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漫画講座

2019年4月17日 (水)

悪とは何か

 1

悪とは何か、みたいなことを考え始めると暇な時間がほどほどに潰せます。

子供の頃に見た戦隊ものなんかでは「悪の秘密結社」みたいなのがあって、
「俺たちは悪者であるがゆえに、悪をなす」と力の限り悪いことを行うのでした。
僕が子供の頃だと、仮面ライダーはV3から、戦隊ものはゴレンジャーからです。
って、ゴレンジャーは戦隊ものの元祖ですね。

このへんはだいたい石ノ森章太郎の原作ってことになってます。
漫画家さんです。昔は石森章太郎ってペンネームでした。

七十年代は戦争が終わってまだ二十年ちょっとって時代ですから、
割と最近まで「鬼畜米英」なんてことをやっていたわけです。
このへんの生々しい記憶は、特撮やアニメなんかにかなり反映されています。
というか、今になって考えると「なるほどなぁ」と納得させられるところが多い。

悪の秘密結社が悪いことをやらかすから、これを成敗しなくてはならないってのは、
戦時中の国民がアメリカとか連合国に対してぼんやり抱いていた感情でしょうし、
秘密の兵器で一発逆転!というのも、たぶん深層心理にあったのかもしれない。

手塚治虫くらいだと思いっきり戦中派なので、善と悪の対立みたいな発想は希薄です。
ある程度大人だと単純にアメリカが悪いみたいな発想にならなくて、
問題がもっと複雑だってのがわかっていたりするんでしょうね。ところが、
戦時中に子供だったり、戦後の混乱を経験していたりすると、
「なんで世の中はこんなにひどいことになっとんねん」
という意識が強くなるので、そういう理不尽さを「悪」の一言に象徴させる傾向があった。
で、その辺の善悪二元論が一気に噴き出したのが、七十年代だったと思います。

特撮の世界では「悪の秘密結社」が平和な社会を脅かし、
宇宙からは謎の侵略者がわんさかわんさと押し寄せる。
ガミラス星人が放射能爆弾を地球にぶつけるなんてのは思いっきりアメリカの核攻撃で、
「宇宙戦艦ヤマト」が根底に持っているのは三十年前の戦争のリベンジです。
僕は子供の頃見ていてそう思ってました。
さすがに「アメリカ」とは言えないからナチスドイツを敵に当てはめてましたけど。

アニメや特撮というのはだいたい七十年代に基本フォーマットが出来ていたりするので、
この時期の「善悪二元論」というのはその後も延々と引き継がれることになります。
物語を物語ろうとすれば、悪を設定してそれと戦わなくてはならない。
悪がないならでっちあげてでも悪と戦うのじゃ!みたいな流れ。
これがだいたい八十年代。

アニメだと富野由悠季さんがやってたのがだいたいこの流れで、
手塚治虫原作の「海のトリトン」は最終回で思いっきりちゃぶ台返しが行われます。
「悪いのは僕たちの方じゃないか!」
……これを自分の作品でやられた手塚先生は腹立たしかっただろうなと思うんですが、
漫画全集の「海のトリトン」のあとがきで、アニメは僕の作品じゃないと言い切ってます。

手塚先生はこの一連の流れの中で前の前の世代の作家さんです。
善悪二元論なんて単純なところでは仕事をなされていない。
戦争は双方に問題があって起こってしまうものだってのは自明のことなんです。
それなのに「僕が悪い」って自虐をするのは何の問題解決にもならない。
むしろ最悪の結論に思えたんじゃないでしょうか。

富野監督的には「善悪二元論」を茶化しているだけなんですが、
そういう面白さというのは本当の戦争を知っている方からすれば理解できないもの、
だったのかもしれません。
僕は面白いと思った方なんですけどね。「ザンボット3」のラストとか。

 2

70年代に絶頂を迎えた「善と悪の二元論」は
80年代に入るとパロディとしていじられまくることになります。
このへんになるともう戦中派には完全に理解できない世界ですね。

悪というのがどんどん身近な存在に置き換わっていって、
むしろ悪の方が面白い、みたいな作品が多くなっていきます。
ゴーショーグンの悪役の名前が「カットナル」「ケルナグール」「ブンドル」ってのは、
もうほとんど悪乗りとしか思えない。大好きだけど。
同じようなのでマクロスの敵側に「ワレラ」「ロリー」「コンダー」ってのがいたっけ。

悪はもう単純な悪ではなくて、ファッションとして悪を名乗ってる感じになります。
ちっとも怖くない。むしろ愛嬌さえ振りまいてしまう。
八十年代はバブルが膨らんで日本が歴史上もっとも裕福だった時代なので、
単純な悪というのが作れなかったのかもしれません。むしろ
「俺たちこんな平和で大丈夫かよ」
みたいな空気すらあった。
それでもお金があったから前時代のフォーマットである「善悪二元論」でお話は作られた。
その結果が悪のパロディ化という流れだったように思われます。

ここで一度アニメは停滞するわけなんですけど、次の動きは90年代、
「エヴァンゲリオン」じゃないかなと、おそるおそる名前を挙げてみるわけです。
……最初は「ヴァ」じゃなくて「バ」だった気がするけど。

流れ的には八十年代からの「二元論パロディ化」なんだけど、
ここでの悪は洒落にならないくらい怖い悪になってます。正体不明で不気味。
理由も何も明確でないまま、ただ一方的に攻撃をしてくる。
これと戦うために主人公はロボットに乗って戦う、までが七十年代のフォーマットで、
そこから展開される主人公サイドのシリアスな物語は、完全に深層心理のお話です。
……ある意味、悪を明確にしなかったために物語が崩壊した感じもするけど、
リアルな恐怖を感じさせるという点で、成功した作品なんじゃないかなと、
割と勝手なことを言ってみたりします。

ここがターニングポイントになって、お話は「何がリアルか」みたいな方向に向かいます。

お話というのは結局のところが作りものです。嘘八百です。
どんなに立派にこさえても、ただのお芝居以上の何者でもない。
でもそれが前提条件として正しいとしても、作り物には作り物のリアルさというのがある。
ジェットコースターは人工的に危機的状況を作り出すものだけど、
お話だってジェットコースター並みに人々を驚かすことは出来る。
ならば、そこんところをちょっと極めてみようかい、みたいな流れです。

それが正しいかどうかは別にして、
僕は「エヴァ」の成功理由のひとつは悪を意味不明にしたことだと考えています。
それも大きな意味では「善悪二元論」というフォーマットのパロディ化なんだけど、
悪は意味不明でおそろしいものだという、深刻な感じがものすごくリアルに感じられた。
だから「善悪二元論」という使い古されたフォーマットを有効に活用することができた。
というか、たぶんこの方法でしか復活のしようがなかった。

悪に理由を求めないという形の作品がたくさん作られます。
目的はフォーマットの再生。かつてはアメリカや連合国軍などのマジな敵がいたけど、
それを敵と認識できなくなった時代にあっては、単純な悪では物語が動かせない。
悪はブラックホールのように理不尽で存在そのものがすべてを破壊するレベルの
「災害」
になります。
でも、そうすると物語としての締めくくりが出来なくなる。
悪をこらしめて、ハッピーエンドとはならない。だって災害なのだから。

「まどかマギカ」あたりになるとこの災害を食い止めるために主人公が神になってしまい、
それが本当にハッピーエンドなのか難しくなってくるのですが、
解決法としてはそれが一番あり得るものなのかなと、放送当時は考えたりしました。
放送時点で本当に洒落にならない大災害が東北で起こってしまったってのも、
何かしら象徴的な気もしますし。

