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漫画講座

2018年9月29日 (土)

にんともかんとも

注記。
以下はまたぞろ絵についてくどくど語っている奇妙な文章です。
こんなもん書いてどうするんだと自分でも思うけど、
この手の文章を果てしなく書き続ける習性があって、
にっちもさっちも、どうにもこうにも収拾がつかないので、
えいやさっ!とブログに上げてとっとと仕事に戻ります。
読んでもわけがわからないと思いますし、
一言一句について細かい解説も出来ないので、
ああ、また病気が再発したんだな、とでも笑ってやってください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

どうにもこうにも、
にんともかんとも、
自分の描いた絵に自分でうっとり見惚れるというのは、
僕にはものすごい夢物語だったりする。

鉄子とかは、ときどき引っ張り出し繰り返し読んでいるけど、
あれも絵というよりは、漫画として楽しんでいるのであって、
最終話あたりになるとはっきりと、自分のぶつかった絵の壁を意識しはじめている。

あの回の人物の目って、ピグマで描いてるんだよね。
目がもう少しこう、強くならないものかと、試行錯誤がはじまっているのだ。

いやもちろん、読者の目から見てそれほど問題のある絵ではないのだけど、
なんかこう、もっと上を目指せるよねと、自分で自分に突っ込みを入れてしまったのだ。

こういう場合、某アニメの「ほ」の字のスクールアイドルさんが言ってるように、
「可能性、感じちゃった♪」
なわけである。
なんともかんとも迷惑な話である。

そうなると何か新しい斬新な手法でも発見したのかね?となりそう話だけど、
僕の場合はひたすら過去へとさかのぼり始めた。
絵の発生の現場まで一度回帰し、ルネッサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチに挨拶をして、
浮世絵錦絵を経由して、漫画絵の歴史を最初からひたすらなぞり始めた。

愚直に、根本の根本から絵をやり直しているわけで、
おかげさまで、いろいろな発見があり、ものすごい勉強にもなった。
しかもそれで原稿料までせしめているわけだから、まあ、ありがたい話だ。
実情を知ったら上の方の人たちに怒られそうだけど。

それで絵にものすごい変化が起こった、というわけでもない。
僕の絵は相変わらず僕の絵のままで、いくら新しい絵柄を開拓したと思っても、
五分も見つめれば、やっぱりどう見ても僕の絵だよなと思う。

でも、一度解体して最初から組み直してはいるので、
自分が「問題だ」と思っていた部分については、ある程度の解答は出せたように思う。
何だよ解答って、また変な自己満足かよと突っ込まれそうだけど、
自分で自分を納得させるというのが、実は一番難しかったりするのだな。
編集担当者よりも、同業者よりも、辛辣な一部読者のコメントよりも、
自分が一番悪辣で情け容赦のない批判を、自分自身に下していたりする。

僕は自分の描いた漫画に満足して、縁側で寝っ転がりながらそれを読みふけりたい、
ただそれだけしか夢を見ていないんだけどね。

具体的に変化したポイントは、絵を立体からとらえ直したこと。
三次元の人間がいて、その人間の存在感とか印象とか、
そういうものを二次元に落とし込むという根本に立ち返った。
立体から考え直したので、過去の作家さんたち……存命の方がほとんどだけど、
その人たちがどうしてそういう線を引いたのか、その意味が何となくわかるようになった。
特に、ギャグマンガの省略法やデフォルメの技法が、実はかなり三次元的な発想だったり、
三次元を二次元に落とし込む過程の副産物だったりして、自分でそれを再現して、
かなり夢中になった。夢中になりすぎて、社長さんからストップがかかったりした。

あくまで目指していたものは、表現としての感情のダイレクトな表出で、
自分の感じた男たちの熱い思い、勝利の高揚感とか、敗北のくやしさ、
さまざまな思いを読者にお伝えするために、どこまで絵を強くできるか、
だったりする。

感情をそのまま紙の上にぶちまければ、線はゆがみ、見るに堪えないラインになる。
それが自分にはどうにもこうにも我慢できなかったので、
僕は自分の絵をかなり抑え込んで描いてきた。
感情は下手に込めない方が、仕上がりの原稿は上品で読みやすくなる。
それはそうだ、そうなんだけどさ、でももっとこう、ぶつけてみたいじゃない?
あふれ出す衝動、やむに已まれぬ激しい感情の爆発。
それを自分の納得いく形で紙の上に落とし込むためには、
それまでよりも完全なデッサン力と、描線の整理が必要だったと、たぶんそういうこと。
自分のことなのに自分でいまいちはっきりしないのだけど、
まあたぶんそういうことなんじゃないかなぁ。

デッサンについては、下手は下手なりに策を弄するしかない。
ようは、完全な丸を描ければいいわけで、絵の天才のように一発でそれが出来ないのなら、
分割してそれぞれの角度のラインを描くための方法を突き詰めるっきゃない。
で、突き詰めた。丸の膨らんでる左右のラインは内側から、
すぼんでいく上下のラインは外側から、最終的な修正を加えれば自分の絵はまとまる。
あくまで僕の絵のクセをコントロールするための、個人的なやり方なんだけどね。
(暫定だけど、手足も外側から描いた方が上手くいく。背後に回った場合はすべて反転)

あとペン入れについては、最終的な結論は出た。
自分が一番引きやすい、一番きれいに描ける線をひたすら引け。
描きにくい線を努力して無理やり描いても、努力した分だけ絵は濁る。
それよりは、自分が綺麗に引ける線にひたすら磨きをかけて、
さらにもっときれいな線を引くよう心がけた方が絵はきれいだ。

紙を回転させれば、すべての線はそのやり方で引くことが出来る。
もしそうやって描いた絵が著しく混乱したものになるなら、
それはデッサンが歪なのだ。デッサンが綺麗な丸の法則にかなっているのなら、
それをたどったペンのラインは、すべて丸の法則上に調和する。
(そして僕の描線はすべて反時計回り)

とにかく、綺麗な線を引くこと。
感情に流されたら、それだけ線の生み出す調和は乱れる。
怒って丸を描いたら、その感情の分だけ丸の形はゆがむ。
でも感情を抑え込んで絵を描けば、それは全く面白くない絵になるので、
自分の中に巻き起こった感情の爆発で、顔の筋肉がどう動くか、
目の位置はどうなるか、口は、鼻は……と冷静に観察することが必要になってくる。
それをありのままに原稿用紙に叩きつける描き方もあるけど、
僕個人の嗜好だと、それがどうにもこうにも、我慢が出来ないやり方だったりする。
線はできるだけ綺麗に、感情に流されてはいけない。
でも感情は激しくあふれ出さなくてはいけない。
矛盾したことを言ってるけど、この矛盾をどうするかってのが、
絵を描く上での面白さなのかも、とはちょっと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

……何を書いてるんだろうと自分でも思うけど、上に書いたのって、
自分が駆け出しのころ、絵に煮詰まってどうにもこうにも解決法がみつからないとき、
誰かに「これはこうだ」って断言してほしかったところなんだよね。

