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漫画講座

2018年6月10日 (日)

ぺぺんぺんぺん

 1

またもや絵について語るわけだけど、
いいかげんうざいと思うので、興味のある方だけ読んでくださいませ。

ルネッサンス期に「絵と彫刻はどちらが上か」という論争があったらしい。

そんなのどうだっていいような話なんだけど、
美術に造詣の深い方々が頭を突き合わせてさんざん議論した結果、
「絵の方が上である」
という結論に達した。

彫刻家が聞いたら怒り出しそうな話なんだけど、
「彫刻は3Dを3Dに移し替えるだけだが、絵は3Dを2Dにしている」
というのがその理由らしい。
作業工程が一つ多いのだから、絵の方がより高度な芸術だと判断されたのだ。

本当にまあ、絵に興味のない人にはまったくどうでもいい話なんだけど、
この話が正しいのかどうかはともかく、絵がどうやって生まれたのか、
そのヒントみたいなものは、このルネッサンス期の挿話から読み取れる。
少なくともルネッサンス期のイタリア人にとって、絵画は彫刻の進化系だったのだ。
ミケランジェロのような彫刻家が、彫刻の技法を二次元に持ち込むことで、
絵画はより写実的になった。
持ち運び可能なペッタンコの彫刻として、絵画は誕生したのだと思う。

ペッタンコの彫刻というと「レリーフ」が頭に思い浮かぶ。
有名なのだと金貨や銅貨の盤面に皇帝の横顔を彫像したもの。
キリストが「カエサルのものはカエサルに!」と言ったあれである。
二千年前のローマのコインには皇帝の顔が浮かび上がっていた。

インド文明やエジプト、ギリシャローマ文明では、壁面にレリーフを施すことが多い。
僕は子供のころ、レリーフの中途半端な立体感がものすごく気持ち悪くて、
なんであんなことをするのだろうとものすごく不思議だった。
横から見たら顔潰れてるじゃん。

日本にも欄間の彫刻とか、漆喰画で同じように潰れた立体物がある。
日光東照宮の左甚五郎の彫刻は、西洋で言うところのレリーフである。
見ざる聞かざる言わざるのお猿さんは、横から見ると潰れている。

ああいう中途半端な立体物というのは、絵画が写実的になるための前段階で、
あれをさらにペッタンコにしたのが、ルネッサンスの絵画なんじゃないかなと、
僕はこの頃考えているのだ。

……何が言いたいんだお前は!と怒られそうだけど、
彫刻の進化系が絵なんだという考え方は、僕には今までなかったものなのだな。
不勉強なだけなんだけど。

彫刻家がペッタンコの彫刻を作ろうとして、それがとことんまでペッタンコになれば、
紙とかキャンバスに線を引いたり、絵の具で色を塗るようになる。
彫刻刀では絵は描けない。
そこで彫刻刀を筆やペンに持ちかえるわけだが、やることは基本的に同じである。
立体物を紙の上に思い浮かべ、形を抉り出す。
彫刻と違って見る者の視点は限られてくるので、「パース」という概念が生まれてくる。
透視画法の理論が確立される。

ルネッサンス以後、絵画というのは星の数ほど描かれてきたので、
それがどれだけ画期的なことだったのか、21世紀の僕たちにはわかりづらいのだけど、
「紙の上に立体物がある」という絵画の技法は、
それは人類史上における、ものすごい発明だったんじゃないかと思うのだな。

 2

日本人にはそこのところがちょっとわかりづらいのかもしれない。

西洋の漫画やアニメ作品を見ていると、日本とのあまりの違いに驚かされる。
一番大きな違いは、西洋人がキャラクターを立体的に描写するのに対して、
日本人は、キャラクターを線で認識するという点である。
最近は慣れたけど、トイストーリーなんかの立体的なCGアニメーションが苦手だった。
アニメは線で動かして欲しいと切実に願った。

このへん、線で絵を認識する日本人と、立体としてとらえようとする西洋人の、
絵に対する嗜好の差がはっきり出ている。
あんまり突っ込んで考えると、漢字を使う東洋人とアルファベットの西洋人とか、
いろんな要素が入り組んでいて、よくわからなくなってくるのだけど、
日本人は漢字の延長線上で記号としての絵を認識するのに対して、
西洋人はあくまで彫刻の延長線上に絵を考えているというのは、あるのかもしれない。

実際、僕は漫画の絵を記号として考えていたので、
下書きにペン入れするときにえらい難儀をした。
いっそ筆で描いた方が楽なんじゃないかとも考え、実践しようとしたこともある。
僕は筆で文字を書くやり方でもって、下書きにペン入れしようとしていたのだな。

でも、そこが割と落とし穴だったのだ。
漫画の絵が今日のように完成されるまでの歴史を考えてみると、
明治期に美術大学で西洋絵画を学んだ人たちが基礎的なやり方を作っていたりする。
一番有名なのは岡本太郎のお父さん……でいいんだよな……の岡本一平氏で、
美大で絵を学んだ人が漫画家として大成し、インクとペンの技法を持ち込んでいる。

そのやり方は当然「彫刻の技法」の進化系であって、
下書きにペン入れするというのは、彫刻刀で立体を抉り出すのと、ほとんど同義なのだ。
線を引くのではない。線で立体を抉り出すのである。

下書きをして、その線を「清書」するのではなく、
下書きでおおよその形を把握して、刃物であるペンで立体を彫塑するのである。

僕にとって下書きは消しゴムで修正可能なペンのラインに他ならなかった。
特に三十代前半までは立体に対する認識なんてほとんどなかった。
だから、目を描いても目の形を線でなぞっているだけで、
上瞼のラインと下瞼のラインがまったく同じ線になってしまうため、
下瞼のラインは省略せざるを得なくなったりした。
(漫画絵で下瞼のラインを省略する作家が多いのはそのせい。鼻の穴も同じ理屈)
出版社で編集さんに
「下の瞼のラインもちゃんと入れてください」
とアドバイスされ、入れたら絵が大混乱!なんてことも起こったりした。

上瞼のラインは下から抉り出すラインだし、下瞼のラインは、上から抉り出すラインだ。
  →→
 / ◎ \  ←目
  ←←
彫刻家ならば当然彫刻刀の角度を変えるところだけど、発想が書道だと、
口の文字の書き順で横棒を引いてしまう。

ことほど左様に、ペン入れというのは彫刻家の技法が多く用いられている、
と僕は思う。

「手癖でペン入れするとおかしな絵になる」
「立体を頭の中でイメージしながら、下書きをペンで彫塑しなくては」
と、このことにようやく思い至ったのが、漫画家生活十五年目くらいだったりする。
なんつーか、もうね、独学で絵を勉強すると、いちいち遠回りをする羽目になるのだな。

えらく読みにくい文章だと思うけど、実は自分の絵について愚痴ってるだけなので、
あんまり得るところはないかもしれない。
でも、発想の転換はどこかで必要になるんだ、みたいなことは、
わかっていただけるんじゃないか、わかってもらえるとうれしいな、
とまあ、そういうお話なのでした。

2018年5月25日 (金)

机は画材なのだ!


