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コラム

2017年11月 7日 (火)

とりとめもない話

秋晴好日。

自分の目は年相応にずいぶん衰えてきているのだけど、
それでも、細部が見えないかわりに全体はよく見えていたりする。
散歩中に病院の大きな木が実にいい感じにたたずんでいるのを眺めて、
明るい茶の色合いといい、しみじみ秋だなぁなんて楽しんでいたりする。
むしろ、
細部がよく見えないから画家のモネの絵のように楽しめる。
あの人もずいぶん目が悪かったそうだし、
それで名画をたくさん残せたのだから、肉体の衰えは悪いことばかりじゃない。

先日、島根の方で父方の法要があって、母と弟が分家代表で参列させてもらった。
で、大量のお土産をいただいたそうで、東京の僕の方にもいくらか分けてくれた。
出雲そばとか、菓子とか、中にはどう考えても名古屋産の味噌煮込みうどんとか、
いろいろあったのだけど、なぜかその中に柿がふたつばかり入っていた。

母は柿をぐじゅぐじゅに熟させて食べるのが大好きで、送ってもらったのも熟しきってた。
柿と言ったらふつう硬いイメージがあるのだけど、その二つはゴム毬状態だ。
両手でパクリと割ったら中身が完全にゼリーとなっていた。
見た目があんまりよくないので僕はあまり好きじゃないけど、味はこっちの方がいい。

子供のころ、母はよくテレビの上に柿を並べて熟させていた。
今の薄型のテレビじゃイメージできないけれど、昭和のテレビは箱型で、
上にいろんなものを並べたりした。猫を飼っていれば猫もそこを好むらしく、
YouTubeなんかで薄型テレビの上に無理やりまたがる猫の映像とか、
意味ねーじゃんと思いつつ、結構楽しんでいたりする。

なんせブラウン管だから熱がじんわりのぼってくる。柿は数日で熟すし、
猫もあったまる。
小学生のころ、飲みかけの牛乳入りカップを置いたままにしてたら、
なぜかヨーグルトと化していた。どんな菌の作用かわからんので食べんかったけど。

柿というと硬いのを食べるイメージがあるのだけど、
母のような食べ方はメジャーなものなのだろうか。
自分もスプーンでプルプルのを食べながら「昭和の作法」を堪能した。

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

正岡子規の俳句だな。子供の頃は何がいいのかさっぱりわからんかったけど、
大人になるとしみじみいい句だなと感じ入ったりする。
俳句なんて、作ろうとして作ったものはみんなつまらない。
頭が作るものはたいていくだらない。
ふと口をついて飛び出したため息が、言葉になってるってのがいい。

咳をしてもひとり

とか、思考回路が作り出すもんじゃない。四国の島のくたびれたおっさんのため息だ。
自分もそんな風に言葉が紡ぎだせたらなと思うけど、
なかなかその境地にはいかない。頭で考えてる。

漫画のネームを書くときも、理想としては頭で考えない言葉を使いたい。
体からすっと、飛び出してくる言葉がいい。
だいたい、僕が必死で考えた言葉というのは、たいてい言い訳とか屁理屈なのだ。
「これはこういうお話で、とてもよく考えられていて面白いんですよ」
とくどくどと解説をしている。、
そういうネームは使い物にならないのでくしゃくしゃに丸めて捨てる。
読者にしても、作者の言い訳とか屁理屈なんか読みたくはないだろう。
逆説的にそのみっともなさを楽しむという遊び方も、まああるんだろうけど、
当人には自分がさらし者になっている自覚はなかったりする。

「目には目を、ハニワ、ハオ!」

という名言を残した知り合いの女の子がいて、その境地が自分の目標だったりする。
当時、仲間内で「ハニワ!」「ハオ!」が挨拶になっていたような、いなかったような。

散歩中に「理容ハニワ」という看板が目に入って、
「は!?」
と驚いたのだけど、よく見たら「理容ハニウ」だった。店主が埴生さんなのかな。

とりとめもなく、言葉は駄々洩れになるのであった。
それにしてもいい天気だなぁ。

2017年10月30日 (月)

「恩讐の彼方に」

台風一過で今日は天気はだいぶいいのだけど、風がとにかくすさまじい。
木枯らし一号なのだという。北風小僧の寒太郎なわけだね。

こういう天候だと「風の又三郎」なんかを読み返してみるのもいいかもしれない。
どっどどどどうどどどうどどうどう
だったかな。うろ覚えだけどそんな風の音から始まったような気がする。

木枯し紋次郎もこういうからっ風の吹く日には脳裏をかすめる。どうでもいいけど
日本人は「風のキャラクター」が結構好きだよね。

風は吹きまくってるけどお日様はずいぶんご機嫌なので、散歩に出たいけど、
漫画だとこういう天候の日には看板とかたらいとか、いろんなものが降ってきそうだ。

まったく関係ない話だけど、昨日の大河ドラマのサブタイトルが
「恩賞の彼方に」
だった。

「直虎」は毎度有名作品のタイトルをパロディにしているのだけど、
この元ネタになった作品は僕の結構好きな小説だったりする。
青空文庫でもすぐに読めます。僕の持ってるのは小学館の新撰クラシクス文庫。

「恩讐の彼方に」は菊池寛の出世作で、いちおう史実を題材にしたフィクションらしい。
主君殺しの若侍が自らの罪のあがないにとある大事業を始める。
周囲の人間に小馬鹿にされながら、男は何十年その事業に打ち込む。
そういうお話。詳しいストーリーはネタバレになるので書けない。

でもストーリーよりは部分部分の文章を味わいながら繰り返し読んでいたりする。
「愛読書」ではないけど、それに近い本なのだと思う。

金曜日に病院に検査に出かける用事があって、
どうせまた待合室で時間を潰すのだから、なにか適当な本を持っていこうと、
机の上を物色してたまたま引っ張り出したのがこの本だった。

で、採血室でイケメンドラキュラに血を抜かれた後、小一時間以上待たされて、
その間この本を読み返していた。
「あんなことを真面目にするなんて、あいつは馬鹿だ、基地外だ」
などと言われつつも、自ら罪と向かい合うため一心に事業に打ち込む主人公、
その姿はなんというか、手塚治虫の絵で脳内再生されてしまったのであった。
別にそんな作品を手塚先生は描いてないと思うんだけど、いかにも描きそうではある。

自分の番になって先生とあれこれよもやま話。
お薬をまた一種類増やされてしまった。
業者と結託してるのかこの先生は!と思いつつ、もっと健康的な生活せにゃと、
大いに反省するのであった。

まあその足で野郎ラーメンに行って味噌ラーメン食べてきたんですけどね。
お店のお姉ちゃんに「ニンニクは使いますか」と目をのぞきこまれてびっくりした。
イヤホンしてたから気が付かなかった。

野郎ラーメンなのに女子率が高くて、一時店の中に僕と店主の二人しか男がいなかった。
野郎ラーメンだから女の子が寄ってくるのか?実はやおいラーメンなのか?
などと下らないことを考えつつも、ラーメンを堪能する。

なんでも、スマホで月七千何ぼか払うと、ラーメンが食べ放題になるらしい。
そういうサービスをやっているとココログの記事であった。
いやいや、そんなに食べまくったら体が壊れるでしょ!と思うけど、
僕も若いころはラーメン屋のバイトで一年間ラーメンを食べ続けたので、
若者ならそれくらいお茶の子さいさいなのかもしれない。
今の僕がやったら確実に寿命を縮める。