万人に当てはまることではないけど、少なくとも十代の頃の自分なら、
「ああ、そういうことか」
と納得するんじゃないかなぁ。まあ、あの頃の自分は今考えるよりも
はるかにお馬鹿さんだったんだけどね。

2018年8月12日 (日)

山椒魚

実は三日ほどパソコンが使えなくなっていた。

僕は東芝のノートパソコンを使っているのだけど、電源の接触不良か何かで、
半年に一回くらい、電源オンの状態のままブラックアウトすることがある。
この場合、バッテリーパックを抜いてしまえば簡単に再起動できるのだけど、
僕のパソコンは分解しないと内臓バッテリーを外すことが出来ない仕様で、
じゃあ分解するかと工具箱を探したのだけど、これがまた見つからない。

バッテリーが劣化しているから、どうせほっといたってそのうち電気がなくなるだろうと、
三日ほど放置することにした。

この三日の間、まったくパソコンに触らなかった。
予備のパソコンはアシさんが絶賛使用中だし、もう一台、調子が悪くて放置してある奴も、
使える環境を整えるのが億劫だ。どうせ三日後には使えるのだ、
その間おとなしく原稿を進めよう。

で、真面目に原稿を進めていました。
この間、せっかくメールをいただいたのに返答が出来なくて申し訳なかったのだな。
今からメールしようにも連休に入っているから会社宛てのは見ていただけない。
なんだよ「山の日」って。そんなの僕は全然知らなかった。
(二年ほど前から存在しているらしい)

金曜は病院で検査がある日だったので、文庫本を持って出かけた。
井伏鱒二の選集で、この作家の処女作である「山椒魚」を読む。
岩の隙間に二年ほど籠っていたら、体が大きく成長して出られなくなった山椒魚の話。
……社会から隔離された引きこもりの孤独に通じるものがある……ような気がする。

井伏鱒二は僕が25歳になるくらいまではご存命だったので、
割とリアルタイムの「巨匠」である。95歳まで生きておられた。
長生きだったので晩年になって自分の過去の作品の改定なんてことまでやっておられる。
で、この「山椒魚」も末尾十行くらいがバッサリとカットされてしまった。

僕はこのラストが割と気に入っていたので、「なんてことをするんだ」と
ずいぶん腹を立てた記憶がある。自分の作品だからって何をしてもいいわけじゃない。
世の読者諸氏が誉めそやした名編を勝手に改悪するんじゃない、と素朴に考えた。
で、井伏鱒二的にはバッサリとカットした末尾十数行なのだけど、
僕が何年か前に買い直した文庫選集ではしっかり元のままになっている。
出版社としても、大多数の読者の求める初期バージョンを載せざるを得なかった、
むしろどう考えてもこの最後の数行が「山椒魚」という小品のキモなのだから、
これを取るくらいなら載せない方がマシだと判断した……のかもしれない。

世の中にはこれと似たようなことが度々起こる。
作曲家のメンデルスゾーンに「イタリア」という交響曲があるけど、
初演で絶賛されたこの曲が、なぜか作曲家本人には納得がいかなかったらしく、
亡くなるまでずっと改変作業続けていた。身内や周囲から
「最初のでいいじゃん」
と言われても、ひたすら手を入れ続けた。
現在普通に演奏されるのは初演で使われた稿なので、まったくの無駄骨だったわけだが、
病的なまでに「完全な作品」にこだわることは、創作者には割とよく起こる。

そして手を入れまくって、最初のインスピレーションの鮮烈さは失われ、
小さくまとまった魅力のない作品になる。

そう言えば僕は読んだことがないのだけど、
遠藤周作に「スキャンダル」という作品があって、その発表当時の論評に、

「作者はガンで余命いくばくもない緊張感の中で作品を書き進めたはずだが、
 幸か不幸か病気が快癒し、作品に大幅に手を入れたのだろう、
 そのために作品が本来持っていたはずの衝撃性が損なわれたように思う」

というようなものがあった。文芸評論家というのは出来上がった作品から、
その完成前の状態までわかってしまうのか、すごいなと当時は思ったけど、
その真偽はともかく、死にそうな作家が今生の終わりに書いた小説を、
いざ三途の川から舞い戻って読み直したら、赤面してしまい、思わず手を加えることは、
割とありそうな気がする。そして、完成した作品には何かが欠落している。
作者がどれだけ優れた技量も持っていても、
……あるいはその技量があるがために、作品の真価を自分で判断できないことはある。

特に若い頃の作品を齢をとってから読み直すと、どうにも耐えられなくなったりする。
漫画家さんでも、評判の良かった処女作に手を入れまくる人がいる。
手塚治虫なんて初期の作品を何度も描き直している。
原稿料を考えれば前のままでも何も問題ないはずなのに、
技術の進化と世の中の流行の変化に合わせ、過去作をまるまる描き直していたりする。

整形手術に嵌って手を入れまくるうち、現実離れした顔になってしまうことがあるけど、
生まれたままの素の良さを認めるというのは、完璧を求める創作者には、
どうにも難しいことなのだ。

フランスの作曲家ラヴェルの小品に「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲があるけど、
この若い頃のピアノ曲(管弦楽版の方が有名だけど)を作曲家本人は

「未熟な作品」

と切り捨てていたりする。いまだ愛されている名曲なのに、本人は納得してなかった。
まあ、それで改変したり破棄しなかったのは偉いのだけど、
技術的手腕が上がることと世に愛される作品を作ることは、必ずしもイコールではない、
むしろ若い頃の良さが晩年になるとわからなくなることも、あるのだ。

だったら、高度な技術を身に着けることに何の意味があるんだろう、
技術を向上させるというのも、ようは若い才能の鮮烈さに対抗するため、
自分の欠点をせっせと穴埋めしているだけではないのか。
読者や批評家の悪態を避けるため、先回りして欠点を潰していく、
そうやって「完璧な作品」とやらを作ったとしても、
そんな作品に本当に価値があるのかしらと、わが身を返りみてくどくど考えてしまうのだ。

病院の待合室で何を考えてるんだろうな、僕は。

でも本当に読者に「読ませる」作品というのは、
技術ではどうにもならない、突発的な衝動みたいなので書かれたものじゃないかと、
この頃は思うのだ。
熱に浮かされて、半分理性が吹っ飛んだような状態で書いた作品の方が、
理屈抜きで心に残るような気がする。

若い頃なら若さの衝動、死にそうな老人なら死に対するのっぴきならない恐怖、
その年代ごとに自分を突き動かす衝動というのはあるはす。
それを絞り出し、形にするのが「創作」ってもんなんだろうなと僕は考えるのだ。

高度な技術を習得し、それに縋りつくようになったら、
物を作る人間としては終わりなんだろう。うんぬん。

三日ぶりに打ち込んだら訳の分からない文章になりました。
毎日やってることを三日我慢すると、自分でも考えもしなかった文章になりますと、
これはそういう記録なのだな。

2018年8月 3日 (金)

