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文明開化の男たち

2016年5月22日 (日)

文明開化の男たち(補足)


蒸気機関について語ってみようと思ったけど、なかなか難しい。

今年(2016)の一月に、以前このブログで紹介させていただいた、
「肥後七左衛門」のご子孫の方からメールを頂戴した。

肥後七左衛門は幕末から明治にかけてかけて実在した薩摩藩士だ。
その名前は、幕末の重大事件にひょいひょい出てくるので、
「いったい、この人物は何者なのだろう」
と、長く疑問に思っていた。
それで、歴史に残っている事績をつなぎ合わせて、
「こんな人生だったんじゃないかな」
と推測をしてみた。それが3年くらい前。

今回メールをやり取りさせていただいて、
いくつかわかったことを、許されている範囲で紹介させていただくと、

●肥後七左衛門は文化11年11月に鹿児島で生まれている。
西暦で言うと1814年。肥前の鍋島直正公と同い年である。
激動の幕末期には五十歳を超えていたわけだ。

●斉彬公の命で長崎まで蒸気機関の研究をしに行っている。時期的に考えて、
勝海舟と面識があった可能性が高い。

●薩摩藩邸焼き討ち事件ののちには他藩の屋敷に身柄を預けられている。
(士分が伝馬町とか書いた僕は大馬鹿野郎です)

●その後は「浪花丸」の艦長として、徳川の軍艦のいる中、物資を運んでいる。

●明治23年1月18日にお亡くなりになっている。

晩年は薩摩藩邸の跡地を拝領して、官吏として開拓局に任官したあと、
穏やかな余生を送ったものと思われる。

蒸気機関というのは歴史を大きく変えた原動力で、
この発明があったから、西洋列強は人類の大半を支配する勢いを持った。
それはまあ、現在までも続いている。

ひょっとしたら、その勢いの反動が21世紀なのかもしれんけど。

当時鎖国中だった日本でも、早くから蒸気機関の重要性を認識し、
これを開発しようという藩がいくつもあった。
薩摩藩もその有力な一つだ。
肥後七左衛門は、その研究開発メンバーの一人であり、
蘭学者川本幸民の助力等もあって、洋書の翻訳と絵図面からの想像のみで、
国内最初の蒸気機関の開発に成功している。
もし、藩主島津斉彬公がお亡くなりにならなかったら、
国内最初の実用蒸気船の開発までいけたかもしれない。

肥後七左衛門は歴史の上ではほとんど無名の存在であり、研究もされていないと思う。
それは、「薩摩藩邸焼き討ち事件」という幕末史の暗部に関係したことが大きいのだろう。
なにしろこの事件をまともに研究したら明治の建国神話に泥を塗る可能性もある。
ブラックである。
でもこの人物が江戸城無血開城のために大きな役割を果たした可能性は、
かなり高いと、僕は愚考するのですよ。

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2016年6月26日
上の文章は一度書いたものを短く圧縮したものなのですが、
その原型の方をここに置いておきます。
肥後七左衛門さんについては、なにしろ歴史的な資料が少なく、
書いている内容も想像による部分がどうしても多くなります。
ご本家様の方でも、大戦時の疎開で失われた史料が多い、とのことでしたので、
この人物にスポットライトを当てようとすると、どうしても「創作」の部分が多くなります。
それで、元の文章から「創作」の部分を排除したのが、上の文章なのですが、
「これは勝手な妄想の部分もある」と断った上で、
元の文章を読んでいただければと考えました。

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 1

蒸気機関について語ってみようと思ったけど、なかなか難しい。

今年(2016)の一月に、以前このブログで紹介させていただいた、
「肥後七左衛門」のご子孫の方からメールを頂戴した。

肥後七左衛門は幕末から明治にかけてかけて実在した薩摩藩士だ。
その名前は、幕末の重大事件にひょいひょい出てくるので、
「いったい、この人物は何者なのだろう」
と、長く疑問に思っていた。
それで、歴史に残っている事績をつなぎ合わせて、
「こんな人生だったんじゃないかな」
と推測をしてみた。それが3年くらい前。

肥後七左衛門は幕末の薩摩藩で蒸気船の研究開発を行った人物だ。

蒸気機関は、なにしろ歴史を大転換させる発明だった。
イギリスはこの発明があったから、一時地球の半分くらいを支配することが出来た。
「内燃機関」が作られたことによって、
自力走行する船やら汽車やら、前時代をはるかに凌駕するマシンを開発できたからだ。
大量輸送を迅速に行うことが可能なら、物資や兵隊を効率よく動かすことが出来る。
21世紀になってネット社会が地球をコンパクトにしたように、
西洋人は地球全体を自分の版図とみなすことが可能になった。

おいしいお茶が飲みたければインドまで出かけて現地から収奪すればいいいし、
ステーキに胡椒をかけたければ、東南アジアまで取りにくればいい。
そうやって世界中の富がヨーロッパ周辺国に集中するものだから、
この地域が強力な軍事力を一方的に持つようになってしまった。

蒸気機関を持たないアジアの国々にとっては、これはとんでもない脅威だった。

なにしろ、蒸気式の軍艦が世界中を我が物顔で走り始めたとき、
日本の海を走り回っていたのは一本マストの運搬船くらいだったのだ。
もし、日本が資源豊かな黄金の国だったら、とっくに征服されていただろう。
ああ貧乏ってすばらしい。

ペリーが江戸幕府に開国を迫ったのも、クジラを取る船の中継基地が欲しかったからだ。
香辛料があるわけではないし、黄金も産出しない。
銀の質にはなかなか見るべきものがあったが、地球規模で考えれば微々たるものだ。

だから、西洋人は日本よりは中国の方を巨大なフロンティアとみなした。
アヘン戦争が起こって領土が次々と西洋列強の支配地になった。

当時絶賛鎖国中だった日本にも、その情報は逐一入っていた。
「これはやばい」
英明な大名たちはみんな焦った。佐賀藩の鍋島公、薩摩の島津斉彬公、
このあたりが情報を分析して、
「世界で今何が起こっているのか」
をかなり正確に把握していた。

「つまり、蒸気機関の発明が地球の勢力地図を変えようとしているのだ」

そこでこの両藩をはじめとするいくつかの藩が、蒸気機関の研究を始めた。
科学的興味などという生易しいものではない。自国の領土を守るための大事業だ。

当初、この研究と実用化の試みは薩摩藩がリードしていた。
なにしろ藩主の島津斉彬公は若殿様の時代から江戸の蘭学者に声をかけ、
蒸気機関に関する洋書の翻訳などをさせていた。
自分が藩主の座に就くや、西洋科学を研究するプロジェクト「集成館」まで設立している。

このプロジェクトに早くから参加していたのが、肥後七左衛門である。

集成館では西洋式の帆船が何艘か制作され、薩摩から江戸まで運用試験がされている。
このとき、薩摩の洋式船のマストには日の丸の旗がひらめいていたのだが、
この古来からあるデザインの調整をしたのが、肥後七左衛門だと言われている。
島津斉彬公の命令で、絵心のある七左衛門が赤い丸の大きさを研究したのだ。
(ネット情報だから正確かどうかはわからないけど)

船の外観が出来れば、いよいよ蒸気機関の取り付けである。

蒸気機関が誰の手によって薩摩藩で開発されたのかは不勉強なのでよくわからない。
ただ、その開発メンバーに宇宿彦右衛門、松木弘安、肥後七左衛門がいたのは、
まあ、間違いないんじゃないかと思う。
江戸の薩摩藩邸で諸藩の偉い人を呼んで公開実験をしている。

この公開実験の後、実際に薩摩の洋式船に取り付けて、
品川沖を航行させた記録が残っている。
ひどくのんびりした速度だったようだが、一応これが国産初の蒸気機関であろう。

このときの船は「雲光丸」と名付けられて、薩摩の港で使われていたようだが、
それをたまたま見たオランダ人が、
「図面だけであれだけのものを作るとは、すごい奴らがいたもんだ」
と感心したそうな。

ここまでの開発は、洋書を読み解いての手探り状態なのである。

日本人が実際に現物の蒸気機関を目にしたのは、この直後のことだ。
オランダから幕府に蒸気船が寄贈されて、ようやく日本人は蒸気機関を目にすることが出来た。

「是非、私どもにも見せてください」

薩摩藩主島津斉彬公の申し出に、江戸幕府は快く応じてくれた。
この頃は「公武合体」が推進されていて、薩摩と幕府はとても仲が良かったのだ。

オランダから寄贈された蒸気船は格好の教材となり、
幕府は「長崎伝習所」を開設することになる。
歴史好きの方はよくご存じだろうけど、勝海舟がいた、あれである。
海軍士官を養成する訓練生として、薩摩からはあの五代友厚などが参加しています。