ラーメンよりもうどんがマイフェイバリットなお年頃なのだけど、
ときどき無性に食べたくなるよね、ラーメン。
お昼になって土建業のお兄さんたちが大挙して店に入ってきて、
カウンターの僕の隣にいた女の子がそそくさと店の隅に移動した。
僕の両隣が一気に汗臭い男祭り状態になった。
これぞまさに「野郎ラーメン」。
自分の家で作った方が安上がりで具材も健康的なんだけど、
この人ごみの中で食べてます感は、自分の家では味わえない。

個人事業主(笑)ならではの感想なのでした。
会社にお勤めの方なんかはうんざりするシチュエーションだと思うけど。


2017年10月24日 (火)

漫画の編集とは……


昔、某編集部に打ち合わせに行ったときの話。
たいていの編集部はデスクの島とは別に打ち合わせルームみたいなところがあって、
椅子とテーブルが並べられ、安い喫茶店のようになっている。
自分は学生時代の学食を連想する。
某社は個別に仕切られていたりするし、別の出版社は窓際の眺めのいいところにある。
僕がその日行ったのはランダムに机の置かれた打ち合わせスペースで、
雑誌の本棚の向こうにデスクの島が見える。
ときどき顔を知っている方が通って、お互いに頭を下げたりする。

そんなところだから、隣で打ち合わせしている様子が結構はっきり見えたりする。
なんか若い男性が原稿を描いているので、
「あの先生、お忙しそうですね」
と担当さんに聞いたら、
「あれは週刊の方で○○を連載中の○○さんだよ」
「○○を舞台のあれですか?僕はてっきり女性の方が描いてるのかと思いました」
「女性の魂を持った男性作家だよ」とニヤリほくそ笑む。

それ、カッコいいな、僕も女性の魂を持った漫画家とか呼ばれてみたいな、
でも心の底からオッサンだから無理だなと、あれこれいらん話をする。

ときどき知らない編集さんが顔を突っ込んできて、
「なんの打ち合わせをしてんの?」
と声をかける。
こういうとき、売れてる漫画家さんだとあっちも自己紹介を始めたりするのだろうけど、
僕程度だと鼻で笑って立ち去っていく。

虚飾を排し、合理主義のはびこるのが編集部という戦場なのだ。
慇懃無礼に挨拶されるよりはよっぽどいい。

すぐ後ろの席で新人さんを相手に掲載原稿の作戦会議が始まる。
新人さんは寡黙な好青年で、僕なんか誰かもわからんだろうに、
とりあえず頭を下げて挨拶してくれた。
いや、まあ名前を言っても知らんと思うけど。

担当編集者は若い女の子だった。
育ちの良さそうな、かわいい女の子だ。
僕もどうせならあんなお嬢さんに担当してもらいたかった。
ちくしょう、とんだラッキーボーイだぜ!俺と変わってくれ!と、本気で考えた。

その彼女の口から飛び出したのは卑猥な言葉のマシンガントークだった。

「もっとこう女の子のパンツとかバンバン見せちゃってください」
「はあ」
「押し倒す勢いで、レイプ寸前みたいな感じで」
「ええ……」
「それくらいやらなきゃ、読者は読んでくれないの。わかります?」
「はあ」
「○○先生とか、さりげなくパンチラのシーンを出してきますよね、知ってますか?」
「読んだことはないですけど」
「古典的名作でもそれだけのことをやってるんです。これは覚悟の問題ですよ!」
「そんなもんですか」
「オッパイももっと大きくして、制服の上からでも形がわからなきゃダメです」
「はあ」
「乳首も描いちゃってください」
「いやいや、下着があるから見えないでしょ」
「だから何?誰も本物の乳首を描けなんて言ってないの。乳首のような何か、なの」
「……ボタンとか?」
「乳首なの!勃起してるの!」
「ええ……」

なんてうらやましい打ち合わせなんだと、僕は心の底から思ったさ。
そこへ自分の担当の二児の父親がやってくる。
長男の成長がうれしいらしく、お酒が入ると「昆虫が大好きでね」といろいろ話しだす。
娘さんもいるので、間違ってもその手の話になる気づかいはない。
PTAを背中に背負っているような理想の父親だ。
昔は蕎麦屋の上の編集部に行くと、エロ漫画を読んでるようなエロ兄貴だったのに。

えーと、何の話をしてるんだっけ?
漫画雑誌の編集部は戦場である、ときどき思いがけない砲弾が飛び交っていたりする。
かわいいお嬢さんが羞恥心を投げうってエロい漫画の企画会議をする。

決して仕事のストレスを若い新人相手にエロトークすることで発散してるわけじゃない。
真面目にエロい漫画を作ることに情熱を燃やしているのだ!
そんな漫画編集者の方々を、僕は心から尊敬しております!
そこんとこよろしく!

掃除

仕事場の机の脇に、うずたかく原稿用紙が積み上げられている。
僕は掃除が生理的に苦手なのだ。
こう書くと、後の文章は定型文のように繰り出される。
片づけてしまうとどこに何があったかわからなくなる。
少しくらい汚れていた方が落ち着くもんだ……

父が亡くなる前、十七歳の夏、
「部屋を片付けろ!」
と激怒した父に、上のようなことを淡々と語ったところ、
「小賢しいことを言うな!」
と叱責された。よりによってこれが最後の会話になってしまった。

次の日には頭の血管が切れて、意識不明で半月後に亡くなっている。
あれ、じゃあ父を死なせたのは僕なのか?とちょっと不安になる。
原因のすべてではないにしても、引き金を引いたのは自分なのかもしれない。
まあ、直接の引き金は、朝、出張前に風呂に入って熱いコーヒーを飲んで、
とどめにキンキンに冷えた栄養ドリンクを飲んだ父の自己責任なのだけど。

で、片づけが苦手な自分も、ちょっと忙しくなると部屋の掃除に現実逃避する。
「これを片付けなくちゃ、仕事できないもんね」

草葉の陰で誰かが泣いている……

最後の最後まで捨てられなかったものだから、他人にはどうでもいいものでも、
自分的にはそれなりに思い入れがあったりする。
鉄子の初期設定画とか、単行本一巻の表紙絵ラフ。
あれ、初めてペン入れした二郷さんなんだけど、気がついたら表紙にされていた。
江戸バルザックの骨董屋のおじいさんの参考画像。
若いころのチェリビダッケなんだけどね。眼光が鋭くてカッコいいから参考にした。

「大使閣下の料理人」のキャラクターのお誕生日表。
僕が西村先生にお願いして作ってもらったやつ。
大沢さん一家とか倉木大使なんかの生年月日が書いてある。
これは発表されたものなのかな。
とりあえずブログに載っけておこう。
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ファックスの日付は2005年になてる。12年も前の話なのか。
てか、12年も前の紙が残ってるとか、どんだけ掃除をさぼってるんだ。

個人ブログをメモ帳代わりに使用するおっさんなのだった。

2017年10月14日 (土)

浮世絵の終焉

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歌川国芳の有名な浮世絵、「相馬の古内裏」。骸骨のインパクトがすごい。