8月

2

弟子「おや、水着のお姉ちゃんですね」
師匠「原稿が上がって、今回は修正もなかったから遊びで一枚描いてみた」

弟子「暑いときは水着のお姉ちゃんに限りますね」
師匠「いやまったく、絵の中だけでも涼しい気分を味わいたい」
弟子「原稿の中では電撃がビリビリ飛び交っていました」
師匠「熱い男たちのパチスロバトルだから」
弟子「……本当は女の子を描きたいんでしょ?」
師匠「まあ、描かせてもらえるなら何でも描くけど、バッチさんの漫画は面白かったよ」

弟子「ご本人にもお会いになった」
師匠「漫画の中では三人でインタビューしたことになってたけど、実は僕もいた」
弟子「編集長と担当さん二人ですね。そこに師匠もいらしたと」
師匠「うん、真向いで話を聞かせてもらいました」
弟子「なんでご自分は描かなかったんです?」
師匠「インタビュアーが四人もいたらうるさいでしょ」
弟子「そんなもんかなぁ」

師匠「で、次はいよいよ9代目旅打ち人の漫画なのだな」
弟子「天香膳一さんですね。この方にもお会いになった」
師匠「お時間を作っていただいてね、旅打ちにかける熱い想いを聞いてきた」
弟子「女の子は出てきそうですか」
師匠「熱い男のパチスロバトルだから」
弟子「本当は描きたいくせに」
師匠「いや、女の子とか、そんな女々しいものはいらんのですよ」

弟子「旅打ちは八月一日からすでに始まっています」
師匠「前回と同じでまた札幌スタートだね。ゴールは沖縄だけどルートがちょっと違う」
弟子「違うんですか」
師匠「いろいろルールも変わってるんで、そこはお楽しみだね」
弟子「前回の八代目が強制終了だったから、今回は上手くいってもらいたい」
師匠「ある意味、前回失敗してるから今回は面白いってのもあるけどね」
弟子「ライドさんには申し訳ないけど、それはある」

師匠「で、女の子の水着を描きました」
弟子「脈略もなく話をつなぎましたね。九代目の成功祈願ですか」
師匠「水着のお姉ちゃんも応援しております!」
弟子「おっぱい大きいですね」
師匠「成功祈願!」
弟子「どうせならすっぽんぽんにしちゃえば良かったのに」
師匠「ブログの運営からストップがかかります」
弟子「水着のレイヤーを外すと、実は下まで全部描いてあるとか」
師匠「僕はそこまでやらないけど、有名漫画家さんでやってる人の話は聞いたなぁ」

弟子「え、誰です?」
師匠「美少女漫画で巨匠レベルの人。担当さんがカラーページのレイヤーをいじったら」
弟子「ふむふむ」
師匠「水着の下にちゃんと乳首やらなんやらしっかり描いてあったと」
弟子「マジですか」
師匠「担当さんがものすごいドヤ顔で語っていた」
弟子「読者にわからないところでそんなことやってるんだ」
師匠「てか、カラーページのレイヤーを外した担当さんもたいがいだけどね」

弟子「第一線の作家さんでもエロい遊びはやってるもんですね」
師匠「別の大御所さんで、印刷範囲外の女の子の胸が生乳だったというのも聞いた」
弟子「マジか」
師匠「そこのアシさんに聞いた話だから間違いない。脈略もなく、突然生乳だったと」
弟子「はえー」
師匠「そのアシさん曰く、たぶん編集さんと俺たちへのサービスなんじゃないかって」
弟子「いい先生を持ったなぁ」
師匠「まさに漫画界の黒澤明だね。手紙のシーンでちゃんと中身まで書いてあるという」
弟子「微妙に違うような気がしますけど、そのスケベさが読者に伝わるんだと思います」

師匠「そういえば昔住んでたアパートに漫画の専門学校に行ってる人がいてね」
弟子「ほう、師匠と話が合いそうですね」
師匠「いや、夜中に一緒に歩いてたら、突然小学校に侵入し始めたんで逃げ出した」
弟子「危ない人だ」
師匠「以後、距離を置いてた」
弟子「犯罪ですからね」

師匠「その人が描く女の子は滅茶苦茶かわいかったんだ。すごい色気があった」
弟子「変態のなせる技ですか」
師匠「一つ間違えばプロになっていたかもしれない」
弟子「へえ、師匠が言うならよっぽどですね」
師匠「その人にはこだわりがあって、女の子はまず裸から描いていたらしい」
弟子「さすが変態」
師匠「エッチな体を描いてから、服を着せるんだって」
弟子「それで色っぽい絵になっていたんですね」
師匠「お尻の表現とかすごかった。なんであんなムッチリしてるのかと」
弟子「師匠は体のアタリを描いてから、すぐに服を描いてますもんね」
師匠「消しゴムかけるのはアシさんだから、見られると恥ずかしいもの」

弟子「そこが甘さですね。師匠も全裸から描いてみたらどうです?」
師匠「僕はスカートの中身より、スカートからのぞく足のラインが好きなんだ」
弟子「なんだかなぁ」
師匠「まあひとそれぞれだからね。いろんな描き方があるって話さ」


2018年6月10日 (日)

ぺぺんぺんぺん

 1

またもや絵について語るわけだけど、
いいかげんうざいと思うので、興味のある方だけ読んでくださいませ。

ルネッサンス期に「絵と彫刻はどちらが上か」という論争があったらしい。

そんなのどうだっていいような話なんだけど、
美術に造詣の深い方々が頭を突き合わせてさんざん議論した結果、
「絵の方が上である」
という結論に達した。

彫刻家が聞いたら怒り出しそうな話なんだけど、
「彫刻は3Dを3Dに移し替えるだけだが、絵は3Dを2Dにしている」
というのがその理由らしい。
作業工程が一つ多いのだから、絵の方がより高度な芸術だと判断されたのだ。

本当にまあ、絵に興味のない人にはまったくどうでもいい話なんだけど、
この話が正しいのかどうかはともかく、絵がどうやって生まれたのか、
そのヒントみたいなものは、このルネッサンス期の挿話から読み取れる。
少なくともルネッサンス期のイタリア人にとって、絵画は彫刻の進化系だったのだ。
ミケランジェロのような彫刻家が、彫刻の技法を二次元に持ち込むことで、
絵画はより写実的になった。
持ち運び可能なペッタンコの彫刻として、絵画は誕生したのだと思う。

ペッタンコの彫刻というと「レリーフ」が頭に思い浮かぶ。
有名なのだと金貨や銅貨の盤面に皇帝の横顔を彫像したもの。
キリストが「カエサルのものはカエサルに!」と言ったあれである。
二千年前のローマのコインには皇帝の顔が浮かび上がっていた。

インド文明やエジプト、ギリシャローマ文明では、壁面にレリーフを施すことが多い。
僕は子供のころ、レリーフの中途半端な立体感がものすごく気持ち悪くて、
なんであんなことをするのだろうとものすごく不思議だった。
横から見たら顔潰れてるじゃん。

日本にも欄間の彫刻とか、漆喰画で同じように潰れた立体物がある。
日光東照宮の左甚五郎の彫刻は、西洋で言うところのレリーフである。
見ざる聞かざる言わざるのお猿さんは、横から見ると潰れている。

ああいう中途半端な立体物というのは、絵画が写実的になるための前段階で、
あれをさらにペッタンコにしたのが、ルネッサンスの絵画なんじゃないかなと、
僕はこの頃考えているのだ。

