せられるわけがない。
ナイスな判断です、長男。

それで弟はずーーーっと黙っていたらしいのですが、
そろそろ供養するなりなんなり考えた方がいいのではと話を向けたら
長男は完全に忘れていた、ということらしいのです。

今現在、その時計がどうなっているのか自分は知りませんし、
この話自体を母はいまだに知らないんじゃないかと思います。
もし弟が言ってることが本当なら
偶然にしてはタイミングが絶妙なので、父が死に際に時計を止めたと考えるのが
自然なのかもしれません。

父は農家の四男坊で島根から名古屋に集団就職で出てきたのだと聞いています。
僕は自分が名古屋人だと考えていますが、父は根っからの島根県民だったようで、
宴会芸では安来節を披露していたそうですし、たまに野球中継を見ても中日は応援せず、
近所のよしみなのか広島カープばかり応援していました。

亡くなる一か月前に父は同窓会で島根に帰省しているのですが、
その時は買ったばかりの自家用車を自慢するために名古屋から運転していって、
父の次兄一家にわざわざ見せびらかしたりしています。(本家長男は沖縄で戦死してます)
父は三十代までは職を転々としていて、母と食堂をやったりセールスになったりしていたのですが、
四十代になって大おじの会社(国内大手)で認められて大きな仕事をするようになっていました。
自分などは「おじの七光り」と呼んでいたのですが、
応接間のような個室を与えられて、椅子でふんぞり返ったりしていたようです。
たぶん、その姿を島根の親類に見せたかったのだと思います。
俺は故郷に錦を飾ったんだぞ、的な意味で。

同窓会で気炎を吐いてきた父は、ぐてんぐてんに酔っぱらって生まれた育った島根の家に帰ってきました。
とても苦しそうで夜風に当たりながら畑の脇に飲んだものを戻していたので、
自分も畑まで出て父の背中をさすってやりました。
故郷を離れて遠い名古屋の地で、ようやく島根の人たちに自慢できる男になれた、
父はそう考えていたのかもしれません。だから、多少羽目を外すのも仕方なかったでしょう。
それにしてもあまり見られたもんじゃないな、と思いながら背中をさすり続けました。
見上げると満天の星空で、吸い込まれそうなくらいきれいだったのを覚えています。

父の葬式はとても盛大なものになりました。、
町の小さな定食屋の前に恐ろしい数の花輪がズラリとならんだのです。
町の一区画、道路に沿った一面にひたすら白黒の花輪が並び続ける感じです。
父の、というより大おじの会社の威光のすさまじさを実感しました。
なにせ、花輪の列を見た一番下の弟の小学校の教頭が、父を地元の名士と勘違いし、
「もっと早くにご連絡いただけたら花輪をご用意できましたのに」
と喪主の自分に文句を言いだす始末でした。
いや、父はそんな立派な人じゃないですから。

ただ、人生の最後にすさまじい幸運が舞い込んできて、
ものすごく有頂天になっていたのです。

そういう人が突然人生を奪い取られるというのは、
さぞかし悔しかっただろうな、とは思うのです。
時計の一つくらい止めて、意思表示くらいはするかもしれない。
ただ、自分は心のどこかで「いいかげんにしろ」と考えていたのだと思います。
もし、父が怪奇現象を引き起こしたのだとすれば、
それは末っ子根性で人の注目をひきたがる父の甘えだろうと。
今の自分がそう考えるのだから、17歳の自分だって同じことを思ったのかもしれない。
だから、怪奇現象を黙殺したんじゃないでしょうか。
まあ、単にテンパっていて記憶が欠落した可能性も高いですが。

父に出来たことなら息子の自分にもできるかもしれませんが、
自分はたぶん、時計を止めて生きてる人たちを困惑させるようなことはしないはずです。
父が末っ子根性を生涯引きずったように、自分も根っからの長男気質なので、
われ関せずで黙々と成仏する気がします。多少不平や不満があっても
それを耐えてしまうのが長男気質なのです。

怪談と銘打っておきながらちっとも怖くない霊の話でした。

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正月に名古屋に帰省したとき弟の部屋に忍び込んで勝手に撮った写真。
削除して欲しかったら電話ください、弟。
手前はたぶん西部警察仕様のフェアレディーZ。
僕もプラモデル作りたいです。

より以前の記事一覧