江戸時代に一大ブームとなった浮世絵は、歌麿、写楽、北斎ときて、
幕末に広重、国芳へとバトンタッチされる。
北斎も大好きだった(と思う)ベルリンのブルー、いわゆるベロ藍は、
広重の「東海道五十三次」「名所江戸百景」なんかでも効果的に使われ、
海外では「ヒロシゲブルー」なんて言われているらしい。
元はヨーロッパからの輸入品だけど、これを用いて画面に広がりを表現したって意味では、
「ヒロシゲブルー」はまんざら間違っていない。

この「空間の広がり」というのは、浮世絵風景画の醍醐味ではないかと思う。
見ているだけで、画面の向こう側に世界の広がりが感じられる。
こういうものを発明したのはいったい誰だろうと思うけれど、
やっぱり、北斎の「富岳三十六景」なのかな。
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北斎は、デッサン力もバケモノめいてすごいけど、構成力もすごい。
「凱風快晴」とか、富士山と空と、下の方に木をちょんちょんと描いて終わりなのに、
なんなんだあの富士の威圧感は!と素直に驚く。
一方で「神奈川沖浪裏」がある。波がドヒャーと襲い掛かってくる。
富士は画面の下の方にちょこんと描かれているだけだが、
巨大な富士があそこにちょこんと鎮座しておられるがために、
波はいよいよ高く、重々しくのしかかってくる。
「化け物」
と目一杯の敬意をこめて呼ばせていただく。

その北斎から遅れること二年くらいで、広重の「東海道五十三次」の刊行が始まる。
北斎が七十を超えた化け物ジジイなのに対して、広重は三十ちょいの若造である。
でもこの人の構成力も凄まじい。画面にものすごい奥行きがある。
そんで、北斎には申し訳ないのだけど、色の使い方と抒情性みたいなもの、
絵の品格の部分では広重の方が圧勝しているのではないかと思う。
北斎は「すげー」と唸らされるけど、広重は「いい絵だな」と浸れるのである。

画面の構成力、奥行きみたいなものを感じさせる能力というのは、求めても得難い。
北斎の画帳なんかを見ると、この人は透視画法についての知識もあったようだけど、
いわゆる一点透視画法、消失点が一つのオーソドックスな遠近法は取り入れていない。
二つあったりする。だから日本橋を描いても両岸の街並みが一点に収束しない。
そんな科学的な屁理屈よりも、自分の目で見たときの印象の方を優先させている。
だから、絵がどんどんダイナミックなことになって、画面の向こうで怪物が高笑いする。
くわばらくわばら。

広重の有名な日本橋の絵だって、消失点を探せばえらいことになる。
一応、透視画法への配慮みたいなものはあるのだけど、基本、見た時の印象が勝ってる。
執拗に繰り返される垂直のライン、物見やぐらや行列の毛槍馬印、橋の欄干、門の板目、
こういった強烈な線の上昇感覚は、厳密な透視画法だと相殺されてしまうものだ。
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透視画法なんてものには頼らず、見たときの印象を咀嚼し、頭の中や画帳の上で再構成し、
絵として完成させる。それで絵に奥行きと抒情性が生まれるというのは、
もうこれは並外れた感性のなせる技だとしか言いようがない。
うらやましい。僕もそんな感性のひとかけらくらいは持って生まれたかった。

でもまあ、そんなに悲観したもんでもないのかもしれない。
北斎が富岳三十六景を描き始めたは七十を超えたあたりからだし、
広重にしても、北斎の前例があったからそれを参考にした部分はあっただろう。
まあ、前例があったからってすぐに吸収してしまえる才能というのも恐ろしいけど。

広重とほぼ同じ時期に活躍していた歌川国芳になると、空間認識はそこまですごくない。
いや、この人も晩年には忠臣蔵のシリーズなんかで透視画法を使っているけど、
教科書どおりの生真面目な遠近法なので、絵というよりは挿絵のような感じがしてしまう。
透視画法の味気なさをものの見事に表現してしまっている。
実際、このシリーズは売れなかったとウイキペディアにも書いてある。

この人はむしろ、画題とか人物の感情表現で突き抜けたものがある。
特に人物の内面表現となれば、これは北斎にも広重にも欠けている才能だ。
ある意味、写楽・歌麿の正当な後継者なんだと思う。
大石内蔵助(大星由良助だけど)の頼れる部長さんみたいな一枚絵とか、
時代を突き抜けて現代的な内蔵助像だと思う。売れなかったけど。
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女を描かせたら歌麿は天下随一だけれど、男を描いて凄みをかんじさせるとなると、
写楽、豊国、国芳あたりがすごいような気がする。
本当のところ、こっちが浮世絵の本流で、北斎、広重が突然変異的化け物なんだよな。

国芳は「武者絵」という武人の絵で一時代を築いた。
時代も幕末になるとそういうヒーローアクションものがもてはやされるようになる。
なのに、国芳というと例の髑髏絵はいいとして、
「向島にスカイツリーを描いた江戸時代の予言者」
みたいな取り上げ方ばかりされてしまうのはいかがなものか。
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で、この国芳さんが明治維新を待たずに亡くなってしまい、いよいよ浮世絵は衰退する。
なんせ時代が江戸から明治なろうというのだから、
文明開化のご時世に「透視画法もろくに習得していない」江戸時代の絵なんて時代遅れだ。
西洋へ輸出する茶碗の包装紙にしてしまえ、みたいになっていく。

でもそんな流れに抵抗する時代錯誤の男というのは必ずいるもので、
国芳の弟子の月岡芳年がその最後の浮世絵師ということになっている。
ずいぶん粋な男前だったと証言が残っている。残っている肖像を見ても、
河鍋暁斎の魁偉な面相に比べればなかなかの好男子だ。

この人は師匠歌川国芳の「武者絵」を継承する浮世絵師だ。
11歳だかで入門して、15歳でデビューしている。
23歳のとき江戸城の無血開城があって、上野の山に彰義隊が立てこもるや、
そこへ出かけて行って血しぶき舞う戦場を実検したらしい。
(ごめん、三十歳だった)
師匠の国芳にはできなかった本物の侍の戦を見るという体験をしているのだ。
「これで本物の武者絵を描くことが出来る」
ってんで、描いた作品が「魁題百撰相」。
侍が血を流して断末魔の目で睨みつける、俗にいう残酷絵というやつである。
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時代が殺伐としてくるとエログロが流行する傾向があるけれど、
当時の人たちには結構ショッキングな絵だったに違いない。
「上野のお山ではみんなこんな風に戦って死んでいったんだな」と、
戦場写真のような需要もあっただろう。芳年さんは浮世絵界の若きエースとなる。

でも、くどいようだけど、浮世絵は時代遅れの過去の遺物になりつつあった。
芳年さんも「このままじゃジリ貧だ」ってんで、いろいろ改革を始める。
まず、西洋画法を取り入れる。透視画法ばんばん、絵は洗練され、エッチング風になる。
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僕は実はこの時期の芳年さんの絵が好きなのだけど、
「これが浮世絵か」
と聞かれると、ちょっと困る。
単純に絵として考えると、デッサン力はすごいし、画面構成も見事、
何より色彩感覚が上品で絵に無類の格調がある。
すごい人なんだってのはもう間違いがない。
でも、これはもう浮世絵ではない別の何かだ。