おそらくこのとき、エンジニアとして蒸気機関を見分した侍の中に、
肥後七左衛門がいたのではないかと、肥後家の方では伝わっているようです。
長崎で机を並べて勉強した人物の名前が、伝習所一期生の中にあるからです。

自力で国内初の蒸気船を走らせた開発メンバーの一人である肥後七左衛門ですが、
現物を見たのはこのときが初めてのはずです。
さぞ熱心にメモを取ったことだろうと思われます。
他藩の侍の中には、妖怪の内臓を見て吐き出す者もいたそうですが、
肥後七左衛門はそんなことはしなかったでしょう。
その構造を必死で目に焼き付けていたはずです。

「薩摩でもこれと同じものを開発するのだ」

それが肥後七左衛門のこの時点での目標なのです。


 2

ところが話はそう上手くは進まなかった。
薩摩藩主の島津斉彬公が、突然亡くなってしまうという驚天動地の事態が起こったのだ。
この英邁な藩主の死は、西洋科学の研究プロジェクト「集成館」には大打撃となった。
次の藩主の久光公は兄の「道楽」をあまり快くは思っていなかったのです。
「西洋船なんて、買った方が安上がりじゃないか」
とばかりに、集成館の規模を縮小してしまいます。
なんか、最近の日本の産業に起こっていることとよく似ています。
別に自分が開発しなくても、他所から持って来ればいいのです。

いや、それはその通りなんだけどね。
目の前の事態を収束させるのが先決なのはわかるんだけど、
斉彬公はもっと先の未来を考えていたと思うんですよ。
自分たちで作って、その技術を血肉として次の代では西洋列強と肩を並べる。
ここまでが集成館プロジェクトの意味だったと、僕は愚考するんですけどね。

で、肥後七左衛門は蒸気機関の開発というプロジェクトからは離れてしまう。
技術者の悲しさです。上が「経費削減のために部署を縮小する」といえば、
それに従うしかない。
いくら研究への情熱があったとしても、薩摩藩士の身分じゃ何もできないのです。

以後、肥後七左衛門の拠点は江戸の薩摩藩邸に移ります。
僕の想像なのですが、薩摩藩が外国から買った蒸気船にはメンテナンスが必要です。
蒸気機関に精通した者が、薩摩と江戸の両方にいなくてはいけない。
肥後七左衛門は江戸の薩摩藩邸に役宅をいただいていたそうなので、
その役割は江戸側の蒸気機関整備だったんじゃないのかな。

薩摩藩邸のすぐそばには品川の海があります。
薩摩から蒸気船がやってくれば、馬で港まで出向いて蒸気船に乗り込み、
配下の者と蒸気機関の整備と保守点検を行う。
これも立派な仕事なのですが、肥後七左衛門としては面白くなかったかもしれない。

その頃、佐賀藩や幕府では独自に国産の蒸気機関の研究開発が行われています。
そういう風聞が耳に入るたび、地団駄を踏んだのではないかと思う。
結局、実用蒸気船の開発は、佐賀藩が成し遂げることになります。
ここでのノウハウの蓄積が技術者の育成につながり、
東芝が生まれて、今僕はダイナブックのノートパソコンでこの文章を書いている。
目の前の「TOSHIBA」のロゴを見ていると、誇らしいような、切ないような、
複雑な気分になります。

んで、ここまでのお話が、肥後家の方から教えていただいた伝承から、
僕が類推した肥後七左衛門の前半生です。
江戸に本拠地を移してからのことは、前のブログ記事「文明開化の男たち」にあります。
右のトピックのところから閲覧できます。

江戸で幕府の「蕃書調所」に出入りしていた肥後七左衛門は、
日本で最初の「化学教室」のメンバーに名前を連ね、
蘭学者の川本幸民や、福沢諭吉なんかとも交流があったみたいです。

薩摩が「生麦事件」を起こして「薩英戦争」が勃発したときは、
手にかけていた薩摩の蒸気船をすべて拿捕されるという事件にも遭遇します。

そのため、薩摩藩は幕府から洋式蒸気船を借りて海運に使っていたのだけど、
この蒸気船が「外国船打ち払い令」によって長州藩に沈められるという事件もありました。

この「長崎丸」の事件についてはちょっと書いておかなくちゃいけない。
長州は洋式船を見ればとにかく手当たり次第に弾を打ち込むものだから、
幕府の船だろうと、ガンガンやっちゃうわけです。
薩摩藩の借りていた「長崎丸」も、こりゃヤバイってんで蒸気機関をフル回転させた。
そしたら突然火を噴きだして炎上、沈没してしまったわけです。
この船には蒸気機関を操るための薩摩のエキスパートたちが乗船しており、
それを一気に失うことになってしまった。
集成館の実質的リーダーで肥後七左衛門と一緒に蒸気機関の開発をした、
あの宇宿彦右衛門もこのときに亡くなっている。

薩摩は怒り心頭で、幕府の徳川慶喜公に「長州を厳罰に処すべし」と抗議をする。
ところが、この最後の将軍になる優柔不断(に見える)な人物は、
問題が朝廷の「外国船打ち払い令」からきていることなので、なかなか重い腰をあげない。
このとき、薩摩の久光公は幕府を見限ったのではないかと思われます。

この事件が薩摩と幕府の関係を悪化させ、
逆説的に長州との関係を近づけたのは、皮肉というかなんというか、
歴史って不思議なものだなと思います。
薩長同盟が結ばれたとき、長州は薩摩藩に「長崎丸」を沈めたことを、
藩主自ら書状の形で謝罪したようです。

「長崎丸」の事件は薩長同盟への布石という点で重要なのですが、
一方で、薩摩の蒸気船開発を決定的に終わらせてしまったという一面もあります。
肥後七左衛門にとっては「終わった」って感じだったんじゃないかな。

薩摩と幕府の関係がどんどんきな臭くなっていくに従い、
肥後七左衛門が「蕃書調所」に出入りする機会も減っていったことでしょう。
この次に彼の名前が歴史に出てくるのは、
幕末のどんずまり、慶応三年の「薩摩藩邸焼き討ち事件」になります。

詳しくは以前に書いているので、ここでは繰り返しませんが、
訂正しなきゃいけないところが一か所あります。
僕は馬鹿なので、「七左衛門は伝馬町につながれて拷問された」
なんてことを書いていますが、士分の者が伝馬町はありえない。
他藩の屋敷にお預けになったことが、肥後家の方に伝わっているそうです。

その後、勝海舟のお預かりとなった肥後七左衛門は、
益満休之助らとともに、東上してくる朝廷軍との折衝に当たります。
このへん、歴史的に謎が多い部分なので、
新資料が出てきたら肥後七左衛門の評価もかなり変わるかもしれません。

とにかく、肥後七左衛門の活躍がかなり大きかったのは、
江戸が東京になった後、島津家から薩摩藩邸の敷地を下賜されていることから、
いろいろ想像出来るはずです。

明治になってからの肥後七左衛門ですが、
明治政府の官吏として芝の開拓使出張所に勤めていたそうです。
屋敷の土地の一部が蒸気機関車の路線になったそうで、
「蒸気機関について何かアドバイスをしたんじゃないかな」と、
肥後家の方はおっしゃっておりました。


2014年9月18日 (木)

文明開化の男たち~諭吉と海舟~

 1

文明ってなんじゃらほい。

インダス文明、エジプト文明、メソポタミア文明、黄河文明……
いろいろな文明がありますけど、どうもピンとこない。
そんなあなたにこの一冊。

福沢諭吉は明治の八年ごろに「文明論之概略」という本を書いて、
文明とは何かを語っております。
西欧社会は確かに日本よりすぐれている、これを文明的とすれば、
日本はその文明からは数歩遅れている。
だから日本は文明化すべきであろう。
ただし、その文明化とは鉄道や電信などの外面的なものではなく、
そういうものを生み出した西欧の考え方から入るべきである。
……

この本が明治時代の日本人に「文明」というものを意識させ、
のちは「文明開化」なんて言葉まで生み出す元となるのですが、
タイトルが「概略」なんて硬い感じなので、現代ではちょっととっつきにくいです。
でもこれ、福沢諭吉が自分の考えの総決算として書いたもので、
かなり面白いです。
文語調の難しい文章ですが、福沢諭吉ってレトリックの天才なので、
慣れるとけっこう引き込まれます。

福沢諭吉って人は中津藩の貧乏藩士の生まれなのですが、
徹底的なリアリストであったことは有名。
当時主流だった尊王攘夷の思想にも染まらず、物事を即物的に、論理的に考えた。
鬼神のことは決して語らず、国家という仕組みをメカニックに考えた。

慶応3年に「西洋事情」という本を書いて……洋書の翻訳抜粋が中心ですが、
これが大ベストセラーになります。
後年「文明論之概略」で
「鉄道とか軍艦より、文明的な考え方を持つことの方が先である」
と書いている福沢諭吉ですが、ここでも科学技術より西欧の思想から書き起こしています。
なんというか、恐ろしくぶれない人です。