……何が言いたいんだお前は!と怒られそうだけど、
彫刻の進化系が絵なんだという考え方は、僕には今までなかったものなのだな。
不勉強なだけなんだけど。

彫刻家がペッタンコの彫刻を作ろうとして、それがとことんまでペッタンコになれば、
紙とかキャンバスに線を引いたり、絵の具で色を塗るようになる。
彫刻刀では絵は描けない。
そこで彫刻刀を筆やペンに持ちかえるわけだが、やることは基本的に同じである。
立体物を紙の上に思い浮かべ、形を抉り出す。
彫刻と違って見る者の視点は限られてくるので、「パース」という概念が生まれてくる。
透視画法の理論が確立される。

ルネッサンス以後、絵画というのは星の数ほど描かれてきたので、
それがどれだけ画期的なことだったのか、21世紀の僕たちにはわかりづらいのだけど、
「紙の上に立体物がある」という絵画の技法は、
それは人類史上における、ものすごい発明だったんじゃないかと思うのだな。

 2

日本人にはそこのところがちょっとわかりづらいのかもしれない。

西洋の漫画やアニメ作品を見ていると、日本とのあまりの違いに驚かされる。
一番大きな違いは、西洋人がキャラクターを立体的に描写するのに対して、
日本人は、キャラクターを線で認識するという点である。
最近は慣れたけど、トイストーリーなんかの立体的なCGアニメーションが苦手だった。
アニメは線で動かして欲しいと切実に願った。

このへん、線で絵を認識する日本人と、立体としてとらえようとする西洋人の、
絵に対する嗜好の差がはっきり出ている。
あんまり突っ込んで考えると、漢字を使う東洋人とアルファベットの西洋人とか、
いろんな要素が入り組んでいて、よくわからなくなってくるのだけど、
日本人は漢字の延長線上で記号としての絵を認識するのに対して、
西洋人はあくまで彫刻の延長線上に絵を考えているというのは、あるのかもしれない。

実際、僕は漫画の絵を記号として考えていたので、
下書きにペン入れするときにえらい難儀をした。
いっそ筆で描いた方が楽なんじゃないかとも考え、実践しようとしたこともある。
僕は筆で文字を書くやり方でもって、下書きにペン入れしようとしていたのだな。

でも、そこが割と落とし穴だったのだ。
漫画の絵が今日のように完成されるまでの歴史を考えてみると、
明治期に美術大学で西洋絵画を学んだ人たちが基礎的なやり方を作っていたりする。
一番有名なのは岡本太郎のお父さん……でいいんだよな……の岡本一平氏で、
美大で絵を学んだ人が漫画家として大成し、インクとペンの技法を持ち込んでいる。

そのやり方は当然「彫刻の技法」の進化系であって、
下書きにペン入れするというのは、彫刻刀で立体を抉り出すのと、ほとんど同義なのだ。
線を引くのではない。線で立体を抉り出すのである。

下書きをして、その線を「清書」するのではなく、
下書きでおおよその形を把握して、刃物であるペンで立体を彫塑するのである。

僕にとって下書きは消しゴムで修正可能なペンのラインに他ならなかった。
特に三十代前半までは立体に対する認識なんてほとんどなかった。
だから、目を描いても目の形を線でなぞっているだけで、
上瞼のラインと下瞼のラインがまったく同じ線になってしまうため、
下瞼のラインは省略せざるを得なくなったりした。
(漫画絵で下瞼のラインを省略する作家が多いのはそのせい。鼻の穴も同じ理屈)
出版社で編集さんに
「下の瞼のラインもちゃんと入れてください」
とアドバイスされ、入れたら絵が大混乱!なんてことも起こったりした。

上瞼のラインは下から抉り出すラインだし、下瞼のラインは、上から抉り出すラインだ。
  →→
 / ◎ \  ←目
  ←←
彫刻家ならば当然彫刻刀の角度を変えるところだけど、発想が書道だと、
口の文字の書き順で横棒を引いてしまう。

ことほど左様に、ペン入れというのは彫刻家の技法が多く用いられている、
と僕は思う。

「手癖でペン入れするとおかしな絵になる」
「立体を頭の中でイメージしながら、下書きをペンで彫塑しなくては」
と、このことにようやく思い至ったのが、漫画家生活十五年目くらいだったりする。
なんつーか、もうね、独学で絵を勉強すると、いちいち遠回りをする羽目になるのだな。

えらく読みにくい文章だと思うけど、実は自分の絵について愚痴ってるだけなので、
あんまり得るところはないかもしれない。
でも、発想の転換はどこかで必要になるんだ、みたいなことは、
わかっていただけるんじゃないか、わかってもらえるとうれしいな、
とまあ、そういうお話なのでした。

2018年5月25日 (金)

机は画材なのだ!


クイーンのロジャー・テイラーだったかな、
ドラムをセッティングするとときにものすごく微妙な位置調整をやっていて、
その姿を見たギターのブライアン・メイが、
「わ。なんか、ものすごいプロっぽいのが来た」
と感動したって話があった。
デビュー前のドラマーのオーディションの話だと思う。

ギターは座るにしても立って演奏するにしても、あんまり位置の微調整はなさそうだ。
でも職種によっては、椅子の位置とか机の角度とか、めちゃくちゃこだわるものはある。

僕はいちおう漫画家なんてやってるんだけど、
机の位置や椅子にはそれなりにこだわっている。
実は今月に入ってから机を取り換えて、一日がかりで微調整をやっているのだけど、
これが奇跡的に、ベストな調整が出来てしまって、
タイラさん旅打ちの五回目はそれで描いた。

問題は、ノートパソコンのタッチタイプが出来なくなってしまったことである。
何が違うんだか、肩が凝って集中力が続かない。
かといって絵を描く方は何の問題もないので、今さらパソコン用にいじることは出来ない。
それで今床に仰向けになって、立膝をして、そこにパソコンを置いて打ち込んでいる。
いろいろ試した結果、暫定的だけど、これが一番文章を書きやすい。
モニターが遠いので変換の文字がよく見えんけど。

話を絵の方に戻すけど、絵を描くときは割と全身を使って描いていたりする。
みなさんにしても、文字を書く場合、けっこう全身の筋肉を使って書いてると思う。
その力は滅茶苦茶すごい。昔、数年間お世話になったアシスタントさんがいたのだけど、
その人は椅子の上で胡坐をかくタイプの人で、絵を描くときに足を踏ん張るせいか、
見事に椅子に二つの穴が開いてしまっていた。

そういう全身の力を机の上の紙の一点に集中するわけだから、
当然机や椅子の微妙な調整が必要になってくる。
大砲をぶちかますために砲身の土台固めが重要なのと同じことだ。

漫画家さんでも、アーロンチェアだったかな、十万円くらいする椅子を使う人が多い。
昔、アシスタント先の先生も使ってたな。
この先生のところにはいろんな種類の椅子があって、さんざん試行錯誤したんだろうなと、
妙なところで感心させられてしまった。
まあ、僕は正座の一歩手前みたいな変な姿勢をさせられる椅子をあてがわれて、
ちょっと迷惑だったけど。
あれも先生が絵を描くために試したものであるのは間違いない。

