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コラム

2017年6月20日 (火)

キャベツと社長さん

 1

亡くなった父が自分の叔父をものすごく尊敬していて、その話をさんざん聞かされた。

僕から見れば大叔父にあたる良雄さんは川隅の本家の次男坊か三男坊で、
養子に出されて才覚一本で大きな会社の社長さんにまでのし上がった。
だから、同じように本家を出て独立した父には、人生の目標だったんだと思う。
俺も叔父さんみたいに故郷に錦を飾ってやるぞ、てな感じで。

姫路に本社があって、幼稚園の頃に父と叔父さんとお城をバックに写真を撮っている。
だからその時のことだと思うけど、父に連れられて社長に会いに行った。
駅前の商店街のおもちゃ屋に寄って、ガッチャマンのゴッドフェニックスの玩具を見つけて、
買ってほしかったけど買ってもらえなかったのは覚えてる。
なんと、ガチャマンのほかのマシンも収納できてしまうすぐれもの。
子供のころの自分は、ボンフリー号とかタイムボカンのメカブトンとか、
小さいマシンを収納できる大きなマシンがなんか大好きだったのだ。
電人ザボーガーの頭の中からヘリコプターが出てきても許せてしまうお年頃だ。

で、会社の社員寮みたいなところに一泊した。
社長さんなら豪邸の一つや二つは持ってそうなものだけど、
「そんなものはいらない」
という、実にあっさりした叔父さんだったのだ。
お金持ちの豪邸に泊まってみたかった僕は、ちょっとがっかりした。
トラ皮の絨毯の上でフカフカのソファーに寝転がってみたかった。
僕の持ってる昭和のお金持ちのイメージは完全に成金親父である。

で、その晩は僕は社員寮に残され、父は叔父さんと飲みに繰り出したのだと思う。
幼稚園児が一人でわけのわからないところに置き去りにされ、ちょっと不安だった。
父にしてみれば、尊敬する叔父さんに自分の長男を見せたかったのだろうけど、
いざ連れてきてみたら持て余した、ってところなんだろう。
計算してみたらあの当時の父は30代中ごろである。
今の僕からすれば考えなしのただの若造である。

で、朝になって目が覚めたら、父が申し訳なさそうに苺を用意していた。
「練乳も買ってきたぞ」
と、苺にまわしかけてくれて、食べたらそれがものすごくおいしかった。
あんまり昭和の話なんでわかりづらいかもしれないけど、昭和40年代、
苺に練乳をかけて食べるなんてのは、なかなかにステータスの高い食事なのである。
普段は牛乳に砂糖をまぶして食べていた。

あと、姫路城内でレインボーマンのお面をかぶった僕の写真なんかが残っているけれど、
そこらへんのことは全く記憶に残っていない。
社長さんと写真を撮っているのに会ったことすら記憶に残っていない。
ただ、この旅行で「父は叔父さんのことをものすごく尊敬しているのだな」というのが、
なんとなく頭に刻み付けられた。

だから、中学生くらいの時に父が話して聞かせる叔父さんの伝説も、話半分で聞いていた。
「本社のセレモニーホールにピアノを置いたんだけどな」
「うん」
「叔父さんはそれまで触ったこともないのにピアノを演奏したんだぞ」
「ふうん」
「やっぱり社長になるくらいの人は天才なんだな」
「さよけ」
みたいな感じである。
たぶん適当に叩いたピアノの音が、父には天上の音楽のように聞こえたのだろう。

この大叔父がテレビに出たときは、僕もさすがにワクワクした。
宮尾すすむの「日本の社長」は僕の大好きな番組コーナーだったし、
自分の縁者が宮尾すすむとどんなやり取りをするのか、期待もした。
でも、少年のワクワクは番組開始早々に裏切られた。
宮尾すすむが長期休業か何かでレポーターが代理の人だったのだ。
この段階で僕の興味は半分吹き飛んだ。

テレビに出てきた大叔父は、ものすごく成金ぽかった。
たぶん、そう思わせないために豪邸を持っていなかったのだろうけど、
そのことで逆説的に成金度はアップしていた。

「私はキャベツが大好物なんですよ」
と、高級マンションの一室で丸のままのキャベツをむしって食べていたけど、
なんかカッコ悪かった。そんなもん全国放送で流すなやと思った。

「私は金持ちだけど、こんな質素な生活をしています」的なアピールは良くない。
いっそ金満豪邸親父であってくれたほうがよっぽどすがすがしかった。
番組の最後にスタジオに現れ、一千万円の眼鏡を自慢したのも、かっこ悪かった。
なんか、徹底していない。結局お金持ちだって自慢したいだけじゃん。

この大叔父の息子さん、父の従兄にあたる人はこれとはまるで逆の性格で、
ラスベガスまで遊びに行って一億円ふっ飛ばしたという話がある。
「道楽息子だ」と、父は批判的に話していたけれど、
僕はそっちの方がよっぽどカッコいいと思った。
金持ちは金持ちらしく、豪楽に振舞ったほうがよっぽど見栄えがいいのである。

で、ここまでが前振りなのだけど、キャベツを生のままでむしって食べてみました。
今回はそのお話なのです。

 2

原稿を描き終え、ホッとした反動なのか、それまでの不健康な食生活の反省なのか、
「生野菜が食べたい」
と、ものすごい欲求が沸き上がってきた。
冷蔵庫の中には買ってきたばかりのキャベツやらピーマンやらがある。
よし、食べよう。
僕は皿の上に生のキャベツと種を取り除いたピーマンをのせた。
さすがにそれだけだと寂しいので、お酢と塩をふりかけた。