で、ここいらで漫画やアニメというのも市民権を得るようになってきて、
フォーマットとしては「完成」してしまったような気がします。
リアルさを疑似体験するツールとしてのアニメ作品は、規模がどんどん小さくなって、
日常系とかなろう作品とか、それなりの新しい地平を開拓しているようです。

悪に対してのっぴきならない恐怖や怒りの感情というのが発生しないので、
予定調和的ではあるんだけど、それはそれで、楽しいものだと僕は考えます。

七十年代に完成した「悪い奴らと戦う僕ら」というフォーマットは、
なんだかんだ五十年くらいは生き続けたわけで、これはこれですごいことです。

このフォーマットのおかげでアニメは五十年かけてものすごい技術的な蓄積ができた。
洗練されたキャラクターとか、効果的な動かし方とか、
そりゃもうすごいもんです。今の若い人は生まれながらにしてそういうものを吸収してる。
生まれながらにして完成された技術を使えるってのは、ものすごいアドバンテージです。

戦後二十年で生まれてきた昭和のオジサンからすれば、
それがものすごくうらやましかったりもします。
今の子からすれば戦争は一世紀近く昔のことに感じられるんじゃないかな。
僕らの感覚からすると、「艦これ」とか「ガルパン」とか、
洒落にならない題材だったりするんですよ。
「人が死んでんのに何茶化しとんねん」て。
うちの伯父さん戦争で特攻して亡くなってるし。

「洒落にならない」って引け目があったから、マジな戦いを描こうとすれば、
ガミラス星人やら悪の秘密結社やらを創作する必要があったわけです。
あれはリアルな敵がある前提で、そこを隠して象徴させていただけで、
実際はアメリカ軍だったり連合国軍だったり、原子爆弾だったりしたのです。

そういう「洒落にならないもの」が「洒落になる時代」になったのが21世紀なわけで、
そこで「何がリアルか」と考えると、もう日常が日々毎日「戦場」だったりもします。
一見「平和」なような気もしますけど、
実は何気に不気味な悪がうごめいていたりもします。年金問題とか少子化問題とか。

かくてこの世に物語のタネは尽きないってことで、強引にお話をまとめるのでした。

 

2019年3月31日 (日)


 1

春なので桜が咲いていてちょっとうれしい。
あれだね、
地上デジタルハイビジョンで桜の映像なんかテレビでいくらだって観られるけど、
一年に一度、桜の木の下で見上げる桜のあの風情みたいなものは、
VRであっても再現は不可能だろうし、再現できてもきっと違和感はあるんでしょうね。

僕が子供の頃は「未来少年コナン」なんか楽しみにしてまして、
おかげで十代の頃はかなりの宮崎駿ファンだったのですが、それはともかく、
あの中でインダストリアって地球に唯一残された工業都市に主人公たちが出向いて、
そこで博士がVRの部屋に連れて行ってくれるんだけど、
大自然の中で遊んでる子供たちの映像が流れて、まるで本物みたいなんだけど、
ヒロインの子が飛んできたボールを拾おうとしたら体をすり抜けていってしまい、
それを取りに来た子供の体もすり抜けていって、悲鳴を上げる、
なんてシーンがありました。

21世紀の現在はまだ、そのレベルまではいっていないにしても、
映像技術の目指しているのはそちらの方向なわけで、
小さいころに「未来少年コナン」を観てしまった身としては、それはちょっと、
違うんじゃないかって、どうしても考えてしまう。
これも全部宮崎駿の責任。

すでにテレビで今年の桜はさんざん観てしまっているけど、
明日あたり、新しい元号が発表されてから近所の桜地帯まで出かけて、
思いっきり桜を堪能してこようかと考えています。平日で人いないだろうし。

「不気味の谷」なんて言葉があります。
いまさら説明してもみんな知ってそうな日本語なんだけど、割と最近の言葉なので、
とりあえず解説だけしてみると、絵とかCG、人形なんかをどれだけリアルにこさえても、
絶対に人間の代替物にはならない、必ず不気味になるという宿命をあらわしています。
不気味ではあるんだけど、いつか人間はその限界を突破できるんじゃないかという期待、
そこに挑戦し続けるチャレンジ精神を賞賛しつつ、
「いや、そこのラインは絶対に越えられないから」
と他人の努力を嘲笑うための言葉です。
「オリエント工業の人形でも不気味の谷は越えられない」みたいな使い方をします。

オリエント工業さんのたゆまぬ努力には賞賛を禁じ得ないのだけど。

先日このブログでも書いたバルザックの「知られざる傑作」という短編小説は、
たぶんこの「不気味の谷問題」と戦い続ける芸術家の話だと僕は思います。
二次元芸術に三次元の存在感を求め、日々格闘する天才画家の話です。
なんせ、この物語を人から聞いた印象派のセザンヌが、感動のあまり言葉をなくし、
「それはワシのことだ!」と胸を叩いて取り乱したというお話です。

現代のオタク風に表現すれば、超絶リアルな二次元美少女の絵を完成させて、
「俺って最高!」とヘブン状態になっていたら、ネット上でさんざん叩かれ、
「ただの不気味なピカソじゃん」と馬鹿にされた、
みたいなお話です。天才過ぎていろんなものを突き抜け、時代を超越してしまったのだな。

セザンヌの絵も、僕は若いころ実物を観て「おお」となったことがあるけど、
水浴シリーズなんか、人体の存在感を二次元上に巧みに表現していたりします。
でもそれを感じ取るためにはある程度の知識なり経験なりが必要なわけで、
何も知らない人が観たら「ただの水浴してるおっさん」としか思わないかもしれない。
その絵から旨味を感じ取るための「何か」が必要なわけです。

若い子が「漫画をどう読んだらいいかわからない」ということがあって、
こちらとしては愕然とするのですが、二次元に表現されたものを見たり読んだりして、
そこから三次元的な奥行きのある世界を感じ取るためには、
そのための手順をいろいろ覚える必要がある。コマの順番とか、吹き出しの読み方、
キャラクターを見分けるための記号を覚える、みたいなことまで必要になるかもしれない。

僕らの世代はそういう「お約束」を物心つく頃には自然に体得していたけど、
「漫画よりスマホ」の時代になってくると、その「お約束」が足かせになりかねない。
なんせ、次生まれてくる世代はその「お約束」がわからないわけですから。

漫画が浮世絵と同じ運命をたどるという事実を、こんなに早く実感するとは思わんかった。

 2

まとめというか、事実の確認です。

手塚治虫が戦後に始めた「ストーリー漫画」というのは、
それまで「絵」でしかなかった漫画の世界に「時間と空間の変化」を与えることで、
三次元的広がりの世界を感じさせるものだったんじゃないかと思います。
実際、僕は漫画を読むとその世界にどっぷりと入っていって、
現実のように感じたりします。美少女が登場すればその子に恋愛感情だって抱けます。
そういうシステムが、第二次世界大戦後の日本で確立され、発展したわけです。

手塚治虫本人には漫画はディズニーアニメの下位互換でしかなかったかもしれないし、
どうもそういう認識だったとしか思えない部分もあるんだけど、
それは漫画がアニメ以上に「それを読むためのお約束」が多いからで、
コマの運びとかセリフを読むための吹き出しを無意識に目で追うコツとか、
そういうものを一度体得してしまえば、VRばりの世界に入っていくことが出来ます。

そんで、そういう状況を手塚治虫先生は想像もしていなかっただろうけど、
現代の日本ではその「お約束」を完全にマスターしている人間が何千万といて、
日本どころか世界中でその「お約束」にそって漫画が読まれているわけです。