そんなことは芳年さんにはわかりすぎるほどわかっていた。
だからこういう絵を模索しつつも、同時に江戸情緒丸出しの浮世絵も描きつないでいる。
たぶん、自分を最後に浮世絵は滅びるのだろう、でも、
だからと言って簡単に見捨てられるものか、滅びるなら滅びるで、有終の美を飾ってやる。
華々しく終わらせてやる。

で、この人は華々しく最後の浮世絵師の役割を全うしたのであった。
「月百姿」は北斎の富士に対して、月を主題とした連作なのだけど、
歌麿・写楽ー豊国ー国芳ときた人物の内面を描く流れと、
北斎・広重の画面構成と風景の抒情性がここで一つに合流している。
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江戸から続いた浮世絵版画の彫り師と摺師の技の冴えも、ここで絶頂となる。
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以後、芳年さんはお弟子さんたちに、
「浮世絵以外の技法を勉強して、そちら方面で活路を見出してくれ」
とアドバイスし、実際、お弟子さんたちは新聞の挿絵とか、浮世絵以外の方向に流れる。
厳密に弟子ではないけれど、伊東深水とか、鏑木清方もこの流れになるらしい。

で、本当にどうでもいい話かもしれないけど、
芳年さんが最晩年に浮世絵で描いた連作「風俗参十二相」の「かゆさう」という絵が、
僕はけっこう好きだったりする。蚊帳の中から女の子が身を乗り出してる。
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芸術性の高い西洋風の絵を模索しつつ、しっかり江戸浮世絵を継承し、
最高のおっぱいをも描写するその筆力。右手の指とか、本当はもっとちゃんと描けるのに、
あえて江戸時代の線の色気を優先させる。こういう味は、西洋画法じゃ出せない。

まったく、なんで浮世絵は滅びなきゃならないんだと、芳年さんは大いに不満だったはず。

このおっぱいを描いたのが明治21年で、芳年さんは五十歳。僕とほぼ同年齢。
その四年後の明治25年に芳年さんはお亡くなりになる。若い、若すぎる……
北斎とかこの年齢で死んでたら代表作がほとんど残せなくなってしまう。

こうして浮世絵は芳年さんの死とともに終わったと、そういうことになっている。
でも、浮世絵は終わったけど、その流れはまだ続いている。
現代の漫画とか、間違いなくこの流れにあると僕は考えるんだけど、
どんなもんなんですかねぇ?

2017年10月 4日 (水)

創作噺モナリザ

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「絵なんか描いて何が楽しいんですかねぇ」
という素朴な感想を、真正面からぶつけてくる人がいる。
漫画の編集者の方にも、そういうことを言外に匂わせる人がいて、
あんた、それで飯を喰ってるんじゃないかと、ちょっとムッとしたりもした。
若いころの話だ。今なら笑って「本当に、不思議ですよねぇ」と流すところ。

実際、何が楽しんだろうと、楽しんでる自分を冷静に分析したりもする。

絵は、実在する人間なり自然の景観なりを二次元に記録するものでしかない。
それも時代を重ねるごとに絵のために絵を描くような自家中毒に陥ったりもするけれど、
そんな自家中毒者であっても、しまいには絵は目の前の現象を二次元に落とし込むという、
根本の原理に帰っていく。

ルネッサンス期がそうだった。型にはまった宗教画の約束から解き放たれて、
現実のありのままの姿に一度立ち返り、どうすればこれを二次元に表現できるか、
その根本のところから絵画を考え直そうとした。

レオナルド・ダ・ヴィンチなんて人も、天才かどうかは僕は知らないけれど、
その根本から絵画をとらえ直そうとした人だと思う。
はっきりと、それは闘争本能むき出しにした挑戦だったと思う。
山があるから、山に登る。宇宙があるからロケットを打ち上げる。
そして、二次元に三次元を表現する可能性があるから、それを極限まで極めようとする。
それに熱中し、寝食すら忘れて打ち込むというのは、見えている人には当然の挑戦なのだ。

まず、デッサンがある。科学的に人体を分析し、それを二次元に描写する。
次に光、そして光が生み出す色彩の世界。
ある意味武骨な科学の目の世界に、フランドルの幻想性が流れ込み、
光の中に浮かび上がる人物絵画の世界が忽然と広がり始める。

ダ・ヴィンチの絵を描く目標はこの時はっきりとビジョンを結ぶ。
人物画を描こう、まるで本当の人間がそこにいるような、究極の絵画を描き上げよう。

そして、研究の末に到達した結論、視線と手の関係、
手を重ね合わせることで人体は調和し、視線に力が込められる。
まるで本当に見つめているような絵が描けるはず。

だから、ジョコンダ氏から肖像画の依頼があったとき、ダ・ヴィンチはそれを実践した。
リザ・デル・ジョコンダ夫人はジョコンダ氏の第3夫人で、最近娘を亡くしたばかり、
当然、喪服を着用している。これはダ・ヴィンチが考える絵にうってつけだった。

黒衣ならば観る者の目は嫌でも重ねられた手に集中することになる。
絵のからくりが自然に完成する。

その肖像画は、微笑をたたえていなくてはならない。陰鬱な絵は面白くない。
だいたい「ジョコンダ」とはラテン語で幸福を意味する言葉なのだ。
彼女の微笑をこの絵の意匠にしてしまえば、それでジョコンダ家の絵だとわかる。
わかる人にはわかる。
つまり、笑顔以外の余計な情報は一切入れる必要がなくなる。

レオナルドはデッサンを始める。その過程で、もう一枚の絵が着想される。
「裸のモナリザ」である。
こちらの絵は女性が正面を向いている絵になる。上半身はヌードになる。
なぜそんな絵を描かねばならなかったのか。
注文主がその絵を希望したのか?
そんなはずはない。ダ・ヴィンチはもう一枚のモナリザを描く必要があったのだ。
それが何かはダ・ヴィンチにしかわからないけれど、それも絵画の可能性の一つだった。
ぶっちゃけ、エロいモナリザがものすごく描きたくなった、それだけのことだ。

レオナルドは二次元に三次元を表現する可能性を追求した。
なら、VRばりに本物のような裸体だって描けるはずだ。
これぞ究極の絵画だと、男性ならば誰もが同意するはず!

