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重力ゼロ

重力ゼロ

私は夢を見たことがない。

「それは君が忘れているだけで、本当は見ているんじゃないかな」
精神科医の叔父は私の目を無遠慮にのぞき込んだ。
「覚えていないのなら、見ていないのと同じでしょ」
私は眉根を寄せて睨み返す。

高校二年生の夏休み、父の十回忌に叔父に誘われて「パスタのおいしい店」に連れ込まれた。父は太った優しい顔の人だったけれど、叔父は痩せ型で気難しそうな顔をしている。私と叔父は二人とも太宰治のファンで、玉川上水で情死した日本の作家を肴に、ときどきこうして文学談義に花を咲かせる。そのときふと、夢の話になった。

「そのワインを少し飲んでみてもいいですか」
「駄目だよ。兄貴の霊に怒られる」
グラスを持ち上げて黄金色の液体を飲み干す。
「ケチ」

夢を見ない私には夢がどんなものかがよくわからない。
文豪夏目漱石の小説に「夢十夜」という小品があるけれど、豚に襲われるとか、船から落ち続けるとか、現実にはあり得ない体験をするのが「夢」であるらしい。

「CGを駆使したハリウッド映画を毎晩無料で見られるような感じですか」
グラスにワインを注ぐ叔父に質問してみた。
「何?」
「夢の話です」
「……光莉ちゃんは本当に夢を見たことがないの?」
「ないから叔父さんに質問しているんですよ。こんなこと恥ずかしくて友達には聞けないじゃないですか」

クラスメートの女の子の中には、憧れの先輩が夢に出てきて肩を抱いてくれたって人もいる。いつもはシャイな先輩があんな大胆なことをするなんてキャー!なんて感じで顔を真っ赤にして喜んでいた。どうやら「夢」はその人の願望までリアルに体験させてくれるらしい。くやしい。なんで私は夢が見れないんだ。

「映画は夢を具現化したものかもしれないね」
叔父さんの目が下弦の月のように細くなる。学者モードに入ったらしい。
「脳は眠っている間に記憶情報を整理しているんだ。光莉ちゃんの胃袋が今食べたパスタを消化するみたいにね。上手く消化で来ればいい夢が見られし、消化不良だと悪夢になる……」
「なるほど」
「人間は夢だけじゃ記憶をうまく整理しきれないから、映画のような芸術を見て喜ぶのかもしれないね。胃が消化不良を起こしたときに胃薬を飲むような感じで、映画を観ることで整理しきれない記憶情報をきちんとした形に作り替えているのかも……この不条理な現実にはちゃんとした意味があるんだって」

「でも私は夢を見ない」
「覚えていないだけだよ」

勇気を出して自分の精神的欠陥を告白したのに、叔父は肝心なところは何も答えてくれなかった。

タクシーで家まで送ってもらった。父の残した家はそれはそれは立派なもので、庭付きの一戸建てだったりする。
「叔父さんも休んでいきますよね」
「いや、奥さんが待ってるからこのまま帰らせてもらうよ。さっきの話……どうしても気になるなら僕に電話して。診療所はいつでも君を待っているから」
ご機嫌で走り去ってしまった。

母はリビングでノートパソコンとにらめっこをしていた。
「お帰り。叔父さんにちゃんとお礼は言った?」
「あ、忘れた」
「そんなんじゃいい女になれないぞ」
父の命日でも母はいつもの母のまま、仕事に熱中している。この十年間再婚もせずに仕事と私の教育にすべてをかけてきた。カッコいい人なのだ。

リビングには父の遺影が飾られている。十年前、国際線の航空機事故で亡くなった父は、遺体さえ発見されずに今も西太平洋のどこかに漂っている。小学校の低学年だった私には当時の記憶があまりなくて、父はいつの間にかいなくなっていた、みたいに感じる。我ながら薄情なものだ。せめて夢枕でなりと父に会いたいと思うけれど、私は夢を見ないので、父の面影もぼんやり薄れ始めている。軽い罪悪感を覚える。

夏が終わって秋口に修学旅行の説明があった。
「今年は北海道だ。班分けは今配ったプリントの通り。問題がある者は早めに申し出るように」
クラス担任の先生が私の方をチラリと見た。
「どゆこと?」
隣の席の子が耳元でささやく。
「北海道までは国内線の旅客機に乗るから、飛行機が駄目な子は早めに先生に言えってことじゃないかな」
「先生、光莉ちゃんのこと見たよね」
「気のせいでしょ」

飛行機に乗ることは別に怖くなかった。事情が事情だけに母は私との旅行には鉄道を利用したけれど、余計な気遣いだと思う。今の時代、飛行機を利用しないで人生を送ることは不可能だ。出張、海外派遣、新婚旅行、すべてを鉄道や船舶で済ますことは出来ない。いずれどこかで乗り越えなければいけない壁なのだ。