「外国とどう接するのか、軍艦や大砲を揃えて武を競うのはよろしくない、
それよりはその金で船を買って交易を盛んにするべきである」

「富国強兵」より「外国交際」が重要と考えた福沢諭吉ですが、
これが口先のたわごとに終わらず、生涯その通りに実践しました。
このブレなさと頑迷さが福沢諭吉の真骨頂だと思うのですが、
この人物について語るとどうしても「学問のすゝめ」の福沢諭吉、慶応義塾の創始者、
咸臨丸でアメリカに渡った福沢諭吉がクローズアップされてしまうので、
後半生の人生になかなか焦点があてられません。
福沢諭吉という人が明治政府とは距離をおいていたという事実が、
うやむやになって誤魔化されてしまうのです。

だから後年、勝海舟に論文を突き付けた話も、ちょっとわかりにくくなる。

 2

勝海舟と福沢諭吉の関係は複雑です。

安政年間、江戸の中津藩邸に蘭学の教師として呼び出された福沢諭吉ですが、
「俺の蘭学がどれだけのものか知りたい」
と繰り出した横浜で、世界の主流が英語になっている事実を知って愕然とします。
「俺の大坂での学問はなんだったのだ」
アイデンティティの崩壊に直面する福沢諭吉ですが、これくらいではへこたれない。
ゼロから英語をマスターしようとあれこれ模索し始めます。
大村益次郎なんかにも「英語やろうぜ」
と声をかけたみたいですが、
「オランダ語が読めれば英語の本の翻訳も手に入るからいらね」
と突き放されます。
幕府の学問所に英語の辞書があるというので出向いてみれば、
「貸出し禁止」
と追い返されたりもしています。

そんな時、築地の桂川甫周の屋敷で、
「うちの嫁さんの兄君がアメリカに派遣されることになったそうだ、お気の毒にな」
という話を耳にします。
福沢諭吉はこの話に飛びつきます。
「私をその方に紹介してください!」

こうして中津藩士福沢諭吉は幕府のお偉いさんである木村摂津守の下僕になります。

たぶん、福沢諭吉に「生涯最高の出会いはなんですか」と質問したら、
木村摂津守の名前が出てくるのではないでしょうか。。
木村は、幕府の御用船である咸臨丸に中津藩士の福沢が乗ることを許し、
自分の僕としてアメリカに連れて行ってくれた大恩人です。
慶応義塾設立のときにも、大きな役割をはたしています。

ところがこの木村摂津守が勝海舟には嫌われまくっていた。
それも「身分が高いだけのボンボンだから」というのが理由で、
晩年の自伝の中でも徹底的にこき下ろされています。

「あんにゃろが俺の上司になって、練習船なのだからもっと外洋に出るべきじゃないか、
なんて抜かしやがるから、五島列島を越えて日本からどんどん離れてやったら、
奴さん、顔を青くしてオロオロし始めたぜ」
と、長崎海軍伝習所時代の思い出をさも楽しそうに回想しています。
いや、ただのいじめっ子だろう、それ。

咸臨丸でいちばん偉いのはその木村摂津守だったのですが、
「船長は俺だから」
という勝海舟のごり押しで、キャプテンの地位を譲らされています。
福沢諭吉は、当然その一部始終を見ておりました。(明治期の勝海舟は木村喜毅の家に足を運んでいたそうなので、そこまで嫌っていたわけじゃないとこの頃は思います。2016年5月記)

スタートラインから、福沢諭吉と勝海舟の関係は波乱含みです。

 3

勝海舟という人は、西欧の文明を「脅威」と感じとった人物です。
だから西欧に負けない日本を作らなくてはならないと考え、
江戸城を無血開城し、新しい国家建設の方を優先させました。

そこには横井小楠の思想が強く働いているのでしょうが、
国家が産業を興し、国家事業としてどんどん外資を得て、強い国家を作り上げる、
軍艦も買う、大砲も買う、そうすれば西欧と対等の国家になれると考えました。
あくまで国家中心の考え方です。

これはこれで立派な考えなのかもしれませんが、そのために幕府側の人間は切り捨てられ、
佐幕派の人間は徹底的に差別されることとなりました。
薩長藩閥政治です。
新政府を建設した薩摩と長州、土佐に肥前の人材が優先的に上にいき、
旧幕府の人材はなかなか出世できないという世の中です。

福沢諭吉は、おそらくノンポリでどちらでもない立場だったと思うのですが、
世間的には佐幕派の人間だと目されていました。
彼はたびたび新政府からの要請があったにもかかわらず、決して出仕はしなかったのです。

維新直後の明治政府には人材が不足していました。
自民党を破って政権を取った民主党のようなもので、
破ったのはいいけれど、何をどうしていいのかさっぱりわからない。
そりゃそうでしょう、江戸の徳川幕府は早くから西欧との交際法を研究し、
そのための人材を集めていたのですが、薩長にはその準備がありませんでした。

ですから、優れた人材ならば幕府の人間でもこれを活用しようと考え、学者の中では、
福沢諭吉、神田孝平、栁川春三の三人にまず声をかけたのです。

たぶんですが、この三人は膝を交えて話し合ったのではないでしょうか、
少なくとも福沢諭吉と開成所の頭取である栁川春三は会っていると思います。
「俺は大坂まで出向くのは嫌だがね」
と、名古屋出身の栁川春三は名古屋弁で拒絶したと思います。
ちなみにこの人、最近まで反新政府の新聞を発行し続けていまして、
上野の戊辰戦争の時には日本初の号外まで出しちゃってる人です。
外国語の天才で、当時原子論を理解していた数少ない日本の学者の一人です。

「私は病気なので、新政府の御用は無理です。そういうことにしておきましょう」
これが福沢諭吉。慶応義塾を開校したばかりで、攘夷政府などには興味がない、
私はこれからの日本のために優れた経済人を育成しなければならんのだ、と、
そういう考えでした。

この二人は先ほど出てきた桂川甫周の学者サロンに出入りしており、
おそらく結構な知り合いだったはずなのですが、
福沢諭吉は自伝の中で上のエピソード以外は何も残していません。

栁川春三がこののち、反政府的な内容の新聞を発行して開成学校を追われたからだと、
僕は勝手に推測しています。
政府に刃向った人間のことを詳しく自伝に書いたら、慶応義塾が危ないです。

福沢諭吉は、このあとも再三にわたる政府の出仕要請を拒否し続けました。
新政府としては、新しい国民教育の基礎を作る人材が必要だったのですが、
それが出来るはずの横井小楠が明治の早々に暗殺されてしまったのです。

勝海舟はこの人の学識をとても高く評価して、

「俺は横井小楠と西郷隆盛は本当に恐ろしい奴だと思ったよ」

なんて持ち上げているのですが、
その横井に変わる人材がなかなか出てこない。
福沢諭吉は慶応三年に「西洋事情」なんて本を出してベストセラーにしており、
そこには西欧の学校制度についても詳しく記述されていました。
あいつなら出来るんじゃないかと、勝海舟も思ったのかもしれません。

幕府は滅びた、これからは国民一丸となって新政府を盛り立てて行かなきゃならない。
確かに暗殺の危険はあるが、そのために命を落とすのは男児の本懐ってもんだ。
お前さんは俺の嫌いな木村摂津守のシンパだけど、
その学識を認めないわけじゃない。何よりお前さんは国民に人気がある。
どうだい、一つ明治政府に出仕して学校制度の建設をやってみないかい。

……これは完全な創作ですが、勝海舟がこう考えていたかもしれないと、
僕は勝手に想像しています。

でも福沢諭吉は出仕しません。あくまで民間の立場から経済人の育成を続けます。

 4

福沢諭吉は請われても明治政府への出仕を拒絶し続けました。
なんで明治政府に出仕しないのかと聞かれ、
「私は政治下戸だから」
と、酒飲みの癖にわけのわからない理屈を言い訳にしています。
おそらく、本当のことを言えば政府を敵に回すと考えていたのではないでしょうか。

その福沢諭吉の考えを知るための手掛かりが、
冒頭の「文明論之概略」だと僕は思うのです。

ここでくどいくらい述べられているのは、
「文明とは科学技術ではなく、それを生み出した西欧の考え方にある」
ということです。
「この順番を間違えて科学技術を先に導入し、西欧の考え方を後回しにしては、
それが根付かないばかりかそのうち国を亡ぼすことにもなりかねない」

これは、明治八年の段階でギリギリ福沢諭吉が残せた国家戦略論だと思います。

「家の前に大きな大砲をおいても、家の中が無茶苦茶ではその国は勝手に倒れてしまう。
だから、まず貿易を盛んにし、西欧との交際を盛んにして、
日本のことを知ってもらうことが大切なのだ。鉄砲や大砲はそのあとに揃えればよい。
紳士が分相応の武器を持っていても外国は何とも思わないだろうが、
文明国と思えないような国が身に過ぎた武器を持っていては、諸外国は日本を警戒する」