で、どうなったか。
四年がかりで挑戦して、結局完成することが出来なかった。
絵は注文主には渡されず、その後も十年以上、ダ・ヴィンチはこの絵を手元に置き続ける。
何か、この絵を完成させるためには何かあと一歩、足りないような気がする。
あと一歩でこの絵は三次元を超えた究極の二次元になりそうなのに、それがわからない。

裸のモナリザの絵の方は放棄される。弟子のサライに素描をくれてやる。
好きにするがいい。はっきり言おう、おっぱいが邪魔である。
おっぱいがあるために、人物の視線はそのボリュームの分だけ弱くなる。
なんだこのおっぱいは!なんでこんなものがついているのだ!
ダ・ヴィンチは自分が同性愛者であることをしみじみと自覚したのだった。

で、そのうちフランスの国王からの招きに応じて、モナリザとともにフランスへ。
その地でダ・ヴィンチは没する。絵はついに完成しなかった。
(モナリザは右手の人差し指とか、あちこちに未完成部分がある)
絵は弟子に遺贈され、それをフランソワ一世が買い上げた。
後年のフランスの至宝は、こんな理由でルーブル美術館に常設展示されることになる。

このへんの事情はダ・ヴィンチが何も書き残さなかったため、詳細は何もわからない。
ただ、画家であるヴァザーリがその絵が「モナリザ」であることと、
フランス王室に渡ったいきさつを「美術家列伝」に書き残している。
「モナリザ」に関する情報の大部分はこの著作から来ている。

ただ、同時代の証言に、これと微妙に食い違うものも残っていたりする。
「レオナルドはジョコンダ夫人の肖像画と、モナリザの二枚を描いている」という
ロマッツォによる証言だ。モナリザは春のような微笑みをたたえているという。

この発言が後世の美術史家を混乱させた。
本当にもう一枚のモナリザが存在するのか?どっちがルーブルのモナリザなんだ?
かくて、美術史家たちは「裸のモナリザ」を探し続けるのであった。

で、このたび、疑惑の一枚、サライが押し付けられた素描をルーブル美術館が鑑定した。
結果、モナリザと同時期に描かれたレオナルドの作品かもしれないと判定された。
手の形なんかは、まんまモナリザだったりする。同時期の絵となれば、
これはもうレオナルドが描いたものに間違いない。
Lif1710010009p1

でも、僕はこれは失敗作じゃないかと思う。あんまりいい絵だとは思えない。
おっぱいの力に負けないために人物を正面から描くことで視線を強めようとして、
結局おっぱいに負けた、という感じがする。

素描はサライによって油彩画となり、「裸のモナリザ」としてエルミタージュにある。
素描の方はイギリスにあって、こちらが今回ルーブルが鑑定をしたものだ。
長年の疑問に、一つの有力な解答が与えられた、という話なのだけど、
僕はもっとエロいモナリザが見たかったので、ちょっと残念だなと、
しみじみ考えるのであった。

おっぱいが邪魔うんぬんの話は僕のでっち上げです。
モナリザの微笑みがジョコンダ家の意匠を意味してるってのは、
ルーブルの学芸員の方の著作にある推論で、これはかなり説得力があると思う。
このことから、ルーブルのモナリザはジョコンダ夫人の肖像で間違いないと、
僕は思うんだな。

2017年9月 4日 (月)

パワードスーツ


パワードスーツを着用して、この文章を打ち込んでいる。

八月が終わって、一気に気候が秋めいてしまったために、体が変化に追いつかなかった。
ぶっちゃけ、背中が滅茶苦茶痛い。肩甲骨のあたりが内側からえぐり込むように痛い。
で、しばらく寝転がっていたら治るかなと思っていたのだけど、治らんかった。

アニマックスで機動戦士ガンダム、ジ・オリジンの連続放送があって、
ララア・スンが出てきて、おお、かわいいじゃねぇか、とんだオジサンキラーだぜ、
なんて思ったりしていたのだけど、
それでも激痛は全然収まらない。

金曜に検査で病院に出向いたとき、内科の先生に話してみたのだけど、
「いやあ、血液検査の結果は滅茶苦茶健康ですね!」
と、数字の素晴らしさをさんざん褒められた。
いやいや、直前までタバコをふかしまくって睡眠も2・3時間で原稿に没入していたのに、
いい数字なんて出るわけないでしょ!と思ったけど、前回よりもいい数字が出ていた。
現代の医学はあんまり当てにはならない。

「タバコをふかすと血液が濃くなる傾向があるので、そこんとこよろしくね」

とのことだったので、ちょうどマルボロが最後の一本だったので、
それをふかしてプチ禁煙に入った。肩が痛いのは血液の循環によるものなのは確実なので、
体の中の液体をできるだけきれいに保ってみようと心に決めた。
それで土曜日はガンダムを観ながら安静にしていたのだけど、結局どうにもならんかった。

暑かった日々が突然秋めいて涼しくなってくるこの時期、毎年なんらかの変調はくる。
一度首がどうにも痛くなって、按摩を探して知り合いと街をブラついたことがある。
腰が痛くてベッドでもんどり打ったこともある。今年は右の肩甲骨なのだ。

で、日曜日は隣の町までブラブラ散歩をして、また刻みのタバコを買ってしまった。
おばあちゃんがうめ味の飴ちゃんをサービスしてくれた。
肩に入れ墨を入れたお兄ちゃんが店の前に陣取っていて邪魔だったけど、それをかき分け、
ふらふらと踏切の方へと歩く。
目の前に大きなパチンコ屋がある。ああ、仕事しなくちゃ。

でも机に向かって煙管をふかしていても、十分と我慢が出来ない。とにかく痛い。
こりゃどうにもならんなと、また横になってみるのだけど、そうそう寝てもいられない。
一日絵を描かないとイライラするのはタバコと同じ。なんか描きたい。

で、思いついた。パワードスーツを使おう。

ガンダムはもともとパワードスーツが題材のSF小説が元ネタだったと思う。
宇宙の戦士だったかな。ハイラインのやつ。
人間の機能を機械的に拡張させて、スーパーマンになる。
僕が子供の頃は完全な夢物語だったけど、この頃は実用化の一歩手前まで来ているらしい。
日本だと主に介護目的だけど、重い荷物を持ち上げたり、階段を楽に登ったりできる。
自分の住んでいる街は坂が多くて、よく電動アシスト自転車に乗ってる主婦に会うけど、
あれもまた、一種のパワードスーツだ。

で、たすき掛けに肩をひもでくくってみた。
肩が背中の方に強制的に持ち上げられて、痛いのが少しだけ緩和される。
で、今その状態で文章を打ち込んでいたりする。
プチ・パワードスーツだ。

ガンダムはどうやらこのまま本編の方まで作り直されるらしい。
銀河英雄伝説も作り直されるって話があるけど、あちらが不安いっぱいなのに対し、
こちらはジ・オリジンでだいたいのレベルは想像がつくので、割と楽しみだ。

コミカライズの方は毎月雑誌を買って読んでた。
で、最後の方のセイラ大活躍とか、ちょっと「ん?」な部分はあるし、
ランバラルがイメージよりずいぶん若返っているって個人的な難点もある。
マグネットコーティングのモスク・ハン博士とか、フラナガン博士のデザインとか、
テレビシリーズと違うところはやっぱり気になる。
(安彦先生が病気で倒れていた間にスタッフでデザインを作ってた部分)
でも大筋では満足のいくコミカライズだったので、やっぱりアニメ化はうれしい。

声優さんについても、フラウ・ボゥなんかはすでに前日談でアニメ化されているけど、
志熊理科・福圓美里さんが幼馴染をやってて好感が持てた。なんか馴染んでる。
ユニバース!
ララアの早見沙織さんはどうなってしまうのか楽しみ。

男性声優陣は続投がほとんどかな。古川登志夫さんのカイシデンは昔のまんま。
でもそれがよい。ギレンは銀河万丈さん。ジオンはまだ十年は戦える。(マ・グベ談)

セイラ役の井上瑤さんはかなり以前にお亡くなりになっているんだけど、
そこをララア役だった潘恵子さんの娘の潘めぐみさんが演じることになる。
プレッシャーはあるだろうけど今のところ好演中。リトルウイッチアカデミア良かったし。
このあいだ俺物語!見たんだけど、大和役もすごくかわいかった。
(あざとくないかわいさって難しいと思う。女の人は特に)