クイーンのロジャー・テイラーだったかな、
ドラムをセッティングするとときにものすごく微妙な位置調整をやっていて、
その姿を見たギターのブライアン・メイが、
「わ。なんか、ものすごいプロっぽいのが来た」
と感動したって話があった。
デビュー前のドラマーのオーディションの話だと思う。

ギターは座るにしても立って演奏するにしても、あんまり位置の微調整はなさそうだ。
でも職種によっては、椅子の位置とか机の角度とか、めちゃくちゃこだわるものはある。

僕はいちおう漫画家なんてやってるんだけど、
机の位置や椅子にはそれなりにこだわっている。
実は今月に入ってから机を取り換えて、一日がかりで微調整をやっているのだけど、
これが奇跡的に、ベストな調整が出来てしまって、
タイラさん旅打ちの五回目はそれで描いた。

問題は、ノートパソコンのタッチタイプが出来なくなってしまったことである。
何が違うんだか、肩が凝って集中力が続かない。
かといって絵を描く方は何の問題もないので、今さらパソコン用にいじることは出来ない。
それで今床に仰向けになって、立膝をして、そこにパソコンを置いて打ち込んでいる。
いろいろ試した結果、暫定的だけど、これが一番文章を書きやすい。
モニターが遠いので変換の文字がよく見えんけど。

話を絵の方に戻すけど、絵を描くときは割と全身を使って描いていたりする。
みなさんにしても、文字を書く場合、けっこう全身の筋肉を使って書いてると思う。
その力は滅茶苦茶すごい。昔、数年間お世話になったアシスタントさんがいたのだけど、
その人は椅子の上で胡坐をかくタイプの人で、絵を描くときに足を踏ん張るせいか、
見事に椅子に二つの穴が開いてしまっていた。

そういう全身の力を机の上の紙の一点に集中するわけだから、
当然机や椅子の微妙な調整が必要になってくる。
大砲をぶちかますために砲身の土台固めが重要なのと同じことだ。

漫画家さんでも、アーロンチェアだったかな、十万円くらいする椅子を使う人が多い。
昔、アシスタント先の先生も使ってたな。
この先生のところにはいろんな種類の椅子があって、さんざん試行錯誤したんだろうなと、
妙なところで感心させられてしまった。
まあ、僕は正座の一歩手前みたいな変な姿勢をさせられる椅子をあてがわれて、
ちょっと迷惑だったけど。
あれも先生が絵を描くために試したものであるのは間違いない。

つまるところ、椅子に座って、鉛筆も持って、
一番きれいな丸を描けるポジションに机の天板があること、
それがもっとも重要なのではないかと考える。
どのカーブにも均等に力が振り分けられて、コンパスのようにきれいな円が描ける姿勢、
それを長時間維持できること。

画家がイーゼルを使って画版を縦に固定させるのは、
それが一番円を描きやすいからだと思う。
漫画家さんでもそうやって描いている人がいる。
実はアシスタント先の先生のところにもそのための机があったのだけど、
あの先生は結局机の上で水平に絵を描いていたなぁ。
人それぞれで、いろんな描き方があり、みなさん苦労してベストな姿勢を探しているのだ。

ここでふと閃いた。
浮世絵師の葛飾北斎は、生涯に何十回も引っ越ししまくった引っ越し魔だったのだけど、
あれって、絵を描くための絶好のポジションを探していただけかもしれない。
なんせ、絵にこだわりまくった画狂老人卍先生なわけだから、
「柱の位置が気に入らねぇ」とか、
「天井が低すぎて絵がゆがむ」
くらいのことは言い出しかねない。
江戸時代の北斎にとって、家そのものが机や椅子に相当したってことは、
割とありそうだなと思う。

「なにを神経質な」と笑われるかもしれないけど、
それくらい、絵を描く人間にとって、机と椅子は重要な「画材」だったりするのだな。

2018年5月12日 (土)

チュッパチャプス


人間を長くやっていると、いろいろな「コツ」が身についていたりする。

うどんを茹でるときに「びっくり水」をいれるとか、
ポテトサラダのジャガイモは砂糖を加えて茹でるとか、
人間関係でも、否定的な言い回しはなるべく使わないとか、
知識として本で読んだり、長年の経験から習得した技術もある。

絵を描くときにもいろいろな「コツ」がある。
顔を描くとき「十字線」を入れる、みたいなのは割と有名なんじゃないかな。
僕は入れないけど、丸を描いて、十字線を入れると、なんとなく顔っぽくなる。
このとき横線より下に目を入れると、子供っぽい顔になり、
上に入れると大人の顔になる。

絵を描く人はたいてい頭を丸として認識している。
丸に首が生え、胴体とつながっているというのが、人体の基本認識である。
だからまあ、絵を描き始めた十代の頃なんかは、
一生懸命「頭」ばかりを描いているのだな。顔を描くのは上手だけど、
体を描かせるとおかしなことになるという人も結構多い。
僕の身近にも何人かそういう人がいた。

顔から体が生え、手足が生えているから、遠くの部位になるほどデッサンは崩れる。
そこでいろいろ絵の模索がはじまるのだけど、
逆転の発想で「胴体から頭が生えていると考えた方が絵が描きやすいんじゃないか」
とはなかなかならない。冷静に考えれば当たり前のことなんだけど、
「頭→首→胴体」というのは描きたい部位の優先順位みたいなものだから、
どうしてもそうなってしまう。

少なくとも、絵を描きだすときに首のだいたいの位置は決めておいた方がいい、
というのがこの頃の僕のやり方で、二本の縦線を引いてから、
頭のだいたいのラインを引いて、それから目鼻を描くようにしている。
イメージとしては、チュッパチャプスを描いて、その棒を握りながら、顔を描く、
みたいな感じである。

このやり方にしてから、いろいろな発見があった。
顔の左右のバランスはこのやり方の方が圧倒的にとりやすい。
左右の目のバランスが狂うと、変な表情になってしまうのだけど、そこはなんとか解決。
あと、あごの描き方が劇的に変わる。
頭を丸として認識すると、あごは球体の下半分って考え方だから、
どうしても頭頂部の影響を受けて丸っこくなってしまう。
でも首の位置を先に決めてしまうと、あごは体から生えている一つの独立した部位になる。
頭の部品というよりは、首とか胴体の側の部品なのだと思う。

と、これがここ一か月くらいの僕の絵を描くときの「コツ」だったりする。
絵を描かない人には本当にどうでもいい話なんだろうけど、
「人間の顔は球体として認識するよりも、チュッパチャプスと考えた方が描きやすい」
というのは、僕には割と「大発見」だったりするのだな。

ところでチュッパチャプスとは何か。
僕が子供のころ、お隣が煙草屋さんで、菓子パンとかお菓子も売っていたのだけど、
ある日、スタンドに大量の飴玉が突き刺さった謎の物体が出現した。
棒に飴玉がくっついているのが大量に密集して、ハチの巣のようだった
「おばちゃん、これ頂戴」
と一つ買って食べてみたのだけど、それが僕とチュッパチャプスの出会いだった。
たぶん七十年代の後半ごろだと思う。

元々はスペインのお菓子で、あちらは第二次世界大戦前からフランコ政権が続いており、
長い間独裁国家だったのだけど、フランコ自身はかなり良識ある独裁者だったようで、
「自分が死んだら王政復古が望ましい」と、およそ独裁者らしからぬことを考え、
その通りに実行した。1975年にスペインは立憲君主制の国家となった。

以後、スペインの商品が世界中で展開されることになるのだけど、
僕が煙草屋さんで出会った「チュッパチャプス」もその一つで、
このキャンディはCMでの宣伝効果もあり、今に生き残る定番商品となっていく。