ただ、問題があるとすればそれが「お約束」を習得しなくては理解できない世界、
わからない世界なんだって事実です。

コマの運びとかセリフの読ませ方という技術的な部分は、現在頂点に達していて、
それを読み取れる人が読めば、もう脳汁があふれ出すような体験ができます。
言っちゃ悪いけど漫画はある意味合法的な麻薬です。
二次元でありながら三次元で体験するレベルの「感動」をもたらすことが出来る。

でもそれらはあくまで「お約束」を共有するからこそ体験できることなわけで、
それを知らない人が漫画を手にとっても、何も理解できない、
なんか目の大きな変な生き物がいっぱい描いてあるだけの紙の束です。
……ちょうど僕らが浮世絵の美人画に抱くような「なんじゃこれ」的な感想になります。

二次元から三次元的な世界を感じ取るためには、そのための手順が必要で、
その「お約束」を理解できるのは、子供の頃からそれに接していた世代だけです。
今後生まれてくる子供たちには、それを習得する必要はないかもしれない。
アニメや映画があれば十分と思うかもしれず、それ以上の世界が漫画にあったとしても、
わざわざ読み方を習得してまでそれを理解しようとは思わないかもしれない。

いやいや、アニメや映画ですら、元は二次元で、それを三次元的にするためには、
それを読み取るための技術は必要なわけです。
つまりどういうことか。
「不気味の谷」の境界線を越えるためには、そのための技術を習得する必要があり、
漫画は実はけっこう難易度の高い表現媒体で、
その次にアニメ、映画と続いていくという、事実。

一方でVRなどのシステムの発展は「お約束」を習得することを「余計な手間」とみなして、
それなしで二次元を三次元的に感覚する方向を目指しているのだ、という事実。

コマ割りとか吹き出しとか、そういう漫画のシステムが「余計なもの」扱いされると、
ちょっとヘソが曲がるんですが、少なくともコマ割りは、
目に見えて簡素化の兆候があるように思います。複雑なコマ割りが喜ばれなくなってる。
四コマ漫画で表現した方が若い人にはわかりやすいんじゃないかと、最近は感じます。
もっと言ってしまうと、ラノベは完全にコマと吹き出しの排除された漫画だ。
僕の世代だと漫画以前の表現形態に思えてしまうのだけど、漫画のお約束を覚えるより、
あっちの方が理解しやすいと言われれば、そうなんだろうなと変に納得してしまう。

文字を覚えてそれを使ってみたい子供たちが、漫画より先にラノベに走るのは、
むしろ当然と言えば当然で、今の漫画は「初心者」が敷居をまたぐには、
あまりにも情報量が多く、習得する「お約束」が多すぎるのです。
見せ場で渾身の一枚絵を出せば、それだけで十分に補完可能です。

手塚治虫も生誕百年くらいになるそうですけど、漫画というシステムは、
完全にワンサイクル回りきったような気もします。
ここでまだストーリー漫画としてのコマ割りや見せ方を考えている自分というのは、
ブラームスばりの古典主義者なのかもしれない。

わかりきった話ばかりなんだけど、こういうことは一度文章にしてみたかったので、
僕の現状認識はこんな感じですと、文章を無理やりまとめてみました。

まだ時間があるしVRじゃない桜でもながめに出かけましょうか。

(追記)なんかやっとココログさんのシステムが改善されて文章がまともに反映されてるぞ。

(追記2)桜見てきた。日曜なので家族連れがわんさか桜見てた。警ら中のお巡りさんも見てた。

(追記3)四月一日。「知られざる健作」→「知られざる傑作」修正。あとニ十分で新元号発表。

(追記4)午前十一時半に菅官房長官が発表の予定。あと十分。人形の久月が「安久」押しらしい。

(追記5)NHK。なんか中川翔子出てきた。セミの抜け殻まみれのインスタを思い出す。

(追記6)十一時半。菅ちゃん出てこない。陛下への報告のあとかな。煙草をふかす。三十五分。

(追記7)今朝送ったネームの受け取りメール読む。先週送った原稿もこれで進めていただける、と。

(追記8)四十分。菅ちゃん来た。「令和」……おお、なぜか一発で変換できた。

(追記9)NHK,菅ちゃんが元号掲げた瞬間、手話の人の映像とタブって見えなくなる(笑)

 

 

 

2019年3月21日 (木)