で、バリバリ食べてみた。手づかみで。

驚いたことに、めちゃくちゃおいしかった。
ピーマンはさすがに不味いんじゃないかと思ったけど、そんなことはなくて、
程よい甘みさえ感じるくらい、おいしかった。
「料理っていったいなんなんだろう」
と考えたけれど、その答えはすぐにわかった。
アゴがものすごく疲れるのだ。
普段自分がいかにアゴの筋肉を使わないのかを実感した。
少量の野菜を生で食べただけなのに、いまだにアゴが疲労している。
料理とはつまり、食事で使う筋肉の労働を軽減させるものだと悟った。

食べるってことは、それだけで重労働なのである。
肉を食いちぎり、骨を砕き、野菜を粉みじんに粉砕する。
これだけでかなりのカロリーを消費するし、肉体は疲労する。

このことは僕にはものすごく大きな発見だった。

あと、酢と塩をかけたのは余計だったなと思った。
今市場に流通している野菜は、おそろしく完成されている。
それだけでチョコレートや菓子パンのようにおいしく食べられる。
昔の野菜ならもう少し青臭かったのだろうけど、それはまったく感じなかった。
農家の方はものすごく頑張っているんだなと、しみじみ考えた。

そんで、これを日常的にやっていた大叔父のことを思い出した。
「あの人、これを毎日やってたんだよな……」
案外、逆説的な金持ち自慢ばかりではなくて、大叔父の編み出した健康法だったのかもしれない。
これを毎日やればアゴの筋肉は鍛えられ、脳にはものすごい刺激になる。

僕自身ははアゴの疲労がすごくてさすがに続けられないと思ったけれど、
大きなことをやらかす人ってのは、それなりすごい人なんだなと、
妙なところで感心したのだった。

若いころの自分ではあるけど、人を一方的な価値観で切り捨ててはダメだなと、
反省したのでした。

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大井川鐵道で「懐かしかろう」と名古屋の鉄ヲタさんがくださった「クッピーラムネ」。
子供のころは安価に手に入る駄菓子の定番だった。
「名古屋の会社なんですよ」
と言われ、全国区だと思っていたお菓子が地元のものだと初めて知った。
おいしさハッピーである。
下りのアプト式列車の中で雄大なダムの風景を見ながら食べたら、
すごくおいしかったです。

2017年6月 2日 (金)

名古屋めし


となり町に雑用で出かけて、ついでにその町に新しく出来たスーパーをのぞいてみたら、
スガキヤの味噌煮込みうどん(インスタント)が置いてあった。
喜々として買ってくる。

故郷名古屋を離れ、はや四半世紀。いや、26年だったかな。
名古屋では当たり前に手に入るものがここ東京ではなかなか入手困難なのだけど、
それでも、近年の「名古屋めしブーム」とやらのおかげで、
どうにか入手できるようになってきた。

昨日、何気なくテレビをつけてみたら、名古屋めしの特集をやっていた。
妙齢のお嬢さん方(当社比)がお店で鉄板ナポリタンを食べて、
「鉄板だと食べながら調理してくれるから、味が変わって面白いのよオホホホホ」
とほほ笑んでおられた。

名古屋出身で幼稚園の頃に鉄板ナポリタンを食べていた自分からすれば、
味が変わるなんて考えたこともなかったし、熱々の鉄板を前に
ヤケドしそうなスリルを味わいながら食べるもんだと思ってた。

実家が大衆食堂だったので、開店当初は流行りものをいろいろお店で出していた。
鉄板ナポリタンもそんな流行りものの一つだったのかもしれない。
ステーキ用の鉄板、木の器に黒い鉄板がのっかってるやつに溶き卵を敷き、
半熟加減で焼けたところにスパゲッティ・ナポリタンを乗せる。
ウインナーは赤いウインナーでなくてはならない。
で、食べるときは鉄板の卵をフォークでかき起こし、麺とからめながら食べる。

大好きだったけど、客層に合わなかったか、めんどくさくなったのか、
自分が小学校に上がる頃にはメニューからは消えていたな。

その後、よその喫茶店なんかに行っても見かけることがなくなってしまったので、
「鉄板ナポリタンは僕の見た幻だったのではないか」
とまで考え始めていたのだけど、近年になってまた注目されるようになってきた。

まあ、そろそろ食品業界もネタが出尽くしたってことなのかもしれない。

大人になって「そんなもん、ナポリタンにスクランブルエッグのっけりゃいいじゃん」
みたいな考えになって、すっかりどうでもよくなっていたのだけど、
アツアツの鉄板でヤケドするかもしれないスリルと戦いながら食べるナポリタンてのは、
案外いいものだ。
幼稚園児だった自分は、鉄板に口をつけて麺をすすれないもどかしさを感じながらも、
なんか唇が熱かった記憶もあるので、無理やり鉄板を持ち上げて食べてたんだろうな。

食べ物の話になるとガキの頃の自分がいかに浅ましかったかの話になって、
なんか困る。

2017年5月31日 (水)

ディスカウントショップ

のらのらと散歩していると、ご近所のディスカウントショップが閉店セールをやっていた。
入ると、全商品2割引きとかで、ご近所の妙齢のお嬢さん方がいっぱい集まっている。
明治のカールの騒動でもそうだけど、消えるとなれば人間はどうしても気になってくる。
欲しくなくても今生の別れにもう一度手に取ってみるかとなる。