つまるところ、椅子に座って、鉛筆も持って、
一番きれいな丸を描けるポジションに机の天板があること、
それがもっとも重要なのではないかと考える。
どのカーブにも均等に力が振り分けられて、コンパスのようにきれいな円が描ける姿勢、
それを長時間維持できること。

画家がイーゼルを使って画版を縦に固定させるのは、
それが一番円を描きやすいからだと思う。
漫画家さんでもそうやって描いている人がいる。
実はアシスタント先の先生のところにもそのための机があったのだけど、
あの先生は結局机の上で水平に絵を描いていたなぁ。
人それぞれで、いろんな描き方があり、みなさん苦労してベストな姿勢を探しているのだ。

ここでふと閃いた。
浮世絵師の葛飾北斎は、生涯に何十回も引っ越ししまくった引っ越し魔だったのだけど、
あれって、絵を描くための絶好のポジションを探していただけかもしれない。
なんせ、絵にこだわりまくった画狂老人卍先生なわけだから、
「柱の位置が気に入らねぇ」とか、
「天井が低すぎて絵がゆがむ」
くらいのことは言い出しかねない。
江戸時代の北斎にとって、家そのものが机や椅子に相当したってことは、
割とありそうだなと思う。

「なにを神経質な」と笑われるかもしれないけど、
それくらい、絵を描く人間にとって、机と椅子は重要な「画材」だったりするのだな。

2018年5月12日 (土)

チュッパチャプス


人間を長くやっていると、いろいろな「コツ」が身についていたりする。

うどんを茹でるときに「びっくり水」をいれるとか、
ポテトサラダのジャガイモは砂糖を加えて茹でるとか、
人間関係でも、否定的な言い回しはなるべく使わないとか、
知識として本で読んだり、長年の経験から習得した技術もある。

絵を描くときにもいろいろな「コツ」がある。
顔を描くとき「十字線」を入れる、みたいなのは割と有名なんじゃないかな。
僕は入れないけど、丸を描いて、十字線を入れると、なんとなく顔っぽくなる。
このとき横線より下に目を入れると、子供っぽい顔になり、
上に入れると大人の顔になる。

絵を描く人はたいてい頭を丸として認識している。
丸に首が生え、胴体とつながっているというのが、人体の基本認識である。
だからまあ、絵を描き始めた十代の頃なんかは、
一生懸命「頭」ばかりを描いているのだな。顔を描くのは上手だけど、
体を描かせるとおかしなことになるという人も結構多い。
僕の身近にも何人かそういう人がいた。

顔から体が生え、手足が生えているから、遠くの部位になるほどデッサンは崩れる。
そこでいろいろ絵の模索がはじまるのだけど、
逆転の発想で「胴体から頭が生えていると考えた方が絵が描きやすいんじゃないか」
とはなかなかならない。冷静に考えれば当たり前のことなんだけど、
「頭→首→胴体」というのは描きたい部位の優先順位みたいなものだから、
どうしてもそうなってしまう。

少なくとも、絵を描きだすときに首のだいたいの位置は決めておいた方がいい、
というのがこの頃の僕のやり方で、二本の縦線を引いてから、
頭のだいたいのラインを引いて、それから目鼻を描くようにしている。
イメージとしては、チュッパチャプスを描いて、その棒を握りながら、顔を描く、
みたいな感じである。

このやり方にしてから、いろいろな発見があった。
顔の左右のバランスはこのやり方の方が圧倒的にとりやすい。
左右の目のバランスが狂うと、変な表情になってしまうのだけど、そこはなんとか解決。
あと、あごの描き方が劇的に変わる。
頭を丸として認識すると、あごは球体の下半分って考え方だから、
どうしても頭頂部の影響を受けて丸っこくなってしまう。
でも首の位置を先に決めてしまうと、あごは体から生えている一つの独立した部位になる。
頭の部品というよりは、首とか胴体の側の部品なのだと思う。

と、これがここ一か月くらいの僕の絵を描くときの「コツ」だったりする。
絵を描かない人には本当にどうでもいい話なんだろうけど、
「人間の顔は球体として認識するよりも、チュッパチャプスと考えた方が描きやすい」
というのは、僕には割と「大発見」だったりするのだな。

ところでチュッパチャプスとは何か。
僕が子供のころ、お隣が煙草屋さんで、菓子パンとかお菓子も売っていたのだけど、
ある日、スタンドに大量の飴玉が突き刺さった謎の物体が出現した。
棒に飴玉がくっついているのが大量に密集して、ハチの巣のようだった
「おばちゃん、これ頂戴」
と一つ買って食べてみたのだけど、それが僕とチュッパチャプスの出会いだった。
たぶん七十年代の後半ごろだと思う。

元々はスペインのお菓子で、あちらは第二次世界大戦前からフランコ政権が続いており、
長い間独裁国家だったのだけど、フランコ自身はかなり良識ある独裁者だったようで、
「自分が死んだら王政復古が望ましい」と、およそ独裁者らしからぬことを考え、
その通りに実行した。1975年にスペインは立憲君主制の国家となった。

以後、スペインの商品が世界中で展開されることになるのだけど、
僕が煙草屋さんで出会った「チュッパチャプス」もその一つで、
このキャンディはCMでの宣伝効果もあり、今に生き残る定番商品となっていく。

僕は「チュッパチャプス」というと、
あのハチの巣のようなスタンドディスプレイを思い出して、
「外国からきたオシャレなキャンディ」とイメージするのである。

そう言えばもう長いこと食べてないな。
大きな飴玉は口に入れると邪魔だけど、棒をつければ食べやすくなる。
飽きたら一度口から取り出すことも出来る。
昔はそういうお菓子がいっぱいあったような気がするけど、
一度口にしたものを取り出すのが汚いせいなのか、見かけなくなった。
棒付きの飴というと、鳴門巻きみたいなのがあったけど、
あれもまったく見かけなくなった。

チュッパチャップスは近所のスーパーで売ってるので、
今度買ってみようかしらん。


2018年3月29日 (木)

デフォルメ

絵を描くための「ヒント」って、けっこう早い段階で見つかっていたりする。

「顔から描くと体が上手に描けないけど、体から描くと表情が死ぬ」
ってのは、たぶん十代の頃には気がついていた。
人間でも動物でも、一度顔があるということを忘れて、ただの物体として考えれば、
どんな姿勢でもたいていのものが描けると思う。輪郭を正確に描けば、
たいていの絵は苦も無く描けてしまうものなのだ。たぶん誰だってそうだと思う。

輪郭の重要さに気づいたのは、二十歳くらいの時、エゴン・シーレの絵画展があって、
そこで彼が絵を描くときにいかに輪郭にこだわっていたかを知ったから。
このウイーンの夭折画家は、人体を黒く塗りつぶした輪郭だけの絵を、
それこそ何枚も描いて、試行錯誤していた。

花の絵を描くときでも、一枚一枚の花弁から描き始めると、花びらばかり目立って、
まったく花の感じのしてこない奇妙な絵になる。
この場合も大切なのは輪郭の方で、輪郭を先に描いてから中の花弁を描写した方が、
まともな花の絵になったりする。