おそらくですが、福沢諭吉という人は、数度にわたる西欧体験で、
世界が軍事を中心に動いているのではなく、
経済の力で動いていると確信したのだと思います。
西欧を中心にものすごい経済活動の活発化があり、
その結果として、西欧諸国が優れた科学力と、巨大な軍事力を持つようになっている。

もし、今日本が国民一丸となって軍事大国になったとしても、
それは経済の裏付けのない、張りぼての軍事大国であるから、
それは西欧諸国を警戒させこそすれ、文明国だと認めさせることにはならない。
もし、西欧諸国と対等に渡り合おうとすれば、それは経済という土俵の上以外は
ありえない。

そのことに幕末の段階で気が付いていた福沢諭吉は、
上野の山で彰義隊が闘っている間も、創設間もない慶応義塾の教壇で、
「経済学」の講義をしたのだと思います。

まず優先させるべきは「経済」であり、「軍事」はそのあとであるべきである。

「経済」が先か、「軍事」が先か、ここが福沢諭吉と明治政府、
もっと言ってしまうと、福沢諭吉と勝海舟の違いだと僕は考えます。

 5

ですから、明治になってからも福沢諭吉と勝海舟はなかなかわかり合えません。
明治六年に旧幕府の学者が集まって、今後の日本の文化についての話し合いを持ちます。

「明六会」

というその会合は、もし江戸城が無血開城されなければ、
徳川込みの新しい政権で中心を担っていた学者たちによる、これからの日本についての、
とても興味深い会合でした。
一年くらいで明治政府に解散を命じられますけど。

その会合からは雑誌が定期的に発行されており、
「明六雑誌」
というその冊子を読むと、なかなか興味深いです。
ブックオフで岩波文庫の上巻だけ売っていたので、買ってきてときどき読んでます。

参加メンバーは開成所の関係者が中心で、
西周、森有礼、神田孝平と、そこに福沢諭吉と勝海舟まで加わっています。
議題は日本語をローマ字にするのはどうかという意見ついての賛否から、
一夫一妻制について、ロシアの脅威に対する警鐘など、多岐に渡っています。

この会合でのことだと思われますが、
勝海舟が福沢諭吉に向かって、
「諭吉さんはまだ寄宿舎なんかやってるのかい」
とからかったという話があります。

寄宿舎というのは慶応義塾のことで、
「諭吉さん」といういい方も失礼ですが、暗に学校経営を金儲けとみなしているところに、
勝海舟の悪意を感じます。
でも、これ、裏を返せば、
「学校経営なんて金儲けにうつつを抜かさないで、とっとと明治政府に来い」
と言っているようにも取れます。
ここが勝海舟という人の難しいところなのですが、
なんかとても回りくどいことを言って、本心をはぐらかしている。
僕は勝海舟はこの時点では福沢諭吉を評価していたのではないかと思うのです。

けれど、福沢諭吉は慶応義塾の運営を最優先し、明治政府には出仕しません。
勝海舟は福沢諭吉を金儲けの亡者と考え、徹底的に無視し始めます。

明治政府は徴兵令を出して、若者の兵役を義務化するのですが、
学生については免除されることになっていました。
ところが、この特例が東京大学以外は取り払われ、
優れた人材がすべて東京大学に流れ込むという事態になります。
慶応義塾からも、生徒がどんどん抜けて行って、経営危機に直面します。
「資金援助をお願いできませんか」
と福沢諭吉は勝海舟に頭を下げるのですが、勝海舟はこれを突っぱねます。
「お前さんにはまだ売るものがあるだろう。校舎と土地がある限りは手を貸さないよ」
……俺はお前さんの金儲けの片棒を担ぐ気はないよ、という事だと思います。

慶応義塾は、それでも何とか経営を立て直すのですが、
福沢諭吉と勝海舟の関係は、完全に切れたのではないかと思います。

 6

ところが明治24年だったかな、福沢諭吉が突然論文を上梓して勝海舟に突き付けます。
曰く「痩我慢の説」です。
これは海軍卿となって明治政府に出仕した勝海舟(及び榎本武揚)に対する批判の書で、
幕臣が味方の苦境も省みず、己の栄達に腐心することをこき下ろしています。
「武人たるもの、最後まで戦い抜いてこそではないか、
なぜあなたは無血開城なんてしたのか、
なぜ痩せ我慢をしてでも抵抗をしなかったのか、
多くの幕臣を困窮させておいて、なんで海軍卿なんてものになってるのか」
と、勝海舟の生き方を批判しています。

勝海舟はその論文を読み、
「俺は自分の正しいと思うことをやっただけだ、どう考えるかは他人の自由だ」
と言って、出版を黙認します。
榎本は、忙しいからと言ってこの件からは逃げたようです。

福沢諭吉は、結局この論文を引き出しにしまって、公開はしなかったのですが、
その存在が噂となり、明治30年を過ぎた頃になって発表しています。
旧幕臣たちは手を打って喜んだことでしょう。

この事実をどう考えるかは、難しいところです。
作家の司馬遼太郎は「勝海舟の勝ち」としています。
たとえ逆臣の汚名にまみれても、新国家建設を優先した勝が偉い、ということです。
明治も二十年以上経っているのに、今更維新の愚痴を書いた福沢は、
器が小さいとも言えます。

勝海舟は晩年のインタビューで、福沢諭吉を小馬鹿にし続けます。
あいつは弱いやつだ、維新のときは本所に隠れていたっていうぜと、
徹底的に弱虫扱いします。人間が小さい、金儲けしか考えていない。
あいつはただの学者だ、徳川幕府の中にいて日本を見ていない、
百年先の未来まで考えが及ばない……と、散々な書きようです。

でもこれ、福沢諭吉の立場からすると、
勝海舟くらい日本を捻じ曲げた人間はいないということになります。
福沢諭吉は幕府に徴用され、そのいいところも悪いところも見てきました。
少なくとも、幕府には次の時代を担う優れた人材が集められていたのです。
明六会のメンバーを見るだけでも、それはそれはすごいものです。
これらの人は、幕府の洋学研究の最高機関である開成所のメンバーで、
西周など慶喜公の指示でオランダあたりまで行って議会制度などの研究をしている。
もし、勝海舟が無血開城などせず、幕府軍が徹底抗戦をしていたら、
新しい時代の政府では、徳川の人材を完全に排除することは出来ず、
これらの人が国家のかじ取りをしていた可能性もあります。
すくなくとも、薩長藩閥政治はかなり弱められたはずです。
東北出身者が逆賊として政府の要職につけない、なんてことも回避できたかもしれない。

福沢諭吉だって意味のない戦争は嫌でしょう。
彼は血を見るのが生理的に大嫌いという人で、ロシアだったかな、
西洋の手術を見学中に失神したという、武士にあるまじき失態までしでかしています。
でも、あの時は戦うべきだった。
そうすれば、日本が富国強兵に邁進することもなく、経済中心の国になっていたはずだ。
軍事国家の建設は、一時の脅威を去ることは出来ても、
百年のちにはかならず行き詰まる。
もし、幕府の人材が明治政府の要職に加わっていたら、
攘夷派が幅を利かす薩長の明治政府よりよほど文明的な国家になっていたはずだ。
そういう国家であったなら、福沢諭吉は喜んで仕官していたかもしれません。
「文明論之概略」を読むと、そんな風に感じられます。

僕は「痩我慢の説」はそういう福沢諭吉の主張が下敷きになっていると考えているのです。
ただ、そうははっきりと書けないので、勝海舟や榎本武揚らを吊し上げることで、
幕府は簡単に降参してはいけなかったという自分の考えを
残したかったのではないでしょうか。

福沢諭吉の考えかあの当時の世界情勢で正しかったかどうかは難しいところで、
目の前のロシアの脅威を考えますと、
薩長が明治政府を作ってくれて良かったと思うのですが、
その後に調子に乗って軍部の独走を許す結果になったことを考えれば、
福沢諭吉が正しかったようにも思えるのです。

日本は戦後、経済によって復活しました。
経済によって西洋諸国と対等に渡り合い、信頼関係を築くことも出来たと思います。
そんで、日本が経済によって国家建設をするべきだ主張した福沢諭吉さんは、
日本の高額紙幣の肖像となり、
世界中を駆け回っています。
「諭吉」といえば、一万円札。なにか、似つかわしいような気もします。

世界はお金で回っている。決して軍事力で動いているわけではない。
それが現代文明の現状である。
いつか、人類がより高度な文明に達する日が来るかもしれないけど、
それまでは経済を勉強して、各国の人々と「交際」を盛んにするべきである。

「文明論之概略」はとても面白い本なので、
もっと読まれるべきだと、個人的には思うのです。


注)これは漫画描きの妄想なので、定説でもなんでもありません。
どちらかと言えば暴論だと思います。
あと、めんどくさいので本文中の抜粋はほとんど筆者の記憶による意訳とか創作です。
本を読んだらそんなこと書いてないじゃんとなるかもしれませんが、
まあ、おおよそ間違ったことは書いていないと思います。



2014年9月17日 (水)

文明開化の男たち~福沢諭吉~

(※以下は何か月か前に書いた文章です。一部過去のブログと重複します)

 1

福沢諭吉と言えば、一万円札です。
ああ、福沢先生といっぱいお知り合いになりたい!