1960年代生まれの自分にとって「カール」は物心ついた頃から既に存在した商品で、
別に好物ではなかったのだけど、食べたことはある。
「甘さを抑えたお菓子」とのことだが、なんか甘かったような気もする。
たぶん、三十年くらいは口にしていないから、記憶がどうもあいまいだ。

ディスカウントショップというのも、自分が東京に出てきた90年代初頭は、
あちこちに開店していたように思う。二十代の自分もあちこちの店をのぞいては、
電話機やら生活雑貨、チープで奇妙なグッズなんかを買っていた。
こういう店のカセットテープコーナーで七十年代の演歌歌手のベスト盤を見るのも、
なんとなく好きだったりした。今にして思えば買っときゃよかったと思わんでもない。

あの当時から四半世紀、下手をすれば三十年近い歳月が流れている。
三十代でお店の経営を始めた方々も、もう還暦を超えていてもおかしくない。
「安価でチープ」ってことなら、ドンキホーテとか百円ショップで十分だし、
この辺でそろそろ店を畳むか、となってもちっとも不思議ではない。
ご近所のディスカウントショップが閉店するのは今年に入って二件目だけど、
もうそういうサイクルに入っているってことなのだろう。

安い商品のまとめ買いってことなら、ドンキホーテは無敵の存在だ。
昨日苫小牧の風景を見るためにグーグルアースを使って駅前をぶらついていたのだけど、
殺風景な街並みの中にドンキホーテがやたらでかでかとそびえ立っていた。
いつの間にか時代の勝利者になってたんだな、この店。

池袋で出版社の人と会うとき、駅前のドンキでいつも落ち合っていたのだけど、
あそこは一階部分を女性向けのコスメやらなんやらで固めていて、
二十代くらいの女性客が多かった。
どんな業界でもそうだけど、今は女性がお金を使う時代なので、
ディスカウントショップだって思い切り女性仕様になりつつある。
編集さんが来るまで店内をぶらつくと、マスカラやら付けまつげやら、
入浴剤なんてものまで、狭い店内にヤケクソのように詰め込まれている。
そういえば、ドンキは商品を大量に詰め込む系のお店であった。
物量にものを言わせて、ここでなら何でもそろうぞ安いけど、って空気を漂わせている。
昔渋谷のドンキで放火騒動があって、隙のない商品陳列が問題になったりもしたっけ。

有名百貨店のこじゃれた商品配列もいいけれど、ディスカウントショップはそうじゃない。
商品倉庫をそのまま解放しました的な、お宝発掘探検隊なノリがいい。
だからたぶん、ドンキはわざと商品を所狭しと並べたてているのだろう。
人間の物欲を刺激するのは、何もよい商品を並べるばかりじゃない。
安くても、大量に詰め込まれているってお買い得感が物欲を刺激する場合もある。
だから、中にはとんでもなくひどい商品があったりもするけれど、
枯れ木も山のなんとやらで、一握りのお買い得品があれば、他のダメダメな商品も、
購買意欲を刺激するシステムの一部になる。

ダメな商品にも存在価値を与えるって点では、ある意味見事な経営戦略である。

それでご近所のディスカウントショップの閉店セールなのだけど、
目ぼしいものは既にお客に買われまくってしまって、半分以上がカラの棚になっていた。
カップラーメンとかトイレットペーパーとか、
主要な商品はすでになくなっていて、ピクルスとか、便せんとか、
「枯れ木」ばかりがポツポツと置いてあるだけだった。
いつもは薄暗くて倉庫の中のようだった店内も、思いのほか明るくて、
実は結構小奇麗なテナントだったことがいまさらのように判明した。

店員のおばちゃんが常連さんだろう、若い作業員風のお客さんと話をしている。
これからも頑張ってねと、お客に声をかける。
このおばちゃんも店を始めた当初は若くていろいろ苦労したんだろうなと想像する。

その間も、店内をおOLさんとか、近所の奥さんとか、
残り物をあさるハイエナのように物色し続けている。

僕もチョコレートを買ってお店を出ようとしたが、また商品を置いて出てきてしまい、
おばちゃんに呼び戻された。
どうも締め切り前になると同じ失敗をやらかすらしい。

2017年5月25日 (木)

モンブラン

誕生日にケーキをいただいて、モンブランかしら、モンブランがいいなと開けてみたら、
緑のたぬきだった。

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21世紀は本当にオモシロおかしい時代だ。
スポンジケーキにクリームでお蕎麦が再現されている。

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お蕎麦の部分はモンブランといえばモンブランに見えなくもない。
食べてみたら結構おいしかった。

幼稚園は仏教系のいいところに入園していた。昭和48年くらいのことだ。
なぜか当時流行中の「燃えよドラゴンズ」が流れていて、この歌をそこで覚えたことは、
以前このブログでも書いてると思う。

この幼稚園でおやつの時間にケーキを出していた。
大きな木のお盆の上にずらりといろんな種類のケーキが並んでいて、
園児がじゃんけんをして勝った者から好きなやつを取っていく。