僕は「チュッパチャプス」というと、
あのハチの巣のようなスタンドディスプレイを思い出して、
「外国からきたオシャレなキャンディ」とイメージするのである。

そう言えばもう長いこと食べてないな。
大きな飴玉は口に入れると邪魔だけど、棒をつければ食べやすくなる。
飽きたら一度口から取り出すことも出来る。
昔はそういうお菓子がいっぱいあったような気がするけど、
一度口にしたものを取り出すのが汚いせいなのか、見かけなくなった。
棒付きの飴というと、鳴門巻きみたいなのがあったけど、
あれもまったく見かけなくなった。

チュッパチャップスは近所のスーパーで売ってるので、
今度買ってみようかしらん。


2018年3月29日 (木)

デフォルメ

絵を描くための「ヒント」って、けっこう早い段階で見つかっていたりする。

「顔から描くと体が上手に描けないけど、体から描くと表情が死ぬ」
ってのは、たぶん十代の頃には気がついていた。
人間でも動物でも、一度顔があるということを忘れて、ただの物体として考えれば、
どんな姿勢でもたいていのものが描けると思う。輪郭を正確に描けば、
たいていの絵は苦も無く描けてしまうものなのだ。たぶん誰だってそうだと思う。

輪郭の重要さに気づいたのは、二十歳くらいの時、エゴン・シーレの絵画展があって、
そこで彼が絵を描くときにいかに輪郭にこだわっていたかを知ったから。
このウイーンの夭折画家は、人体を黒く塗りつぶした輪郭だけの絵を、
それこそ何枚も描いて、試行錯誤していた。

花の絵を描くときでも、一枚一枚の花弁から描き始めると、花びらばかり目立って、
まったく花の感じのしてこない奇妙な絵になる。
この場合も大切なのは輪郭の方で、輪郭を先に描いてから中の花弁を描写した方が、
まともな花の絵になったりする。

ビルや自動車のような人工物でも同じことで、ビルを描くときも、
窓のある面ばかり一生懸命描写しだすと、たいてい失敗する。
立方体としての形をとらえ、輪郭から描いた方が、よりリアルなビルになる。

人体も動物の絵も、すべて同じである。まず輪郭から描いた方が、はるかに描きやすい。
絶対に、間違いなく、その方が絵の上達は早かったと思う。
ところが、僕はそうしなかったんだよな。馬鹿と言うか、阿呆というか、
絵の神様がせっかくヒントをいろいろくれているのに、僕は片っ端からそれを無視した。

理由は簡単、人間の表情を描くことにこだわったから。
輪郭から描けば確かに正確な絵は描写できたけど、それに表情をつけると、
どうしても絵が死んでしまう。カチカチの表情になった。

僕が「目から描写することにこだわってる」ってのは、このブログで何度も書いてるけど、
それがデッサンのやり方としては悪手で、目から描くと全体の形がゆがむというのは、
いちおう認識はしていた。でも全体の形が立派でも、目が死んでたら話にならない。

なんでそうなるか、そうなってしまうのか。その理由がはっきりしてきたのは、
割と最近のことだったりする。
「印象的な目」と言うのは、「デッサンとしてはいびつな目」なのだ。

人間の顔には「流れ」がある。感情は流れにのって顔のパーツを動かしている。
怒りの感情は顔の中心に向かって流れ、笑いの感情は逆に外側に広がっていく。
よく、「狐憑き」なんて言い方をするけど、
目が寄り目になって唇を突き出し、眉間にしわが寄るような表情は、
表情の流れがすべて唇に向かって流れていることから起こる。
精神が激高してくるとそういう表情になる。

逆に、恵比須顔というか、笑いの感情は唇から鼻を通って、目を外方向に流す。
たれ目の人が福々しく感じるのは、それが緊張の弛緩した表情だからだ。
まあ、中には生まれつきにこやかなたれ目だけど、腹黒い人だっているんだけどさ。

顔の中で左右二つの渦が外側に流れたり、内側に集まってきたり、
人間の表情ってのは、そうやって作られているものだと、僕は考えてる。
歌舞伎の隈取りなんかも、調べてみると、その流れを強調するもので、
目元を走る表情の流れを、遠くからでもはっきりわかるように赤で縁取っている。

こういう複雑な流れが渦巻いているのが人間の顔だから、
ここから描き始めれば全体の形は崩壊するし、輪郭から描き始めれば、
その輪郭に引っ張られて、表情は死んだようになる。動きが止まったようになってしまう。

笑った顔を描けば頭がやたらおおきくなってしまったり、怒った表情を描けば、
なぜか下膨れになる、というのが僕の絵の傾向。
最近は、その表情の流れを追いかけながら、割と正確なデッサンを心がけているけれど、
激しい感情を正確なデッサンの中に閉じ込めるというのは、なかなかに大変。
アタリを描いて、頭の形や髪形、あごの位置を決め、
それから目を描くわけだけど、激しい感情が動いているときは、
目じりから口元へ流れたり、口元から目の端に抜けていく表情の流れを、
豆腐をすくい上げる豆腐屋のノリで、形に落とし込んでいく。
(昔は古き良き豆腐屋さんで一丁一丁水から出してもらって買ってた)

すごいことをやってるんだなぁと感心してもらえると嬉しいんだけど、
実はそうやって見つけ出した形と言うのが、
昭和の漫画のデフォルメした目の形だったり、口の形だったりして、
ああ、先人はこうやってこの形を見つけ出したのかと、愕然としてしまうのだった。

古臭い漫画的表現だったとしても、そこにはものすごい意味があるんだなと、
このブログでもときどき書いてるけど、これにはもう、圧倒されるしかない。先人偉い。

以上が僕の絵が最近デフォルメしまくっている理由だったりする。
感情の流れを形に落とし込むのが、楽しくて仕方がないのである。
多少やりすぎかなとも思うけど、先人の胸を借りて遊んでる感じが、
なんか癖になってる。ちょっと暴走してるのかも。

あと、タイラ編の画材はピグマに完全移行しました。
一話冒頭の二コマと二ページ目の頭以外は、全部ピグマになってます。
まあ、三年前にも一度移行して、ニ三回描いてすぐに戻してるんで、
また戻すと思うけど、前の時よりは使いこなせているみたいなので、
しばらくはこれで続けてみます。


2017年10月10日 (火)

先人の汗

いつもはノートパソコンで文章を打っているんだけど、
今回はデスクトップPCの方で書いてます。キーボード使いづらい。
Img012

お絵かきアップ。カメラ目線は難しい。
難しいなら「描かない」という判断が正しいのだけど、
人間というのは不可能に挑戦してみたくなる生き物なので、あえてドツボにはまってみる。
で、無駄に時間を浪費する。

無駄に浪費された時間というのも、当人には案外充実していたりする。困ったもんだ。

若い頃、二十歳ぐらいの時に似顔絵描きのアルバイトをしたことがある。
ひょっとしたら以前にもこのブログで書いてるかもしれないけど、
先輩に誘われて、名駅前のピアノ屋さんでお客さんの顔を描きまくった。
(名古屋人にしか通用しないそうだけど、「めいえき」とは名古屋駅のこと)

ご両親に連れられた幼稚園児から小学生くらいのお嬢様方がわんさか押しかけ、
その似顔絵を先輩と二人で色紙に描いた。
「このお兄さんたちは美大の学生さんなんだよ」
と、お店の人が強烈な嘘八百をかました。美大生がこんな漫画みたいな絵を描くものか。