それなのに、私はその日の夜から眠れなくなってしまった。

朝、寝室からダイニングに降りていくと、母が驚いた顔を見せた。
「あなた、顔色が真っ青よ」
「なんだか眠れなくて」
「大丈夫?どこか悪いんじゃないの?」
「よくわかんない」
不眠は三日続いた。くやしいけれど、三日目の朝に学校を休んで叔父の診療所に出向くことにした。

「修学旅行は中止するか、君だけ新幹線で移動する方がいいかもしれないね」
白衣を着た叔父さんが窓の光を背にやさしく語りかけた。
「そんなのカッコ悪いです」
「飛行機に乗って卒倒する方が僕はカッコ悪いと思うよ」
「……薬とかないんですか、精神安定剤とか睡眠薬とか」
「十代の子にはお勧めしないなあ。依存するようになられても困るし」
「ケチ」
「とにかく、思い切って認めてしまうことだよ。君は飛行機には乗れない。将来的には可能になるだろうけど、今すぐは無理だ。それさえ認めてしまえば、安心して眠れるようになるよ」

家に戻ると、母は仕事に出ていて誰もいなかった。
「眠れさえすればすぐ元気になるのに」
ぼやきながら、ふとある考えが頭に浮かぶ。睡眠薬が手に入らないのなら、アルコールに頼るというのはどうだろう。確か、母の晩酌用のお酒がどこかに隠してあるはずだ。

私はふらふらになりながら、リビングを探し回り、テレビ棚の後ろに洋酒の瓶を発見した。
「ヤッホー」
キャップを外してグラスに注ぎ、ゴクリと喉に流し込む。
「ゲフッ!」
なんだこれ、やけどするみたい熱い。せき込んで、水道の水をガブガブ飲んだ。こいつはそのままじゃとても飲めない。
水割り……なるほど、水で薄めればいいのか。めんつゆみたいなものだ。

私はグラスいっぱいの水割りを、目を瞑って一気に飲み干した。頬がどんどん熱くなってくる。体がホカホカしてきて、なんだかいいコンコロモチだ。フラフラしながらもなんとか洋酒の瓶を元の場所に戻す。私、かしこい。

そのまま自分の部屋に向かうと、ドテッとベッドに倒れ込む。いいぞ、なんだか意識がぼんやりしてきた。これで私はようやく眠れ……る……

ごおおおおおお

耳に響くかすかなエンジン音。
目を開くと、そこはテレビで見覚えのある旅客機の客室だった。大人の乗客が眠っていたり、本を読んだりしている。
「なんだこれ」
私はさっきまで自分の家でお酒を飲んで酔っ払っていたはずなのに、突然機上の人になっている。窓の外には一面の雲の絨毯。あれ?ひょっとして修学旅行の当日なのかな。私はちゃんと飛行機に乗れたのかな。

それにしては何かがおかしい。自分と同い年の学生が一人もいない。キョロキョロとあたりをうかがっていると、
「お客様、どうかなさいましたか」
奇麗なお姉さんが笑顔で声をかけてきた。客室乗務員らしい。
「私、なんで飛行機に乗っているんでしょう?」
「さあ、なんででしょうね」
満面の笑顔。なんだか気持ち悪い。

「お客様は悪い夢でもご覧になっているのではありませんか」

夢?いやいや、私は生まれてこの方、夢なんて見たことのないんだけど……と言いかけて、はたと気が付く。これ、ひょっとして本当に「夢」なんじゃないか。17年の人生で初めて、私は「夢」を見ているんじゃないのか。

お酒の力は恐ろしい。

「大丈夫です。なんでもありませんでした」
笑顔で答えると客室乗務員はニコニコと立ち去って行った。私はシートに身を沈めてみる。フカフカだ。夢ってこんなにリアルなものなんだ。3D映画なんて目じゃない。圧倒的存在感。
みんな今までこんな面白いことを体験していたのか。こんなリアルな空間で夏目漱石は豚に追いかけられ、クラスメートは先輩に肩を抱かれていたのか。そりゃうれしくて赤面しちゃうはずだ。

胃袋がパスタを消化するように、私の脳は今、記憶を消化しているのだ。飛行機に乗るのが怖いという情報を消化して、こんなの全然平気だよって、頭の中で理解しようとしているんだ。大丈夫、これで目が覚めたら私は飛行機なんか全然平気になっていて、クラスのみんなと楽しい修学旅行に行けるはず。
だから今はこの夢を楽しもう。窓の外には雲の絨毯。光に輝いて白くまぶしく流れていく。大丈夫、私は飛行機なんてちっとも怖くない。

怖くない。お父さんはバラバラの飛行機から投げ出されて富士山よりも高いところから墜落したけれど、私は全然怖くない。

グガン!

背後で爆発音がして、空気がものすごい勢いで吸いだされる。

ぐごおおおおおお!