僕はこの時からケーキはモンブラン狙いで、
他の園児に取られると無茶苦茶悔しかったのを、はっきりと覚えている。
なかなかに浅ましい。

今でもケーキセットの中から一品選べとなれば、僕は迷わずモンブランを選ぶ。
栗が大好物というわけでもないのだけど、あのお蕎麦のようなクリームが、
なんか心に激しくヒットしているのだ。
だから、この緑のたぬき型ケーキのプレゼントは、とてもうれしかったです。
あと大洗のガルパン印のリキュールも。(鬼のように甘かったけど)
不燃ごみとして瓶を出すときは、思い切りラベルを上にして出してやろうと、
考えてみたり、みなかったり。(ものすごいアニメ調のラベルなのだ)

2017年5月23日 (火)

ひねもす本を読んでいる。

携帯の保存フォルダーを漁ってみたらガチャピンが出てきた。
とりあえずさらしてみる。

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本を買って何年も放置、なんてのはよくあることです。
いわゆる「積読」ってやつ。
「老後の楽しみに」と保管してある某全集とかもありますし、
最初の数ページを読んでそのまま放置、なんてこともあります。

若いころはそのことで罪悪感を覚えて、無理やり読んだりもしたのですが、
この頃は「本にはそれを読むべき時が自然とやってくるのだな」と、
積みっぱなしの本が語り掛けてくるのを待つ、みたいな感じになってます。
ああ、今の自分がこんな状況だから、この時のためにこの本があったのだなと。

どんどん怪しい神秘主義を発症し始めているぅぅぅう。

今、精神的には割とどん底の状態なので、近くに積んであった本を読みだしたら、
なんかものすごくのめりこんでしまって自分でも驚いています。
吉村昭さんの「海も暮れきる」なんですけどね。
今回はこの本について思ったことを少し書いてみます。

吉村昭先生は小説家です。ただ、どんな小説家なのかをカテゴライズしようとすると、
ちょっと困惑したりする。
一般に知名度のある作品をピックアップしていくと、
「ふぉん・しーほるとの娘」とか「桜田門外ノ変」などの時代小説家になります。
世に出るきっかけになった作品が「戦艦武蔵」だから戦記作家のようでもあり、
カンヌで賞を取った映画「うなぎ」の原作者となると、もう何が何だかよくわからない。

今回読んだ「海も暮れきる」は俳人の尾崎放哉を主人公にしたものなので、
ますますもってカテゴライズが難しくなる。
いっそ、カテゴライズなんて無粋なことはやめて、
「自分の共感した人物の人生を丹念な調査のもとに掘り下げる文筆家」
としておいたほうがおさまりがいいようです。

僕はこの方の作品はたくさん読んだ方だと思いますが、
「海も暮れきる」は、その中でも一番作者の共感する度合いが高い作品だと思います。
作者自身が尾崎放哉と同化しているともいえるくらいで、
それは吉村昭先生の作品の中ではかなり異例なことです。
ほかの作品だともう少し主人公との間に距離がある。

尾崎放哉は「咳をしてもひとり」の句で知られる明治大正期の俳人で、
42歳で瀬戸内海の小豆島でお亡くなりになっている。
酒癖が悪くてそのために身を持ち崩し、流浪の果ての最期である。

吉村先生はその小豆島での最後の数か月を丹念に描き出している。
正直、「なんで吉村先生が尾崎放哉を書いたんだろう」と疑問を感じたのだけど、
それは読み進めるうちにだんだんとわかってくる。
結核で病み衰えていく放哉は、吉村先生の若いころの闘病生活に似ているのだ。

吉村先生は戦後間もないころ結核に侵され、死の瀬戸際までいっている。
そのことが初期の小説作品の重要な主題となっており、「骨フェチ」という、
一般には理解不能で不気味な一面まで持っていたりする。
肺にまで広がった結核の病巣を自然治癒させるために、背中の肋骨を切断しているのだ。
当時では最先端の手術だったのだけど、成功確率はかなり低かったそうで、
死のギリギリ寸前まで行ってかろうじて生還できたというのは、全く誇張ではない。

尾崎放哉は同じ病気に侵されながら、生還できなかった。
だから、吉村昭の描く結核に侵される放哉の最期は描写としてもかなり生々しいし、
その病人の心情も、まるで本人が乗り移ったかのようにリアルである。
作家が題材に共感して主人公と同化しているというのは、このためであるし、
ここまで同化してしまっているのは、他の吉村作品にはない特色である。

死ぬとはいったいどういう現象なのか、それは吉村昭の初期作品の一貫したテーマで、
「少女架刑」などは死後に解剖される女の子の描写を少女の視点から描くという、
かなりグロテスクな試みまでしている。

人が死ぬということは桜の花びらが散るような簡単なことではない。
「海も暮れきる」の中の尾崎放哉は「病気に殺される」という死に方であり、
体は生きようとしているのに結核が放哉の首を絞めて捩じり殺すのが苦しいくらいに伝わってくる。
それは不条理に突然襲い掛かる死なのである。
けれどその死が放哉の文学的感性を研ぎ澄ませ、晩年の俳句が生まれてくる。
とても残酷な事実なのだけど、放哉は死ぬことによって「本物の歌」を残すことができた。
ならば、死には残酷なだけでは説明できない、何か特別な意義があるのだろうか。
吉村先生の筆は、その何かを描写しようとしているように僕は感じた。