近くでは写真専門学校の女の子たちが、動物の着ぐるみをかぶって踊っていた。
どうせ描くならあの子達がいいなぁと、ぼんやり考えた。

子供らは、とにかくまっすぐこちらの目を見てくる。
写真を撮られるのと同じ気持ちなのだろう。当然絵はカメラ目線になる。

難しかった?とんでもない。二十歳ぐらいの自分はまだ絵の壁にぶち当たっていないので、
何の障害もなく、下手くそな絵を描きまくっていた。今考えるとゾッとする。
この世界の名古屋圏のあたりに、今でも自分の下手くそな似顔絵があるかもと考えると、
かなり困った感じになる。あれでお金をもらったというのがとにかく申し訳ない。

で、カメラ目線の話。
前回モナリザの話をこのブログに書いて、
それからしばらくレオナルドさんの技法について、あれこれ考えた。
カメラ目線の絵というのは、レオナルドさんのあたりから肖像画の定番になった。
それまでは視線をそらす絵がほとんどだった。なんでか。

カメラ目線の絵というのはものすごく難しいのである。

まして正面を向いてカメラ目線となると、難しさは格段にアップする。
前回紹介した「裸のモナリザ」の素描がレオナルドが描いたものだとすると、
巨匠ダ・ヴィンチもこれに挑戦して、かなり苦心しているのがわかる。
わかるような気がする。わかるんじゃないかなぁ。

顔単体ならばいい。なんとか描けないでもない。
でも絵として背景が入ってきたり、体全体を描写しようとすると、視線が死んでしまう。
日本でも俗に「八方睨み」なんていい方をするけれど、
絵の向こうから生き物の視線を感じる絵というのは、絵の全体の構成が難しくなる。
ちょっとでも変な線を引くと、視線を感じる障害になってしまうのだ。

視線を中心に、強烈な「磁場」が発生していて、そこから絵を描けばデッサンは狂うし、
ぞんざいなデッサンの絵に目だけ強烈なのを入れても、デッサンの歪さが目立ってくる。

だから、レオナルドは考えた。目と手だ。
この二つを正確に描写しさえすれば、視線の強烈な絵の構成が可能になる。
それで、レオナルドさんは「モナリザ」の手にこだわりまくった。
こだわりすぎて、ついに納得が出来ず、右手の人差指を未完成で放り出してしまった。

あの絵の不思議な奥行きと静けさ、均衡が、あの手によってもたらされているというのは、
ダ・ヴィンチさんのものすごい発明だと、素人の僕は主張してみる。
実際、以後の肖像画はこの絵を規範に「モナリザ風の肖像画」になっていくけど、
「モナリザ」ほどの強烈な視線を感じるものは、あんまりない。
あの「手」のような画面の均衡を出せないからじゃないかなと、僕は考える。

……素人は無責任になんでも言いたい放題だから気楽なもんだ。

視線と画面構成について考えるうち、「あれ?」と気がついたことがある。
西洋絵画……てか、僕らが普通に考える絵というのは、遠近法で描かれている。
消失点を決めて、そこからパースラインを引いて絵に数学的な奥行きを作ってる。

漫画でもそう。大友克洋先生が緻密な背景を描くために、壁から糸を引っ張って、
正確なパースラインを引いていた、という業界で有名な伝説もある。
(普通そこまでやらない)

絵を勉強する人はパースについての概念を叩き込まれ、頭のなかにそれを構築する。
普段見ている風景でさえ、無意識に消失点を探し、脳内で絵を描いている。

でも、「透視画法」は絵の一つの技法でしかない。
ルネッサンス期に発達したこの技法は、「そうすれば奥行きのある絵が描けるよ」
というだけの話で、実際に人間の見ている風景がすべて遠近法であるわけじゃない。
実際、遠近法だと絵の端のほうがいびつにゆがむ現象は、同業者ならみんな知ってる。

じゃあ、遠近法じゃない見方というのは、どんなふうだっけ?と考え、
「あれ?」
となったのである。僕の目は視界を一度に認識できるほど優秀じゃない。
視点の先の、ほんの一部分を認識しているばかりだ。周囲はぼやけている。
これを移動させれば、そのたび消失点は変化する。
「ああ、ピカソとかブラックのキュービズムって、これなのかな」と、
ちょっとわかったような気になった。ぜんぜん違うかもしれないけど、
なんか自分のものの見方が透視画法の呪縛にがんじがらめにされているという事実は、
ようやくにして「発見」できたのである。

こういうことに十代のうちに気がついていればと思わんでもないけど、
年を取ってからでも気がついたのはラッキー♪と考えてみたい。

仕事をしていて、漫画の描線についても、「ああ」と考えることが多い。
ペン先にインクをつけて下書きにペン入れをする。その出て来るラインについて、
「ああ、この角度でペン入れするからこういうラインになるのか!」
と、先人の漫画家さんたちがやってきたことが突然理解できたりする。
それこそ、赤塚不二夫さんの線が飛び出してきて「これでいいのだ!」となったりする。

こういうことを十代のうちに……(以下略)

自分の絵が上達したとか、先人の域に達したなんて傲慢なことは考えないけど、
単純に「わかった気がする」ってのが楽しかったりする。
極端にデフォルメされた「漫画みたいな絵」であっても、根っこにおびただしい素描や、
三次元を二次元化するための研究の痕跡を感じたりする。

そんで、そういうものの積み重ねが日本のマンガの絵であり、
自分がそれに乗っかって絵を描いてるってのが、ものすごくありがたいことだと
ようやくにして考えるのだな、この「忘恩の徒」は
それこそ、漫画以前の浮世絵とか、鳥獣戯画のあたりまで遡って、
「その線を見つけてくれてありがとうございます」と、
先人の「汗」に頭をさげずにはいられない。

で、この先はどうなっていくのだろうと、漠然と考える。
線は、デジタル時代になって一度白紙に返った部分がある。
アナログの描線にあった味わいがデジタルで消えていくのは仕方がない。
ひょっとしたら線という概念でさえ、十年後には消えてなくなっているのかもしれない。

三次元を二次元に落とし込むという古来から続いた努力も、3D全盛となれば無意味だ。

でも、どれだけ質感を表現できて、VRで現実そっくりの世界を表現出来たとしても、
根本のところ、作者が目の前の現実をどう絵に落とし込んだかという部分、
それをきっちり表現できているなら、漫画の絵はまだまだ亡びないんじゃないかと、
僕は楽天的に考えてみるのだった。

観念的なお話でごめんなさい。

2017年7月 3日 (月)

七月は文月 本の陰干しの季節だ!