とある漫画士の作画理論

「目は口ほどにものを言う」なんて言葉があります。
美辞麗句をいくら積み重ねても、目付きが下品だったりすれば、
「こいつ詐欺師ちゃうか」
と疑われます。逆に、
「あんたのことなんか全然好きじゃないんだからね!」
と視線を逸らす二次元美少女がいれば、
「ああ、ツンデレか」
と古めかしい古語で納得したりもします。
目には本心が出てしまうので、読まれまいと無意識に隠すわけです。
漫画家でも心理描写を多用するような作風の作家だと、
目の表現をどんどこ追求したりします。
自分にも多少その傾向がありますが、視線の動きやそこに読み取れる感情、
何よりカッコいい目つきとか艶っぽい視線なんかにこだわったりします。
まあ、こだわりが強すぎて作画地獄に嵌ったりするわけですが。
今回はその辺のお話をちと。
昔NHKの科学番組で「人類の進化」みたいなのがありまして、
山崎勉さんだったかな、役者さんがナビゲーターになって進化の解説をしてました。
原始的な哺乳類から始まって、小型の猿みたいなのになって、
樹上で生活するようになったために木の枝との距離を正確につかむため、
側頭部にあった目がどんどん前面に移動していく。
いわゆる「立体視」ができるようになって、世界は3Dで認識される。
猿というのは集団で生活するものだから、同種間のコミュニケーションが必要になって、
相手の心の動きを正確に読み取るために、頭部で複雑な進化が起こります。
唇が自在に動くようになって鳴き声を変化させたり、眼球に白目が生まれたりしました。
白目ってのは視線の動きを相手にわかりやすく伝えるために発生したというのが、
その番組での主張でした。これはなんとなくわかります。
相手が何を見ているのか、白目がある方が理解しやすいですから、
もし敵が現れた場合でも、その位置を種族間で正確に伝達できます。
これが人類の進化の過程で複雑な感情を表現するようになったわけです。
ですからまあ、言葉と同じで目の表情にもいろんな意味があるわけで、
この目の語る意味合いは赤ん坊にも通じますし、言葉の通じない外国の人にも伝わります。
で、漫画やアニメってのはその目の語る意味を二次元に表現する方向でも発展してきたと、
僕は考えています
個人的な経験の話なんですけど、人間の体を描くのはそんなに難しくない。
顔のないのっぺらぼうの木偶人形ならどんなポーズでも描けるような気がします。
でもそこに感情を表す部位が入ってくると、とたんに絵は難しくなります。
目はもちろん、指先にまで神経を通わせて細かいニュアンスを表現しようとすると、
なかなかうまくいかない。
ポーズにしても、肉体の動きで怒りとか悲哀なんかを表現しようとすれば、
一年二年の修行くらいではどうにもならない。
それはもうパントマイムとか演劇論の分野にも入ってくるものですし、
追求すればするほど、「線とは何か」「表現とは何か」みたいな、
変なな精神論になったりします。
かなりめんどくさいです。
だからまあ、その辺のことはバッサリ切り捨てて、目の表情だけを追求していく。
それがいわゆる「大人漫画」だったりします。
眼球の動きを正確に描写してそこに感情を表現する。一番いいのは瞼を先に描写して、
そこに黒目を入れていく方法です。
そうしないととてもじゃないけど微妙なニュアンスまでは表現できません。
だから大人漫画で描かれる目では黒目が小さくなりますし、
瞳がキラキラのでっかい黒目は、感情表現がワンパターンになるため敬遠されます。
最近の作家さんだとつぶらな瞳のキャラクターでも微妙な感情表現が出来たりしますが、
それでも相当な技術がないと無理なんじゃないかと思います。
「視線」を表現するためにはその土台となる頭部の正確なデッサンが必要で、
これを無視して感覚だけで「流し目」なんかを描いても、
描き進めるうちに顎の位置やら頭の位置がどんどん歪んでいきます。
だからといって頭部から描写して、そこに後から目玉を入れてみても、
なんだか感情がこもらない、死んだような絵になることも多いです。
「流し目」はたぶんその人の作画力を端的に表す試金石なんじゃないかと思います。
昨日フランスの文豪バルザックの「知られざる傑作」って短編を読んでたら、
こんな文章がありました。要約すると、
「いくら美人の綺麗な手だからって、石膏で型をとって複製を作っても、
 出来上がるのはただの死体で、綺麗でもなんでもない、むしろ不気味。
 石膏像に生命を感じるのは彫刻家の腕によるもので、それが芸術ってもんです」
土台となる人体や頭部の形には正確なデッサン力が求められるけど、
最後の最後、感情に関わる部分になってくると、正確さだけじゃない、
何か別のものが必要になってくるんだと思います。
これはあくまで個人的見解なんだけど、
デッサンが完璧な絵というのは漫画ではあんまり喜ばれない。
なんだか冷たい感じがして、ちっとも共感できなかったりします。
むしろ、多少ひん曲がってるくらいの方が面白く感じたりします。
よく雑誌連載の原稿を、単行本化するにあたり加筆修正することがありますが、
作者が「下手くそな絵だからもっと上手な絵に差し替えよう」と考え、
自信満々で描き直したものが、なぜか読者には不評だったりします。
「なんで俺の技術のすごさがわからんのじゃ!」と怒りたくなるところですが、
読者は作家が考えている以上にものすごい審美眼を持っていたりします。
意識的にしろ無意識にしろ、紙の上に描かれた感情を正確に読み取っています。
「下手くそな絵だけど、何を表現したいかはわかる」というのもあるでしょうし、
「上手な絵だけど前に比べて何も伝わってこない」というのもあります。
上手な絵を描こうと焦ったりあがいたりするのは作家個人の問題で、
それは自分の中の不安とか劣等感から始まっているものです。
読者とは関係ないところでひとり相撲をとっているようなもんです。
デッサン力と感情表現は必ずしもイコールではない。
むしろデッサン力があるために感情表現ができない場合だってあるのです。
編集者百人に聞けばみんなそう答えるでしょうが、
上手な絵より、下手くそでも伝わるもののある絵の方が「いい絵」なのです。
ただ、そういう下手くそさは作家のクセとして早々に飽きられるものでもあります。
読者の中で「クセのある絵」が作家固有の記号として認識されてしまえば、
表現の鮮度はなくなってしまうわけで、そこにずっと胡坐をかいているわけにもいかない。
だから、正確なデッサンを習得する必要があると僕は考えます。
感情は日々に生まれてくるものですし、決して飽きるものではない。
それを紙の上に表現するためには、しっかりした土台となる技術と、
その正確さの中に違和感を感じさせる「何か」が必要になってくるわけです。
それは作家が日々の生活の中で感じた心の動きであり、
その振動がレコード盤の上に溝を削り込むように、ぶれとなって絵に刻まれるもの、
読み手に「違和感」として認識されるもの。
それが目や唇に表現される「感情」なのかなとこの頃の自分は考えます。
……なんだかものすごく当たり前のことを書いているみたいだけど、
「違和感」を表現するためには全体の正確な描写が必要というのは、
今まで自分があまり考えたことのなかったところなので、
ちょいと文章にしてみました。わかりにくい文章ですが、
そういうスタンスでいたほうが、絵にしても演出にしても、
突破口が見つかりやすいように思います。
ぶっちゃけて言ってしまえば、
「画竜点睛」ってこういうことなのかもしれないなと
思うわけです。

2019年2月21日 (木)

ピグマ


僕は漫画家で、今はピグマがメインの画材になってる。
ピグマは知ってる人には今さらな話なのだけど、顔料インクのサインペンである。
太さがいろいろあって、自分は0.05を使うことが多い。

このサイズになると滅茶苦茶細い線が引けるかわりに、力を入れすぎると先が曲がるし、
中のインクを使い切る前にペン先が摩耗して描けなくなったりする。
一番買い替えの頻度の高いピグマだ。

散歩でぶらりと外を歩いたりすると、わざわざ遠くの文房具屋まで足をのばしたりする。
ピグマはこの手の文房具では定番商品だと思うのだけど、売ってる店は限られていて、
お爺ちゃんが経営している古い店だと置いてあるけど、子供向けの小奇麗な店舗だと、
置いていなかったりする。かわりに女の子向けのカラフルなペンが大量に並んでる。

いや、文房具とはそういうファンシーなものではなくて、合理的で武骨なものなのだ。
あくまで個人の趣味趣向の話なんだけど、
暗殺者の持つナイフがミッフィーの柄付きだったら、ちょっと嫌じゃないか?
まあ、映画やドラマの演出で暗殺者がファンシーグッズを愛用するキャラってのは、
ありだとは思うけど、現実に仕事で使う道具は武骨であってもらいたい。

ピグマは濃紺のボディカラーで、実に落ち着いた色合いだ。そこに金属のフックがあって、
これが小憎らしいことに淡いゴールドの色彩だったりする。ちょいとばかりリッチなのだ。
値段は二百円程度のものなんだけど、そこはかとなく大人の空気を漂わせている。
こいつが机の上にあると、なんか出来る職人さんという感じがする。
漫画家の仕事場でもいいし、官邸のスタッフルームでも、まったくおかしくない。
トランプ大統領やプーチンさんが使っていても、僕はおかしくないと思うぞ。

ところが先にも書いた通り、売ってる店は割と限られている。
ミリペンはあってもピグマはない場合もあり、散歩のコースはだいたい同じになる。

一件、ピグマを扱っていた店はあったのだけど、
そこは老夫婦の経営する古い店で、雑然とした店内は廃墟の一歩手前、物置といった方が、
実情に近い感じのところだ。
嫌いじゃないけど、埃っぽいのはちょっといただけない。この手の古い店は、
マメに手入れをしてこそ、アンティークな味わいが出るのである。

で、一年ぶりくらいでピグマの置いてあるコーナーまで行ってみると、
なんたること、薄っすら埃をかぶってすすけてやがる……
しかも自分の欲しい太さのペンが置いていない。
店のご主人に「ピグマこれだけですかぁ」と聞いてみる。
店によっては箱置きでストックされている場合もあるのだ。一般人は買わないから。

「そこにあるのが全部だよ、お客さん、ピグマならネットで注文するといいよ」

文房具屋が文房具屋の存在を完全否定するような発言をするのだった。
まあ、個人経営の店でご主人も老齢であるから、いまさら商売もくそもないのだろう。
そのへんの気持ちは五十過ぎの自分にもわからんでもないので、
「ありがとうございます」
と礼をのべて店を去った。もうこの散歩コースを利用することはあるまい。
寂しいけど、まあこれも現代社会の縮図である。

個人店舗は軒並みつぶれていき、ネット通販が主力になっていく。
僕が散歩なんかしなくても、かわりに佐川急便のあんちゃんが走り回ってくれるのだ。
ありがたや、ありがたや。