吉村先生ご自身の最期は、奥様で作家の津村節子さんが公表していらっしゃるけれど、
僕はそのことを当時の新聞で読んで、ご遺族には不謹慎で申し訳ないのだけど、
「吉村昭らしい死に方だな」
と思ってしまった。生命維持装置のケーブルを自分で抜くというのは、
死をあえて受け入れるという覚悟のようでもあるし、
地震があったとき、家族をおいて一人だけ外に逃げ出した先生の臆病さのためとも思え、
どちらであったとしても、死という現象を正面から考え続けた作家であるから、
誰よりもそれが見えていたのだろうなと、思わされたりもするのです。
本当のところはまったくわからないのだけど。

好きとか嫌いとかは別にして、「海も暮れきる」はとても吉村昭らしい作品であり、
僕は読後もずっと尾崎放哉の最期の数か月間を頭の中で繰り返しているのです。

2017年5月20日 (土)

「裁判員の女神」について

裁判員裁判が始まってもう8年になるそうです。

と、結構長い文章を書いていたのですが、突然パソコンがフリーズして文章が消えた。
これはあれだな、余計なことを書くなという毛利甚八先生のご意思なのだろうな。
酔っぱらった毛利先生がいかに面白い人だったか書こうとしただけなんだけど、
ご本人が鬼籍に入られて、反論できない状態であれこれ書くのはフェアじゃない。

実業之日本社の漫画サンデーに「裁判員の女神」という作品を連載させていただきました。
原作は「家栽の人」で有名な毛利甚八先生です。
酔っぱらうと子供のように無邪気になる楽しい先生でした。

漫画サンデーさんで「もうすぐ裁判員裁判が始まるぞ」ってんで、
毛利先生に「何か書いていただけないでしょうか」とお願いに伺ったそうです。
毛利先生は「もうみそぎは終わったし、書かせていただきます」とおっしゃったそうです。
「みそぎ」がどういう意味なのかわかりませんが、いろいろ思うところがあったのでしょう。
僕はただそういう発言があったと、編集さんから聞いているだけです。

毛利先生とは浜松町で一度だけお会いして、記念写真も撮っております。
編集さんは僕にはくれなかったですけど、撮ったのは間違いない。
そのあと一緒にお酒を飲みに行きました。楽しい方で、僕は好感を持ちました。
いじられまくった編集さんには災難だったかもしれないけど。

作品の舞台については「人口五万人程度の小さな都市」とのことでしたので、
架空の街をこちらで作らせていただきました。「海鳴市」の名前は毛利先生です。
原作を読ませていただいて、すぐに「これ、なのはじゃん」と気が付いたのですが、
先生が「魔法少女リリカルなのは」を観ていらしたとは考えにくいので、
たぶん偶然です。

作品について僕があれこれ書くのは、題材が題材だけに躊躇してしまうのですが、
毛利さんがものすごく真剣に取り組んでおられたのは感じていました。
後半は一字一句、セリフはすべて毛利先生がお書きになった通りのはずです。
どこからだろう、三巻以降は全部そうしてるんじゃないかな。
つまらないギャグを挟んだら怒られた、ってのもあるけど、
ものが裁判だけに、下駄を全部先生に預けたほうがいいって判断もありました。
だって、物語のテーマに近い裁判があると、それを傍聴しに鳥取まで出向いてましたし、
他の先生と違って勢いをつけて書きまくる、みたいな文章じゃなかった。
一字一句、ものすごくこだわってお書きになってる。

僕としては、粗削りな原作のほうがやりやすかったりするのですが、
「このセリフには私が全責任を持ちます」
みたいな書き方をされてしまうと、それに従うのが漫画家の仕事のようにも思えるのです。
実際、毛利先生の作品としての「裁判員の女神」は、
3巻以降どんどん強いメッセージ性を帯びてきたはずです。
こちらの絵もそれに合わせてどんどんリアル志向になってる。
最後の死刑判決の是非についても、僕は毛利先生と逆の立場で見ていましたが、
あくまで人間性の尊重を第一に考える先生の立場は、尊いと思います。

連載終了後、某団体から「作品を無償で提供してください」というメールを頂戴し、
そのことで毛利さんとメールのやり取りがあったのですが、
自作に対して強い自負を持っていらっしゃるのを、僕は感じました。
僕も「裁判員の女神」の作画を担当させていただいて、良い仕事をさせていただいたと、
心から思っております。
(作品の提供はしておりません)

以上が、この作品について僕がコメントできるギリギリのところなのかな。

僕自身はいつか裁判員への要請が来るんじゃないかと思ってたけど、
現在まで全くお声がかかっていない状態です。
(まあ、たとえ声がかかってもこんなところに書いちゃいかんのですが)

先生がお亡くなりになってから、傍聴人が裁判員に向かって、
「お前の顔を覚えたからな」
と脅迫する事件がありました。
連載時からいつかは起こるだろうなと予想はしていたのですが、
さすがに事件が起こってからでなければ、漫画の題材としては使えない事態だったりします。
もし先生が生きておられたらどうお考えになるか、お聞きしてみたいところですが、
それがもうできないってのは、なんともさびしかったりするのです。

2017年5月10日 (水)

打ち合わせ


出版は、絶賛不況中だ。

編集さんも今は本当に大変らしく、なんか人相が変わっていたりする。
頑張れ!くらいしか言葉は出てこないのだけど、
会議であれこれ絞られている様子を想像すると、迂闊な言葉もかけられない。

なんかずっと出版不況についての話と、デジタル出版の可能性についての話で、
その合間に、すいません、申し訳ない、が挟まる。
こちらもやっぱり、すいません、申し訳ない、と返すしかない。