今年も半分終わってしまって、さあ後半戦だと張り切ってみたけど、
なんか雨が降っていたりして結局部屋の中でじめじめと本ばかり読んでいる。
本って言っても、十年くらい前の漫画なのだけど、
「この高校生たちももう二十代の後半か」
と考えるとなかなかに感慨深い。まあ、○○〇(自主規制)なんですけどね。

なんでこの漫画がうちにあるんだろうと考えるのだけと、
なんでかよく思い出せない。
「▽△▽(同上)」も同じ本棚に並んでいるので、たぶん当時プチブームだったのだろう。
この先生の漫画は感情が高ぶってくると絵に作者本人が乗り移って、
ぶっちゃけ、ご本人の顔が絵に出てきているようで、ちょっと困る。
まあそんなことを考えるのは僕だけかもしれんけど、原稿越しに作者の顔が見えると、
同業だけにちょっと居心地が悪くなる。

漫画家の飲み会でとある女性漫画家の方をお見かけして、
そのご尊顔がお描きになっているキャラクターとあまりにそっくりだったので、
思わず隣の方に「リアル○○だ!」と叫んでしまったことがある。
「いやいや、あれ動物キャラだからそんなこと言っちゃ失礼ですよ」
なんてたしなめられたのだけど。

美男美女系のキャラだと作者の願望やコンプレックスの裏返しみたいな事情もあって、
あんまり似ていることはないようだけれど、
少し砕けた感じのキャラクターだと、ご本人に生き写しということはよくある。
実際何度も目にしてるし、その名前を出せないのが歯がゆいくらい、クリソツなのである。
(いつの言葉だよ、クリソツ)
画家はたぶん自分の体を物差しにして絵を描いているので、
顔なんかも自然と画家本人の顔に似てくるものなんでしょう。
だから、売れっ子漫画家には味のある顔の人が多い!とまでは言わないけど、
DNAで絵柄は左右されるなとはときどき考えます。

昔、アマチュアの漫画描きの集まりで、
「怒った表情を描くときって自分も怒った表情で描いてるよね」
って話になって、ああ、僕だけじゃなかった!とうれしく思ったことがあります。
いまだに絵を描いているときによく思い出すのだけど、
そういえばこの頃は年のせいか、絵を描くときは割と無表情だなと、
いまさらのように気が付いたりもします。目玉はカッ!と見開いているのだけど、
口元なんかは表情につられて開いたりはしない。だってよだれが落ちたら原稿汚れるし、
いちいち表情筋を動かすのにも体力を使うお年頃なのである。

若いうちはデッサンの狂いなんかは気にしないで、気合の限りを原稿に叩きつけるのが、
後々のためには良かろうと考えます。デッサンが崩れるからと、
ハンコ絵のキャラばかり量産するよりははるかに良い。
そうやって若いうちに絵の人物の「表情筋」を動かしておくと、
年をとってから無表情で感情の激しい絵が描けるような気がします。
だって、ペン入れするときって、気合を込めすぎると線が汚くなるし、
あんまり気合の入りまくっていびつになった下書きにペン入れするのも、
なかなかに技術のいることなのです。たぶん。

絵の見易さ読みやすさというのが自分の漫画を描くときの重要テーマなのだけど、
激しい感情を絵としてどうやって成立させるか、それがなかなかに難しい問題なのです。
そういうことをつらつら考えていくと、浮世絵師の写楽とか、
あいつはスゲーなと笑ってしまいます。

210pxtoshusai_sharaku_otani_oniji_1

激しい感情を絵として成立させれば、それはいい絵なんじゃないかな。

2017年3月 4日 (土)

雨を描く

昔、ベトナムで取材させていただいたとき、
ホーチミンの駅だったかな、突然のスコールに駅舎の中に逃げ込んだことがあった。
南国のスコールだからその勢いたるやものすごい。大地を叩く雨音が重低音で響いてくる。

一人でボーッと立っていたら青年さんが日本語で話しかけてきた。
僕はどうやら一発で日本人とわかる容姿をしているらしく、
担当さんと歩いていても、物売りの標的になるのはたいてい僕の方で、
そのことでいささかうんざりしている時でもあった。

でも青年さんは純粋に自分の習得した日本語を日本人相手に使ってみたいようで、
話した内容はもう忘れてしまったのだけど、その熱心さには好感を抱いた。

もう二十年も前の話なんだな。

雨といっても日本人のイメージする雨と海外の人のイメージする雨は異なる。
日本人が何気なく描いた雨の絵が、外国人にはひどく斬新に見えることもあるらしい。
有名なところではゴッホが安藤広重の版画「大はしあたけの夕立」に感激して、
自分も油絵で模写をした、なんてのがある。
どのポイントに感激したのかはわからないのだけど、絵の構図を大胆に傾け、
降りしきる雨の強さを強調したところなんかは、かなり斬新だと思う。

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「江戸名所百景」の頃の安藤広重は北斎の影響なのか、構図の大胆さに拍車がかかって、
梅の枝を思いっきり手前に配置してみたり、
手前の物体と奥の風景の対比で奥行きを出したり、
カット割りがどんどん現代的になっている。
ゴッホはそこに面白さを感じたのかもしれない。

でもなぜ「大はしあたけの夕立」なのか。
「線によって降りしきる雨を描写したのが、西洋人にはコロンブスの卵だった」
という意見を何かの本で読んだ記憶がある。
たしかに、降りしきる雨を「線」として認識するのは、おかしいといえばおかしい。
そんな物体は空から降ってきていない。でも、雨粒が移動する時間を描写すれば、
それは線になるってのは、日本人の自分には感覚的によくわかる。

西洋人はそのようには認識してこなかった。だから西洋絵画の世界では、
降りしきる雨を描写した絵がほとんど存在しない。あっても霧のように朦朧としている。
雨そのものより雨によってぼやける風景のほうにフォーカスが当たっている。

それは西洋人が日本人より感覚的に劣っているという話ではない。
同じ雨を認識するのにも、生まれた国の文化によって違いがあるという話である。

僕は逆に、雨が線ではないというゴッホの認識のほうに意表をつかれ、
しみじみ雨を見つめてしまうのである。
確かに、これは線ではない。でもいざ絵にしようとすれば、線以外には考えられない。
表現というのは、なかなかに困難なものであるなあ、と。

音楽の世界ではベートーヴェンが田園交響曲の第4楽章で雨を表現している。
村祭りの陽気な熱狂の中に、突然の弦の唸り、ティンバニーの細かい振動による雨脚、
弦は悲鳴のような跳躍で雷鳴を表現している。
「田園」は特に好きな曲でもないのだけど、この部分の表現はすごいなと素直に思う。

しとしと降る雨というなら、ブラームスのバイオリンソナタ第1番「雨の歌」。
以前にもこのブログで書いているけれど、雨の日の情感ってあんな感じだよなと、
心象の面で納得させるものがある。友人に聴かせたら納得してくれなかったけど。

ショパンにも「雨だれ」って練習曲があった。これも心象的な雨の日の風景。
穏やかでどこかさみしい感じがする。ピアノはどんどん心の底へと沈降していき、
激しい感情が湧き出しそうになるけれど、それもやさしい雨音にかき消されていく。
いかん、またポエマーになってしまった。

今回「昭和人情食堂」に掲載していただいた漫画の中にも雨のシーンがあり、
雨をどう表現するかで少し悩んだ。
「一本一本線を引くのか?」
それはさすがにめんどくさいなとちょっと躊躇した。
僕は怠け者なのである。作業はできるだけ効率よく単純なのが望ましい。

僕は「コミックスタジオ」というソフトで漫画の仕上げ作業をしているのだけど、
その機能の中に、「自動的に平行線をひく」というのがある。
長さや間隔を調整することで、思い通りの平行線が自動的に引けてしまう。
昔は定規で一本一本引いていた線が、一瞬で引けてしまうのだから、
文明の進歩というのはありがたいもんだよなあとしみじみ思う。

数値レベルを調整すると、間隔はランダムに変わる。
「これを絶妙に調整すれば、雨みたいになるんじゃないかな」
と考えた自分は、ちょっといじくってみた。果たして雨のようなラインが出てきた。

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今回描写した雨は、この機能を利用して仕上げていたりします。
だから仕上げるのはわりと一瞬だったりするのです。
言わなきゃ「一本一本線を引いて、漫画家さんは大変だな」と思ってもらえそうだけど、
実はそんなこともなかったりします。