ビルや自動車のような人工物でも同じことで、ビルを描くときも、
窓のある面ばかり一生懸命描写しだすと、たいてい失敗する。
立方体としての形をとらえ、輪郭から描いた方が、よりリアルなビルになる。

人体も動物の絵も、すべて同じである。まず輪郭から描いた方が、はるかに描きやすい。
絶対に、間違いなく、その方が絵の上達は早かったと思う。
ところが、僕はそうしなかったんだよな。馬鹿と言うか、阿呆というか、
絵の神様がせっかくヒントをいろいろくれているのに、僕は片っ端からそれを無視した。

理由は簡単、人間の表情を描くことにこだわったから。
輪郭から描けば確かに正確な絵は描写できたけど、それに表情をつけると、
どうしても絵が死んでしまう。カチカチの表情になった。

僕が「目から描写することにこだわってる」ってのは、このブログで何度も書いてるけど、
それがデッサンのやり方としては悪手で、目から描くと全体の形がゆがむというのは、
いちおう認識はしていた。でも全体の形が立派でも、目が死んでたら話にならない。

なんでそうなるか、そうなってしまうのか。その理由がはっきりしてきたのは、
割と最近のことだったりする。
「印象的な目」と言うのは、「デッサンとしてはいびつな目」なのだ。

人間の顔には「流れ」がある。感情は流れにのって顔のパーツを動かしている。
怒りの感情は顔の中心に向かって流れ、笑いの感情は逆に外側に広がっていく。
よく、「狐憑き」なんて言い方をするけど、
目が寄り目になって唇を突き出し、眉間にしわが寄るような表情は、
表情の流れがすべて唇に向かって流れていることから起こる。
精神が激高してくるとそういう表情になる。

逆に、恵比須顔というか、笑いの感情は唇から鼻を通って、目を外方向に流す。
たれ目の人が福々しく感じるのは、それが緊張の弛緩した表情だからだ。
まあ、中には生まれつきにこやかなたれ目だけど、腹黒い人だっているんだけどさ。

顔の中で左右二つの渦が外側に流れたり、内側に集まってきたり、
人間の表情ってのは、そうやって作られているものだと、僕は考えてる。
歌舞伎の隈取りなんかも、調べてみると、その流れを強調するもので、
目元を走る表情の流れを、遠くからでもはっきりわかるように赤で縁取っている。

こういう複雑な流れが渦巻いているのが人間の顔だから、
ここから描き始めれば全体の形は崩壊するし、輪郭から描き始めれば、
その輪郭に引っ張られて、表情は死んだようになる。動きが止まったようになってしまう。

笑った顔を描けば頭がやたらおおきくなってしまったり、怒った表情を描けば、
なぜか下膨れになる、というのが僕の絵の傾向。
最近は、その表情の流れを追いかけながら、割と正確なデッサンを心がけているけれど、
激しい感情を正確なデッサンの中に閉じ込めるというのは、なかなかに大変。
アタリを描いて、頭の形や髪形、あごの位置を決め、
それから目を描くわけだけど、激しい感情が動いているときは、
目じりから口元へ流れたり、口元から目の端に抜けていく表情の流れを、
豆腐をすくい上げる豆腐屋のノリで、形に落とし込んでいく。
(昔は古き良き豆腐屋さんで一丁一丁水から出してもらって買ってた)

すごいことをやってるんだなぁと感心してもらえると嬉しいんだけど、
実はそうやって見つけ出した形と言うのが、
昭和の漫画のデフォルメした目の形だったり、口の形だったりして、
ああ、先人はこうやってこの形を見つけ出したのかと、愕然としてしまうのだった。

古臭い漫画的表現だったとしても、そこにはものすごい意味があるんだなと、
このブログでもときどき書いてるけど、これにはもう、圧倒されるしかない。先人偉い。

以上が僕の絵が最近デフォルメしまくっている理由だったりする。
感情の流れを形に落とし込むのが、楽しくて仕方がないのである。
多少やりすぎかなとも思うけど、先人の胸を借りて遊んでる感じが、
なんか癖になってる。ちょっと暴走してるのかも。

あと、タイラ編の画材はピグマに完全移行しました。
一話冒頭の二コマと二ページ目の頭以外は、全部ピグマになってます。
まあ、三年前にも一度移行して、ニ三回描いてすぐに戻してるんで、
また戻すと思うけど、前の時よりは使いこなせているみたいなので、
しばらくはこれで続けてみます。


2017年10月10日 (火)

先人の汗

いつもはノートパソコンで文章を打っているんだけど、
今回はデスクトップPCの方で書いてます。キーボード使いづらい。
Img012

お絵かきアップ。カメラ目線は難しい。
難しいなら「描かない」という判断が正しいのだけど、
人間というのは不可能に挑戦してみたくなる生き物なので、あえてドツボにはまってみる。
で、無駄に時間を浪費する。

無駄に浪費された時間というのも、当人には案外充実していたりする。困ったもんだ。

若い頃、二十歳ぐらいの時に似顔絵描きのアルバイトをしたことがある。
ひょっとしたら以前にもこのブログで書いてるかもしれないけど、
先輩に誘われて、名駅前のピアノ屋さんでお客さんの顔を描きまくった。
(名古屋人にしか通用しないそうだけど、「めいえき」とは名古屋駅のこと)

ご両親に連れられた幼稚園児から小学生くらいのお嬢様方がわんさか押しかけ、
その似顔絵を先輩と二人で色紙に描いた。
「このお兄さんたちは美大の学生さんなんだよ」
と、お店の人が強烈な嘘八百をかました。美大生がこんな漫画みたいな絵を描くものか。

近くでは写真専門学校の女の子たちが、動物の着ぐるみをかぶって踊っていた。
どうせ描くならあの子達がいいなぁと、ぼんやり考えた。

子供らは、とにかくまっすぐこちらの目を見てくる。
写真を撮られるのと同じ気持ちなのだろう。当然絵はカメラ目線になる。

難しかった?とんでもない。二十歳ぐらいの自分はまだ絵の壁にぶち当たっていないので、
何の障害もなく、下手くそな絵を描きまくっていた。今考えるとゾッとする。
この世界の名古屋圏のあたりに、今でも自分の下手くそな似顔絵があるかもと考えると、
かなり困った感じになる。あれでお金をもらったというのがとにかく申し訳ない。

で、カメラ目線の話。
前回モナリザの話をこのブログに書いて、
それからしばらくレオナルドさんの技法について、あれこれ考えた。
カメラ目線の絵というのは、レオナルドさんのあたりから肖像画の定番になった。
それまでは視線をそらす絵がほとんどだった。なんでか。

カメラ目線の絵というのはものすごく難しいのである。

まして正面を向いてカメラ目線となると、難しさは格段にアップする。
前回紹介した「裸のモナリザ」の素描がレオナルドが描いたものだとすると、
巨匠ダ・ヴィンチもこれに挑戦して、かなり苦心しているのがわかる。
わかるような気がする。わかるんじゃないかなぁ。