カバンが、本が、紙コップが、勢いよく飛んでくる。そのうちオバサンが、サラリーマンが、屈強な男性が、次々と飛んできた。笑顔の客室乗務員が奇妙なポーズのままで流されていった。
ふり返ると、空が広がっている。なんてことだ、飛行機の後ろ半分がすっかり無くなっているじゃないか。

でもこれは夢なんだ。

私はシートにしがみつく。夢だ。これは夢なんだ。消化しきれない記憶情報を消化しやすいように整理整頓しているんだ。

でも、それでも消化しきれない情報はどうなるんだろう。

お父さんは飛行機事故で死んでしまった。あんなに優しくて私のことを可愛がってくれたのに、ある日突然死んでしまった。こんな不条理を、小学生だった私の脳が消化しきれるわけがない。夢は暴走し、悪夢となり、毎晩のように私を苦しめた。私は夢を見なかったんじゃない。夢を見ることを拒絶したんだ。

自分を守るために。不条理な現実が私を壊してしまわないように、私は夢を見ることをずっと拒絶していたんだ。

シートをつかんでいた手がはずれる。体が空気の渦にもまれて、無重力の中に投げ出される。前半分だけになった飛行機の残骸がクルクル回転しながら視界から遠ざかっていく。

苦しい。息ができない。

空気を切り裂く激しい音の中、重力ゼロの感覚が何分も何十分も続いている。夢なら覚めるはずなのに、全然終わらない。ひどい。こんなの全然面白くない。

目を見開くと、集積回路の基盤のようなものがすごいスピードでぶつかってきた。都市だ。高層ビルやハイウエイが視界に飛び込んでくる。ゴマ粒のような自動車。人間。首をこちらに曲げて何か叫んでいる。

グチャ

「うわああああああああ!」

絶叫し、のたうち回り、私は手に触れるものを片っ端からひっつかもうとした。
「光莉!しっかりして!お母さんの目を見て!もう怖くないから!大丈夫だから!」

荒い息を喉の奥から絞り出しながら、私は目の前の母にすがりつく。
「お母さん!」
「夢だから。ただの夢なんだから。何も怖くないんだから」

ベッドから転がり落ちた私は、母に全身で抑え込まれていた。

その年の修学旅行、北海道への二泊三日の旅を私は欠席した。急な病気で動けなくなった、そういうことにしてもらった。
クラスの親しい友達が甘いキャラメルと携帯ストラップをお土産に買って来てくれた。
「うれしい!ありがとね!」
私は満面の笑みでお礼を言った。

あの夢を見てから、週一で叔父さんの診療所に通っている。

「君、何かやっただろう。怒らないから叔父さんにちゃんと話してごらん」
「なんにもないよ」
「いや、光莉ちゃんはぜったい何か隠している。夢を見る引き金になったものが絶対にあるはずなんだ」
「……」
「医学の進歩のために教えちゃもらえないかな」
学者モードになった叔父さんはスッポンのようにしつこい。

「お母さんには黙っててもらえますか」
「もちろん」
「実は……睡眠薬の代わりになるかと思って、母の晩酌用の洋酒を拝借したんです」
叔父さんは顔をしかめた。
「そんなこったろうと思ったよ」
「ごめんなさい」
「お酒は二十歳になってから、わかったね」
「はい」

叔父さんの話によると、父が事故死したあと、私はショックで何日も泣きじゃくったらしい。
「君は僕に似て神経質だからね」
それがある日から、何事もなかったかのように普通に振舞い始めた。脳のリミッターが働いて記憶を削除したんじゃないかと叔父さんは推測している。私が夢を見なくなったのもそのせいであろうと。
「長い時間をかけて、君の脳は不条理な現実を受け入れようと頑張っていたんだ。たぶん今も、これからも、死ぬまでお父さんの死を『理解』しようとするんだろうね」

「解答なんてあるわけないじゃないですか」
私は自分の指先をじっと見つめた。母の腕には私が夢中で引っ掻いたみみずばれが幾筋もあった。血が滲んで、蒼黒い痣になって残っていた。
「母親の勲章だね」
誇らしそうに笑ってくれた。

「お母さんがいてくれるから、私はきっと大丈夫です」
叔父さんの目をまっすぐに見つめて、はっきりと答えた。
「そうか」
叔父さんはまぶしそうに目を細めた。「上弦の月」だ。

あの悪夢にうなされてから、私は人並みに夢を見るようになった。生々しさは薄らぎ、それが夢であることもはっきりとわからないのだけど、目覚めればその感触がぼんやり残っている。悪夢もたくさん見るし、いい夢もときどき見る。

お父さんが夢枕に立ったこともある。
目覚めてからそれが夢だと分かったとき、私は声を上げて泣いてしまった。

お父さんが丸い顔を満面の笑顔にして「頑張れよ」と励ましてくれたのだ。

窓から差し込むやわらかい光の中で、私は母が声をかけてくれるまで、ずっと涙を流し続けていた。


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