それはさておき。

自分と福沢諭吉との出会いは太田じろうさんの漫画でした。
この本は今でも学研の本として手に入ります。学研さんえらい。

初版が1980年とあります。35年前の漫画です。

はじめて読んだのはたぶん学校の図書館です。日本の偉人に興味があったので、
「学研まんが 人物日本史」というシリーズを読みまくりました。
そして、「西郷隆盛」と「福沢諭吉」を担当されていた太田じろうさん、
この方の絵に惚れました。
すごく上手い絵です。
ネットでいろいろ調べていたら、漫画家さんでこの方の絵をべた褒めしている方がいて、
その方がアマゾンのレビューに怒っていたのですが、
自分もまったく共感します。太田じろうさんの絵はすごいです。

で、何年かしてからお小遣いで買い求めまして、
「西郷隆盛」と「福沢諭吉」を繰り返し読みふけりました。

内容も面白いですが、やっぱり自分は絵に惚れていたのです。
ある意味、とても影響を受けた作家さんだと思います。

で、結果として西郷隆盛と福沢諭吉の人生についてはある程度頭に刷り込まれまして、
幕末から明治への日本の歴史を考えるとき、この漫画の知識が骨格になっています。

ですから、福沢諭吉について語る時はまず太田じろうさんの漫画を出さなきゃいけない。

次に手塚治虫先生の「陽だまりの樹」です。
これは、触れていいんだろうかと躊躇してしまうのだけど、
福沢諭吉の「福翁自伝」には手塚治虫の御先祖様が出てきます。
それも、手塚先生からすれば「こんちくしょう」と思うような書かれ方です。

若い頃の福沢諭吉は蘭学者緒方洪庵の「適塾」で蘭学を勉強しています。
「福翁自伝」で諭吉が「適塾」について語る時、自分の青春の思い出ですから、
それは生き生きと面白おかしく回想するわけです。
豚の仕分けをしてその肉を食べたとか、橋の上からみんなで皿を飛ばして遊んだとか、
川に船を浮かべてアンモニアの生成実験を行ってえらい目にあったとか。

こういう愉快な話は手塚先生の漫画の中でも生き生きと再現されています。

ところが福沢諭吉がなんか人相が悪い。目つきが陰険です。

後年、「福翁自伝」を読むことがあって、手塚先生のご先祖のくだりを読んで驚いた。
……あんまりひどいんで簡潔に書くと、手塚君の遊女屋通いがひどいんで説教をした。
今度行ったら坊主にすると約束したのだが、
それから真面目に勉強し出したので面白くない。
そこで遊女からの手紙をでっち上げて遊女屋に行かせた。
諭吉先生、鬼の首を取ったように喜んで、手塚君を坊主にしようとした。
まわりが止めるので酒と食い物を奢らせて手打ちにした。

これでは福沢諭吉の面相も悪くなろうってもんです。
案外、手塚先生が「陽だまりの樹」を描いた執筆動機は、
ご先祖様の名誉挽回だったのかもしれません。

 2

別に弁護するわけぢゃありませんが、福沢諭吉は手塚君に嫉妬していたのだと思います。
なにしろ福沢は貧乏な中津藩の、その中でも貧乏な侍の家の出身ですから、
さんざん苦労して緒方洪庵の元に弟子入りしています。
それなのに一方の手塚君は徳川家の御典医か何かの子弟だったと思うけど、
たいそう立派な家の出て、身なりも人物も立派だったりします。
そういう立派な人が大坂の「適塾」まで学問をしに来ている。
お金があるから島原の女郎まで買っている。(福沢は生涯で奥さん一人のみ)
ちょっと面白くない。いじってやれと思うのは、まあ、無理ないのかもしれません。
なにしろ、まだ二十歳くらいの青年のやることですから。

そんな貧乏な福沢諭吉ですが、百年後には日本の高額紙幣の肖像になるわけですから、
大したものです。
もっとも、今日本の紙幣になってる人って、みんな貧乏で苦労した方たちばかりですけど。

福沢諭吉の歴史的な功績はたくさんあります。
ベストセラー作家として「西洋事情」「学問のすゝめ」の著作があります。
これらの本が飛ぶように売れて、一般的な日本人の思想は大きく変わりました。
他にも、慶応義塾の創設とか、いろいろありますが、
一番影響力をもったのは、上にあげた二冊(分本だけど)でしょう。

「西洋事情」は自身の西欧体験を元に書かれた著作です。
慶応三年、あと一年で江戸が終わるという時期に発売されています。
西欧の紹介として、法制度から始めて最先端の文明に至るまで、
江戸時代の一般人にも理解できるよう、見事に構成されています。
(※洋書の翻訳抜粋だそうです)
僕はななめ読みですけど、
見世物的に「ガス灯だぞ!」「鉄道だぞ!」「電信だぞ!」「すごいだろう!」
みたいな書かれ方はしていません。
冒頭から西洋が何かを、社会制度からだんだんと説明しています。

個人的に面白かったのは学校のところで、
六三三制みたいなものや、運動場や鉄棒、ブランコ投の器具が紹介され、
学問には健康な肉体が必要なのだと記されています。
実際、翌年に慶応義塾の校舎が作られた時、そこには運動場とブランコがありました。

現代人の日常に福沢諭吉が与えた影響は甚大だと思います。

 3

そんな福沢諭吉ですが、彼は幕府から給料をもらっていた幕臣でもありました。
彼は当時数少ない、英語が読める知識人だったのです。(話す方は無茶苦茶でしたけど)

福沢諭吉が江戸無血開城後、彰義隊で有名な上野戦争のとき、
慶応義塾で経済の講義を平然と行ったのは有名な話ですが、
この時の彼の頭の中は、「いよいよ文明開化だ!」という考えはなかったはずです。

薩長が幕府を潰して文明開化の流れを止めようとしている。

たぶん、こうじゃなかったかと思います。
だからこそ、学生たちにオランダの例を出して、
「オランダはナポレオン戦争のときフランスの支配を受けたけれど、
日本の出島にある領事館でオランダ国旗をかかげ続けたのだ。
だから諸君も出島のオランダ人の気概に習って、勉学をやめてはならないのだ」
なんて話になったのでしょう。
この場合のオランダは徳川幕府であり、フランスは薩長ではないかと思います。

自分などはずっと勘違いをしていたのですが、
文明開化というのは古い徳川幕府を新しい明治政府が倒したことで起こったこと、
ではないみたいです。
徳川幕府は慶喜公や小栗上総介らの政策によって文明開化を推進していました。
慶応三年には築地のあたりに外国人居留地を作り、
築地ホテルなんてハイカラなものまで建設中でした。

そもそも、福沢諭吉が慶応義塾を作ったのは、
江戸の中津藩邸が外国人居留地の場所としてお召し上げになったため、
そこで私塾を続けられなくなった、というのが理由だったりします。

福沢の目から見れば、江戸で文明開化は始まっていたのです。
外国人は普通に日本橋あたりを歩き、芝居小屋にも入れましたし、
料亭で食事することも出来ました。
イギリスの日本語通詞アーネスト・サトウの本を読むと、
大政奉還の前日、彼は江戸の酒どころで栁川春三と鰻飯を食べています。
そればかりか、珍しい本を求めて古本屋通いみたいなことまでやっている。

外国人が江戸庶民の生活に入ってくれば、文明開化は必然です。

ところがその江戸の町を薩長が占領してしまう。
そのあと「これからは養蚕の時代だ」というので、
江戸文化の粋をこらした大名屋敷を破壊して、桑畑なんて作り始めている。

福沢諭吉の目から見れば、明治政府は文明開化の敵と映ったのではないでしょうか。

 4

明治維新というのは、徳川による文明開化と明治政府による文明開化、
ふたつの文明開化の戦いという側面もあるのかもしれません。

このふたつの文明開化の違いは、外国との接し方にあると僕は思います。

徳川幕府の考えた文明開化は、外国勢力に対して割とオープンです。
徳川将軍家からしてみれば、攘夷という思想はもっとも遠いものです。
外国と戦争をするよりは、のらりくらり誤魔化してうやむやにしてしまえという、
よく言えば平和的、悪く言えば、対処療法的なその場しのぎの文明開化です。