一番申し訳ないのは読者に対してなのだけど、大筋は未完とはいえ、
各話数ごとに面白いものは描けたのではないかと胸を張ってみる。

少なくとも、次号の昭和人情食堂の発売は、果てしなく未定なのだけど、
こういう場合の未定は希望があるのかないのかよくわからないので、
僕も言葉を濁すことしかできない。

編集さんの様子だと、「お察しください」みたいな感じだった。
僕もノートとボールペンをしまって、じゃあ今日は仕事の話は抜きで漫画の話を、
みたいな「打ち合わせ」になった。

編集さんは小山田いく先生の作品は全部集めていたくらいのファンなのだそうで、
その最後にお会いした時の話を、しみじみ語っておられました。
この一年でお亡くなりになった作家さんは他にもおられるので、
「週刊連載は本当に大変なんですね」
と、早世する作家さんを悼んでおられました。

出版であるから儲けが出なければ続けることはできないのだけど、
病気療養中のたがみ先生が震える手でお描きになったお兄様追悼の原稿とか、
貴重なものを世に出してもらえたことは、漫画ファンとしてはありがたいことだと、
感謝しております。

これもまた天の配材。きっといい風が吹くときも来るでしょう。

太陽の黒点異常で世界中のスマホがすべて機能停止し、紙のメディアが大復活!とか、
実は実在したミノフスキー博士が粒子を大量にばらまき、宇宙世紀は紙のメディアに
先祖返り!とか。

夢物語もあんまり切実だと笑えないなぁ。

名前とかペンネームとか

ときどき意味不明な文章をこのブログで書いたりもしますが、
書いた本人にも意味不明だったりするので、適当に読み飛ばしてください。

ものを書くとき、頭を使うとロクな文章にならないってことを経験的に知っているので、
音楽を聴きながら、割とだらだらとキーを叩いています。

「いやいや、文章を書くときは頭を使わなきゃでしょう」
と突っ込みを入れられそうですが、
そうやって頭をひねって書いた文章が壮絶に読みづらかったりするので、
基本、頭を空っぽにして、だらだらと書いております。

文章を書く商売じゃなくてホントによかった。

「君の書くネームは引っ掛かりがなくてツルンと読めちゃうんだよね」
と編集者の人に注意されたことがあるけど、
自分の目指してる文章がツルンと読める文章だったりするので、
それはむしろ誉め言葉。
意味なんかより読んでて気持ちいいことが一番だったりする。

自分もそろそろ半世紀近く生きているので、
「気が付くとものすごく古臭くなっていた」
ってところがいっぱいあります。例えば名前。

「ひろし」

というのが僕の名前なのだけど、
小学生のころにはクラスに三人か四人くらいは「ひろし」がいたものです。
それがどうだろう、今は子供にこの名前は付けないんじゃないかな。古いってか、
爺臭い名前になってるような気がします。

僕の名前は父のお世話になった会社の上司の方につけていただいたんだけど、
父が「高志」で僕が「広志」なので、「高い広い」でものすごく単純なネーミングです。
中学の時にそのことに気が付いて、
「それってギャグだよね」(怒)
とものすごく不満でした。名前自体は好きなんだけど、命名由来が割といい加減。

「ど根性ガエル」の主人公もひろしなのだけど、同じ名前なので、
僕も頭に眼鏡をのっけて、根性根性ど根性でい!と近所を走り回ってました。

だから、今でも「ひろし」は割とメジャーな名前のつもりなのだけど、
若い人には田吾作とか与作なみにダサい名前なのかもしれない。

僕がペンネームをひらがなにしたのは、漢字の名前があんまりパッとしなくて、
それなら平仮名がなんぼかましだなってのと、
当時の担当さんが
「かわぐちかいじと間違えられたらもうけもんだ」
と発言したからだったりする。
担当さんが気に入ってるならそれでいいや、みたいな。

僕がデビューした当時は「かわすみ」という苗字もかなりマイナーだったけど、
その後同じ「かわすみ」で有名な方が何人か活躍されているので、
割と普通の名前になっているような気がする。
サッカー!とかセイバー!とか。
だからもっとインパクトのある名前にしとけば良かったかなと、思わんでもない。

ペンネームが他のものになる可能性もあった。
学生時代に先輩に「学祭でエッチな本を出すからエッチなイラストを描いてこい」
と言われて、そのとき使ったのが「あるま太郎」で、
アシスタント先の先生が晴海で同人誌を出した時も、そのペンネームで描いてる。

このペンネームはなんか18禁みたいなイメージがあるので、使わなかったけど、
いま選べと言われたらこっちにしたかもしれない。

いろいろ思い出したのでついでに書くけど、
その学際で出した本は学祭実行委員会否認可の本だったので、法被の中に隠して、
「お兄さんお兄さん、いい本があるんだけど買ってくれませんか」
とチラ見せしながら売り歩いた。
先輩の命令なので仕方がない。それでも、お兄さんがパラパラと本をめくって、
「へぇー真面目に描いてあるじゃん」
と言って買ってくれたときは、うれしかったなぁ。

で、法被姿であやしい本を売り歩く僕の姿は、なぜか写真に撮られていて、
よりにもよって卒業アルバムにでかでかと掲載されている。
アルバム制作委員会に知り合いがいたのだ。

まあなんだ。貴重な青春の思い出を残してくれて、どうもありがとうございます。


2017年5月 8日 (月)