同じく、井上さんが演じていたマスコットロボのハロは新井里美さん。
まったく気が付かなくて(馴染んでて)、後でテロップで確認して笑ってしまった。
絶妙のキャスティング。この方がミライ役でも面白かった。

そのミライ役は藤村歩さん。UCのミネバ様。
今んとこあんまり喋ってないけど、ホワイトベースのお母さんっぽい感じをどう出すか、
楽しみだったりする。
どうでもいいけどジ・オリジンでミネバのお母さんがドズルと絡むシーンは、
なんか微笑ましくてニヤニヤしてしまった。あの人がソロモンでああなって、
その後アクシズでああなっちゃうんだなと、しみじみする。「ゼナ」って名前が出ると、
条件反射で「行け!ミネバとともに!」と返してしまうのは、なんなんだろうね。

で、シャアとアムロは当然のごとく池田古谷の定番コンビだったりする。
まあ、学生時代のシャアを池田秀一さんがやるのはどうかと思ったけど、
ファースト世代にはむしろあれの方が納得もいくので、全然OK。
ララアとの出会いのシーンとか、アニメ化されてちょっとうれしかった。
あれが池田さん以外の声だったらなんか嫌だったと思う。
アムロの古谷徹さんもイケルはず。

ブライト艦長の鈴置さんが鬼籍に入られているのは残念だけど、
UCから引き続き成田剣さんだと思われるので、まったく不安はない。
「左舷弾幕薄いよ!」「スタンバっとけ!」を思いっきりやっちゃってもらいたい。

なんだ、盤石ではないか!

2017年8月26日 (土)

24時間テレビ

24時間テレビか……
僕が子供頃には「24時間、テレビが放送されている」ってのはすごいインパクトだった。
40年くらい前の昭和のお話だ。

テレビは深夜に11PMを観て(ガキがそんなもん観るなよ)一時くらいになると終了。
あとは停波になって走査線がザーーーーと流れていた。
ブラウン管テレビだから、縞模様にランダムな光線が発射されるのだ。
不気味っちゃ不気味である。リングの貞子が出てもおかしくない。

昔の深夜番組はものすごくスケベだったんだよね。70年代末期はすごかった。
今じや絶対あり得ない。ウイークエンダーとか、すごかった。
母親が男と再婚して、熱々の夫婦だったんだけど、娘を残して他界。
で、男は失意のあまり、亡き妻の面影を娘に見て、手を出す。
ショッキングなシーンがおっぱい付きで展開された後、
「私お母さんの代わりにされちゃったよ……」という娘のセリフが続く。
で、お父さんが殺されて、その実際にあった事件をドラマにして見せているんだけど、
小学生にあんなものを見せちゃいかんな。

せんだみつおの番組もすごかった。トップレスの女の子たちがガラスの蟻地獄に入って、
周囲にばらまかれた札束目当てに這い上がろうともがくもがく。
それをカメラはガラスの向こうから煽るように撮影する。
おっぱいとかガラスに押し付けられて変な形にゆがんでるんだよね。
でも女の子たちの表情があんまり必死だったんで、エッチというより卑猥って感じだった。
あんなきれいなお姉さんでもああも浅ましくなるもんかと、小学生にはいい勉強になった。
(父親は「ひろし君はスケベだな」と言ったまま放置してくれた)

二時間ドラマの目玉が女優さんのベッドシーンと
おっぱいシーン(シャワーシーン)だった時代の話だ。
バブル前のお父さんたちは、ああいうテレビ番組で日ごろの疲れを癒していたんだよね。
八十年代になって規制が強化されて軒並み消えてしまったけど。

また話題がそれた。

そんなこんなで24時間、テレビがぶっ続けで放送されるというインパクトはすごかった。
ビデオもまだ普及する前の話だから、あれを全部見るってのは、勇者!って感じ。
純真な小学生だった僕は、テレビ局の人が不眠不休でボランティアをするのは偉いなって、
素朴に信じ込んでいた。きっとみんな無料で働いてるんだろうなって。

そんなわきゃねぇ。

名古屋の純真な、漫画好きの小学生にとっては、手塚治虫のアニメが楽しみだった。
24時間テレビの中間地点、朝方からお昼前くらいの時間だったと思う。
坂口尚さんがキャラデザのバンダーブック?が最初だったかな。
で、マリンエクスプレスとか、手塚治虫が大将になって作ったアニメが放送されていた。
毎年必ず一作づつ、夏の最後の豪華なプレゼントって感じで。

マリンエクスプレスは力入ってたな。手塚キャラ総出演って感じ。
海の中を走るオリエント急行みたいな豪華列車の中で事件が次々と起こる。
名探偵ヒゲ親父が大活躍!みたいな。
古代風の武装兵団が何万と襲ってくるシーンがちゃんと動画で動いていて、
ヒゲ親父がそのことを突っ込むメタなセリフなんか、よく覚えている。
アニメーター手塚治虫としてはそこを注目してもらいたかったんだろうな。
宮崎駿がナウシカとかやる前の話で、手塚先生としては自分がアニメを牽引しているって、
ものすごい自覚があったんだと思う。

そういうアニメとしてのすごい部分は、八十年代にナウシカとかマクロスが出てきて、
すべて乗り越えられてしまったわけだけど。(二つとも劇場で観てスゲー!ってなった)

八十年代に入ってプライムローズなんかもアニメ化していたけど、
僕らの世代にはすでに手塚先生の絵は古臭い昔の絵になっていたので、
それで八十年代風ロリッ娘アニメをやられても、ちょっと……って感じだった。
せめてヒロインの髪の毛が原作同様ピンクだったらよかったんだけど、紫だもんな。

ある意味、時代を先取りしていたんじゃないかと思わんでもないが、
綾波とか、「馬鹿バッカ」のルリちゃんとか、あんな感じの髪の色を使うのは、
八十年代だとちょっと時期尚早だった。おばちゃん臭い。

聖闘士星矢のアテナ様とか、クールビューティなライバルキャラによく使われていた色だ。
魔女っ子メグちゃんのライバルキャラみたいな感じ。
年をとるとメインの赤やピンクより青系のクールビューティが好きになってくるけど、
プライムローズでヒロインの子にそのカラーリングだけ使うのは、なんか違った。

ある意味、手塚先生は来たるべき90年代のアニメの方向性を模索していたのだ!と、
変な勘ぐりをするのも、また楽しからずや。
いつの時代でも子供は天真爛漫な赤系の女の子に入れ込み、
お兄さん世代はライバルの青系クールビューティに惚れ込んだりする。
じゃあいっそ、青系クールビューティーをヒロインにすればいいじゃない!となったのは、
たぶん90年代に入ってからのことじゃないかな。
その頃にはもう手塚先生はお亡くなりになっていて、
すでにアニメの神様ではなくなっていた。

今はもう24時間テレビでアニメを放送することもなくなっちゃったんだよな。
代わりに芸能人がマラソンを走って視聴率を稼いでいる。
走る人がいなくなったら、是非手塚作品のリバイバルとかやって欲しいところだ。
(クールビューティなプライムローズとか)
ま、無理か。