対する明治政府の文明開化は、もっと現実的です。
「国を富ませ、諸国列強と肩を並べる強大な国家を作り上げる」

思わず、

「この文明開化の根っこには攘夷思想があり、富国強兵はその進化型である」

と書いてしまいそうになるのですが、それはさすがに言い過ぎかもしれません。しかし、
明治時代が国民の生活よりは軍事的な国家体制の建設を急いだのは間違いありません。

僕はその一方が正しく、一方が間違っていると言えるほど勉強したわけではありませんが、
明治維新がふたつの文明開化の可能性のうちの一つだったというのは、
まず、間違いがなかろうと思います。

(ここまで書いて文章が中断しています。このあと別の文章を作り直していますが、
これはこれで悪くないので、載せます。続きは「諭吉と海舟」の方で)

2014年7月 7日 (月)

文明開化の男たち~肥後七左衛門~

 1

肥後七左衛門という名前は、歴史上まったく有名ではありません。
実のところ、僕も彼についてはほとんど何も知らないのです。
ひょっとしたら、彼の生まれた鹿児島あたりに行けば、何かわかるかもしれませんが、
本やネットで調べても、その人となりはイマイチ良くわかりません。
ウィキペディアにも、彼の項目は存在しないのです。

そんな謎の人物である「肥後七左衛門」ですが、
歴史の本を読んでいると時々お目にかかります。
……決して主役ではないけれど、ちょこちょこ脇役で出てくる謎の人物、
「肥後七左衛門」とはいったい何者なのでしょうか。

肥後七左衛門は幕末の薩摩藩士です。
あの名君、島津斉彬公に仕えていました。
幕末の歴史好きならば島津斉彬公の名前を知らない人はいないと思うのですが、
大河ドラマ「篤姫」で高橋英樹さんが演じておられた方です。

斉彬公は鎖国時代の日本で早くから西欧の脅威を認識していて、
「日本も西欧化しなくては」
と考えました。
そのために西洋のものを研究させ、実際に作らせたりしたのです。
パンなども作らせましたし、洋式の帆船や蒸気船、それから電信装置まで作らせています。
モールス信号のツートンツートンやるあれですね。
離れた場所で一瞬で情報を伝達する当時最先端の科学技術です。

その蒸気機関と電信装置の両方の開発に、肥後七左衛門という人が登場します。

肥後七左衛門は今でいう工学博士みたいな人です。日本最先端の科学者ですね。
斉彬公の命を受けた肥後七左衛門をはじめとする学者が、蒸気機関を作り、
実際に船に取りつけ、洋上を走らせました。
なかなかすごい人物です。

薩摩で作られた洋式船は江戸までやってきて、幕府に献上されています。
ただ、見た目がどうしても洋式船なので、
そのままでは「またペリーの黒船が来た」と誤解されるかもしれません。
そこで、この船には幕府が使っていた白地に赤い丸の旗をつけることになりました。
日の丸ですね。

いつ頃の話か知りませんが、江戸の薩摩藩邸で肥後七左衛門が斉彬公に呼び出されました。
何だろうと御前に参上してみると、
「お前、絵がうまいからこれをカッコよくアレンジしてくれる?」
と一枚の紙を渡されました。
そこには斉彬公直筆の赤い丸が書かれていました。
「……これは何でございましょう?」
「船に掲げる旗じゃ、日本の船だと見分けるためにそれを付けるのじゃ」
そこで肥後七左衛門は白地と赤い丸がカッコよくまとまるように、研究をしたと言います。
日本の国旗についてはその来歴に諸説がありますが、
肥後七左衛門も日本の日の丸を完成させた一人だと言われています。

蒸気機関を作り、日の丸までデザインするという天才科学者「肥後七左衛門」なのですが、
彼の名前はそのあとも思わぬところで飛び出してきます。

幕府は西欧の言語や科学技術を研究するため、開成所という学問機関を作り、
そこに日本中の英才を集めていました。
いちおう建前は旗本子弟のための教育機関なのですが、
家柄の良いお坊ちゃまたちに学問に対する情熱などあろうはずもなく、
学者たちが教育そっちのけで自らの研究に励む場となっていました。

そこには川本幸民という天才蘭学者がおりまして、カメラを研究したり、
日本で初めてビールを作ったりしていたのですが、
その人物が日本で初めて「化学」の教室を開成所に開設したとき、
そのメンバーに「肥後七左衛門」の名前が出てきます。
開成所は幕府の最高の学問機関であり、明治になってから東京大学に進化するのですが、
そんなところに薩摩藩士の肥後七左衛門の名前が出てくるのは、いろいろ感慨深いです。
(ちなみに、栁川春三の名前もメンバーの中にあります)

島津斉彬公という薩摩の殿様は、
日本は一つにまとまって西欧に対抗するべきだと考えていた人で、
そのためには幕府に協力することが大切だと考えていました。
だから蒸気船の技術も薩摩が独り占めするのではなく、幕府に解放しましたし、
肥後七左衛門という人材も幕府に貸し与えていました。
肥後七左衛門も当時の最先端の日本の学者たちと接し、化学の勉強までしている。
おそらく、この頃が肥後七左衛門にとって一番幸せな時期だったのではないでしょうか。

肥後七左衛門にとって不幸だったのは、島津斉彬公が早くに亡くなってしまったことです。
薩摩の殿様がもう少し長生きしていたら、
肥後七左衛門は歴史に名前を残していたかもしれません。
蒸気機関を作り、日本の国旗をデザインし、日本で最初の化学教室の創立メンバーの一人、
こんな人物が、なんで無名のままなのでしょうか。

 2

僕が次に肥後七左衛門の名前を見つけたのは「福翁自伝」の中です。

福沢諭吉が晩年に書いた自伝の中に、肥後七左衛門の名前がちょっとだけ出てきます。
福沢諭吉は中津藩の貧乏藩士なのですが、
学問の情熱止みがたく、さんざん苦労の末に大阪で適塾の緒方洪庵に学び、
漫画の神様、手塚治虫のご先祖様をいじめたりしたのですが、
それは次にまわすとして、
肥後七左衛門が福沢諭吉を訪ねたのは、薩英戦争の数か月後のことです。

当時の福沢諭吉は江戸の中津藩邸で私塾を開いていました。
要領のいい諭吉はまんまと幕府の使節団にもぐりこみ、
アメリカに行ったりヨーロッパに行ったりしたのですが、
その過程で一人の薩摩藩士と仲良くなります。
松木弘安といいます。

松木弘安は先ほど出てきた大学者川本幸民の弟子で、
優秀な科学者でした。
島津斉彬公が電信の実験をさせたとき、
肥後七左衛門と一緒にこの実験に加わっています。

その松木弘安が薩英戦争のどさぐさで行方不明になってしまったのです。

斉彬公の亡くなった後、薩摩藩の行列が生麦村で外国人を無礼討ちにするという、
「生麦事件」
を起こします。その結果起こったのが「薩英戦争」です。
イギリスの艦隊が鹿児島湾の防備隊との間で砲撃戦を行います。
この時、松木弘安の乗っていた船がイギリス軍に鹵獲され、
それ以後彼の消息が分からなくなったのです。

松木弘安の友人である福沢諭吉はとても悲しみました。もう死んでしまったに違いない。

そんな傷心の福沢の元に肥後七左衛門が訪ねて来たのです。

「福沢殿、松木弘安は生きておりますぞ」

なんでも、一度はイギリスの捕虜となった松木弘安ですが、
「今解放されたらスパイを疑われて攘夷派に殺される」
と考え、逃げ回っていたらしいのです。
蘭学者というのは攘夷派にとっては西欧かぶれの売国奴に見えてしまうもの、
ただでさえ風当たりが強いのに敵のイギリス人と接触したとなれば、
それがたとえ捕虜であっても、内通を疑われ切腹をさせられるかもしれない。
……さんざん逃げ回った末、
「薩摩ではイギリスとの戦争後、攘夷派は大人しくなっている」
という話を聞き、ようやく江戸藩邸に所在を知らせたわけです。

肥後七左衛門は松木弘安の生存を知り、そのことを福沢諭吉に知らせに来たのでした。
「会いたいのなら、会えるように私が手配をしましょう」

……僕が肥後七左衛門について調べていて、彼の肉声に接したのはこれだけなのですが、
わざわざ福沢諭吉のところへ知らせに来たことといい、この言葉といい、
すごく人情味のあるいい人だなと思うのです。

そんな肥後七左衛門ですが、
次に名前が出てくるのは恐ろしく血生臭い事件の関係者としてです。
いわく「薩摩藩邸焼き討ち事件」です。

 3

斉彬公時代は徳川幕府に協力的だった薩摩藩ですが、
長州征伐あたりから態度がガラッと変わって来ます。
例の坂本竜馬とかいう武器商人の仲介で、密かに薩長同盟なんて結んでいたりします。