もちろん、パソコンのランダムな雨の線だけでは情感が出ないので、
線を間引いたり重ねたりして調整はしています。
漫画を描く方で「コミックスタジオ」を利用している方のご参考までに。

今回は雨のシーンがそれほど多くなかったので、割と安易な方法を使ったのだけど、
本格的に雨を描写するとなると、自分の絵のボキャブラリーはまだまだ不足気味だ。
この頃東京は雨の日が多いのだけど、その中に傘を差してとぼとぼ歩いているとき、
「これをどうやって表現するかな」
とちょっと考えたりします。

一口に雨といっても、その描き方には無限の広がりがあるのだ。

2017年1月20日 (金)

ネームの話


東京では寒い毎日が続いております。
すっかり家に引きこもって漫画のネームを書き続けていたのですが、
それもなんとか終わりまして、作画に入っているところです。

「ネーム」というのは漫画に詳しい人には言わずもがなの用語なのですが、
漫画を描くための設計図みたいなもので、
自分の場合だと大規模スーパーで売ってる子供用の「らくがきちょう」を使っています。
八十枚が一綴りになっていて三冊、それで税込み三百円くらい。安い。

以前、新幹線で移動中に担当編集の方にネームをチェックしていただいたことがあって、
「君、こんなので書いてんの?」
と呆れられたことがあったので、偉い先生は「超高級手すき和紙」を使っているのかも。
まあ、冗談ですけど。

「ネーム」ってのは本来は漫画の吹き出しの中のセリフ文字のことだと思うんだけど、
漫画の設計図を作る場合でも、このセリフがメインになることが多いので、
設計図のことも「ネーム」と呼ぶのだと思います。
あくまでも主目的はキャラクターのセリフ部分で、絵はおまけですから簡略化する。
人によっては丸を書いて人物の名前だけ、みたいな方もいるみたいです。

自分は、どちらかというと書き込んでしまうタイプで、
キャラクターの表情なんかも一筆入魂の気合で書いていたりします。
忘れっぽいんです。時間が経つとどんな表情だったか思い出せなくなってしまう。

本当はこれって、良くない癖なのかもしれません。
編集の方にも、
「もっと簡単なのでいいよ」
とたびたび注意されましたし、有名な作家さんのインタビューなんかでも、
「ネームで気合を入れて絵を描くと本番で本気が出せない」
とおっしゃっているのを読んだことがあります。

自分のはこんな感じです。
これでもたぶん描き込みずぎ。

Img001

だいたいの設計図ですから、誤字脱字はしまくりになります。
この回でも「産湯」を「初湯」と書いてしまう、なんてのがありました。

Img003

でもまあ、気にしない。
ネームを書いている最中は頭の中でキャラクターがお喋りしている状態なので、
それを急いで書きとめなくてはいけない。
編集さんのほうでもそれがわかっていますから、基本的に無視してくれます。

編集さんじゃないとすごいことになります。
某鉄道漫画の時はネームを専門家の方にチェックしていただいたのですが、
もうなんだ、鉄道知識のチェックじゃなくて漢字の間違いのチェックになってた。
編集さんが見かねて、
「本人もわかってやってるんですよ、勢いの方を重要視してるだけなんです」
「講〇社の校閲は優秀ですから無視してください」
「あんまり指摘すると作家さんが落ち込みますんで」
と助け船を出してくれたけど、それでも止まらなかった。
一般社会人としてその間違いはどうなの?ってことなんだと思う。
以来、ネームを読み返すときは辞書を片手にチェックするようにしています。
「産湯」も自分で修正したし。

文字はまあ、汚い字になってしまう。キャラクターの会話を急いでスケッチしてますから、
「一文字一文字丁寧に」とはいかない。
「読めればいい」
と開き直っていたりします。
自分で書いといて「編集さんてよくこんな文字が読めるよな」と思うくらいです。
で、一度そのことを聞いてみたことがあった。
「いつも汚い字でごめんなさい」
「いやいや、君の字はまだ読みやすいほうだよ。もっとすごい人いますから」
と、にこやかに返答された。
長年漫画の担当していると作家さんの癖字をマスターしてしまうらしい。
偉いもんだなと感動する。

ああ、そうだ、今思い出した。
昔、アシスタント先の先生の原稿に消しゴムをかけるとき、
吹き出しの中のミミズを消したら、
「なんで消しちゃうんですか!」
と、ものすごく怒られたことがあった。
どうやらセリフをメモしていたらしい。
まさか、文字だとは思わなかった。
で、先生もちょっと機嫌が悪くなりまして、
「なんてセリフだったかなぁ」
「畜生、思いだせねぇ」
と唸りまくってた。
普段は温厚で明るい先生が豹変してしまったので、さすがに青ざめた。

本当に文字だとは思わなかったんです。ごめんなさい。

2016年9月25日 (日)

画竜点睛

●画竜点睛

画家が竜の絵を描きまして、最後に渾身の気合を込めて黒目を書き込む。
するとあら不思議、竜の絵に魂が入って生き生きとし始めましたよ、の意味。

転じて、あらゆる仕事の仕上げに肝となるワンポイントを付け加えること。
ショートケーキにイチゴを乗っけたり、
日航機の垂直尾翼に鶴のマークを貼り付けたり、
和室の大掃除をして、最後に床の間に生け花を置いてみたり、
……
逆に
「画竜点睛を欠く」
となると、仕事自体はそつなく出来上がっているのに、何かが足りない、
あとちょっとなんだけど、なんか惜しい、みたいな意味でも使われます。
イチゴの乗ってないプレーンなショートケーキとか、
JALマークのない日航機、
綺麗なんだけど殺風景な和室
……

ネット上で「ガラスの仮面」のキャラクターが白目を剥いているのが広まって、
ついに本家までそれを宣伝に使うようになっていますが、
美内先生は何ゆえにあんな表現を思いつかれたのか、ときどきぼんやり考えたりします。
あまりのショックに魂が吹き飛んでしまった表現としては、なかなかに秀逸。
画竜点睛を欠いているわけですから、まさに魂の吹き飛んだ状態の絵なわけです。

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ネット上から勝手に拝借してきました。驚愕の北島マヤ。

ひょっとして美内先生はペン入れで最後に黒目を入れるタイプの漫画家で、
ペン入れ中に
「ここで黒目を入れなかったらショッキングな絵になるわ!」
と思いつかれたのかもしれない。

絵を描かない方にはピンと来ない話かもしれませんが、
割とリアルな絵を描こうとすると、黒目は最後に入れた方が「生きてる感じ」がします。
僕は黒目は最初に入れてしまう派なんですけど、
理屈的に前者の方が圧倒的に正しいな、というのは何となく感じているのです。
まさに「画竜点睛」、魂は最後に渾身の気合を入れて書き込むのです。

でも、本当にそうなんでしょうか。

自分は、目から作画を開始するタイプの絵描き屋さんなので、
最初にいい感じの目を描いて、そこから鼻、口、輪郭、髪の毛、体と作画を進めます。
この描き方だと目が印象的になる、ってことを経験的に知っているからです。

……今現在はもっと複雑な描き方になっているけど、
割と最近まで、目から描き始める描き方を忠実に守っています。というか、
それ以外のやり方をすると、絵が崩壊してしまう。
体を最初に描いて「画竜点睛!」とかやると、視線のあやしいおかしな人物になる。