2017年8月24日 (木)

コンビニ


タバコというものはおそろしいもので、
机に向かっているといつの間にか吸っている。
箱から出した覚えもないし、火をつけた記憶もないのだけど、
気が付くとくわえている。

キセルだと刻みの葉を指先で丸めたりとか、先端に詰めたりとか、
アクションが多いので「おやまた煙草かい」と思うのだけど、
シガレットはダメだ、無意識に吸ってしまう。

このところ、八月に入ってから連日の雨だったので、
ついつい駅前のタバコ屋には足が向かず、刻みは買っていない。
近所のコンビニでマルボロ買ってる。

漫画のネームを描くときなんかは、集中して数時間かかりきりになるので、
気が付くと残り本数が一本になっていたりする。
それでコンビニまで出かけ、ついついチョコレートやらおにぎりやらも買ってしまう。
セブンイレブンのバイトのカルロス君(仮名)にすっかり顔を覚えられた。
深夜のバイトは外国人さんがやってることが多い。彫りが深くて肌の色が褐色だ。
あんまり書くと差別発言ととられそうだけど、彼の体臭をかぐとカレーが食べたくなる。

今日は久しぶりに夏らしいいい天気だ。ぶっちゃけちょっと暑い。
「冷夏」ってことで夏野菜の価格高騰が懸念されているのだけど、
この調子で夏の後半戦はなんとか夏らしくあってもらいたいものだ。

タバコを買いにコンビニ行ったら、お昼は店員さんがおばちゃんで固められていた。
「おばちゃん」なんて書くと高齢みたいだけど、僕の年齢だと年下だったりもするから、
口に出すときは「お姉さん」なんだけどね。

カルロス君は今頃自分の部屋で寝ているんだろうか。

2017年8月20日 (日)

サザエさんは年下のお姉さんなのだ。

短い人生を彗星のように煌きながら駈け抜ける人生もあるし、
長い人生をのんべんだらりんと、平穏無事に生きる人生だってある。

十代の頃の自分を思い返してみると、
「長く生きたって仕方がない、太く短く生きるのがカッコいいのだ」
と、夭折に憧れていたフシがある。

歴史上「この時に死んでいれば英雄だったのに」って人はいる。
幕末の井上多聞なんかはそうだろう。
過激な尊王攘夷論者が開国論者となり、
英国留学中に長州戦争が勃発するや、取って返してその折衝にあたり、
戦争を無事に終息させ、そのことを恨まれて闇討ちされる。
この時に死んでいれば坂本竜馬みたいな英雄になっていたかもしれないけど、
そうはならなかった。
全身をなますのように滅多切りにされて、虫の息で
「兄上、介錯を」
と頼んだところを、母親が止めに入った。

で、明治になって井上薫と名前を変え、大臣の位にまで栄達するのだけど、
そこからは金に汚い汚職政治家となって、明治人のひんしゅくを買ってしまう。

そういうのはなんか、嫌だなと思う。
人生は太く短く、鮮やかに駈け抜けてみたい。

で、高校時代の僕はフランスのラディケなんかを学校で読んでいたりした。
タイトルは「肉体の悪魔」。
「かわすみがエロ小説を読んでるぞ!」
とクラスの連中にひやかされたりしたっけ。
「いやいや、フランスの天才小説家だから、とりあえず本を返しなさい」
「やーい肉体の悪魔」
「だから、その本は真面目な小説だって!(そうとも言い切れんフシはあるけど)」

ラディケは二十歳くらいで夭折しているので、それで憧れていた部分はある。
「僕も病床で神の兵隊に殺されると叫びながら死んでしまいたい!」と思ってた。
中二病を高校時代にまで引きずるのは、まあみっともない話だ。

僕の若いころはノストラダムスの大予言みたいなのがあって、
人類は1999年には絶滅する段取りになっていた。五島勉さんがそう言っていた。
この終末論というのはものすごく刺激的なもので、当時は冷戦体制でもあったし、
バブルで浮かれた日本に鉄槌を!みたいな気分も僕にはあった。
九月に空から大魔王が降ってきて、それで終わりになるなら、それもいいやって、
なんか投げやりな部分があった。

八十年代末期あたりだと、冷戦が終結し始めた時期で、
ルーマニアのチャウシェスク大統領が惨殺され、ソビエトでペレストロイカ進行、
ロシア連邦となり、中国もついでに民主化に走るかと思われたが、
胡耀邦さんがお亡くなりになって、例の天安門事件になり、
ギリギリ中国は共産国家であり続けることになった。

世界は基本的にこのまま平和裏に民主化されていきそうな情勢ではあった。
中国なんかは、その情勢に乗り遅れてこのまま没落していくんじゃないかと思ってたけど、
鄧小平という無駄に有能な政治家がいて、共産主義体制を維持しつつ、
資本主義を一部導入するという荒業をやってのけ、21世紀への筋道をつけた。
共産主義は事実上失敗に終わり、資本主義陣営の勝利!って形にはなった。

あの当時、90年代の初頭だと思うけど、
「東西の冷戦は終わったけど、これからは南北の冷戦時代になる」
って見方もあって、そんなもんかなと思ってたけど、まあ、そんな感じにはなってる。
緩やかな資本主義の崩壊というか、資本主義に虐げられていた民衆がテロに走って、
「これからはグローバリズムの時代だ!」
と能天気にはしゃいでいた西欧国家を破壊しまくっている。

日本はプラザ合意以降バブルが崩壊して、東西冷戦の終結と不景気が同時にやってきた。
「いやいや、また日本は復活するだろう」
と漠然と期待していたけれど、なかったねぇ。
ジュリアナで扇子降ってたのが日本の最後の輝きになった。
以降、山一証券の倒産があって、有名な大企業でもコロッといってしまう時代になった。
東芝があぶないなんて、バブルを知っている世代にはものすごい笑い話だよ。

東芝と言えば、
自分が25歳になったとき「サザエさんと同じ年齢になった」というのは衝撃だった。
自分は永遠にサザエさんより年下だと考えていたのが、そうではなくなってしまったのだ。

以降、自分の中で永遠に年上だと考えていたものが、次々と年下になっていく。
こういう気分は、高校野球を観ていると味わうものなんだろうな。
自分が高校生の頃はPL学園全盛の時代で、清原とか桑田が大活躍していた。
実際に観ていた記憶はないんだけど、年表的にはそういうことになっている。
ゴジラ松井が全打席敬遠されて新聞メディアが相手チームの監督を袋叩きにしたとき、
僕はもう高校生ではなくなっていて、
「未来のある若者なんだからもっと全力でやらせてあげりゃいいのに」
とメディアにのっかって一緒になって叩きまくっていた。
完全にオッサンの目線である。

大相撲もそうだ。スポーツ選手が次々と現役を引退していき、
プロのスポーツとは若いもんがやるもんだって意識になったとき、
心のギアがガチャっと入れ替わる。
自分もある時期まではそのギアを若いままで保持していたけれど、
中日の山本昌が引退した時点で、それが不可能であることを悟った。
あの人ピッチャーなんだけどずいぶん続いたもんだなぁ。