顔単体ならばいい。なんとか描けないでもない。
でも絵として背景が入ってきたり、体全体を描写しようとすると、視線が死んでしまう。
日本でも俗に「八方睨み」なんていい方をするけれど、
絵の向こうから生き物の視線を感じる絵というのは、絵の全体の構成が難しくなる。
ちょっとでも変な線を引くと、視線を感じる障害になってしまうのだ。

視線を中心に、強烈な「磁場」が発生していて、そこから絵を描けばデッサンは狂うし、
ぞんざいなデッサンの絵に目だけ強烈なのを入れても、デッサンの歪さが目立ってくる。

だから、レオナルドは考えた。目と手だ。
この二つを正確に描写しさえすれば、視線の強烈な絵の構成が可能になる。
それで、レオナルドさんは「モナリザ」の手にこだわりまくった。
こだわりすぎて、ついに納得が出来ず、右手の人差指を未完成で放り出してしまった。

あの絵の不思議な奥行きと静けさ、均衡が、あの手によってもたらされているというのは、
ダ・ヴィンチさんのものすごい発明だと、素人の僕は主張してみる。
実際、以後の肖像画はこの絵を規範に「モナリザ風の肖像画」になっていくけど、
「モナリザ」ほどの強烈な視線を感じるものは、あんまりない。
あの「手」のような画面の均衡を出せないからじゃないかなと、僕は考える。

……素人は無責任になんでも言いたい放題だから気楽なもんだ。

視線と画面構成について考えるうち、「あれ?」と気がついたことがある。
西洋絵画……てか、僕らが普通に考える絵というのは、遠近法で描かれている。
消失点を決めて、そこからパースラインを引いて絵に数学的な奥行きを作ってる。

漫画でもそう。大友克洋先生が緻密な背景を描くために、壁から糸を引っ張って、
正確なパースラインを引いていた、という業界で有名な伝説もある。
(普通そこまでやらない)

絵を勉強する人はパースについての概念を叩き込まれ、頭のなかにそれを構築する。
普段見ている風景でさえ、無意識に消失点を探し、脳内で絵を描いている。

でも、「透視画法」は絵の一つの技法でしかない。
ルネッサンス期に発達したこの技法は、「そうすれば奥行きのある絵が描けるよ」
というだけの話で、実際に人間の見ている風景がすべて遠近法であるわけじゃない。
実際、遠近法だと絵の端のほうがいびつにゆがむ現象は、同業者ならみんな知ってる。

じゃあ、遠近法じゃない見方というのは、どんなふうだっけ?と考え、
「あれ?」
となったのである。僕の目は視界を一度に認識できるほど優秀じゃない。
視点の先の、ほんの一部分を認識しているばかりだ。周囲はぼやけている。
これを移動させれば、そのたび消失点は変化する。
「ああ、ピカソとかブラックのキュービズムって、これなのかな」と、
ちょっとわかったような気になった。ぜんぜん違うかもしれないけど、
なんか自分のものの見方が透視画法の呪縛にがんじがらめにされているという事実は、
ようやくにして「発見」できたのである。

こういうことに十代のうちに気がついていればと思わんでもないけど、
年を取ってからでも気がついたのはラッキー♪と考えてみたい。

仕事をしていて、漫画の描線についても、「ああ」と考えることが多い。
ペン先にインクをつけて下書きにペン入れをする。その出て来るラインについて、
「ああ、この角度でペン入れするからこういうラインになるのか!」
と、先人の漫画家さんたちがやってきたことが突然理解できたりする。
それこそ、赤塚不二夫さんの線が飛び出してきて「これでいいのだ!」となったりする。

こういうことを十代のうちに……(以下略)

自分の絵が上達したとか、先人の域に達したなんて傲慢なことは考えないけど、
単純に「わかった気がする」ってのが楽しかったりする。
極端にデフォルメされた「漫画みたいな絵」であっても、根っこにおびただしい素描や、
三次元を二次元化するための研究の痕跡を感じたりする。

そんで、そういうものの積み重ねが日本のマンガの絵であり、
自分がそれに乗っかって絵を描いてるってのが、ものすごくありがたいことだと
ようやくにして考えるのだな、この「忘恩の徒」は
それこそ、漫画以前の浮世絵とか、鳥獣戯画のあたりまで遡って、
「その線を見つけてくれてありがとうございます」と、
先人の「汗」に頭をさげずにはいられない。

で、この先はどうなっていくのだろうと、漠然と考える。
線は、デジタル時代になって一度白紙に返った部分がある。
アナログの描線にあった味わいがデジタルで消えていくのは仕方がない。
ひょっとしたら線という概念でさえ、十年後には消えてなくなっているのかもしれない。

三次元を二次元に落とし込むという古来から続いた努力も、3D全盛となれば無意味だ。

でも、どれだけ質感を表現できて、VRで現実そっくりの世界を表現出来たとしても、
根本のところ、作者が目の前の現実をどう絵に落とし込んだかという部分、
それをきっちり表現できているなら、漫画の絵はまだまだ亡びないんじゃないかと、
僕は楽天的に考えてみるのだった。

観念的なお話でごめんなさい。

2017年7月 3日 (月)

七月は文月 本の陰干しの季節だ!


今年も半分終わってしまって、さあ後半戦だと張り切ってみたけど、
なんか雨が降っていたりして結局部屋の中でじめじめと本ばかり読んでいる。
本って言っても、十年くらい前の漫画なのだけど、
「この高校生たちももう二十代の後半か」
と考えるとなかなかに感慨深い。まあ、○○〇(自主規制)なんですけどね。

なんでこの漫画がうちにあるんだろうと考えるのだけと、
なんでかよく思い出せない。
「▽△▽(同上)」も同じ本棚に並んでいるので、たぶん当時プチブームだったのだろう。
この先生の漫画は感情が高ぶってくると絵に作者本人が乗り移って、
ぶっちゃけ、ご本人の顔が絵に出てきているようで、ちょっと困る。
まあそんなことを考えるのは僕だけかもしれんけど、原稿越しに作者の顔が見えると、
同業だけにちょっと居心地が悪くなる。

漫画家の飲み会でとある女性漫画家の方をお見かけして、
そのご尊顔がお描きになっているキャラクターとあまりにそっくりだったので、
思わず隣の方に「リアル○○だ!」と叫んでしまったことがある。
「いやいや、あれ動物キャラだからそんなこと言っちゃ失礼ですよ」
なんてたしなめられたのだけど。

美男美女系のキャラだと作者の願望やコンプレックスの裏返しみたいな事情もあって、
あんまり似ていることはないようだけれど、
少し砕けた感じのキャラクターだと、ご本人に生き写しということはよくある。
実際何度も目にしてるし、その名前を出せないのが歯がゆいくらい、クリソツなのである。
(いつの言葉だよ、クリソツ)
画家はたぶん自分の体を物差しにして絵を描いているので、
顔なんかも自然と画家本人の顔に似てくるものなんでしょう。
だから、売れっ子漫画家には味のある顔の人が多い!とまでは言わないけど、
DNAで絵柄は左右されるなとはときどき考えます。