照る日曇る日


えーと、パチスロ攻略マガジン誌に漫画が掲載されています。
パチスロライターの睦月ライドさんが八代目の旅打ちになって、
今北海道でパチスロサバイバルしていらっしゃるんだけど、
その状況を一年にわたり漫画で追いかけるというものです。
日本をくるりと回って東京でゴールになります。

僕は別にパチスロに詳しいわけではないので、そちらは編集サイド頼みです。
自分にできる部分は今のところ、料理、日本各地の風景、それと、
漫画家という賭博性の高い職業を四半世紀近くやってるから、
わかっている部分ではないかと考えています。
なんせ自営業ですから、ツキとか不運とか、潮の満ち引きのように感じたりします。

今回はその辺をお話させていただこうかと思います。

昔、まだ二十代のころ、南紀州の漁師の方とお話しする機会があって、
その方が、
「照る日もあれば曇る日もあるさぁ」
と口癖のように言っていたのが、まだ耳に残っていたりします。
体のがっちりした、日焼けしたおじさんで、笑顔がなんともすがすがしい方でした。
個人的な僕の事情でいろいろ助言いただいて、まあ、御恩のある方だと考えております。

上の「照る日もあれば……」というのは、昔からよくある格言で、
それだけならまあ、そういうもんかなと思うのですが、
海の上で体を張って働いている方がこれを口にすると、迫力が違ったりします。
天候の変化がその日の稼ぎにも関わってくるし、下手すれば命の危険だってある。

だから今でも耳の奥のほうでこの言葉が繰り返し響いてくるんでしょうね。

運とか不運というのは、波のようにサイクルのあるもんだと感じたりします。
これを話すと思い出にしがみついてる爺さんみたいでみっともない気がするんだけど、
「大使閣下」のお話が最初に来た時、あ、なんか来てるなって感じがありました。
実際、それから一年くらいは何から何までものすごく上手くいって、
いい仕事場はあっさり見つかるし、たまたま優秀なアシさんが近所に住んでるしで、
「見えない天の配材」ってのを実感していました。

まあ、漫画のほうは最初のうちは低空飛行で、当時の担当さんは
「いつ打ち切られるか冷や冷やしてた」
って言ってましたけど、僕は割と確信に近いものを持っていたと思います。
これ、絶対無茶苦茶面白くなる企画だって。

全部終わってから考えると、あれを僕が作画して良かったのかなとも思うけど、
僕じゃない他の方が漫画にしたら、まったく別の漫画になっていたのは確実で、
もっと成功する可能性はあったかもしれないけど、あれより上じゃないとは思ってます。

その根拠になるのは、おかしな言い方になるけど、ものすごい風を感じていたからで、
その風に背中を押されて描かされてるって感じを、ずっと持っていたからです。
漫画は技術や才能が占める部分も大きいけど、その風を味方にできるかどうかってのが、
一番大きいような気もします。
僕はあの時はそれを味方にすることができた、それは間違いなくそうだったと思います。

んで、これが終わったら、もう二度と同じ風は吹かないだろうなってのも、
感じていたりしました。

僕には漫画の技術面でのオタクみたいなところがあって、
大使閣下の終了後はそちらの方面にどんどん突き進んでいったのだけど、
それは風に背中を押されて実力以上のことをやっていたのを、
ちゃんと自分のものにしておきたかったからで、
もしその風とやらが神様が吹かせているものだとしたら、
その神様に逆らうようなやり方だったかなと、思ったりもします。

これはもう性分の問題で、もっと上手いやり方があったのはわかってるんだけど、
自分の中で「白黒はっきりさせてみたい」ってのがどうにも抑えられなかった。
たぶん同じ状況になったらまた同じことをやるんじゃないかと思う。
ものすごくいい風が吹いてきて、それがいつか止まるのだとわかっていたら、
その風を自分のものにしてしまいたいって、ものすごく単純な願望。
技術でそれを確立できるなら、それを見極めたいってものすごく贅沢な欲望。

ちょっと話が横にそれてしまったけど、
人生にはものすごくいい風が吹く瞬間が、たぶん誰にでもあって、
それに上手く乗れる人もいれば、乗れない人もいるし、
乗ってもコロリと落っこちる人も大勢いる。
とにかく風は誰にでも平等に吹いているってのは感じていたりします。

冒頭の
「照る日もあれば曇る日もあるさぁ」
ってのは、たぶんそこまで深い意味で喋っていた言葉じゃないかもしれないけど、
とにかく人生の運不運の風は誰にでも平等に吹いているんだから、
「逆境」みたいな不運極まりない状況でもめげるな、平常運転でいけってことだろうと、
僕は考えていたりします。
んで、これにはもう一つ、裏の意味もありまして、
ものすごくいい風に乗ってる時でも、やっぱり平常運転で流せ、ってのがあって、
これはたぶん年寄りの方のほうが共感していただけるんじゃないかと考えます。

「ラッキー!俺ってめっちゃツイテルぅ~」

と思っても、調子に乗るな、いつも通りに自分のできることを精一杯やれってことです。
運命の風が味方をしているようでも、相手はしょせん「ただの風」です。
それ以上でもそれ以下でもない。
誰にでも同じように吹いているものだし、同じように吹かない時も訪れる。
そのたび一喜一憂するのは馬鹿げたことだ、幸運だろうが不運だろうが、
とにかくいつも通り生きていればいい。
惑わされるな、ってことです。