ピグマを箱買いしないのは、僕の意地でもあるのだ。

画材道具の大量ストックは、プロっぽくて嫌いじゃないのだけど、
たとえば箱買いしてある大量の金属のペン先が、今も無為に備蓄されている。
使わないのでアシさんにプレゼントしたりもする。たしかひと箱六千円くらいだ。
ピグマだって、この先ずっと使うかどうかはわからない。
もっといい画材が見つかるかもしれない。
だからまあ、一本一本散歩のついでに買っている。
その方が健康にもいいし、買ったときの記憶が鮮明で、仕事にも身が入る。
他人とのつながりの中で漫画を描いてるって感じがする。
これが割と、大切なんじゃないかと思う今日この頃。

僕が本格的に画材としてピグマを使い始めたのは一年前のことだ。
それまでもちょくちょく使っていたけど、それはあくまで予備的なもので、
Gペンによるペン入れをきっぱりとあきらめて、完全移行したのが一年前、
スロット旅打ちの列伝みたいなのを描いているときの、
三代目旅打ち人タイラさんの回から。
その日は雨が降っていて、一ページ目をペン入れしたらインクが紙ににじんだ。
「こりゃだめだな」
と思って急遽ピグマに持ち替えた。

ピグマは使い勝手のいい画材だけど、惜しむらくは描く線に肉がつかない。
細い線→太い線→細い線
みたいな微妙な変化がつけられず、均一なラインになってしまう……と思っていた。
なんせ、太さ別にサイズが決まっているものだから。

でも印刷されたものを見てみると、荒々しい表現には向かないかもしれないけど、
几帳面で穏やかな線ではあるし、使い込むうちには微妙な線の変化も表現できている。
たぶん一般の方が見ても、これが文房具屋の二百円のペンだとはわからないだろう。

というか、線がにじまない分、こちらの方が圧倒的に使いやすい。

線の肉のつきも、なぜだかどんどん出せるようになってきた。
サインペン特有の均一なラインでなく、
細い線→太い線→細い線
が、使い込んだピグマだとちゃんと表現できていたりする。これはちょっとびっくりした。
……まあ、あんまり熱中してペン入れすると先っぽがひん曲がったりもするのだけど。

ちょいと専門的な話。
日本の漫画の歴史の中で、最初の頃は新聞紙上の挿絵がはしりだと思うけど、
これは印刷の関係上、白黒はっきり分かれたエッチングのような絵が求められた。
濃淡を味わいにする水墨画のような絵は印刷で大量生産できないのだ。
(スクリーントーンを使うようになったのは昭和の四十年代くらいからだと思う)

で、漫画家はこの制約の中で長らく絵を描いてきたのだけど、
濃淡で味わいを出せない以上、線の変化を追及していくことになる。
人体を線で包み込む描法を追及していくと、線に肉をつけることで、
キャラクターの存在感が強くなること気が付く。
だいたい手塚治虫の漫画絵から劇画に移行していく過程だと思うけど、
川崎のぼる先生の巨人の星くらいになると、線に肉がつきまくって、
キャラクターの人体がものすごくリアルに感じられるようになる。
手塚先生の漫画絵と後世の劇画タッチの絵の決定的な違いがこれで、
手塚先生の絵が記号的なのに対して、劇画はリアルに人体を描写している。
(手塚先生は漫画入門を書いていて、そこで漫画絵は記号だと言い切っている)

それはデッサン力とか線の情報量とか、いろいろな理由があるんだろうけど、
線に肉をつけることで、筋肉の隆起を表現できるようになったことも、
割と大きいような気がする。
実際、昔はペン入れというとカプラペンという均一な線を引くものが主流で、
藤子不二雄先生もこれを愛用してらしたと思うけど、
劇画ブームが起こってからは、線に変化がつけられるGペンが主流になっていった。
八十年代くらいになると、漫画と言えばGペン、売れっ子はみんなGペンを使う、
みたいな認識になっていたと思う。少年誌の世界では、たぶんそんな流れだった。

手塚治虫先生の絵が「古いな」と感じるのはそのためで、
劇画ブーム以降の漫画絵と比べると、線の美しさはあっても、
それが人体を抉りだすようなラインではないので、記号的な感じがしてしまう。
手塚先生がムキムキの筋肉男を描いても、そのムキムキ度には限界があって、
どこか「漫画」な感じがしてしまう。
ちば先生の「あしたのジョー」みたいな男同士が殴り合う描写は、向いていない。

もちろん、記号としての絵には別の美質があって、その流れは今でも続いているし、
パソコンで作画する時代になってむしろ均一な線が戻ってきている気もするけど、
人体をリアルに描写しようとすれば、線に肉をつけるのは、割と必須だったりする。

で、ピグマのようなラインマーカーだと、これは向いていないと僕は思ってた。
(ここまでくるのにものすごく話が脱線したなぁ……)
ところが使ってみると、そうでもないというのが素直な感想で、
やろうと思えば劇画調の絵だって、描けるんじゃないか、と思い始めている。

で、そのことをアシさんに話してみたら、
「今さら……ジョジョってピグマで描いてるらしいですよ」
と言われて、僕が一年かけて達した結論が、すでに天才によって出されていたのかと、
すこし世界のことわりの理不尽さを痛感したのでした。

2019年2月 9日 (土)

問答無用で技術的な話(非一般向け)


 1

弟子「師匠に質問です」
師匠「はいはいはい」
弟子「〇ってどうやって描けばいいんですか」
師匠「は?」

弟子「師匠いつも言ってますよね、絵の一番の肝は〇だって」
師匠「いやいや、あれは北斎が書いた略図指南がそうなってるって話だよ」
弟子「えー言ってたやん、〇を究めればどんな絵でも描けるって」
師匠「僕もまだ修行中の身だから断言は出来んのよ。明日には変わるかもしれんし」
弟子「いい加減だなぁ」

師匠「絵がわかった!って瞬間は、今までに何十回とあったんだよね」
弟子「ああ、自分もありますよ、これでもう何も怖くない、何でも来いって」
師匠「絵は紙を回転させてペン入れすればいいってのも、そこで終わりじゃなかった」
弟子「でもここ2年くらいはずっとそのやり方でペン入れしてますよね」
師匠「うん、でも今年に入ってからの2回の原稿は紙を回転させてない」
弟子「!」

師匠「頭の中心に×印を描いて、それを中心だと認識しながらペン入れしてた」
弟子「なんと、それは何か新しい描き方なんですか、是非教えてください!」
師匠「いや、結局その2回だけで、また元の回転させるペン入れになってる」
弟子「……おやまあ」
師匠「このへんのことは説明すると難しくなるんだけどね」

師匠「絵を描くときに×印を配置するってのは、比較的若いころからやってるんだ」
弟子「配置……といいますと、体のパースを決める、みたいなことですか?」
師匠「そう。頭を〇で描いて、その中心から胸のあたりに×を置いて」
弟子「ふむふむ」
師匠「腰、股関節と×を並べていく」
弟子「なるほど、で、手足にも×を配置するんですね」
師匠「肩、ひじ、手首、と打って、大腿骨の始まりと膝、足首と打っていく」
弟子「関節部分が×になるんですね」
師匠「まあ、実際に描く場合もあるけど、点を打つだけの場合の方が多いかな」
弟子「なるほど」

師匠「頭の中にしっかりイメージを作ってると、どこに×を置くかが見えてくるんだ」
弟子「見える?」
師匠「曲がった腕なんかは手首の×を置いて、肩との間をイメージするとひじが見える」
弟子「なんかすごいことを言ってますけど……超能力ですか?」
師匠「そんな大したもんじゃないよ。説明が難しいだけで、誰でも出来るはずだ」
弟子「そうかなぁ……」