で、1999年は何事もなく、平常運転で通り過ぎてしまった。
その頃には自分も「今人生が終わったらシャレにならねえ!」って気分だったし、
ノストラダムスなんて嘘さ、大予言なんてメディアのでっち上げた大嘘だと、
完全に黙殺していた。このへんで人生についても、
「太く短く」よりも「細く長く」に趣旨替えしたんじゃないかと思う。
人生やっぱり、長く生きてみないとわからないことがいっぱいある。
それを味わうことなく死んでいくのは、なんか悔しい。もったいない。
三重県のお祖母ちゃんが亡くなったのもこのあたりだったかな。
93歳で大往生。孫やひ孫に囲まれて「そんじゃまあ、先行っとるわ」ってな感じで、
笑顔のままで棺に収まっていた。
地味な人生で葬式が最大のイベントってのもどうかと思うけど、
本人がああやって笑って死んでいけるのは、なんにしても最高のことなんだろう。

21世紀になって、僕ら昭和世代が思い描いていたバラ色の未来になって、
ある日テレビをつけたら高層ビルにジャンボ旅客機が突っ込んでいた。
なんの映画だろうと思ったら911のテロだった。
それから朝までテレビに釘付けになって、戦争だ!戦争だ!と大騒ぎしていたな。
ある意味、ノストラダムスの予言が当たっちゃったとも取れなくはない。
それくらい、ショッキングな出来事だった。
メディアは連日のようにジャンボが突っ込むシーンを放送し、
スクープ映像として貿易センタービル崩壊の直前の現場を流していた。
途中停止していたエレベーターの一基が、奇跡的に動いて何人か助かったってやつ。
その間も外では何かが落ちるドンドンという音が続いていて、
そこにナレーションが
「この音はビルの上から火災に追われて落ちてくる人間の音です」
なんてのを平気でかぶせてきてた。

オサマ・ビンラディンの計画したテロは、人類史上最悪のテロで、
この衝撃は先進諸国に一斉に広がった。
テロ許すまじの空気はこの時に爆発的に広がって、いまだに続いている。
今年もイギリスやらスペインやらで何件も続いている。

各国はテロを未然に防ぐために最大限の努力を払っているのだろうけど、
それでも、その網の目をかいくぐるようにしてテロは発生する。
一般人を犠牲にしたテロ行為は絶対に許せないものであるし、
いつか自分もその犠牲になる可能性があるというのは、ゾッとする事実だ。

歴史を勉強しても、西欧が中東にしでかした悪事はひどいもんだと思うけど、
僕らの世代はそれを過去のものと一度リセットしてしまっているので、
なかなか事の実態が見えずらい。
世界の構造を歪ませたのは、それは間違いなく先進諸国だ。
隣の柿木が実をつければそれを奪い取ってむさぼり食べた。
柿の木ごとごっそり奪い取って相手の庭に草木も生えないようなことまでしでかした。

「富めるものが弱者を搾取するのは自然の摂理だ」
「この世界は弱肉強食なのだ」

と、この理屈は、20世紀までは有効だったかもしれないけれど、
その巨大な軍事力に対するに、テロが有効だと錯覚させてしまったがために、
窮鼠は一斉に猫を噛み始めた。
先進国が描いたグローバルなバラ色の未来は、世界規模の保守化の時代へと後退した。
経済的国境をなくすことで世界が一つになるという夢は、
貧困をも呼び込むという現実に気が付いて、一斉に門戸を閉ざし始めてるって格好だ。

なんの話をしているんだっけ?

そうそう、年齢を重ねるといろんなものを追い抜いていくというお話だ。
僕も今年はいよいよ夏目漱石先生の没年齢を踏み越えてしまうのだ。
夏目漱石というと、明治の大文豪で永遠に追いつけないようなイメージがあったのだけど、
今の自分は彼とタメで年齢的には同格である。
偉そうに口ひげを生やしているけれど、
「おい夏目、そのヒゲうざいからとっとと剃れや」
とどやしつけても一向差支えはない。
なんせタメだから。

夏目漱石は日本に「小説」というものを本格的に確立させた人物だと思う。
それまでの明治の小説が人情噺にすぎなかったところへ、
文明批評的視点を持ち込んできた。
西欧文明が入ってきたために、俺は江戸時代の親父どもとは考えが違ってきている。
物質的に、金銭的に成功者となることはそれはケッコウな話だが、
自分の頭脳はそんなものを本当には望んでいない。
世に「勝利者」となることは実はそれほど面白い生き方ではない。
自分の情緒、趣味が全力でそのことを嫌悪している。
で、情緒、趣味に忠実に生きようとすれば、現代文明はそれを真っ向から否定してくる。
どうにも自分はどんどん孤独になっていくもんだなぁ。

で、その夏目君とタメになった記念てことで、
「それから」と「門」を連続で読み返してみた。
「それから」で現代文明に敗北した主人公は、「門」の中で敗残の人生を淡々と送る。
登場人物こそ違え、この二つのお話は連続している。

「アーサー王伝説」を下敷きにしたんじゃないかと思われる「それから」は、
親友の妻を略奪するという点でアーサーとランスロットの故事を再現している。
これは当時の西欧の流行みたいなもんだ。
「人の妻をNTRしてみたい」という男の要望を、「アーサー王伝説」に仮託して、
これを大っぴらに劇場で演目とするのが、西欧では流行していた時期がある。
夏目君もこれにハマっていたみたいだね。
「それから」で親友の奥方が主人公に攻略されていくさまは、下衆に楽しめたもんです。

でもそれを文学としているのは、西欧文明対日本情緒という構図だ。
「それから」はその対立構造をあぶりだすために細部にわたって緻密に構成されている。
赤と青の対立、父と子、薔薇と白百合、動と静、なんでそこまでやるのかなってくらい、
いろんな仕掛けがあちこちに埋め込まれている。
で、それらは最後の「主人公の破滅」へと向かって一直線に盛り上がっていく。

この完璧に構成された世界が「破滅」という結末を迎えた後、そのアフターケアのように、
ポツンと書かれた作品が「門」だ。
この作品は構成もなんだかゆるくて、結末もとってつけたようにあやふやで終わる。
若いころ初めて読んだときは、「よくわからない駄作」と早々に放り出してしまったけど、
夏目君とタメになって読み返してみると、ああ、これって二人の不幸を親身に見守る、
ものすごく優しい作品なんだなって気が付いた。
小説という形態を選択した以上、破滅は破滅と描写するしかない。
けれど、そのことを認めたくない夏目君もいるわけで、
その視線は暖かに二人を見守り、その夫婦愛の深化にわずかな救いを見出している。
物語としては「だからその後はどうなったんだよ!」とモヤモヤしたものが残るけど、
それはまあ、目的ではない。
不幸な二人の男女が不幸の中で必死に寄り添っている、その姿を確認できればそれでいい。

単純な成功よりも失敗した人生の中に光っているものが見つかることもある。
人生においてそれがどれだけ輝いて見えるか、それは若者にはとても理解できないし、
まだ理解しちゃいけないとも思う。
勝ち組の人生よりも負け組の人生の方が充実しているという幻想は、
梅干しの種のようにしみじみ味わう老人の楽しみなのだ。

夏目君は自分の作品で何が一番好きかと聞かれて、
「門」
と即答したらしいけど、
その気持ちはなんとなくわかる。
あれは、しみじみいいもんだと思う。「門」だけに。


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