美内先生風のびっくり顔を描いて、最後に黒目を入れる、というのもやってみました。
これも、僕だとなんか上手くいかない。
「画竜点睛」って、あれは出鱈目なんじゃないかい、ただ「画竜点睛」言いたいだけちゃうん?と、
四字熟語に似非関西弁で文句を垂れ始める始末です。

僕なりの結論から言うと、「画竜点睛」は正しい作画指南の言葉です。
いろいろ試してみた結果、条件付きでこの作画方法が成立することがわかりました。
すなわち、

「丸が綺麗に描けること」

筆記具でパッと○を描いて、それがコンパスで引いたみたいに綺麗な真円なら、
そこにポンと筆を落とすと、中心に筆は落ちます。ある程度作画経験のある人なら
そうなる。
たぶん、そうなるんじゃないかなぁ。
いびつな○だと中心が明後日の方向にすっ飛んでしまっているので、
極端な話、中心が円の外に飛び出すことだってあります。
「画竜点睛」は、目を描きいれるまでの、竜の体の作画が「綺麗な真円」だから、
最後の竜の目が生きるのだと、僕は考えます。
いくらきれいな和室でも、掃除の仕方が独特過ぎると床の間の花が生きない。
「綺麗に整頓はされているけど、こんな本ばかり積み上げられた部屋じゃ花は似合わない」
となるわけです。
大師匠のお描きになった竜の絵は、その体を描いた線が、忠実に円を描いている、
だから、最後に黒目を描きいれることで、そのすべての線がその一点に向かって収束する。
「まるで魂が込められたように」絵が生きてくるわけです。

「竜の体が忠実な円て、どういう意味だよ」
と突っ込まれそうですが、これをどう表現したらいいものか、
ぶっちゃけ、「デッサンがきちんと出来ている」ということなのですが、
自分はその方面ではダメダメな人なので、上手く表現することが出来ない。

最近の自分は、どんな線であれ、それが立体物の輪郭をどうなぞっているのか、
かなり意識して描いています。背広をペン入れするときは、
その襟が立体物であることを意識して、その外側をなぞる感じでペン入れしています。
紙はできるだけ回転はさせない。
時計に例えると、六時から九時、一二時の線は普通に引けるのですが、
お昼を回って三時四時になってくると、中心が内側に入って来るので、
体の向きを少し横にずらします。
五時、六時のあたりの線は、少しだけ紙を回転させ、
なるべく円の中心から外側の線を引く、というルールを守って、線を引きます。
だから背広の左の裾、紙面上の右下のラインを引くときは、少し体をひねっている。

P1100743
葛飾北斎師匠の「略画早指南」より。
これは毛筆で曲線を描くときの筆の握り方についての解説。
「右へ引く線かくのごとし、左へ引く線かくこのごとし」
右ページの左下に「すべて筆と書き手との間……」とあって、面白そうなんだけど、
僕の読解力じゃこれ以上は読めない。

自分のペン入れが駄目だったのは、
この最後の五時六時のラインを時計の外側から引いていたからだと思います。
ここでペン入れが崩壊して絵が無秩序になっている。

……ようは、ペン入れの上手い下手は、物体を正確に認識してペン入れしているかどうか、
だと思うのです。
出来る人はペンを握って次の瞬間には完全なペン入れが出来ている。
出来ない人は、たぶん文字を書くような感じでペン入れしているから、
線それ自体が記号になって、なんだかうるさい感じの絵になる。
線は、あくまで物体を浮き上がらせるための手段です。
上手な人の線がしびれるくらい流麗なのは、その線が
「物体を浮き上がらせる」という目的に徹しているからです。
物体の外側をなぞっているのだから、定規を使ったようにブレのないきれいな曲線が引けるのであって、
それ以上でもそれ以下でもない。
いくら線の流麗さを真似しようとしても、それが目的になってしまうと、
ただの曲線しか引けない結果になる。
大切なのは、物体をはっきりとイメージして、それを円で包み込む感じでペン入れすること、
なんじゃないかなと僕は考えるのですよ。

……なんで絵の描き方でこんなに熱くなっているんだか。

で、自分は目から絵を描くタイプの人なんだけど、
これの欠点は、目がちゃんと描けていないと、そのあとの体の線までいびつになっていく、
ということが一番大きい。
逆に言うと、目がしっかり立体を意識した完璧なものであれば、
そのあとの部品も目のいびつさに引きずられることなく、きちんと正確に描けるということです。

自分は何十年も絵を描き続けてきて、最近になってようやく糸口がつかめてきたという、
遅すぎる人、なのですが、
若い人でこれから上手い絵を描きたいという途方もない願望を抱いている人に、
少しでもヒントになればと、思っていることを書き綴ってみました。
「画竜点睛」は最後の一点で絵に魂を込めるという意味ではなく、
そこに至るまでの過程があって初めて成立する話だ、ということです。

絵の話は書いてる方はノリノリで語ってしまうので、もうしばらく続くかもしれません。

P1100740
北斎の「風流おどけ百句」より「孕んだ男」
「孕んだ男とかけて、落ちた青梅ととく、心は、うむことがない」(ならぬ?)
だと思う。こういうのがもっとスラスラ読めたら楽しいんだろうな。
北斎の線はこの道の達人だけあって正確でするどい。この線を見てるだけでご飯三杯いけます。

追記)
記事をアップしてから、上の絵の意味がなんだか気になっていろいろ調べてみた。
目の前に置かれた米とかつお節らしきものはいったい何なのか。
これに梅干を加えると、何かが「熟む」のだろうか。
米が日本酒なら、江戸時代の「煎り酒」という調味料を作りたかったのに、
孕み男を連れてきてどうするんだい、みたいな意味なんだろうけど、何か、江戸の特殊な風俗なんだろうか。
(どうでもいいけど、梅とかつお節を日本酒で煮込んだ調味料ってなんかおいしそうだ)
坊主が頭を掻いているのは、女人禁制のお寺で寺内の小僧に手を出して孕ませた、の意味。
案外、米を炊くのに鰹節と梅干を入れて炊くとおいしいかやくご飯ができる、くらいの意味なんだろうな。
それなのにこの糞坊主が孕み男なんて連れてきやがった、産めねえよ、
落ちた青梅でおいしいかやくご飯が作れないみたいに、孕んだ男じゃ子供は産めねぇんだよ、
って意味なのかな。

上の絵で一番面白いのはポッコリ膨らんだ小僧のおなかの表現。
北斎のラインが生み出すお腹のポッコリ感は、妖艶にして生々しい。
肉のダボついた感じがよく出てる。
あと、着物の上からでもわかるオバちゃんの骨ばった体つき。
こういうものが表現できてしまうのだから、筆の絵ってすごいなとホトホト見惚れてしまうのです。

2016年6月16日 (木)

SFとは宇宙海賊の独断場

Photo

前回に続き、Gペンでペン入れしてみました。

「何かSFっぽいものを描きたいな」
と思って、真っ先に思いついたイメージをそのまま絵にしてます。
どうです、昭和のSF全開でしょ?
最近、自分の絵が昭和臭いのは「特徴」なのだから、それでいいじゃないかと、
かなり開き直ってます。
だって仕方がないじゃないか、昭和生まれなんだから。

SFの知識って、あんまりないです。
いっとき、気張ってグレッグ・イーガンとか無理して読んでみたのだけど、
やっぱりスラスラとは読めない。
平行宇宙がどうのこうので、だから確率論がうんたらかんたらと、
「じゃかましいわい!」
となってしまう。
確かに、頑張って読み終えれば、
「なるほど、すごい発想力だ」
となるのだけど、自分の求めているSFとは、なんかちょっと違う。