師匠「前にこのブログでも書いたけど、僕の人体認識はミクロマンなんだよ」
弟子「日本版GIジョーですね。関節が動く人形」
師匠「絵のアタリを書いてから、関節に×を置いていくんだけど、それは見えるんだ」
弟子「見えますか……」
師匠「まあ、そこは今回はあまり突っ込まないで欲しいんだけどね」

弟子「つまり関節の位置を決めてから、人体の筋肉とかを描くわけですね」
師匠「そうそう。で、これをやっておけば、まずたいていのポーズは描ける」
弟子「ほう、すごいですね!」
師匠「ただし、これをやってしまうと、後から顔を描くときにえらい苦労をする」
弟子「ダメじゃん!」
師匠「顔から描き始めると、体の全体のバランスが取れなくなる」
弟子「ちっ、まったく役に立たねぇぜ」

師匠「いい顔が描けて、それに後から体を加えると、顔が気に入らなくなることが多い」
弟子「なんでそうなるのかなぁ……」
師匠「顔ってか、頭の中心を無視してるから、あとで整合性がとれなくなるんだ」
弟子「?」
師匠「関節と同じように、頭にもどこかに×印を置かなきゃならんわけよ」
弟子「おお、やっと話がつながってきました。だから今年に入って描き方変えてたのか」

師匠「紙を回転させるペン入れを2年間やってて、疑問に感じる点もあったしね」
弟子「といいますと?」
師匠「回転させるってことはどこかに中心があるわけで、俺は何を中心にしているのか」
弟子「……話がまた抽象的になってきた」
師匠「そこまで難しい話じゃないよ。頭にはどこかに中心がある、OK?」
弟子「OK」
師匠「僕はそれが両目の間の奥の方だと考えたんだ。そこに×を置いてた」
弟子「地球のコアみたいなもんですね」
師匠「そうそう、そういう感じ」

師匠「で、今年に入ってからの2回はそれを中心に紙を回転させないでペン入れしてた」
弟子「反時計回りのペン入れでしたっけ。すべての部品を立体と考えて線で包み込む」
師匠「それそれ」
弟子「基本的に上から下の線で描くから、紙を回転させてたんですよね」
師匠「うん。でももともと器用な人間だから、下から上のラインも引けることは引ける」
弟子「え」
師匠「昔アシスタント先でやって、チーフの人に気味悪がられた」
弟子「たしかに、気持ち悪いですね」
師匠「いやいや、そこまで変じゃないけど、やろうと思えば紙を回転さなくても描ける」

弟子「すごいんだか、キモイんだか……」
師匠「まあ、それはどうでもいい話なんだけど、やってるうちに気が付いたことがある」
弟子「なんですか」
師匠「〇って、実は中心を決めなくても簡単に描けるんじゃないかって」
弟子「!」


 2

師匠「顔から描くにしても、きちんと〇の法則上にあれば、体は描ける」
弟子「おお、今までのいろんな問題が一気に解決ですね」
師匠「そうかもしれない、とは思ってる」
弟子「で、その〇の描き方ってのはどうやるんですか!」

師匠「なんかちょっと恥ずかしい」
弟子「……はい?何を頬を赤らめてるんですか!かわい子ぶりっ子ですか!」
師匠「君、何歳だよ」
弟子「ケチケチしないで教えてください、てか教えろ、今すぐ教えろ」
師匠「あのさ……」
弟子「教えないと師弟の縁を切りますよ!」
師匠「なんでそこまでされにゃならんのだ」

師匠「なんかものすごくわかりきったことだから、今さら話すのが恥ずかしんだよ」
弟子「えーーそんなありふれた答えなんですか?」
師匠「人によっては何がすごいのかさっぱりわからんと思う。僕には重要なことだけど」
弟子「……?」

師匠「僕が反時計回りにペン入れするのは、僕が右利きで、それが一番自然だからだ」
弟子「それはなんとなくわかります。左利きなら時計回りになりそうだし」
師匠「これを法則に逆らって時計回りで引くと、線が立体の内側に入り込む」
弟子「ほう」
師匠「アゴのラインなんか、逆に引くとふっくら感が無くなるんだ」
弟子「よくわからんですが、そうなんですか」
師匠「反時計回りだと物体の外側から線で包み込む感じになるけど、逆だと駄目なの」
弟子「……」
師匠「時計回りにペン入れすると、物体の内側からペン入れしてる感じになる」
弟子「……質問。師匠って、線の内側とか外側がわかるんですか」
師匠「ペン入れっても筆と同じだからね。筆で線を引くと、穂先が動くでしょ」
弟子「動きますね」
師匠「穂先の向きと反対側が物体の表面になる」
弟子「?」

師匠「まあここは物体を線で包み込むには反時計回りって覚えておいてね」
弟子「……はい、もっと突っ込みたいけど、今はいいです」
師匠「これは鉛筆で下書きする場合もやっぱりそうで、基本反時計回りで描いてる」
弟子「下書きもなんだ……」
師匠「いや、僕はそこまで厳格にはやってないんだよ。下書きでそこまで出来ないし」
弟子「ダメなんですか?」
師匠「あんまりこだわりすぎると絵が死ぬんだよね。アタリは割と自由にやってる」

師匠「だから下書きするとき、頭のラインなんかはめんどくさくて時計回りになってた」
弟子「ペン入れの時さかさまにすればいいやってことですもんね」
師匠「うん、まあそうだよね。でも、ふとひらめいたことがあってさ」
弟子「はい?」

師匠「時計回りで〇を描いて、それを反時計回りで下書きしたら割と正確な〇になる」
弟子「!」
師匠「少なくとも僕は、これをやると結構正確な〇が描けた」
弟子「!!!!!」
師匠「なに感嘆符並べてんだよ」
弟子「いや、すごいことのような、当たり前のような、なんとも表現に困ります」

師匠「時計回りに描いた〇の歪な部分を、反時計回りで矯正してるんだ」
弟子「いや、まあすごいんですけど、具体的にどうやって絵に反映させるんです?」
師匠「そこは企業秘密」
弟子「ええええええええ!」
師匠「でも下書きするときに時計回りの〇を描いて、反時計回りに清書する感じだね」
弟子「アタリが時計回りとか?」
師匠「例えば瞳なら瞳を時計回りで位置決めして、瞼なんかは反時計回りに描く」
弟子「ほう」
師匠「瞼が描けてから瞳も反時計回りに下書きする」
弟子「おお」

弟子「ちょっとわかりづらいので図解してもらえませんか」
師匠「いや、それはあんまりやりたくない」
弟子「どうして!ケチ!」
師匠「君が質問したのは〇の描き方でしょ。そこはちゃんと話したもの」
弟子「ケチケチケチ!けちん坊!」
師匠「この書き方だって数か月後にはダメになるかもしれないんだよ」

弟子「割といい線いってるような気もしますが」
師匠「手ごたえは、ある」
弟子「ひょっとしてワザとわかりにくく書いてませんか?」
師匠「僕が絵について書くといつもこんなもんだよ」
弟子「いったい何のためにブログで書いているのやら」
師匠「ここまで書いたのって、つまり歪な〇しか描けない人間の矯正法なんだよ」