「幕府を倒して薩長で帝を中心の新国家を作る」

幕府の方でも薩摩の不穏な動きはわかってきますので、
開成所にいた肥後七左衛門も、自然と幕府側の知己との交流を止めたと思われます。
福沢諭吉と会うという事もなくなったのではないでしょうか。
ただ、それでも肥後七左衛門は江戸にいて、エンジニアとして、
薩摩藩の蒸気船の修理をしていたのではないかと、僕は空想しています。

慶応三年の秋のこと、益満休之助という薩摩藩士が大坂から江戸の薩摩藩邸に来ます。
彼は伊牟田尚平(ヒュースケン暗殺犯の一人)や相楽総三(反幕浪人)を連れてきて、
江戸市中でテロ行為を始めます。
徳川を暴発させて天皇側に弓を引かせるための挑発行為ですね。
金持ちの家に押し入ったり、放火をしたり、なかなかやり方がえげつない。

江戸城の二の丸が炎上したあたりで、徳川の首脳も堪忍袋の緒が切れます。
「あいつら全員ひっ捕らえろ」
という命令の下、庄内藩他多数の治安部隊が三田の薩摩藩邸を取り囲みます。

その結果が「薩摩藩邸焼き討ち事件」となるのですが、
徳川としては江戸の治安を守るために不埒者を成敗した、というのが正しく、
「焼き討ち」なんてヒャッホーなことはしていない。
最初に火をかけたのは薩摩側だという説もある。
このへん、歴史は勝者によって作られるものなので、僕も深くは突っ込めない。
とにかく、このとき捕えられた薩摩側の重要人物に、
益満休之助とともに肥後七左衛門の名前があるのです。

取り調べは過酷を極めたのではないかと思います。
事件の翌日には小栗上総介配下の小出秀実(ほづみ)が北町奉行になっています。
……この人物もかなり面白い人で、日本の外交官のハシリと言ってもいいのですが、
この事件に関わったのが仇になったか、歴史的にはほとんど注目されていません。

なにしろ、徳川としては薩摩の卑劣な行いを明白にしなくてはいけない。
拷問くらいはやったのではないでしょうか。
益満休之助とともに、肥後七左衛門もきつい取り調べを受けたのではないかと思います。

ところが、慶応四年の正月が終わったあたりから風向きが変わってきます。

益満休之助らが江戸で騒動を起こしたため、大坂の徳川軍が薩摩憎しで京都へと進軍し、
それが鳥羽伏見の戦いとなり、幕府の瓦解へとつながったのです。
益満休之助の計略はまんまと成功したというわけです。

鳥羽伏見の戦いに負けた慶喜公は、開陽丸に乗って大坂から江戸に逃げてきました。
彼には帝と争う気はなく、後始末を勝海舟にまかせて謹慎します。
その勝海舟が、伝馬町の犯罪者の一斉解放を行っています。

勝海舟の自伝に犯罪者と面会して、一人一人と話をするくだりがありますが、
おそらくこの時、薩摩藩の「テロリスト」とも面会したのではないでしょうか。

肥後七左衛門も益満休之助とともに勝海舟と面談し、
そのまま勝海舟のところに預けられることになったのかもしれません
(捕縛後すぐ勝海舟が預かったと書いてある本もあります)

……ここから先は有名な話ですが、益満休之助は勝海舟に頼まれ、
山岡鉄舟とともに西郷隆盛の東征軍に談判に向かいます。
薩摩藩士の益満休之助が一緒だったために山岡鉄舟は西郷隆盛と面談することが出来、
それが勝海舟と西郷隆盛の会見となり、
江戸城無血開城へとつながっていくのです。

日本史を動かしたという意味で、益満休之助は歴史上の重要人物なのですが、
なにしろ現代の目から見ればテロリスト以外の何者でもないため、評価は高くありません。
当時の薩摩側も「こいつらはまずい」という自覚があったため、
「薩摩藩邸焼き討ち事件」の関係者はみんなこっそりと始末されます。
益満休之助も彰義隊との戦闘で流れ弾に当たった傷がもとで戦死、となっていますが、
「薩摩に消された」とはっきり書いてある歴史書を、自分は読んだことがあります。
かなりアマチュアっぽい片寄った意見だとは思いますけど。

京都に脱出した伊牟田尚平も、相楽総三も、イチャモンをつけられ切腹になっています。
彼らが生き残って
「徳川軍を暴発させたのは俺たちが江戸で暴れたからだ」
なんて吹聴されたら、薩摩や新政府が困ったことになっただろうことは間違いありません。

では、肥後七左衛門はどうなったのでしょうか?

彼は幸いにして生き延び、明治の新時代を迎えることが出来たようです。
森有礼の結婚式で福沢諭吉とともに宴席に連なる彼の名前が確認できます。
ただ、このあとの彼の消息については、僕にはまるでわからなかったりします。

肥後七左衛門が関わった薩摩藩の電信の研究も、
明治初年にあの松木弘安による東京ー横浜間の電信開通となるのですが、
そこに肥後七左衛門の名前はないようです。
「薩摩藩邸焼き討ち事件」に関わったために、彼の存在が微妙なものに変わった、
ということなのかもしれません。

歴史からは抹殺されかかっている肥後七左衛門ですが、
福沢諭吉が自伝にエピソードを残してくれたおかげで、
かろうじてその人柄が偲ばれるわけです。
「福翁自伝」は明治期に書かれたものであり、
政府にとって都合の悪い人物の話などは極力排除されています。
だから、肥後七左衛門の話も、天才栁川春三のことも、
福沢諭吉はちょこっとずつしか書き残していません。
でも、本当はこれらの人達ともっと深い交流があったのではないかと想像すると、
けっこう面白いです。
歴史は、本当に微妙なさじ加減で変わってしまう、
慶応三年の12月に肥後七左衛門が江戸にいなかったら、
彼は幕末の優秀な科学者として名前が残せたのかもしれません。


2014年7月 5日 (土)

文明開化の男たち~栁川春三~

幕末の貴重な証言を外国人の立場から残している人物に、アーネスト・サトウがいる。
この人はイギリス公使の日本語通訳として、オールコックとパークス両英国公使に仕えた。
その人物が晩年にまとめた日本見聞録に、こんな一行がある。

 外国語学校の教師、栁川春三(しゅんさん)と一緒に霊巌橋の大黒屋で鰻飯を食べた。

大政奉還の前日の話なのだけど、何の脈絡もなく飛び出したこの一文は、結構おもしろい。
まず、外国語学校とは幕府の開成所のこと。
幕府が徳川の幕臣の洋学教育のために開設した教育機関で、元は「蕃書調所」と言った。
日本の洋学研究の最高峰であり、当時の英才が日本国中から集まっていた。
その中でもとびきりの天才が、栁川春三である。

出身は名古屋で個人的な話だけど僕と同郷である。
幕末の有名人で名古屋出身の人はあんまりいないので、ちょっとうれしい。

天才であるけれどそれを鼻にかけず、ときに河童の宴会芸を披露する。
たぶん女好きで吉原から開成所に通ってくる。
何でこの人が幕末史の中で注目されないのか、不思議なくらいである。

まあ、理由ははっきりしているのだ。
幕末史の中で悪名を轟かせた新撰組などは敵として名前が残るけれど、
幕府の中にあって文明開化を準備していた天才たちは、
新政府に絶対の忠誠を尽くさない限り、歴史から抹殺されてしまう。
福沢諭吉はその数少ない例外で、新政府に睨まれても「学問のすゝめ」の諭吉先生として、
日本の国民から幅広く支持されたけれど、
栁川春三には、そのための時間がまったく与えられなかった。

栁川春三の学才はまず語学の方面で発揮される。
12歳にしてオランダの砲術書を読み、成人してからは各国語を読み分けるようになる。
幕府に取り立てられてからは主に横浜からもたらされる洋文字の新聞を翻訳し、
幕府にとって貴重な情報を提供する。
また、西洋科学にも興味を示し、原子理論も理解していたという。
開成所教授筆頭の川本幸民が自分のあとはこの男に開成所を任せようとした秀英、
大天才なのである。

この栁川春三も、以前に紹介したみねちゃんの実家に頻繁に出入りしており、
みねちゃん直筆の似顔絵まで残っている。……ひょっとこにしか見えないけれど。

(※みねについての文章は下の方に付け足します)

冒頭に上げたアーネスト・サトウと鰻飯を食べたのは慶応三年十一月のことで、
この頃には外国人が自由に江戸の町を歩き回っていたことが垣間見える。

当時幕府の主導権を握っていたのは小栗上野介である。(将軍慶喜公はずっと大坂)
彼ら改革派の指揮の下、江戸では文明開化への流れが起きつつあった。
まず、外国人の飲食店への入店や芝居見物が許可された。
それと、築地のあたりに外国人居留地が許可され、「築地ホテル」が建設中であった。
すべて幕府によってなされた事業である。
さらに小栗は横須賀に巨大な軍艦ドッグまで建設している。
幕府は決して、旧弊で時代遅れの頑固者ではなかった。