昔、アマチュアの漫画描きの集まりで、
「怒った表情を描くときって自分も怒った表情で描いてるよね」
って話になって、ああ、僕だけじゃなかった!とうれしく思ったことがあります。
いまだに絵を描いているときによく思い出すのだけど、
そういえばこの頃は年のせいか、絵を描くときは割と無表情だなと、
いまさらのように気が付いたりもします。目玉はカッ!と見開いているのだけど、
口元なんかは表情につられて開いたりはしない。だってよだれが落ちたら原稿汚れるし、
いちいち表情筋を動かすのにも体力を使うお年頃なのである。

若いうちはデッサンの狂いなんかは気にしないで、気合の限りを原稿に叩きつけるのが、
後々のためには良かろうと考えます。デッサンが崩れるからと、
ハンコ絵のキャラばかり量産するよりははるかに良い。
そうやって若いうちに絵の人物の「表情筋」を動かしておくと、
年をとってから無表情で感情の激しい絵が描けるような気がします。
だって、ペン入れするときって、気合を込めすぎると線が汚くなるし、
あんまり気合の入りまくっていびつになった下書きにペン入れするのも、
なかなかに技術のいることなのです。たぶん。

絵の見易さ読みやすさというのが自分の漫画を描くときの重要テーマなのだけど、
激しい感情を絵としてどうやって成立させるか、それがなかなかに難しい問題なのです。
そういうことをつらつら考えていくと、浮世絵師の写楽とか、
あいつはスゲーなと笑ってしまいます。

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激しい感情を絵として成立させれば、それはいい絵なんじゃないかな。

2017年3月 4日 (土)

雨を描く

昔、ベトナムで取材させていただいたとき、
ホーチミンの駅だったかな、突然のスコールに駅舎の中に逃げ込んだことがあった。
南国のスコールだからその勢いたるやものすごい。大地を叩く雨音が重低音で響いてくる。

一人でボーッと立っていたら青年さんが日本語で話しかけてきた。
僕はどうやら一発で日本人とわかる容姿をしているらしく、
担当さんと歩いていても、物売りの標的になるのはたいてい僕の方で、
そのことでいささかうんざりしている時でもあった。

でも青年さんは純粋に自分の習得した日本語を日本人相手に使ってみたいようで、
話した内容はもう忘れてしまったのだけど、その熱心さには好感を抱いた。

もう二十年も前の話なんだな。

雨といっても日本人のイメージする雨と海外の人のイメージする雨は異なる。
日本人が何気なく描いた雨の絵が、外国人にはひどく斬新に見えることもあるらしい。
有名なところではゴッホが安藤広重の版画「大はしあたけの夕立」に感激して、
自分も油絵で模写をした、なんてのがある。
どのポイントに感激したのかはわからないのだけど、絵の構図を大胆に傾け、
降りしきる雨の強さを強調したところなんかは、かなり斬新だと思う。

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「江戸名所百景」の頃の安藤広重は北斎の影響なのか、構図の大胆さに拍車がかかって、
梅の枝を思いっきり手前に配置してみたり、
手前の物体と奥の風景の対比で奥行きを出したり、
カット割りがどんどん現代的になっている。
ゴッホはそこに面白さを感じたのかもしれない。

でもなぜ「大はしあたけの夕立」なのか。
「線によって降りしきる雨を描写したのが、西洋人にはコロンブスの卵だった」
という意見を何かの本で読んだ記憶がある。
たしかに、降りしきる雨を「線」として認識するのは、おかしいといえばおかしい。
そんな物体は空から降ってきていない。でも、雨粒が移動する時間を描写すれば、
それは線になるってのは、日本人の自分には感覚的によくわかる。

西洋人はそのようには認識してこなかった。だから西洋絵画の世界では、
降りしきる雨を描写した絵がほとんど存在しない。あっても霧のように朦朧としている。
雨そのものより雨によってぼやける風景のほうにフォーカスが当たっている。

それは西洋人が日本人より感覚的に劣っているという話ではない。
同じ雨を認識するのにも、生まれた国の文化によって違いがあるという話である。

僕は逆に、雨が線ではないというゴッホの認識のほうに意表をつかれ、
しみじみ雨を見つめてしまうのである。
確かに、これは線ではない。でもいざ絵にしようとすれば、線以外には考えられない。
表現というのは、なかなかに困難なものであるなあ、と。

音楽の世界ではベートーヴェンが田園交響曲の第4楽章で雨を表現している。
村祭りの陽気な熱狂の中に、突然の弦の唸り、ティンバニーの細かい振動による雨脚、
弦は悲鳴のような跳躍で雷鳴を表現している。
「田園」は特に好きな曲でもないのだけど、この部分の表現はすごいなと素直に思う。

しとしと降る雨というなら、ブラームスのバイオリンソナタ第1番「雨の歌」。
以前にもこのブログで書いているけれど、雨の日の情感ってあんな感じだよなと、
心象の面で納得させるものがある。友人に聴かせたら納得してくれなかったけど。

ショパンにも「雨だれ」って練習曲があった。これも心象的な雨の日の風景。
穏やかでどこかさみしい感じがする。ピアノはどんどん心の底へと沈降していき、
激しい感情が湧き出しそうになるけれど、それもやさしい雨音にかき消されていく。
いかん、またポエマーになってしまった。

今回「昭和人情食堂」に掲載していただいた漫画の中にも雨のシーンがあり、
雨をどう表現するかで少し悩んだ。
「一本一本線を引くのか?」
それはさすがにめんどくさいなとちょっと躊躇した。
僕は怠け者なのである。作業はできるだけ効率よく単純なのが望ましい。

僕は「コミックスタジオ」というソフトで漫画の仕上げ作業をしているのだけど、
その機能の中に、「自動的に平行線をひく」というのがある。
長さや間隔を調整することで、思い通りの平行線が自動的に引けてしまう。
昔は定規で一本一本引いていた線が、一瞬で引けてしまうのだから、
文明の進歩というのはありがたいもんだよなあとしみじみ思う。

数値レベルを調整すると、間隔はランダムに変わる。
「これを絶妙に調整すれば、雨みたいになるんじゃないかな」
と考えた自分は、ちょっといじくってみた。果たして雨のようなラインが出てきた。

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今回描写した雨は、この機能を利用して仕上げていたりします。
だから仕上げるのはわりと一瞬だったりするのです。
言わなきゃ「一本一本線を引いて、漫画家さんは大変だな」と思ってもらえそうだけど、
実はそんなこともなかったりします。

もちろん、パソコンのランダムな雨の線だけでは情感が出ないので、
線を間引いたり重ねたりして調整はしています。
漫画を描く方で「コミックスタジオ」を利用している方のご参考までに。

今回は雨のシーンがそれほど多くなかったので、割と安易な方法を使ったのだけど、
本格的に雨を描写するとなると、自分の絵のボキャブラリーはまだまだ不足気味だ。
この頃東京は雨の日が多いのだけど、その中に傘を差してとぼとぼ歩いているとき、
「これをどうやって表現するかな」
とちょっと考えたりします。

一口に雨といっても、その描き方には無限の広がりがあるのだ。

より以前の記事一覧