弟子「矯正法?」
師匠「僕は天才ではない、天才でありたかったけど、そうは生まれてこなかった」
弟子「なんですか、いきなりオッサンが語り始めましたね」
師匠「描ける人間はスイスイ描けるんだよ。そういうのをいっぱい見てきたんだ」
弟子「まあ、そうかもしれません」
師匠「だからね、そういう天才どもの鼻を明かしてやりたいんだよ、僕は」
弟子「……ずいぶんひね曲がった根性ですね」
師匠「生まれながらの才能に胡坐をかいてる人間の足元を掬ってやりたい」
弟子「うわあ、暗い、暗いなぁ!」
師匠「まあ、冗談だけどさ、下手な人間にも上手に描けるやり方ってあると思うんだ」
弟子「いや、今の絶対本音ですよね……」

師匠「そういうやり方を発見するってのも、自分の目標だったりするんさ」
弟子「するんさって、どこの方言ですか」
師匠「たぶん三重弁。母方の親戚が使ってた気がする」

弟子「まあ、いいヒントはいただいたので、自分でいろいろ試してみますよ」
師匠「そうしてちょ」
弟子「ちょ?」
師匠「たぶん名古屋弁」
弟子「なんだかなぁ~」

2019年1月 2日 (水)

「名人伝」 その4

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

で、ひたすらアップしている「名人伝」のネーム版、ラストです。
そのうちカテゴリーとしてまとめる予定。

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落語家の古今亭志ん生さんが高座で居眠りをはじめて、
「お!天下の名人が居眠りをしてるぞ」と、お客さんはそれを喜んだ、なんて話がありますが、
至芸とはまさにこういうことを言うのかもしれませんね。違うかもしれないけど。

2018年12月31日 (月)

「名人伝」 その3

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世の中にはずいぶん変わった人がいるもので、
金も要らなきゃ女もいらねぇ~わたしゃも少し、技を磨きたいと、
ひたすら己のこだわる分野に熱中したりする。

「趣味ですか」
と他人から聞かれると、
「いえ、人生です」
と答えたりする。
それで何か世の中の役に立つわけでもなく、生活費が稼げるわけでもなく、
時に世間から賞賛されることもあるけど、
当人はそれを鬱陶しがったりもする。
じゃあ、いったい何のためにそれやってるわけ?と、
大多数にはまったく理解ができないのだけど、
僕にだって理解ができない。

でも古来からそういう理解不能な人間は「スゴイ人」と敬われ、
「よくわからないけど、神聖な目的があるのだろう」
と生ぬるい目であたたかく見守られてきたのも事実で、
わからないなり、十重二十重に距離をおいて「尊敬」はされていた。

最近だと「オタク」という便利な言葉があるので、たいていそれにカテゴライズされる。

弓を射る技術にこだわり続ける師弟の姿は完全にオタクのそれで、
弟子が師匠を殺そうと企むのは、普通に考えれば「名誉のため」と思われそうだけど、
実はそう単純な話でもないのかもしれない。
技術を磨いて、それを一層の高みまで極めようとすれば、
同業者の存在ですら、磨いてすり減らそうとする、そういう衝動なのだろう。
オタクの攻撃性は、世間ではキショいものと鼻をつままれるけれど、
あれはあれで、道を究めようとする者のサガ、宿命のような気もする。

だから、殺してしまおうと思っていた師匠の存在であっても、
それは単純な憎しみではなくて、技術を向上させるための過程となる。
実際、師匠の方でも「殺されてたまるか」と考える一方で、
「こんな弓術に対抗できる俺すげぇ!」
となっているわけで、この心理はオタク度の高い人間ほど共感ができるものだろう。

つまり「名人伝」が好きな僕はオタクなのか……


2018年12月30日 (日)

「名人伝」 その2

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すっかり年の瀬ですね。
名人伝のネームをひたすらアップし続けていますが、
作者の中島敦さんは昭和17年に34歳でお亡くなりになっておられる。
生前は完全に無名状態で、没後に作品を知られるようになったのは、宮沢賢治と同じ。
代表作の「李陵」なんかも、遺品を整理していて見つかったんじゃなかったっけ。

年表を調べてみたら、「名人伝」が雑誌に掲載された数日後にお亡くなりになってる。
喘息による死去がなければ、このあといったいどれだけの傑作が生みだされたことか。

自分なんて無為のまま五十年も生きているので、考えれば申し訳ないことだなと思う。
来年こそは頑張ろうと、心に誓うのであった。

……
というか、この部分の紀昌を見ていると、
三年間も仕事もしないでひたすらノミを睨み続けていたわけで、
その間の収入はどうしていたのか、
実家が資産家か何かで働く必要のない身分だったのか、
それとも奥さんが機織で稼いで、実質ヒモ状態だったのか、などと考えてしまい、
いろいろこの主人公に感情移入をしてしまうわけだな。
ほれ、僕も絵がどうの、線の引き方がどうのとひたすら「修行」している人間だから。

「山月記」なんかもそうだけど、作者はダメ人間とか無用の人間に対して、
批判的なスタンスはとるけど、その実、ものすごく同情的になっている。

中島敦さんは漢文学の素養が天才的な人で、それがそのまま小説に出てる。
自分でもその才能の比類ないことは自覚していたのかもしれない。
でも病気がちでその才能を十分に発揮することが出来ず、くやしかったはずだ。
それに対する怒りや自嘲、悲しさなんかがそのまま作品の題材の選択に出ている。
「山月記」では、己の天賦の才に驕った詩人が、ついに虎になって友を食べそうになるし、
「名人伝」では、才能を極めた果ての至上の境地とやらを笑い飛ばしている。

そして、「李陵」では祖国から裏切り者の烙印を押され、一族を皆殺しにされた主人公に、
無名のまま消え去ろうとしている自分の怒りを投影しているんじゃないかと思う。
そんなこと、気軽に断言はできないのだけど、
才能を持って生まれ、それがこの世に十全に発揮されることを願いながらも、
状況がその才能を潰そうとすることに対する、激しい怒りを、僕は感じてしまうのだな。

だから、何かしら自分に才能があると信じ、そのことで苦悩している方が中島敦を読むと、
もうどうしょうもなく感情移入してしまうのだ。こういう感情、あるある状態になってしまう。

そういうことを踏まえて「名人伝」のこの部分を読むと、
中島敦には奥さんがいらしたわけで、しかも自分は病気がちでひたすら文学なんかをやっていて、
申し訳ないと思うところもあっただろうから、
これを戯画として笑い飛ばした作者の心は、かなり自嘲的だったんだろうなと考えてしまう。

人間は本当にいろいろで、自分の才能を信じて疑わない超人的な人もいるし、
自分が無才であることを自覚して、謙虚に生きたり、やけっぱちになったり、本当にいろいろだ。

でも、「自分ならできる」と確信を持ち、けれどそれが上手くいかないような状況は、
たいていの人が体験しているはずだ。会社で絶対うまくいくはずの企画が、会議で潰されるとか、
自分が絶対に正しいのに、まわりがそれを認めてくれないとか、
そういう思考の堂々巡りに入り込んでしまったとき、
中島敦の作品などは、とても心に入り込んでくるのではないかと、僕は思うのだな。


2018年12月28日 (金)

「名人伝」 その1

先日、「あなたの描いた名人伝はどうすれば手に入るのか」という質問があって、
そういえばそういうものも描いたけど、単行本にはなってないし、
「もう手に入りません、ごめんなさい」
という返信をしたのだった。

それで、どうせ出版社も漫画事業から手を引いているし、
原稿をアップしてみようかとも思ったのだけど、
なんと、ハードディスクの中に完成原稿が保存されていないのだった。

生原稿とかは残ってるんだけど、パソコンでの処理をする前なので、
一部背景とかトーン処理はされてないんじゃないかな。

では雑誌掲載時のものがあるかというと、これもどこかへ行ってしまった。
かろうじて、ネームだけが発見されたのだった。

Photo

ネームとは言っても、僕にしては割と丁寧に描いてあるネームだし、
僕の場合、ペン入れしたものよりネームの絵の方がいい場合もあるので、
これをちょいちょいアップして、あとでまとめて読めるようにしようかと、
今、あれこれ考えているところ。