さて、建設中の外国人居留地だけど、
実は築地鉄砲洲には中津藩の藩邸があり、福沢諭吉が私塾を開いていた。
外国人が江戸の町に入ってくることは諭吉先生にとっては喜ばしい事だったろうけど、
自分が追い出されるハメとなるなんてことは、夢にも思わなかっただろう。
ここを追い出されて新銭座に新しく作ったのが慶応義塾となる。

文明開化は何も薩長が始めたことではない。
江戸の役人や学者たちは早くからそれを準備していた。
このまま何事もなければ、文明開化は多くの知識人の手によって成し遂げられたはずだ。
栁川春三も、もちろんその一人である。
彼は幕府による文明開化の最先端を走っていた。
そこへ西国の田舎者たちがやってきて、彼らの事業を台無しにしてしまった。

栁川春三の悲劇は、最後まで新政府に反抗したところにある。
それはとても英雄的で、無謀な抵抗であった。

栁川春三は王政復古後に開成所の頭取に就任するや、
西郷隆盛の新政府軍が江戸に押し寄せてくるのも構わず、
最後まで開成所を続けようとする。
そして、真実を日本国中に伝えるために、新聞の発行を始める。
ちなみに、これは日本最初期の新聞発行なのだけど、
経緯が経緯だけに、そのことを顕彰しようとする者はあんまりいない。

その「中外新聞」は冊子になっており、
横浜からもたらされる外国の情報と、迫りくる西郷軍の状況を当時の交通機関を使って、
日本中に知らせた。
もちろん、長年洋文字の新聞を翻訳し続けた体験がものを言っている。
彼は筆を走らせた。正義がどちらにあるか、事実を世に知らしめることで、
天の判断を仰ぎたいような、そんな気持ちであっただろう。
あの彰義隊の上野戦争の翌日には日本最初の号外まで出している。

しかし、徳川はあっけなく江戸を新政府に明け渡してしまう。
日本最初のジャーナリストである栁川春三は、中外新聞の発行を止めざるを得なかった。
(45号まで発行)

さて、
新政府は幕府を潰したはいいが、そのあと優秀な人材を集めることに苦労し始める。
「福翁自伝」によると、幕府の人間で真っ先に声をかけられた学者は三人だったそうな。

福沢諭吉、神田孝平、そして栁川春三である。

福沢は病気を理由に出仕を断り続けたが(たぶん仮病)栁川春三は、
「大坂に行くのは嫌だ」
とこれを拒絶する。
理由はわからない。江戸でなら出仕してもいいという話だから、案外、
大好物の江戸のウナギが食べられなくなるのが嫌だとか、そんな理由かもしれない。
実際、新政府が江戸に移ってきてからはこれに出仕している。

幕府の開成所は新政府に接収され、名前を開成学校と改めた。
栁川春三はここの大学少博士に任命された。
開成学校はのちの東大へとつながる学問の最高機関であり、高待遇だと思うのだけど、
栁川春三としては複雑な気持ちだったに違いない。

何を考えたのか、彼は突然あの「中外新聞」を復活させてしまう。

この新聞は旧幕府寄りの論陣を張っていたため、新聞の発行はたちまち中止。
栁川春三は開成学校の教授の座を追われる結果となる。

彼はこの頃から、労咳(結核)を患い始めていたのかもしれない。

明治三年、39歳の若さで栁川春三は死ぬ。
あんまり若いのでちょっとびっくりするけれど、この人は本当に早熟の天才だったのだ。
あまりにもありがちな論評だけど、彼がもしあと三十年生きていたら、
日本のマスコミはまったく別のものになっていたかもしれない。
日本の進路だって、大きく変わっていたかもしれない。
とにかく、いろんな意味でもったいない人だった。

ところで、
彼の死には一つの伝説があり、この伝説があまりにも彼らしいので、
ちょっと笑ってしまう。そして、しんみりする。

栁川春三はその日、友人の宇都宮三郎とウナギの蒲焼を食べており、
食べ終わって「ああ、うまかった」と言うや、そのまま倒れて死んでしまったという。

よっぽどウナギが好きだったのか、その人物がみんなから愛されていたのか、
こういう伝説が残るというのは、歴史の美しい一面を見るようで、ちょっとうれしい。

ちなみに、福沢諭吉はウナギや川魚が苦手だったりする。

「福翁自伝」には栁川春三のような政府の要注意人物の話は当然排除されているのだけど、
福沢と栁川春三は同じ桂川甫周の学者サロンに頻繁に足を運んでおり、
それなりに交流もあったと思う。だいたい、栁川春三が大坂に行きたくないという話を、
歴史上に残したのは福沢諭吉なのである。

自分は想像するのだけど、栁川春三が福沢を鰻屋に誘い、
それを福沢が必死に断るという漫画みたいな展開が、
歴史の上で起こっていたかもしれない。個人的には絶対あったと思う。
だって、あのアーネスト・サトウを霊嚴橋の鰻屋に連れて行ったのは、
どう考えても、栁川春三なのだから。

以上、歴史ド素人による勝手な人物伝でした。
自分の読んだエピソードをつなぎ合わせて構成しているので、
間違いや勘違いがあるかもしれません。
そこは何とぞご容赦ください。

(※以下はみねについての文章です)

最近知ったのだけど、
「名ごりの夢」という本に福沢諭吉が出てくる。
原著で読みたいのだけど、高いので解説本とノベライズされたものを読んでみた。

「名ごりの夢」は幕府の御典医、桂川甫周の娘みねが、
昭和になってから御維新の前後を回想したもので、
その子供の頃のエピソードに福沢諭吉が出てくる。

桂川と言えば蘭方医としては超名門で、
その屋敷はさながら学者のサロンと化していた。
開成所の栁川春三なども頻繁に出入りしていて、愉快なエピソードを残している。

そういう蘭学者の社交場だから、大坂から江戸に下ってきた福沢諭吉は、
真っ先にこの家の門を叩いた。
当時のエピソードで、桂川甫周の前に緊張しながら座っている福沢諭吉の足袋に、
大きな穴が開いていた、というのがある。
「名ごりの夢」の作者「みね」はその頃五歳くらいじゃないかと思うのだけど、
その穴に松葉の先を差し込んで遊んでいたらしい。
当の福沢諭吉はたまったものじゃなかっただろう。

福沢諭吉が桂川家に出入りするようになって一年ほど経ったころ、
思わぬ話が耳に飛び込んでくる。

「今度幕府がアメリカに使節団を派遣するそうだ」

なんでも、桂川甫周の妻の兄、木村摂津守が使節の一員に選ばれたという。
当時日本は開国したばかりで、太平洋を渡って異国に行くなんて夢のまた夢、
生きて帰ってこられるかどうかもわからない。

「木村様も災難だね」

なんて話をしていたら福沢諭吉がものすごい勢いでこの話に飛びついてきた。

「私を木村様に紹介してください!」

福沢諭吉は桂川甫周のつてで木村摂津守と面会して、
見事「下僕」として幕府の使節団に加わることとなる。
歴史的には有名なエピソードだから「ああそうか」と思うけれど、
九州の中津藩の下級藩士が幕府の使節団に加わったというのは、
やっぱりすごいことなんじゃないか。
福沢が桂川家に出入りしていなければ、この展開はなかったことだろう。

さて、アメリカを体験して半年後に日本に帰って来た福沢諭吉は、
「みね」のためにアメリカ土産を持ってくる。
当時はまだ珍しかった「しゃぼん」と「りぼん」である。
みねは晩年まで石鹸の入っていた袋とリボンを大切に持ち続けていたそうだ。

補記)
霊巌橋の大黒屋は幕末の江戸の有名店だったらしく、
大坂から逃げ帰った慶喜公がここから鰻を取り寄せたりしている。
将軍様がわざわざ取り寄せるくらいだから、よっぽどおいしかったのだろう。
最近は鰻も高騰して滅多に食べられなくなったのだけど、
栁川春三のエピソードを思い浮かべるたび、僕は鰻が食べたくなる。

アーネスト・サトウの回顧録では、栁川春三のことは冒頭の一文だけで、
それもメモ書き程度なのだけど、
栁川春三が鰻を食べたあとに死んだエピソードは知っていたので、
はじめて読んだときは「さすが栁川春三!」と笑ってしまった。
上の文章はその感動というか、おかしさにつられて書いた文章だったりする。
いつか漫画にしたいと思って資料を集めているけれど、
まとまったものがまったく見つからないので、自分でまとめてみた。

もったいないのでブログにさらします。