だから、「照る日もあれば曇る日もあるさぁ」というのも、
突き詰めて考えれば、「太陽が出ようが雨が降ろうが、自分を見失うな」って、
そんな意味ではないかなと、この頃は考えたりもします。

いささか抽象論めいていますが、まあ、そんなところだろうと納得しています。

運命ってのがあるかどうかはわかんないけど、自分の実体験だと、
こんなのがあります。
大使閣下の作画アシスタントで、料理の絵のめちゃくちゃ上手な方がいて、
今でもものすごくお世話になっているのだけど、
その方のことを、僕は実際に会う前から雑誌の投稿欄で知っていたりしました。
イラストの投稿者なんて星の数ほどいるだろうに、なんでかその人だけは、
名前と絵柄を完全に記憶していた。

その後、そのことを彼に話しても「知ったこっちゃない」って感じなんだけど、
こちらからすれば何か見えない糸を感じてしまったりもするのです。
そういう「天の配材」みたいなのは、たぶん確実に存在する。

西村ミツル先生に最後にお会いしたのはドラマの撮影見学の時で、
そこで大使閣下についていろいろお話して、
長年気になっていたことをいろいろ解決することができました。
あれも運命の配材だと勝手に考えております。

作画担当をやらせていただいてものすごく幸運だったって僕の気持ちも、
たぶん伝わってるんじゃないかな。

なんかとりとめもなく続けられそうな話なんだけど、
本当にまとまりのない話になってきたので、この辺でやめにします。

運不運について、現状の僕が感じているのはこんなところです。

2017年5月 5日 (金)

端午の節句

「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 唐紅にみずくくるとは」

という百人一首の有名な歌があって、落語のネタにもなっているのだけど、
相撲取りの竜田川が吉原遊女の千早に振られ、神代にも相手にされないという、
そちらの話のほうが妙にリアリティがあって頭から離れない。

風流な歌なんだろうけど、男の悲哀も感じてしまうのは全部落語家が悪い。

作者は在原業平で、こちらは伝説では超イケメンでモテ男ってことになっている。
なおさらたちが悪い。
「伊勢物語」を中学だったかで古典の時間に勉強して、
「カキツバタ」の頭の文字で歌を詠んだ、みたいなことはなんとなく覚えていて、
在原業平というと「カキツバタの色男」と僕の中ではインプットされている。

ぶんか社さまの「昭和人情食堂」が今全国のコンビニで売られていますが、
そこに菖蒲の出て来る漫画を描かせていただきまして、
それからずっと「あやめ菖蒲にカキツバタ」って言葉が頭の中を回転しております。
こいつらみんな似たようなツラしやがって、区別がつかねえんだよ、の意味です。

僕は区別できない。目の前に出されてもどれが菖蒲かカキツバタだかわからない。
カキツバタというと尾形光琳の「八橋図」らしいのだけど、
これも僕はずっとアヤメだと思っていた。

Img_01

今文字変換していて気がついたけど、アヤメも漢字だと菖蒲ってしょうぶと同じなのだ。
ああややこしい!

で、この尾形光琳の「八橋図」は先程の「伊勢物語」を絵にしたものだそうです。
だから、カキツバタなのですね。
事情の知らない人はみんな「アヤメの絵」と思ってそうだけど。

上京した当時、業平橋(これも在原業平からきている)のあたりに
お世話になっている方がいて、メチャクチャ美人の奥様だったのだけど、
そこに江戸川区から京成電鉄で向かう途中に菖蒲園への乗り換えがあった。
僕はそちらには行ったことがないのだけど、東京の人は菖蒲が好きなのだなと、
なんとなく刷り込まれている。

この美人の奥様の旦那様の紹介で江戸川区のラーメン屋さんでバイトしたのだけど、
そのラーメン屋の近くにも菖蒲園があった。今でもあるんだろうと思う。
花菖蒲の季節には紫の花が咲き乱れてきれいだったなぁ。
藤の花もそうだけど、春の終わりの五月から梅雨本番の六月まで、
紫の花が続くのは気分的にはものすごく心地よい感じがする。
穏やかな気候が目に優しい色彩とマッチしているのかもしれない。

そのラーメン屋の近く、京成電鉄の駅の前に銭湯があって、
そこの菖蒲湯にも入った思い出がある。
頭に菖蒲の葉を巻いたりしてね。すっかり気分は江戸っ子でした。

菖蒲と花菖蒲。
僕はこの二つをずっと結びつけて考えていたんだよな。
ここの銭湯は菖蒲園が近いから、菖蒲には不自由しなくていいなって。

で、今回そういう漫画を描かせていただいたんだけど、
執筆途中で判明したんですよ。
菖蒲湯の菖蒲と菖蒲園の花菖蒲が全くの別物だって。

銭湯なんかで使う菖蒲が本物の菖蒲で、こちらも花は咲くんだけど、
あんまりきれいな花じゃない。
花菖蒲はアヤメ科だったかな。なんでかこっちの方が菖蒲っぽくなってしまった。

もうね、なんというか「アヤメ菖蒲に花菖蒲にカキツバタ」ですよね。
そこらじゅう菖蒲のドッペルゲンガーだらけ。

今日、菖蒲湯に入る方もおられるでしょうが、
「これはきれいな花が咲くんだよな」と勘違いなさらないように。
僕は三十年近く、勘違いしておりました。

これもみんな花菖蒲なんて微妙な名前をつけた昔の人が悪いと、
僕は思います。

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