さすがにそのままだと字が読みにくいので、冒頭を活字にしてみた。

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記憶の中では30ページくらいあるように錯覚してたけど、
実際は16ページだった。まあ、正月中には活字が入るかなと。

いちおう解説しておくと、現在休刊中のに漫画サンデーに2012年ごろ掲載されていて、
過去の文豪の作品のコミカライズという企画ものだった。
で、僕は中島敦さんの「名人伝」を選択したのだった。
これは一度絵にしてみたかったのだな。
ただし、中島敦は漢文調の実に見事な文章を書く達人で、
僕がいくら背伸びをしたって、これに匹敵する漫画は絶対に描けない。
それにページ数もないので、割と簡単に要所要所をまとめた体裁になってる。

見返すと、今ならもっと上手にペン入れ出来るのになと、
いろいろ悔しい思いをするのだな。
むしろ、今もう一度ペン入れをし直したいくらいだったりする。

漫画の表示方法についての実験みたいな側面もあるので、いろいろ試行錯誤します。
続きは気長にお待ちくださいませ。


2018年11月21日 (水)

備忘録

 1

江戸時代に葛飾北斎が巨大な達磨の絵を描いたって話が残ってる。
場所は名古屋のお寺の境内かなんかじゃなかったかな、
名古屋には浮世絵の版元があって、北斎漫画もたしかそこから出てたはずだから、
まあ、版元依頼の販促プロモーションだったのかもしれない。

地面に巨大な和紙を敷き詰めて、その上を箒のような筆を持ってサァーっと走る。
北斎は尻を端折って襷掛け、なかなかにカッコいい出立である。

出来上がった絵を端から縄で引き揚げて、門前に吊るせば、なんと達磨の絵である。
さすが画狂を自称する絵師様だ、やることがでっかい。
いったい、どうやってあんな絵を描くことができたのやら、ちっとも想像がつかねえ。

これは僕の想像なのだけど、「達磨の絵」というのがこの謎のヒントだと思う。
達磨は丸い。中心を決めて、その中心をにらみながら等距離で筆を走らせれば……
走るのは北斎自身も一緒なのだけど……割と正確な丸は描ける。
あとはその丸の中に目鼻を描けば、立派な巨大絵画になる。
もしこれが馬の絵とか武者の絵とか、形の複雑なものだったら、
いくら北斎でも正確なデッサンはできなかったんじゃないかな。

「画狂一代」という仁田義男さんの小説の冒頭が、このシーンから始まる。
えらく面白いことをやるじゃないかとみんなが絶賛する中、
滝沢馬琴だけは、
「あんなのはただのこけおどしだ」と吐き捨てる。
この二人、黄表紙本で一緒に仕事をしたことがあり、そこで喧嘩になって、
それ以来微妙な関係になっているのだ。

この馬琴のセリフは物語の中の架空のものだけど、これがこけおどしなのは間違いない。
手品に種があるように、巨大な達磨の絵にもカラクリがある。
一般人が同じことをやっても、たぶん絵は成立しないだろうけど、
北斎には絵を見せる上でのキモがわかっていたから、それを利用した。
中心を見据えて、そこをただクルクルと回れば、正確な絵は描ける。
それは紙の上でも、巨大な和紙の上でも同じことである。
だから実践した。

「画狂一代」の中には、この「クルクル回る」という情景がいっぱい出てくる。
北斎は絵を描くとき、「ぶんまわし」という筆を固定させたコンパスを使って、
丸をいっぱい描いて、それを下絵にして絵を仕上げているのだけど、
これは実際にそういう技法を紹介する本を描いているので、架空のお話ではない。
絵は結局〇の集合体であり、中心さえ外さなければ、絵は成立する。
これは葛飾北斎が本当に使っていた絵の技法であり、
絵の神髄と言ってもいいくらいのものなのだ。

仁田義男さんは北斎を題材にした小説を書く上で、北斎のこの技法に注目し、
それを通奏低音のように作品のあちこちにちりばめている。
「お栄、俺のふんまわしは何処だ、ぶんまわし持ってこい!」
みたいなセリフもあったと思う。お栄というのは北斎の娘で、同じ絵師である。
(応為が画号、小説の中ではお栄、だったと思う。北斎はいつもおーいおーいと呼んでた)
筆も大事だが、ぶんまわしが何よりも大切。これがなきゃ絵が描けねえ。
小説の中の北斎はやたらぶんまわしにこだわるのだけど、
これは実際にそうだったんじゃないかなぁと思う。
僕も一応絵を描く人間であるし、共感するところは多い。

北斎は自分をぶんまわしにして巨大な達磨の絵を描いたのだ、と僕は思う。
小説の話であっても、北斎が名古屋で巨大な達磨を描いたのは本当だし、
絵は〇の集合体だと看破したのも、歴史的な事実である。
仁田義男さんがこの達磨のエピソードを小説の冒頭に持ってきたのは、
たぶん偶然なんだろうけど、ひたすら丸を極め続けた男の物語の冒頭としては、
これくらいピッタリの場面はない。

そして、滝沢馬琴が「こけおどし」と吐き捨てた北斎のパフォーマンスが、
実は北斎本人にとっては絵を極める上での大きな実験だったかもしれないという点で、
うまい構成だなと感心してしまう。

 2

実は今月に入ってから、目の描き方が微妙に変化している。
「描線はすべて中心を持った丸のラインである」
というのが僕の基本方針なのだけど、これを目に当てはめるのが、結構むずかしい。
例えば頭とか手足とかは、すぐに特定することが出来る。
中心は人体の内側に来るのだから、外からペンを走らせれば、線の中に形はえぐりだせる。
じゃあ、目はどうなるかというと、「あれ」と筆は止まってしまう。

目玉を中心にすればいいのか、それとも人体の一部である瞼を描けばいいのか、
それともその両方を描かなくてはならないのか、というか、この場合の中心はどこだと、
ものすごく悩むのである。

瞼を描く、と考えれば、目は顔に空いた穴である。
最近までの僕の目の描き方はそれで、瞳だけが目玉を中心とした丸の法則上にあった。
でもまてよ、顔の中に穴が開いて、それが目だってのは、ちょっと不気味すぎないか。
人間には白目だってあるんだ。正しくは、目は顔にはめ込まれた球体である。
目を印象的にしようとすれば、瞼を穴として書くのではなく、
はめ込まれた球体に押し出された立体物、と考えた方がいいのではないか。

……文章だけで書くと複雑怪奇な説明になるけど、
今まで穴としてペン入れしていたものを、立体物との境界線として考えることで、
ペンを走らせる方向が逆になったのだ。
時計回りに描いていた目の部品が、反時計周りになった。
そのための理屈が、なんとなく自分の中で確立できた。
目は穴ではない。先に目玉という立体物を描写して、
そこに瞼のラインを時計回りで描写すれば、目の部品は正確に描けるはずだ。

で、なるほど、そういうことかと納得した。
こんなこと、わかってる人には当たり前のことなんだろうけど、
わからない人にとっては、一生分からないような複雑な話である。
目は穴ではない。目玉が押し出した立体物である。
分かっている人はそれを漫画に応用して、目の描き方を作り出したわけだけど、
分かっていない人はそれをただ闇雲にまねるから、ユニークな目の描き方になる。
それもまた、一つの様式美なのだ。

この文章は絵の描き方の解説というよりは、僕個人の備忘録だね。


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