自分の子供の頃というと、ジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」が公開された頃で、
それ以前だと、「ミクロの決死圏」とか「600万ドルの男」とか、
あと、「スタートレック」かな。そこに「サンダーバード」とか円谷作品が入ってくる。

SF、いわゆるサイエンス・フィクションは、
人類にもたらされた「科学文明」の可能性をとことんまでシミュレーションしたものです。
これが何百年か昔の中世ヨーロッパあたりだと、頑張って想像力を駆使しても、
ダンテおじさんの冥界紀行くらいが関の山だったのだけど、
ある程度科学が発達してくると、未来の可能性がパーーーツと広がってきた。
「ひょっとしたら宇宙くらいいけるんじゃない?」
そう思いついたあたりで、最新の科学情報を駆使して「なんちゃって未来」を作るのが、
人間のすさまじさ。ついには銀河を二分する帝国対同盟軍の宇宙戦争まで映画にしちゃった。

70年代から80年代の漫画やアニメでは、この辺の想像力がバネになって、
次々といろんな作品が生まれました。
宇宙人対人類の種の存亡をかけた戦い、なんてのは基本中の基本。
はるか遠いガミラス星からの侵略攻撃で、荒廃した地球を救うために旅立つ宇宙船、
それがなぜか大東亜戦争で撃沈された戦艦大和だったり、
オニールのスペースコロニーのアイデアを膨らませて、
「コロニー落とし」
なんて大殺戮の可能性まで考えてしまった某機動戦士とか、
すごいよね、人類対スペースノイドの独立自治権をかけた戦いなんて、
まんま植民地時代のアジアの独立運動だもの。

でもまあ、限界はある。
科学の提供してくれる未来の可能性というのも、人類総がかりで何十年もシミュレートすれば、
ある段階で頭打ちになる。
そうすると、「どっかで見たような設定」のお話が延々と繰り返されるようになる。

最近はタイムリープものが手を変え品を変えて繰り返されている状況だ。
「シュタインズ・ゲート」は誕生日にソフトをプレゼントしてくれた人がいて、
ちょいとばかりプレイしてみた。
タイムリープにより発生した多次元世界を行き来する物語。
タイムリープで過去を改変するというSF設定があって、そこから別のルートの人生が生まれる。
その人生がどうしょうもなく悲惨で地球規模で救いようのない未来だから、
「もう一回、正しい世界線に戻らなくては」
と主人公が必死に行動をするようになる。

これは、とても面白かった。

大昔にタイムリープものの古典「リプレイ」は読んでいるので、
自分の知っている現実とは違う現実をやり直す面白さは、大歓迎である。
僕だっていろいろやり直したい現実はあるもの。

で、この今では古典になった人生やり直しストーリーだけれど、
歴史はたぶん滅茶苦茶古い。藤子F不二雄先生の作品だと、
違う世界線の自分が一堂に会する作品がある。
社長に出世した自分、落ちぶれてみじめな人生を送っている自分、
なんか、テロリストみたいになった自分もいたっけ。

「ノスタル爺」もそうなだな。
過去に戻って絶叫する主人公が哀しい。

藤子F不二雄先生だと、他にも「人生やり直し」のストーリーはいっぱいありそうだ。
なんせ、タイムマシーンがあればこの手の話はいくらだって広がっていく。

手塚治虫だとどうだろう。
案外、タイムマシーンと手塚治虫は相性が悪いような気がする。
後進の藤子先生に気を使ったのかもしれないし、
そもそも、タイムマシーンという安易なマシーンを作品に出すことが、
本格的なSFを志向する手塚先生には許せなかった可能性もある。
勝手な妄想ではあるけど。

「時間を遡行する手段」というのは、科学的にはまだ実証されていない。
電子レンジと大型ブラウン管でたまたま出来ちゃった、
そこにセルンの量子マシンがどうのこうのと、理屈をでっち上げることは出来るけれど、
現実に発生する可能性のない未来というのは、SFというよりはおとぎ話の世界であり、
もちろんそれはそれで僕は大歓迎なのだけど、
ここから科学のもたらす恐怖と人類への警鐘を作品にもたらすのは、
不可能なんだと思う。
どこかでただの絵空事になってしまう。
スペースコロニーを作ったらそれを地球に落とすテロリストが生まれるかもしれない、
そちらの方が確かに本格的なSFの匂いがする。

だから、タイムリープもののSFが次々と生まれてくる背景には、
科学に対する失望とおとぎ話的な物語世界への回帰があるのだろう。
そこに描かれているのは科学的な推論ではなく、むしろ「人生」についての考察である場合が、
ほとんどだから。

だいたい、タイムリープという発想そのものが、若者のものではない。
そりゃ、小学校からやり直したい中学生はたくさんいるだろうけれど、
おじさんの希望としては、若者には未来の可能性を信じて、
三十年後の自分に薔薇色のイメージを持ってもらいたい、だけど、
社会に出ればそのイメージはたいていボロボロに踏みにじられ、
老後の生活についての暗澹たる思いばかりが気を重くするようになる。
せめてポックリ死にたいからポックリ寺でも行ってみようか、
なんてのがたいていの人生の行く末だ。

だから、未来に希望が持てないなら、もう一度可能性のあった時期の自分に戻りたい、
人生をリスタートさせて、今度こそ薔薇色の未来を手に入れたいと、
これはどう考えても、失敗した人間の発想であり、若者のもんじゃない。

漫画やアニメの購買層がどんどん高齢化していて、
出版社が対象年齢をどんどん引き上げている事情も大きいのだろうけど、
タイムリープの作品がどんどん出てきてしまうのは、
単純に時代の閉塞感の表れであると、言っちゃえそうな気がする。

でも、それが時代の要求だからなのか、タイムリープ物には傑作が多いんだよな。
「僕だけがいない町」とか、すごくよく出来てると思う。

でも、それでも、
僕個人としては宇宙海賊になって、私腹を肥やす東京都知事、じゃない、
地球統合政府の親玉をひいひい言わせてやりたいです。
派手に波動砲をぶっ放して、エネルギー120パーセントの怒りの鉄槌をぶち込みたい。
つまりどこまでも自分は「昭和」なのです。

……話が思わぬ方向にずれまくってしまった。
本当はカール・セーガン博士の「コスモス」って科学番組が面白かったねと、
そこからSFについていろいろ書いてみるつもりだったんだけど、
まあ、これはこれでいいかなと、とりあえず納得してみる。

あと、上の絵について思いついたことをコメント。
「地球を描きたいけどめんどくさいな」
と、とりあえず青い球体のレイヤーを作りまして、
「次、どうすっべかなぁ」
なんてぼやきながら、茶色い陸地と緑の森林部分を塗りまして、
雲を描く段になったとき、毛筆のツールソフトを最大にして、
「そいや!そいや!」
やったら、案外簡単に雲が描けました。
コミックスタジオの毛筆って、線を引くと毛筆っぽいタッチを出すために線が変形するので、
その思わぬ効果が、雲の流れっぽい感じになるみたいです。
細かいところは毛筆の「削り」の方で整えましたけど。

あと、立体感を出すために、同じコミックスタジオの、
「遠近感を出す移動」のやつを使って奥行きを出してます。
雲が水平線に消えていく感じが、なんとなく出せたように思えます。
さあ、同じコミックスタジオを使っている同業者のみなさん、
今日からあなたも「地球マスター」だ!

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